むかしのはなし -5ページ目

胆大小心録 その157

百五十七

才は花、智は実、花実を兼ね備えた人は滅多にいない。

大友皇子の唐使劉高徳に、家臣の骨相では無いと言われたのを聞き、
大津皇子は新羅の僧の行心に反逆を勧められた。

また鎌倉の右大臣(源実朝)が宋の陳和卿という有髪の僧に魅せられ、
前世の居住地(と信じる)中国に行って
霊山(医王山)に拝しようと、大船を造らせた。
船工の腕が悪く海に沈んでしまった。
これも才を頼んで、無益の謗りを受けた事例である。
北条義時は恐れて、
「我が家が滅ぶとしたらこの君(実朝)の為だ」と言って、公暁という若僧に殺させた。
歌を詠ませれば、古調(万葉調)を好み、
群を抜いていたので、(藤原)定家卿が、
「この君の歌を見れば、(自分の)この道がおぼつかなくなる」
と、妬んだという。

才は花であるから脆く散り、
実は智であり利益があるものの、人を害するものである。
中国でも智者というものは必ず悪臣である。


老子に見られる言葉に、
智をもって国を治めるものは国を滅ぼす賊である
といった趣旨のものがありますが、
その危うさを示した回です。

実朝に関する話は何度か出てきましたが、
あまりいいエピソードはありませんね。

胆大小心録 その156

百五十六

大友の太子(大友皇子=弘文天皇)は天智天皇の長子であるが、
伊賀の采女が産んだ子であり、人望が無かった。
才学は古代より並ぶもののない君子だったので、
父君の恩寵が篤く、二十一歳で太政大臣を授けられ、
万事において補佐させたので、家臣たちは畏れ謹んで従った。

その後二十三歳で皇太子に進んだが、兄弟たちとの仲が良くなく、
みな叔父の天武の味方をした。
(天智の)崩御の後、人はみな清見原に参って、
大津宮(天智の皇居)は亡んでしまった。
これは父の寵遇が度を越していた為だ。
大友は才を誇って、兄弟を侮り、老臣を見下し、叔父を妬ましく思ったのだ。
藤原鎌足が、(大友が見た夢を)判断した後の、諌めを受け入れ、
(鎌足の)娘を妻にした事から、鎌足が皇子に肩入れしていた事がわかる。
叔父の大海子皇子(天武天皇)は英傑であるから、
百官を治め、兄弟たちを大事にし、以前より簒奪の意志があった。
ただ鎌足を警戒し、親しみよくすると、
鎌足もやがて天武の天下になるだろうと考え、黙認したそうだ。

(大海子皇子)が出家して吉野山に入ると、
古人皇子が出家した跡地であったが、世間は知らぬ顔であった。
この山より密かに東国に下って、美濃の国で旗揚げをした。
その事の理由を考えると、叔父を害する心がある為だと、
史書に記したのは、質に勝る誤文である。
兄弟たちも大友を嫌っていたので、みな天武側に属して亡ぼした。

美濃国和射見が原とは、今で言うところの関が原である。
天下の定めは必ずここにと、(加藤)宇万伎が詠んだ歌がある。
大友才は並ぶものがないが、それが滅んだ原因だ。
漢詩文の祖といえるのはこの君だ。
大津皇子と記したのは、史官のへつらいである。


天智天皇の太子である大友皇子と、天武天皇の争い、
いわゆる壬申の乱に関する話です。

采女とは傍仕えの下女の事で、
大友皇子は庶子である事から立場が弱かったそうです。

藤原鎌足は大化の改新で有名な人物ですね。
中大兄皇子(天智天皇)を擁して蘇我氏を滅ぼし、
天智の即位後も参謀として政権を支えた大功臣です。

ある時、大友皇子が不思議な夢を見たと相談して来た際に、
失脚を示唆する夢だと判断し、徳を深める努力をするべきだと助言したそうです。
それに従い傲慢な性格を改め、さらに鎌足と婚姻関係を結び、
地盤を固めたそうですが、結局は天武天皇の野心により、
若くして身を滅ぼす事となってしまいました。

天武天皇は一旦は大友皇子を後継者として推挙し、
自らは出家し吉野山に籠もりますが、
そこはかつて古人皇子という人物が隠遁した地だそうです。

古人皇子は天智・天武の異母兄ですが蘇我氏の一員であり、
蘇我政権の後継者と見られていた人物だそうです。
大化の改新後に、身分を捨て吉野山に籠もったものの、
結局は謀反を疑われて、天智天皇に滅ぼされたそうです。

和射見が原は、岐阜県の不破郡のあたりだそうです。
天武天皇の長子であり、軍師である高市皇子が軍を集結させた場所で、
関ヶ原の近隣である事から、天下を動かす事件はこの地で始まると、
宇万伎が詠んだようです。

大津皇子は同じく天武天皇の子で、
大友皇子でなく、この大津皇子を漢詩文の祖とする説を、
秋成は勝者に対する媚びだと批判しているのでしょうね。

胆大小心録 その155

百五十五

陳晦伯の天中記によると、聘礼の中でも婚姻には必ず茶を贈るという。
茶は種を蒔いて植える。
移植すれば枯れてしまうといって、再縁が無いようにとの祝物とするそうだ。
南禅寺内のある老夫が、
「茶は枝葉を取って、根をよくつき固めれば着くのだ。
 つけばつくつかねばつかぬ茶の木かな
という名歌がある」と言う。
父母が十分にしつけてつき固めておれば、再嫁のような患いは起こらないのだ。
死別はどうしようもないが。

額田姫(額田王)という夫人は、
天智天皇が皇太子の頃から寵愛して、即位した後も傍らを離れず侍った。
(万葉集にある)春秋の楽しみ方を比べた歌の心は、
実に女らしくて、姿かたちをも想像させる。
(天智天皇が)崩御した後、
山科の殯宮(仮弔いの宮殿)より出て詠んだ悲しみの歌には心を動かされる。

天武天皇に心を寄せられると、
清見原(天武の皇居)に召されて、皇妃の列に連なった事は、日本紀には見えるが、
はじめは天智天皇の愛姫だったとは明記されていない。
秋風が簾を動かし吹くのさえ、君がおいでかと詠んだ心を思うべきだ。

三山の争いに例え、兄弟それぞれが妻に得ようと迫った事こそ、
「うつせみも妻を争うらしき」とは、天智天皇の御製である。

すべて忠臣・孝子・貞婦として名高いのは、
必ず不幸がつみ重なって、節操を守って死ぬものだ。
世に知られないのは幸福な人である。


夫婦の縁に関する話です。
秋成自身、一人の女性と添い遂げた人であるので、
再婚には否定的なのでしょうか。

額田王は万葉集の代表歌人として有名な人物ですが、
美しく女性らしい性格とされ、
天智天皇と天武天皇の兄弟から愛されたそうです。

実際には皇太子の頃から寵愛したのは天武の方で、
日本書紀には天武の妃であったという記述しかなく、
天智との関係は万葉集の内容から判断したものだそうです。
秋風が~の部分は、秋風によって簾が動いたのを、
天智が来たのかと思ってしまうという内容の歌の事で、
それ程まで愛した関係であったのを思えば、
記載が無くても信用できるといった趣旨だそうです。

三山の争いとは、
奈良にある三つの山の神が妻を奪い合ったという伝説を、
自分たちの身の上に例えたという天智の歌の事だそうです。