むかしのはなし -4ページ目

胆大小心録 その160

百六十

遣唐使がもたらす利益は交易のみである。
仏教、儒道の悪賢さに倣って、簒位や弑逆が相次いだ。
長年干戈の休む時は無い。
この徳川の治世になって、二百年来実に太平である。

今の清朝は女直国(女真国)という。
朝に尿で顔を洗い、清めるとする国である。
いつのまにか金と名乗り、中国を奪ったのを、
明に滅ぼされて後継が絶えたが、
明の弱主(荘烈帝)が崩じた時に、盗賊(李自成)が起きて国を滅ぼした。

(明の将軍である)呉三桂が忠心を持ち、
(清の)順治帝が隣の国まで切り開いていたが、聖徳の人と聞いて、
援軍を頼んだが、順治帝は、よい機会だと李自成を滅ぼし、
中国の主と成り、三桂が「約束が違う」と言っても、
「いや、国を返すとは言っていない」と言い、ついに清という王朝が立ったのだ。


清国の成立に関する話です。
干戈は盾と矛という意味で、
戦が収まらないという事です。

胆大小心録 その159

百五十九

天智天皇が、大津に遷都したのは、
孝徳天皇が水のある国を良しとして皇宮を作らせたのを羨んだもので、
山を背に、琵琶湖を前に、長柄宮のように不自由な宮とは違うものだ。
それをさえ、人丸は、どうお考えだったのかと謗っている。
大和故宮を惜しむのは人情である。


前回と同じような感じですね。
わざわざ次条に持ち越すほどの事でも無いような気がします。

胆大小心録 その158

百五十八

志賀の都の荒れた様といって、人丸が悲しげに詠んだのは、
誰にも理解の及ばない、大津の忠臣の子孫の心である。

皇宮は古代より、代々住むものではなく、新たに移すのを吉例とする。
その為、瑞垣の宮・柴垣の宮など、質素な造りのものがある。
(皇居の事を)百敷というのも、石を重ねて垣とし、その中に安居したからだ。
奈良時代になり壮観が大きくなった。
東西に京を分け、殿堂十歩に一樓という阿房宮の華やかさに似ている。

また寺を建てて福果を祈る事は弱主の心である。
この費えの本は、欽明天皇の治世に、百済国が日本に媚びて、
釈迦の銅像・経典・幡蓋などを奉って、申した。
「この法は、諸法の中で最も尊い。周公・孔子も知る事はできない。
福徳は心のままに菩提心を得る事ができる。よく修めたまえ」
と奏すると、天皇の不足の無い心にも、これを修めようと思い、群臣に問うと、
みな自分の欲から、「よいと思います」と答えた。
物部の大連尾輿が一人進み出て、
「開国より天神地祇を祭り、三十代の今に至るのです。
隣の国の神を入れて地を貸したりすれば、国津神の祟りがあるだろう」と申した。
その忠直な事を褒めた上で、「なお修めようと思う者に授けよう」と言った。
蘇我大臣稲目が「私は修めよう」と言い、願い受けて、
向原の家を寺に改め、修行に励むと、
その徳によって、三代続けて猛威を奮い、主君をさえ無いものとし、
(稲目の子)馬子が崇峻天皇を弑逆し、
前例の無い女帝を立てて、これを後見し朝政を自由に行った。

厩戸太子(聖徳太子)を摂政にしたものの、馬子の権勢に抑えられたが、
太子も元より仏道の教旨が意に適っていたので、万事を馬子の思うに従い、
十七憲法といえども反古にされてしまった。
馬子の君を弑した罪を問わなかった太子も同罪だといって、儒者は批判している。

(聖徳太子の子の)山背王もそれに続いて弱い人であったので、
推古天皇の勅を賜って位を継ぐべきなのに、
(馬子の子)蝦夷がそれを曲げて、遺勅では(後継者は)田村王だったとされて、
善良で気が弱い人を選んで即位させた。
山背王は蝦夷に軽んじられ、(蝦夷の子)入鹿に攻められて、自ら縊死した。
福果を祈る父の修行は甲斐無く、子孫をさえ絶たれてしまった。
天智天皇・藤原鎌足がいなければ、神の子孫である天皇家まで滅ぼしていただろう。
国津神も何故かこの仏法に遠慮して、地を貸し与え、万世に栄えさせたのは、
あきれて物も言えない。
奈良の造営の美観にも勝る、東大寺の毘盧舎那仏は、
五丈余りの大像を造って、殿堂は雲に突き入らんばかりである。
この時に陸奥山に黄金が出て、その費用をまかなったという。
しかるに日本は元から仏国である。達磨・善導が、
「有を棄て、無に帰在せよ」と言ったのを、
仏教が初めて渡ってきたとするのは、大いに間違っている。
ならば東坡の真味の仏法も、後世に作り添えて、人を喜ばせたものか。

儒道は応神天皇の世に渡ってきたが、
人の心を善に導くという説明のみを聞き知らせた為、
誰もみなこれは良いものだと思ったが、
各々の欲と正しい教えとに差異があった為、
わずかに正しく物を伝える史官の間でだけ(本来の教えが)正しく伝わった。
善は為し難く、思うが侭にありたいという欲心である。

聖徳太子の憲法は本心から出たもので、
孝徳天皇の政令は、中国の威儀に、外国も恐れて仕えているのを羨み、
日本もそうありたいという情欲が為した事である。
だからこそ我が国本来の神道を軽んじ、仏道を尊むと、
史書(日本書紀孝徳紀)には明確に記してある。
何よりも、自分に驕りの心が無くなり、土地の狭い長柄に皇居を遷したのは、
これもわがままである。

私の遷都の歌に、
 飛鳥よりうつりて見れば豊崎のながらの宮も河洲なりけり
(真淵の祝詞考に)生島の郡、東を大郡、西を小郡と言うのを、
今見てみよ、海に埋もれ、西生の大郡、十三郡の中で最高の一つである。

天智天皇がこの遷都を悪と見て、
母帝(皇極天皇=後に重祚して斉明天皇)や皇后を連れて、
大和へ戻したのを、深く恨んで、
跡継ぎは皇太子である天智であるべきなのを、
密かに、母帝は以前より入鹿を滅ぼした天智を我が子ながら憎んでいたので、
前例の無い重祚をして再び皇位に昇った。
天智は事情を敏く察知して、とにかく天皇の御心のままにと、反逆の心を持たず、
鎌足と相談し、慎ましく接したという。
(斉明天皇が)入鹿を愛し、常に寵愛していた事は、史官の筆に匂わせて記してある。
これに倣って、女帝の重祚を行った、孝謙天皇の淫乱もこれに基づくものだ。


終わり間近に非常に長い回がありました。
仏教伝来から神道がないがしろになるという話に始まり、
天皇の私欲により国が乱れる事例を挙げています。

長すぎて理解するのも一苦労でした。
とりあえず気になる単語の解説だけでも。

まず瑞垣の宮・柴垣の宮というのは、
質素な造りの宮殿の事だそうです。
遷移が多すぎてまともに作ってはいられないのでしょう。

殿堂十歩に一樓というのは
秦の始皇帝が建造した阿房宮の壮大さを詠ったものだそうで、
五歩に一つ樓があり、十歩に一つ閣があるという言葉の事だそうです。

この時代の人名や天皇家には全く疎いため、
把握しきれない部分がかなりありまして、
日本書紀を知っている方なら、
容易に理解できる話のように思われます。