6日目 歩く瞑想
近頃雨がちな中、中日一日という感じでの 晴れ。神谷町で用事を済ませたあと、九段下まで歩き、人混みは避けて桜をちらっと目に写し、飯田橋方面へ曲がり、東京のお伊勢さんとして有名な東京大神宮へお参り。その後、戻って地下鉄で芝公園へ。目的は増上寺隣の宝珠院。閻魔大王像、阿弥陀如来、辨財天様がたが御座します🙏この宝珠院の御朱印には、毎月月替わりで様々な種類の犬のイラストが描かれた変わった御朱印があります。3月はコーギーでした。4月はイタリアングレーハウンドです🐾お参りに足を運べない方、遠方の方などのために、郵送対応もあります(要送料。但し自分の御朱印帳を送って記入して送り返してもらうというのには、非対応です。詳しくは宝珠院のHPを参照)桜と東京タワー、という「The Tokyo kankou」な風景を楽しみつつ、お散歩🌸🗼陽のあるうちに急いで帰って待っていたハナちゃんわんことお散歩🐾これもまた気持ちよく歩きました。普通に、ウォーキングの良さほ広く知られるところです。「歩く瞑想」なんてのもありますが普通に、気分転換になるし、頭もすっきりするし、血行良くなるし、ダイエットに良いし、足腰鍛えることになるし…等々。けれども、歩くことを瞑想としたいならば、注目すべきはこのような感覚かと👇地面に着地する足の裏の感覚、足の裏も、踵からつま先への体重移動、細かいたくさんの足の骨たちの連動、地面を蹴る感覚、また、脚を、自分は膝から出しているのか、股関節から出しているのか、腰・骨盤から、みぞおちの下から脚であるかのように出しているのか。手の振り方、肋骨辺りはどのように動いているか、あるいは動かさないで歩いているか。呼吸はどんな感じか。鼻から入る息の量、匂い、冷たさはどんなか。ひとつひとつ、ゆっくり、じっくり、感じてみると、歩くこと1つとっても、体ってこんなにいろんなことを総動員して行っているんだなあ、と、感じることができます。だから何、だから良いとか悪いとか、そういうのはどうでもよく。ただ、「ふーん、そうだなあ」「へーえ、こうだなあ」ただ感じる。感じるだけで、よいのです。感じることが、それそのものが、生きていること。体験するために、生まれてきた ようです。体、脳や神経や感覚を持ってこの世界に出現していなければ、こんなふうには感じないのですから。神様とか宇宙意思みたいなものがあるとしたら、そのひとは何考えてるんでしょうね笑面白い遊びをしてんですね。ただこんなにいろんなものを創ってみて展開して(任せて勝手に動かしておいて)観察して遊んでいるのかもしれませんね😊右、左、っと、リズミカルに、考える間も無く、ほとんど呼吸のように無意識に、足を前に出し続ける行為は、無心になれるものです。何か考えをまとめたくて、あるいはアイディアが浮かぶことを期待して、あるいはアイディアが煮詰まったから一回休憩、っと、散歩に出ることもあると思いますが、足を 左右交互にリズミカルに延々と出し続けるのって、呼吸に似ていると思うのです。しかも、呼吸は呼吸で別にしていて、坐禅瞑想で体を 動かさずに呼吸に集中するのに比べると、二段階構造(二重に集中している)というかんじです。右、左、右、左、…しかもそれをいちいち考えず、やっていると、いつの間にか無になります。集中するというか、集中 しているという感覚さえも手放す(手放そうと思わなくてもいつのまにか忘れてしまっている)というか。但し、足と頭が分離して、頭の中でずっと悩んだり、あることについて考え事したり、誰かを恨みながらとか、心の中で悪口言いながらとか、の散歩では、長く歩けばそれも消えるかもしれませんが(どうしても足にエネルギーが要るようになるから)、やはりなかなか、すっきりできませんね。しかし、これも、怒りの手放しで、しっかりと怒りつつ、その怒りを見つめ、淡々と眺め、どうして腹が立つのか、何に腹が立つのか、自分の話を詳しく聞いてやると、自分自身が怒りについて、だんだんと深く掘り下げて詳しく話し始めてくれて、そのうち気が済んで、怒りがほぐれて成仏😊 したりもします。「歩く瞑想」にも、止瞑想と観瞑想があるということです。感覚に 集中して無になるか起こること、感じること、思い浮かぶこと全て、全てを、ただあるがまま流して、まんま、全てを受け入れて他人事みたいに観察するか。なんの感想も持たずに。歩くこと1つとってもこんなにいろんな体験ができます。体験することが生きることだと思います。そういうことにしておけば、いつも幸せに感じます。アップとかハッピーの幸せというより、静かな、感謝よりももう少し静かな…何だろう?慈悲?Prema?🎼♩♪😊