今回は、最近、立て続けにエピソードとして(私の)身の回りで起きている
「経験を積んでいく」

ということを、書いていきたいと思います。

 

経験を積む

この視点と概念、めちゃくちゃ深くて、子どもに関わるお仕事をしている人には

とても、とーっても重要なものです。

(子どもが経験を積んでいくという意味です)

 

子どもたち一人一人の成長や発達に合わせて

様々な経験を積んでいけるように遊びや生活面の環境設定をしたり

言葉がけや、子どもが複数の場合には仲立ちをしたりなど

遊びを通して、また、生活面において繰り返し繰り返し経験できるように

経験して出来るようになったら、次の段階へといけるように関わっていく。

それが保育士のお仕事の一つであります。

 

0歳には0歳の経験

1歳には1歳の経験

2歳には2歳の経験・・・

 

もちろん、年齢だけで分けるのではなくて

そこに個々の発達を見極め、考えていくのです。

 

乳児期に経験の積み残しがあると、

3歳、4歳、5歳などの幼児期に、多方面でつまずきが起きたりします。

(だからダメではなくて、そうならば、積み残し、経験不足、が何かをこちらが見極め

 必要な経験を環境設定していき、経験すること、積み上げていくことの喜びを

 子どもとともに保育士が行っていけば良いのです)

 

例えば

みんな、いきなり箸を使ってご飯を食べられるようになったわけではないですよね。

大人に食べさせてもらうところから

食に興味を持ち、自ら手づかみで口に食べ物を入れるようになり

スプーンを使うようになり

 (スプーンの持ち方も成長に合わせて3段階くらいあります)

大人と同じようにスプーンが持てるようになったら箸へと移行していく。

 

まさに経験を積んでいく、ですね。

余談ですが、スプーンの初期段階の持ち方及び使い方ができるようになるには

手首の動きなどが大切になってきます。

遊びの中で手首、腕などをいっぱい使う環境設定をすることで

食事のスプーンの使い方に活かされていきます。

 

(例えば、手芸の丸いフェルト製のような玉を

 スプーンやレンゲ、トングなどでお皿に入れる遊び道具をさりげなく置いておく)

 

例としてスプーン、箸の話を出しましたが(分かりやすいかな、と思って)

これが、遊びや集団生活などなど、多岐にわたります。

 

これって、もうね、こちら(大人側)のこれまでの人生経験がどうだったか

どんな生き方、考え方、視点、気づき、発想力などをもっているか

などなどを、試されていることに繋がっていると思うわけです。

 

私の経験の積み上げを試されているのですよ。

子どもたちを通して。

 

だって、子ども一人一人が、今、この瞬間、どんな成長をしていて

何に興味があって、何をやってみたいと思っていて

トライしてるけど出来ないで困っているのか、出来るようになりたいのか

 

言語的発達がまだまだこれから成長していく子どもたちの

気持ちを汲み取り、こちらが言葉にして、経験したいことに繋げていく。

 

子どもの気持ちの汲み取りやそれを言葉にするなんて

もう、まさに大人側の経験と力量とセンスと。。。あ~色んな力が必要。

 

それぞれの子どもたちの先の未来(1年後、2年後、・・・5年後・・・10年後)を

思いながら、逆算するかのように今の子どもたちの成長を思うのですから。

 

ねーーーー

大人側の力量、理解力、深さを試されているでしょーーー

 

私ってば、ぜんぜん、まだまだ出来てないけれど

くぅぅぅぅぅぅ

やりがいあるぜ!

