むかしのはなし -47ページ目

胆大小心録 その31

三十一 

欽明天皇が即位する前の時代に、
秦大津父という者が、伊勢へ行商の為に常に往来していた。
今日もまた出発して、飛鳥の清見原を過ぎると、
二匹の狼が噛み合って恐ろしく吼えていた。
不憫な事と思い、これを仲裁して、
二匹の血にまみれたところを拭いて帰らせてやった。
天皇が夢を見た。
神が来て、
「秦大津父という者は善人である。召抱えなさい」
と言った。
目が覚めて(周りの者に)大津父の事を聞くと誰も知らなかった。
国中に触れを流すと、どこかの里人が連れてきた。
「汝はどのようにして神に仕えたのか」
と聞くと、
「何の方法も知りません。先日清見原で二匹の狼が争っているのに行き当たり、
仲裁して帰らせた事がありました」
と答えた。
天皇は言う。
「この善行に対して恩返しをしたのだ」
と、(天皇は)即位した後に、大蔵の官吏に任命した。

狼の性は暴悪と、文人たちの文章によく出てくる。
しかしながら、自分に親切にすれば、これに報いるのだ。
清見原の別名を、真神原と歌に詠まれるのはこの為だ。
(狼と大口真神を同一とする事から)大口真神原と詠むのだ。

また、貞観の頃(859~877)。
富士山が大噴火し、嶺を崩し谷を埋め、(北の)剗の海を埋め尽くし、
人民までもを傷つけ、災害は数日の間隣国の甲斐にまで及んだ。
甲斐の国司が後に報告した。
「富士山頂の浅間神社の神官が祭祀を怠った為、神が怒ってこの噴火が起きた」
と。
直ちに勅令を下し、神官らを罰した。

思うのだが、神がもし神官のみを罰するなら自由に罰するがいい。
大災害を起こして何故気が晴れるというのか。

その前後は知らないが、
肥後の国の阿蘇山に二人の石神がいて、また神の池がある。
ある時、神の火が燃えて池の水が涸れ、
沸騰した湖水が降り注ぎ数日間火事を起こすという事があった。
国史らは卜部(卜占を行う官人)を呼び寄せて占わせた。
(卜部が)占い、
「これは兵火の起こる前兆である」
と言った。
そこで、軍を配備して九州を守らせた。

浅間名神は自分の都合で国を傷める。
石神は国の為に兆しを標す。
奉仕の如何によってこうも違うものか。

この国の北の村に菅神(菅原道真)の社があり、また、御旅所があった。
村からわずか一丁離れた所の寺院の中にある。
七月十五日の祭祀で、里人らが神輿を担いで供物をして神を慰めた。
里人たちは渡御の道が短いので面白くないと思っていた。
(ある時)寺院が宗派の問題で閉門(の罪)になってしまい、
神輿を担ぐ事ができなくなってしまった。
(里人たちは)庄屋に訴えて、祭りの日だけでも寺の門を開いてもらおうとした。
庄屋は言う。
「お上の命令だから背くわけにはいかない。門を開けてはいけない」
と。
里人たちはそれを聞いてがっかりした。

以前より十丁離れた所の堀川の傍に恵比寿を祀る社があり、
境内はとても広かった為、御旅所をここに移す事を神に問うて、探湯を奉り、
神楽を奏して伺いを立てるという事を三度行ったが神は許さなかった。
という事があった。
この度の閉門につけこみ、(無理矢理に)神輿を奉げて、
恵比寿神社に至って大いに喜んでいたが、
すぐに喧嘩騒ぎになり、数人が傷つく事件が起きてしまった。


まず欽明天皇と秦大津父の話は13条に軽く出てきますね。
前の数条と共に13条の論拠となっている部分です。

御旅所のくだりは非常に苦労しました。
例によって適当です。
神社で神を神輿に乗せ、巡幸するという神幸祭の際に、
休憩する場所が御旅所といいます。
そこへ行く道中(渡御)が祭りの中心であるため、
そこが短いのでは盛り上がりませんよね。

寺院が閉門になった事にかこつけて、
神の許しを得られなかったにもかかわらず御旅所を移したところ、
トラブルが起きてしまったという話だそうです。

閉門とはその名の通り門を閉めて外出できなくさせる刑罰の事で、
蟄居や逼塞などと同じ種類のものです。

胆大小心録 その30

三十

仏家が言う。
「神と仏は同一である」
と。
翁(秋成)は思う。
仏は聖人と同じく、善根を植えて、大樹に育て、ついに世界を覆うに至るのだ。
衆生を袖で覆う(墨染の袖で衆生を覆って仏法に導くという教え)と言う法師は、
小乗(仏教)にしかいない。
神は神であり、(仏や聖人と違って)人が修行を積んで神になるのではない。

易経に言う。
「陰陽不測謂之神」
(陰陽で測ることのできないもの、それが神というものである。)
神を人智で推測する事はできないという事は明らかである。
だからこそ人間でいう善悪邪正を当てはめて議論をしても意味が無いのだ。

