胆大小心録 その156
百五十六
大友の太子(大友皇子=弘文天皇)は天智天皇の長子であるが、
伊賀の采女が産んだ子であり、人望が無かった。
才学は古代より並ぶもののない君子だったので、
父君の恩寵が篤く、二十一歳で太政大臣を授けられ、
万事において補佐させたので、家臣たちは畏れ謹んで従った。
その後二十三歳で皇太子に進んだが、兄弟たちとの仲が良くなく、
みな叔父の天武の味方をした。
(天智の)崩御の後、人はみな清見原に参って、
大津宮(天智の皇居)は亡んでしまった。
これは父の寵遇が度を越していた為だ。
大友は才を誇って、兄弟を侮り、老臣を見下し、叔父を妬ましく思ったのだ。
藤原鎌足が、(大友が見た夢を)判断した後の、諌めを受け入れ、
(鎌足の)娘を妻にした事から、鎌足が皇子に肩入れしていた事がわかる。
叔父の大海子皇子(天武天皇)は英傑であるから、
百官を治め、兄弟たちを大事にし、以前より簒奪の意志があった。
ただ鎌足を警戒し、親しみよくすると、
鎌足もやがて天武の天下になるだろうと考え、黙認したそうだ。
(大海子皇子)が出家して吉野山に入ると、
古人皇子が出家した跡地であったが、世間は知らぬ顔であった。
この山より密かに東国に下って、美濃の国で旗揚げをした。
その事の理由を考えると、叔父を害する心がある為だと、
史書に記したのは、質に勝る誤文である。
兄弟たちも大友を嫌っていたので、みな天武側に属して亡ぼした。
美濃国和射見が原とは、今で言うところの関が原である。
天下の定めは必ずここにと、(加藤)宇万伎が詠んだ歌がある。
大友才は並ぶものがないが、それが滅んだ原因だ。
漢詩文の祖といえるのはこの君だ。
大津皇子と記したのは、史官のへつらいである。
天智天皇の太子である大友皇子と、天武天皇の争い、
いわゆる壬申の乱に関する話です。
采女とは傍仕えの下女の事で、
大友皇子は庶子である事から立場が弱かったそうです。
藤原鎌足は大化の改新で有名な人物ですね。
中大兄皇子(天智天皇)を擁して蘇我氏を滅ぼし、
天智の即位後も参謀として政権を支えた大功臣です。
ある時、大友皇子が不思議な夢を見たと相談して来た際に、
失脚を示唆する夢だと判断し、徳を深める努力をするべきだと助言したそうです。
それに従い傲慢な性格を改め、さらに鎌足と婚姻関係を結び、
地盤を固めたそうですが、結局は天武天皇の野心により、
若くして身を滅ぼす事となってしまいました。
天武天皇は一旦は大友皇子を後継者として推挙し、
自らは出家し吉野山に籠もりますが、
そこはかつて古人皇子という人物が隠遁した地だそうです。
古人皇子は天智・天武の異母兄ですが蘇我氏の一員であり、
蘇我政権の後継者と見られていた人物だそうです。
大化の改新後に、身分を捨て吉野山に籠もったものの、
結局は謀反を疑われて、天智天皇に滅ぼされたそうです。
和射見が原は、岐阜県の不破郡のあたりだそうです。
天武天皇の長子であり、軍師である高市皇子が軍を集結させた場所で、
関ヶ原の近隣である事から、天下を動かす事件はこの地で始まると、
宇万伎が詠んだようです。
大津皇子は同じく天武天皇の子で、
大友皇子でなく、この大津皇子を漢詩文の祖とする説を、
秋成は勝者に対する媚びだと批判しているのでしょうね。
大友の太子(大友皇子=弘文天皇)は天智天皇の長子であるが、
伊賀の采女が産んだ子であり、人望が無かった。
才学は古代より並ぶもののない君子だったので、
父君の恩寵が篤く、二十一歳で太政大臣を授けられ、
万事において補佐させたので、家臣たちは畏れ謹んで従った。
その後二十三歳で皇太子に進んだが、兄弟たちとの仲が良くなく、
みな叔父の天武の味方をした。
(天智の)崩御の後、人はみな清見原に参って、
大津宮(天智の皇居)は亡んでしまった。
これは父の寵遇が度を越していた為だ。
大友は才を誇って、兄弟を侮り、老臣を見下し、叔父を妬ましく思ったのだ。
藤原鎌足が、(大友が見た夢を)判断した後の、諌めを受け入れ、
(鎌足の)娘を妻にした事から、鎌足が皇子に肩入れしていた事がわかる。
叔父の大海子皇子(天武天皇)は英傑であるから、
百官を治め、兄弟たちを大事にし、以前より簒奪の意志があった。
ただ鎌足を警戒し、親しみよくすると、
鎌足もやがて天武の天下になるだろうと考え、黙認したそうだ。
(大海子皇子)が出家して吉野山に入ると、
古人皇子が出家した跡地であったが、世間は知らぬ顔であった。
この山より密かに東国に下って、美濃の国で旗揚げをした。
その事の理由を考えると、叔父を害する心がある為だと、
史書に記したのは、質に勝る誤文である。
兄弟たちも大友を嫌っていたので、みな天武側に属して亡ぼした。
美濃国和射見が原とは、今で言うところの関が原である。
天下の定めは必ずここにと、(加藤)宇万伎が詠んだ歌がある。
大友才は並ぶものがないが、それが滅んだ原因だ。
漢詩文の祖といえるのはこの君だ。
大津皇子と記したのは、史官のへつらいである。
天智天皇の太子である大友皇子と、天武天皇の争い、
いわゆる壬申の乱に関する話です。
采女とは傍仕えの下女の事で、
大友皇子は庶子である事から立場が弱かったそうです。
藤原鎌足は大化の改新で有名な人物ですね。
中大兄皇子(天智天皇)を擁して蘇我氏を滅ぼし、
天智の即位後も参謀として政権を支えた大功臣です。
ある時、大友皇子が不思議な夢を見たと相談して来た際に、
失脚を示唆する夢だと判断し、徳を深める努力をするべきだと助言したそうです。
それに従い傲慢な性格を改め、さらに鎌足と婚姻関係を結び、
地盤を固めたそうですが、結局は天武天皇の野心により、
若くして身を滅ぼす事となってしまいました。
天武天皇は一旦は大友皇子を後継者として推挙し、
自らは出家し吉野山に籠もりますが、
そこはかつて古人皇子という人物が隠遁した地だそうです。
古人皇子は天智・天武の異母兄ですが蘇我氏の一員であり、
蘇我政権の後継者と見られていた人物だそうです。
大化の改新後に、身分を捨て吉野山に籠もったものの、
結局は謀反を疑われて、天智天皇に滅ぼされたそうです。
和射見が原は、岐阜県の不破郡のあたりだそうです。
天武天皇の長子であり、軍師である高市皇子が軍を集結させた場所で、
関ヶ原の近隣である事から、天下を動かす事件はこの地で始まると、
宇万伎が詠んだようです。
大津皇子は同じく天武天皇の子で、
大友皇子でなく、この大津皇子を漢詩文の祖とする説を、
秋成は勝者に対する媚びだと批判しているのでしょうね。