 

いや~昔から人に言われたり、自分でもそうだなぁ~って思ったりしてきたけど

私ってば、修行体質(笑)

 

経験を積んでいく

 

これって、子ども時代だけのことではなくて

大人だってそうですよね。

 

社会人になって、どんな経験を積んでいくのか、積んできたのか

積んだ経験を自分でどう捉え、どう思い、どう昇華してきているのか

 

う~~ん

やっぱり、子どもに関わるお仕事は、めちゃくちゃ奥深いし

究極、自分の人生体験との向き合いでもありますね。

 

子どもの頃、職人さんの手作業を見るのが物凄く好きでした。

(今も変わりませんが・・・( *´艸`))

 

親と出かけた先で

たい焼き屋さんとか、うなぎ屋さんとか、人形焼屋さんとか

職人さんが焼いているのをガラス張りで見られるお店の前を通ると

流れるような動き、無駄の無い熟練の手さばきに

わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁってなって

くぎ付けで、ガン見です。

(デパートでやっていた、工芸品とかの実演も)

親が「行くよ~」と言っても

あとちょっと、あとちょっと。。。。。と

焼き終わるまで見たかったものでした。

 

本物のプロフェッショナルな方って

けして手間を惜しまない。

どんなに時間をかけても

どんなに手数がかかっても

まったく苦にしてない。


そういう方が生み出すものや、事柄は

隅々までスッと息吹が入っていて

良い意味でピンとした心地の良いエネルギーに満ちている。

 

プロの世界は

その人自身の在り方、心、生き方が

そのまま出てしまうものでもあります。

(どんなに隠しても)

 

コミュニケーションを生業の軸として長年生きている私の

大切にしていることの一つも

手間を惜しまず です。

 

私のコミュニケーションの師が手間を惜しまない人で

その生き方を実践の中でたくさん見せてもらっています。

 

子どもたちの人生の一番大切な時期

人の基礎、土台となる時期に関わらせてもらうのですから

先を生きる者として、今後も

手間を惜しまず一緒に遊びまくりたいと思います(笑)

 

昔の海外の自転車(ペニー・ファージングっていうらしいです)

子どもの頃に映像だったか

針金みたいな素材で出来た置物だったかで

見たことがあります。

 

今日は、いきなり自転車の話?と思いきや

仕事や人生における、知識と実践のバランスの話です。

 

知識・理論・理屈などと、実践・実行・行動は

両方がバランスよく存在するべきであると思っています。

 

自転車の車輪に例えるならば

両輪が同じくらいの大きさと速度で回っている(回している)感じ。

 

知識ばかりで、語ったり、物事を進めたりしても

そこに実践的な現実味は無くて。

(ただの自己満足・・・このタイプに私の心は動かないのよ)  これこれ(;^_^A

 

また、実践したことを何故そのようにしたのか

理論としてちゃんと説明できないならば

それもまた納得感は無いと思います。

(説得では無いですょ、第三者をなるほどと思わせる納得感です( ^ω^ ))

 

現実味(リアリティ)は、人の心を動かすものであると思っています。

 

子どもの頃は勉強嫌いで、何とかして勉強しない方法ないかな

なんて思っているような子どもでしたが(;'∀')

 

大人になって、好きな分野で新しいことを学ぶことが

楽しいなぁ~

って思えるようになったのは、ここ10年強くらいでしょうか。

 

どちらかというと、実践、行動、感覚派の気質なので

そっちの車輪が大きくなっちゃいがちなのです。

 

とにかく、やってみてようーーー!

で、あんまり深く考えずに

20代~30代ときちゃったところがあります。

(もともと、直感気質☆、

 いやいや、もうちょっと考えても良かったよね(;^_^A)

 

やってみて、時にはドカーンと打ちのめされたり

壁にぶち当たったり、うまくいったり、いかなかったり

迷い道だったり、良い道だったり・・・

(経験から学習したり、しなかったり・・・)

 

もちろん、その時代があるからこその今の私で。

(経験に何一つ無駄は無いので☆)

様々な現場や多くの方々、たくさんの環境の中で

たくさんの実践的な体験、経験をたくさんたくさん積ませて頂いた

貴重な時間です。

 

