A remote island | Ready Steady Go!

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   ~ London Eye ~


土曜日の深夜と思いきや、すでに日付が変わった23日の午前4時20分からNHKでやっていた新日本紀行の昭和51年に放送されたタイトル『歌が生まれた島で/長崎県 奈留島 』

五島列島のひとつ奈留島に住むひとりの女子高生が出した手紙にユーミン/ 松任谷由実が応えて、『 瞳を閉じて』の名曲をプレゼント。

島の分校は、九州本島の本校の校歌をずっと歌ってきたが、本校の歌詞内容が島の分校にはそぐわないのではないかの疑問から、彼女の行動がユーミンの心を動かしたとか。

分校ではこの曲を新たな校歌にするかどうかで先生方が協議した結果、校歌ではなく、愛唱歌として必ず学校の行事では歌われるようになっているほど、誰からも愛されたこころこもった島の情景にまさにぴったりの歌。

この島も、当然のように日本各地で起こっている深刻な過疎問題に直面している。

漁業が島の中心産業で高校を卒業すると、若者は当然のごとく、島を離れ、都会に移り住む。

更に漁業の衰退で人口は減り続け、30年前の3分の1にまで落ち込み、自治体は高齢化と財政難。

この歌の歌詞は、島を出て行ったひとへの思いを歌っている。

31年前の70年代は、今の団塊の世代が大学生だった頃で、島を訪れる人気スポットとして随分と賑わったそうですが、あれから時は流れ、厳しい現実が島に残っている。

もうひとつの番組も同じ時間帯にフジテレビで放送されていたタイトル『赤ひげ離島』は長崎県の小値賀島に20年以上、ひとりで島の医療を担ってきた医師の人間ドラマです。

ここからは番組の内容を拝借して、説明としますが、

日本で一番島が多い長崎県は離島の医師不足に直面している。島に医師が派遣されてもなかなかなじめず途中で島を去ってしまう医師が跡を絶たない。

五島列島の北部、小値賀島には島で唯一の診療所がある。

ここで20年以上、島の医師として働いている田中敏己医師(56歳)は小値賀島に生まれ育ち北里医大を卒業して35歳の時、故郷に帰ってきた。

大きな希望を胸に赴任した田中医師だったが、厳しい現実が立ちはだかる。田中医師を小さい頃から知る島の年長者たちは先輩意識が強く、若僧医師なんて簡単に信用できないと認めようとしなかった。

島特有の密接な人間関係はかえって厚い壁となって田中医師にのしかかった。
 
医師として技術に自信を持っていても、それだけでは島の人々の心は開くことはできない…そして島でただ一人の医師だという重圧と孤独の中、次第に孤立感を深めていった。
 
田中医師は40代の頃何度もくじけそうになった。先端医療から取り残されてしまう不安と島の人々を見捨てることができないという狭間で苦しみ荒れた。

島を逃げ出したくて飛行機をチャーターし、長崎市内の繁華街で酒を浴びるように飲んだ。それでも急患の連絡が入り、1時間もたたないうちに島に呼び戻された。

辞めさせてほしくて病院の窓やドアも壊した。

島に踏みとどまったのには二つの理由があった。

幼い頃の悲しい記憶…自分が去った後、もう二度とこの島に定着する医師は現れないだろうという思い…田中医師にとって島はいきがいと苦悩の両方を持ち合わせていた。
 
小値賀島は三つの小さな島を周辺に抱えている。

田中医師は診療所での診察の合間を縫ってそれらの島々へ船で往診する。

そしてまた夕方には診療所に戻って今度は入院患者の診察を行う。

島々の風景はのどかで美しい。

ただそこに人が住んでいるかぎり、必ず病人もいる。

田中医師をめぐる島の医療は本人の苦悩をよそにこれからもずっと同じように続いていくのかに見えた。
 
この4月大きな出来事が起きた。田中医師が町に辞表を出したのだ。

一人で島の医療を担わざるを得ないという長年のプレッシャーの中で、いつしか田中医師は酒に酔うことで束の間の開放感を味わうようになっていた。

過労により心身ともに疲れ果てうつ状態に陥っていたのだ。

田中医師はとうとう島を離れることを決意した。

田中医師は小値賀島が大好きだった。

住民の健康と生命を守ることを一生の仕事と決意し、ひたすら誠実に医療を続けてきた。

そのような医師でさえ20年はあまりにも長かったのかも知れない。

きれいごとではない離島医療の厳しい現実をみつめ問題点をえぐり出していく。

とのナレーション。

私が知っている知識でさえ、70年代医師不足から数多くの新設医大が開校され、将来医師過剰時代がくるのではないかと危惧されていた。

今の日本の医療は確かに進歩したが、別の意味で問題を抱え、都会に存在する最先端高度救急治療技術から、医師不在の過疎地で老人の人たちへ医療とこころのケアーを含めた本当の意味での赤ひげ先生的な医療まで、中身は様々ですが、同じ医師としてどの現場に自分の医療才能の置き場所を決めるか?

現場医療の過酷な現状に若い医師たちには産婦人科医と小児科医は最近特に人気がなくなっているのも事実のようで、外から見ているほど医師の仕事は楽でない。

どちらの現場も休みなしの不眠不休の過酷な現場が存在し、医師といえども人間、体力の限界を超えてまで患者さんのために働くには、問題点が山積みだ。

必死に自分と戦っていた20年の苦悩を証明しているかのような白髪の田中医師の姿。

田中医師の白衣を着た後ろ姿の背中が、今は亡き父親の白衣の姿とかぶり、胸に熱いものがこみ上げて、感慨深い温かなクリスマスプレゼントなったイヴイヴ天皇誕生日の1日でした。

最近はバラエティー番組よりドキュメンタリー番組の方がお口に合うようで、私も少しお年を召されたのかもしれません。

合掌。