むかしのはなし -54ページ目

胆大小心録 その10

(十)

歌は間違いなく公卿たちの芸であるとはいえ、昔はそうでも無かった。

後醍醐天皇の意向がないがしろにされた事から、
鎌倉幕府を滅ぼそうと、密かに計画を立てたのを
(執権の)北条高時に密告した者がいたので、
真相を知る人々を問責しているさなかに、
冷泉殿(藤原為明)を捕らえて連行し、
「すみやかに申されよ」と問われて、
  おもひきやわが敷島の道ならで浮世の事をとはるべしとは
  (自分の得意とする和歌では無く、政治の事を問われるとは思わなかった)
と、答えたのを聞いて、釈放して京に返したという。

この歌心はどういうことだろう。
朝廷の官位にあるものは政治外の事に関わらない筈なのに、
為明のその心を非難する事無く筋が通っていると思うとは、
北条家が滅ぶのも当然の事だ。

同時代に、六波羅探題が官軍に陥落させられた際に、
千早城を攻めていた幕府側の武士がことごとく召し取られて
六条河原で並んで首を刎ねられる中で、
佐介某というはるか下級の武士が、詠んだ歌、
  皆人の世にある時は藪ならでうきにはもれぬわが身也けり
  (皆が羽振りが良かった時には物の数に入らなかった自分なのに、
  斬首の時には洩れなかった)
と詠んだのは、実に涙を誘う道理である。

また、源義家殿が、陸奥を平定して京に上った際に、
関白の前で報告しているのを聞いて、
大江匡房が「見所のある武士だが軍学を学んでいないな」と呟いたそうだ。

心が格別に合致すれば、卑しい身分といえども、良い歌を詠むものだ。
全ては道理から外れない事だ。


この条は五種類ある写本の内の一冊にしか見られないそうです。
このブログ用に使っている日本古典文学大系に従って()を付けておきます。


後醍醐天皇の謀が発覚した件は正中の変という事件の事です。
藤原為明は名門の二条家の人で、歌人として有名だった人物だそうです。
二条為明というのが正式な名前のようですな。
彼は室町幕府の二代将軍、足利義詮に信任されていたそうです。

ちなみに「敷島の道」という言葉が和歌そのものを表すそうです。


源義家は平安末期の武者です。
源頼朝の祖先で、武名轟く人物でした。

その義家が師事したのが大江匡房という人物で、
そのエピソードの後、匡房の呟いた内容を義家に告げ口した者がいて、
それを聞いた義家は怒るどころか
「もっともな話だ」
と言って匡房に弟子入りし兵法を学んだ、という逸話があります。


長くて苦労すると思いきや、まあまあやりやすかった回でした。

胆大小心録 その9



保元、平治の乱が起きてから天下は大いに変わった。
鎌倉の右大将殿(源頼朝)が惣追捕使という役を受けて、
諸国に国守(地方長官)の他に国司(守護・地頭)というものを鎌倉より派遣して、
国守の勢いは衰えてしまった。
そうなっては朝廷の威光も薄くなるというものだ。

しかしながら頼朝が朝廷に取って代わる事は無く、
天皇は百余代の長きに渡って現在まで続いてきた。
極めて立派な行いだ。


惣追捕使というのは、元々警備役だった追捕使の権力が増し、
軍事力を持つほどに大きくなった役職だそうです。

頼朝は日本国惣追捕使という守護を任免できる地位に就いたそうで、
朝廷が派遣した行政官よりも、
頼朝が任命した守護の方が力を持っていたということです。

胆大小心録 その8



村上天皇の御世の天徳四年の火事の際に、
宮殿のみか、宝物庫に書庫も跡形も無く亡びて、
国史といえども原本は無くなってしまって、
様々なところから繋ぎ合わせているという事だ。

ある有識者がこう仰っている、
「鏡も剣も無事であるというが、亡びた証拠だ」
と。



天徳四年(960年)に内裏が火事になり、多くの文化財が焼失したそうです。

「鏡も剣も~」は三種の神器の事と思われます。
注釈によると平安時代に編纂された歴史書である日本紀略に、
「調度(おそらく鏡を納めた箱を指す)が焼損したが、鏡には全く異常が無かった。
神異によるものである」
といったニュアンスの記述があるそうで、
その有識者とやらは、それが眉唾ものであると言っているのでしょうな。