30代後半くらいから、実践行動で体験、体感したことを

ちゃんと、知識として学んで、結び付けていかないとアカンなぁ。

って思い立つ出会いや出来事があって。

(心友と呼べる仲間たちとの出会いや、一緒に深いミッションをさせてもらった経験)

 

両輪のバランスを保つことへと、意識が変化していきました。

 

なんかね、楽しいのです。

両輪がバランスよく回っている(回している)瞬間を感じるのが。

(マニアック・・・(;^_^A)

 

もちろん

まだまだ、実践行動の車輪が大きくなっちゃって

立ちこぎみたいになるけれど( *´艸`)

 

(どうでもよい話だけれど、現実ではもう、

 体力的に立ちこぎ出来なくなってきました・・・(*_*))

 

知識と実践が生き生きとした自転車走者になりたいな。

間違えた

実践家になりたいな。

 

人生は学びの連続!

 

コロナ禍から一年。

様々なことが変わっていっていますね。

 

コロナが始まった当初

なんだか、コロナを通して

それぞれの人の本質が浮き彫りになっているな

と感じたものでした。

 

人の本質は

普段、何も起きて無いときには大人の理性などから

表面化することは少ないけれど

有事の際には、本当の姿が出ちゃったりしますね。

 

何も、だからダメだと言っているわけではありません(*^-^*)

そして、「私は出来ている」と思っているわけでも

上から目線で言っているわけでもありません。

過去の経験からの自戒も込めて、そう思っています。

 

地に足をつける

 

これ、ずーっと試行錯誤しながら

日々の生活の中で、生きる中で

とても大切にしている感覚であり、実践としている感覚の一つです。

 

人生は、「今ここ」、「この瞬間」の連続。

 

どんなに心理学のことに興味があって実践していても

どんなにスピリチュアルなことに興味があって実践していても

どんなに子どもに関することに興味があって学んでいても

どんなに深く保育・教育に携わっていたりしても

 

私自身の感覚が地に足をつけ、

今ここ、この瞬間に生きていなければ

アカンと思っています。

 

そして、それと同時に、事象、物事、環境、状況、人などを

俯瞰で見る感覚もまた大切だと思っています。

この感覚、私的には、そう、まさにドローン映像みたいな感じです(笑)

 

目の前のことだけを見ているのではなく

 

地に足をつけてしっかりと歩きながら、同時に

頭上には360度高感度カメラを搭載したドローンが

必要に応じて自動的に俯瞰の高低を変えながら飛んでいる

そういう感覚。

(いや、機械に疎いので、そのようなドローンがあるのか知らないですけど(;'∀'))

 

長年、ピンのパフォーマーを生業として、

たくさんの場所でたくさんの方々の前でショーをさせて頂いた経験と

その後、入院している子どもたちの成長と発達をサポートするお仕事の経験で

学ばせて頂いた理論と実践の両輪の経験が

 

地に足つけてドローン

(何、このネーミング・・・( ´艸`))

 

の感覚を生み出させてくれたと思っています。

(もちろん、維持できるように日々是精進です)

 

まぁ、この感覚、いつもスイッチ入れっぱなしだと

エネルギー消耗も激しいので (;''∀'')

オンオフしながらですが。

 

むふ( *´艸`)

人生経験の全ては繋がっていますね。

 

 

現在放送中の大河ドラマ。

(いきなり時代劇の話からスタート(^◇^))

 

私が知っている明智光秀の情報といったら

 

本能寺の変で織田信長を追い詰めた人

三日天下の人

 

くらいという有様(;^_^A

で、興味があって見始めたのですが、

俳優の皆さんが、役の魅力を体現されていて、

なかなかに見応えがあるのです。

 

中でも、織田信長を演じてらっしゃる俳優さんの演技が素晴らしくて。

 

織田信長というと

これまた私の知っている情報は

 

戦国武将

安土城

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と謳われた、エキセントリックな人

 

くらい。

 

