むかしのはなし -49ページ目

胆大小心録 その25

二十五

(大阪の懐徳堂について)学校とは思い上がった名前で、郷校でも十分すぎるほどだ。
校舎と呼ぶのが当然の事だ。

初代学主の三宅石庵は王陽明を思わせる学士だが、
篤実で善人だった為、
富豪たちが共同で校舎を建て(石庵を)そこに住まわせたという事だ。

京の人で、元は俳諧師であった。
「ついきけばきたない事じや梅だらけ」
(ちょっと聞けば汚い気がするが、風景や香りを思い出してみよ)
この要点をついた作風は、芭蕉などという上辺を取り繕った者が寄り付ける物ではない。


懐徳堂は、商人たちが共同出資して建てた学問所で、
現在の大阪大学の祖だそうです。

なぜ「学校」が思い上がった名称かというと、
中国の礼記という書に、
「家に塾有り、党に庠(まなびや)有り、州に序有り、国に学有り」
という箇所があり、要するに学校は国に有るものであり、
私塾のような存在に過ぎない懐徳堂が学校を名乗るのが相応しくないという事です。

大雑把に現代に置き換えてみると、町の学習塾が大学と名乗るようなものでしょうかね。

郷校(もしくは郷学)が、その私塾に当たる言葉だそうです。
校舎が妥当というのは、建物だけちゃんとしてて中身が空っぽという皮肉でしょうか。

そこに招かれた三宅石庵は優れた儒学者で、
陽明学の始祖である王陽明に例えられている事からもわかるように陽明学を修めており、
和歌や俳諧の名人でもありました。
珍しく秋成が他人を褒めているのはいいとして、芭蕉に対する暴言がすごいですね。

ちなみに「ついきけば~」の部分は全然意味がわかりません。
勘弁して下さい。

胆大小心録 その24

二十四

村瀬(嘉右衛門)はこじんまりとした智者である為、風流の無い人間だ。

大阪で評判を落とす事があったので、
(村瀬の)書いたものを欲しがる人はまるでいない。


第22条に出てきた村瀬栲亭の話です。
仲が良かったわりにはひどい言い様ですね。

今回は非常に短かったので解説もこの辺で。

胆大小心録 その23

二十三

儒者の皆川淇園が、会う度に
「どうだ、おやじ」
とからかってくる。
同い年なのに髪が黒くて、歯も落ちず、杖も使わず、視力も自慢だった。
いつだかに会った時に
「どうやら骨が細くなった。先に死ぬだろう。念仏でも唱えてくれよ」
と言ったが、果たしてその通りになった。

淇園が建てた講堂の壁も土台の漆喰だけになり、
曲水風に造った溝も犬の糞の溜まる所となってしまった。
阿呆に違いが無い。

また、弟の富士谷成章は、兄より賢かったので、学問に秀でていた。
俳諧仲間で、昔はよく会っていた。
互いに和歌・和文が好きになった。
大阪に来た際に、ちょくちょく寄ってくれた。
女好きで、精力が尽きて、使い物にならなくなったと介抱した書生が語っていた。
だとしたら、こいつも阿呆だ。


皆川淇園、富士谷成章の兄弟は共に高名な学者で、
淇園は画家としても有名で、
成章は和歌や詩の研究者としても高い評価を得ているそうです。

秋成と淇園は仲が良かったらしく、
じじいや阿呆と言い合っているのもユーモアの一種だそうです。