自分によく仕える者はよく愛し、自分を軽んずれば罰する。
狐狸と同じようなものだ。
天竺(インド)の事は知らないが、我が国の神話は後世の人が補欠したものであり、
何も言うことはない。
日本書紀に記してある一、二箇所をうろ覚えながらも言おう。


引き続き、第13条に見える神や狐狸の性質に関する話です。
神仏同体というのは、日本古来の神と仏が同じものであるという説ですね。
本地垂迹説というものが有名で、
日本の神々は、仏教の仏たちが姿を変えたものだとする説だそうです。

その説に反対する秋成が、神と仏の性質の違いを語っています。
墨染の袖~の部分は慈円という天台宗の僧侶の歌に見えるそうで、
千載和歌集からの引用だそうです。

ちなみに小乗仏教とは大乗仏教から見た差別的な言い方で、
正確には上座部仏教と呼びます。
他の宗教でもそうですが、教義の違いによる宗派の特徴というのは
外部の人間にはなかなか理解しきれないものがありますね。

結びの部分は次回の話にかかっていると思われます。
次回は今回の話を受けての日本書紀からの引用になりますので。

胆大小心録 その29

二十九

(中井)履軒が言う。
「狐は人に近寄る事は無い。元より狐に化かされるなどという事は考えられない」
と。

(友人の)細合半斎は丁寧な性格で、礼儀正しい人だ。
世間の人はこの丁寧さを嫌がるが、それはその者が怠惰な性格である為だ。

(半斎が)京都にいた頃、西本願寺へ参詣に行った。
早朝に(半齋の住む)三条油の小路を出て、
(近いはずなのに)昼過ぎになっても到着しない。
ついに日が暮れてしまい、気味悪がりつつ家に帰った、という事があった。

これは、(半斎のような)冷静な者でさえ、狐狸が道を迷わせるという事だ。

翁(秋成)もまた、
ある日(秋成の住まいのあった)賀茂川堤の庵を出て、
銀閣寺前の浄土院に行った際に、吉田山の北を回って東に行く順路を取った。
そう狭くも無い道だった。
ところが何故だか(浄土院よりはるか北の)白川村に着いてしまった。
考え事をしていて迷ったのだと思い、やっとの事で浄土寺村に着いて
和尚の図南と談話をしたついでに、この事を語った。
和尚は
「具合が悪いのだろう。安静にしていなさい」
と言った。
帰路にまた吉田山の北を通り、大道を通り西に向かい家に帰ろうとした。
何故か(家よりも西にある)知恩寺に着いた。ここで悟った。
狐が迷子にさせたのだ。
けれども気をしっかりと持ち、午後に帰り着いた。

またある日、北野天満宮に詣でた。早朝に出発して参拝し、東に帰ろうとした際に、
春雨が寂しげに降ってきて、足腰が弱く、目も悪かったので、
(知人の)大賀宗文の家を訪ねて、昼食を食べた。
雨はますます激しくなって、頭を出す事もできなかった。
「今夜はここに泊まってはどうでしょう、そうでなければ駕籠を呼びましょうか」
と言っている内に雨が少し弱まった。
家までは十二、三丁(約1km強)の所だった。
日頃から通い慣れていて苦とも思わないので、
「春雨の中帰るのも一興だ」
と言って、門を出て東を目指した。
(道に迷い、南の)一条堀川に至った頃に雨がまた強くなった。
傘を雨の方に傾けて歩くのは辛いが、
大きな道なので迷わないだろうと思い、そのまま進んだ。
雨を楽しみながら歩いていくと、堀川の椹木町に着いた。
ここで初めて気付いたが、傘のせいで方向を間違えたと思い、
また東を目指すが、思いがけずも、堀川の西に来てしまった。
再び間違いに気付き、どうにかしなければと気を落ち着けて、
ようやく丸川町をひたすら東に歩き、家に帰った。
まさに日が暮れようとしていた。
病弱な養女が待ちわびていて、町角に立っていた。
「大賀家に寄っていた」
とだけ答えて家に入ったが、足が疲れ、目がくらみ、気疲れした。
灯りの傍に寝床を用意させて横になり、夜明けまでぐっすりと寝た。
これもまた狐が迷子にさせたという事か。

半斎も自分も気が変になったのではなく、一日中茫然自失になり、
狐の術が人の精神にまさったという事だ。
学校のふところ親父(履軒の事)は、
少しも外に出る事も無く、狐は人に憑かないと決め付ける。
もはや笑うしか無い。


細合半斎は秋成の友人の儒学者で、
書家としても歌人としても有名な人だそうです。

この秋成の経験談は「北野賀茂に詣づる話」
という文章にも出てくるエピソードだそうです。
知人の大賀宗文という人物もそちらに出てくるようです。

今回の話は地理が全くわからないので理解が難しいのですが、
要するに狐に化かされて道に迷ったという事です。
単なる不注意か方向音痴などと思ってはいけません。

履軒の事を「ふところ親父」と呼んでいるのは、
26条に出てくる「懐子」の中年バージョンだそうです。
とっちゃん坊やという事でしょうね。
履軒への悪口の、このバリエーションの豊かさは何なんでしょうね。