織田信長は、何故に感情の振り幅が激しく、

残虐なまでの人物となっていったのか

(そういうエピソードがたくさんありますよね)

 

子どもの心理学を学び、子どもに関わる実践家として、

いくつか仕事をしてきて、現在、保育の世界に身を置く私としては

人の幼少期からの生育環境が心理におよぼすものや

行動の動機付けがどこにあるのか、

何故そのような言動をするのか(その背景はどこにあるのか)、

などを紐解く作業に興味があります。

まぁ、もともと、人間観察好きというか、趣味みたいな(笑)

 

で、今回の信長。

脚本なのか、演出なのか、は分かりませんが

生育体験として、親から褒められた経験が薄い、という描かれ方をしています。

(史実上もそうなのかは知らなくて。。。勉強不足ですみません。)

 

褒められる。

この経験は人格形成の時期において、

とても大切な経験の一つだと思います。

 

もちろん

親が子どもを、やみくもに褒められば良いわけではないですし

 

親側の褒める行為の動機付けがどこにあるのか、

も重要なポイントではありますが。

 (親の動機付けが「親にとって都合が良い」

  「親の主観による善し悪し」などからくる褒めは、どうかなぁ、と)

 

今回の信長は、父親、母親に褒めてもらいたい、認めてもらいたい、

僕はここに居るよ、見て、見て、見て!

 

と切望し。

親が思う褒めたいポイントと

信長が褒めてもらいたいと思うポイントが

掛け違っちゃって。

一つ、二つ、と掛け違うと、どんどん掛け違っていっちゃう。

 

信長にとっての欲しい愛が得られず枯渇し、

「何故くれない」、「何故、何故、何故!!」

枯渇を怒りに転じて育っていった、

と想像できるような、セリフや俳優さんの演技で。

 

俳優さんの表情、動き、雰囲気、空気、エネルギーの非言語的な演技の部分から、

悲しみ、切望、枯渇、怒り、みたいなぐちゃぐちゃになった感情が

画面を通して伝わってきて。

 

だからこそ、大人になっても、

その時その時で「大いなる存在」だと自身が思った相手から褒められたい、

認めてもらいたい、という感情を行動の動機付けにしている気がして。

 

妻に対しても、帝に対しても、明智光秀に対しても。

 

エキセントリックな行動をする場面のたびに

その動機付けが痛いほど伝わってきて

リアリティ溢れる演技は見ている人の心を掴む~

と、芝居好きとしては面白く感じてます。

 

 

人が起こす色んな事象を深く掘り下げていくと、

どれもが子どもの頃の体験に繋がっていく気がするのです。

 

子どもが幼少期において

親子の相性が、どうしてもマッチングしなかった場合の関係性は、どちらも苦しい。

血が繋がってるだけに。

(マッチングしない理由は、色々だと思いますが)

 

親のせい

環境のせい

 

で向き合うことから逃げる時があってもいいと思うし

気付かないまま

もしくは

気付かないふりのままがあっても良いと思う

 

でも、まぁ、必ず、そのままで生き続けることは出来ない事象が自分にやってくる。

 

その時に

向き合おうと素直になれるか。

 

誰かの何かのせいではなくて

怒りや枯渇や悲しみを原動力にしている自分と腹をくくって向き合って

 

辛かったね

悲しかったね

頭きたよね

褒めてもらいたかったよね

認めてもらいたかったよね

頑張ったよね

 

そうだよね

 

って、自分で自分を受け入れて、愛を持ってぎゅっと自分を抱きしめる。

 

自分を大切に出来るのは

まずは自分だから。

 

信長はんも、自分をぎゅっと抱きしめて、

辛かったね、頑張ってきたねって自分を褒めてあげたら、

妻も帝も明智光秀も離れていかなかったかもしれないのに、

って思った自粛の夜でした(*´∀`*)ノ

 

あぁ、今日の記事は、えらく長文ですねぇ。

語ってもうた( ´艸`)