むかしのはなし -2ページ目

池亭記 その2

鴨川や北野ではただ家が建ち並ぶだけではなく、
土地を田畑へと変えていく。
野菜農家は土地を拓き畑を広げ、米農家は川をせき止め田に流す。
毎年のように洪水が起き、水の流れが堤防を壊す。
堤防管理の官は堤防を作り表彰されたかと思えば、
翌日には堤防が壊れても意に介せず壊れるに任せている。
左京の人々は魚類のように水を浴びているが、
朝廷は貴族の田を耕す以外の工事を禁じている。
水害が起こるのは当然の事だ。

それだけではなく、鴨川と北野は天皇の儀式を行う地でもある。
人々が土地を耕したいと欲しても、必ず役人に禁止される。
もし庶民が娯楽に興じたいと思っても、
夏の鮎取りの際には岸がなく、秋に猟をする原野もない。
その為、都の外には人々が先を争って住み、都の中は日に日に衰微していく。
都垣の南方には荒れた土地がはるかに続く。
肥えた土地を棄てて、やせた土地に移り住む、これは天の定めか、それとも人の狂気の為か。


前回と今回で京の現況に関する部分となります。
住民たちが住みにくい都を避け、郊外に移り住んでいく様子です。

池亭記 その1

池亭記

私は二十年余りも、西京(右京)東京(左京)を見続けてきたが、
右京は人家が少なく廃墟に近い。
人が去ることはあっても新しく来ることは無く、
家が崩れることはあっても新しく建つことは無い。
行き場のない者や、貧しい暮らしを恥と思わない者がここに住み、
また隠遁を楽しみ、官職を辞し農業に従事する者もここを去らない。
蓄財に励み、あくせくと働く者は、一日とここには留まらないだろう。

かつて一つの邸宅(源高明の西宮)があった。
この宮は華麗な建物と朱塗りの扉を持ち、木々や泉や石に囲まれた、
この世のものと思われない名勝地だった。
ある時、高明が陰謀(安和の変)に関わった咎で左遷され、さらに屋舎が火事に見舞われた。
彼の権力にすがっていた数十家の者どもは皆ここを去った。
やがて高明は帰ってきたが、屋敷を修繕しなかった。
彼には多数の子孫がいたが、皆永くはここに住まず、
茨が門を閉ざし、狐狸が住み着く有様だった。
右京の衰退はまさに天によって定められたかのようであった。

左京の四条より北、北西と北東には貴賎を問わず人々が群居していた。
名家の屋敷や庶民の小屋がぎっしりと立ち並び、
東に火災があれば西が類焼する、南を盗賊が襲えば北が流れ矢を受けるという有様だ。
一族間に貧富の差が激しく、
富める者は徳を併せ持たず、貧しい者は貧乏を恥じる。
また、大家の近辺に住む者は、
家が壊れても直すことができず、塀が壊れてもそれを直せない。
楽しいことがあっても大声で笑うこともできず、
悲しいことがあっても声高く泣くこともできない。
小鳥や雀が鷹や隼を恐れるが如く、常に顔色を伺い、心休まる時がないのだ。
ましてやその門をますます広げ、豪壮な邸宅を建て始める時にはなおさらのことである。
ただでさえ小さな家や土地を取られ恨みつらみを重ねる者も多い。
まるで人間界に追放される仙人のように、代々住んできた故郷を去る者もいる。
最悪の場合には狭い土地の為に、家が滅んでしまう例もある。
鴨川の畔に住み、洪水に遭えば、魚や鼈のように水中に沈むことになる。
北野に住み、日照りに遭えば、喉の渇きを潤す術もない。
この京に人の住まぬ土地はないのだろうか。
人の心の頑迷なことよ。


とりあえず全体の3分の1ほどの部分です。
大して長くない作品なので4、5回ぐらいで終わる予定です。

方丈記と同じく序盤は当時の京の状態を描写したものになっています。
右京と左京の違いを現していますが、
現代の感覚とそう違わない事に驚かされますね。

池亭記を適当に訳してみる

慶滋保胤が著した随筆文学「池亭記」(ちていのき)を訳します。

以前に訳したもののファイルを紛失してしまったのですが、
この間偶然見つかったので、どうせだからとこのブログに載せていきます。

池亭記は平安時代中期の文人、慶滋保胤が著したもので、
鴨長明が方丈記を書く際に参考にしたそうです。
この慶滋保胤よりわずかに前の世代に前中書王(さきのちゅうしょおう)という人物がいて、
彼は兼明親王という貴族なのですが、この人も同じく池亭記という文章を書いています。
ほぼ同時期で同じ傾向の作品なのですが、慶滋保胤と親交があったのでしょうかね。

ちなみに新日本古典文学大系の本朝文粋を基にしたのですが、
このシリーズは解説が非常に充実しているため、
実際には自分で訳した部分は少ないです。