roulan -5ページ目

『my classics!』4

AVE MARIA
 この曲がAVE MARIAというタイトルだとは、聞くまで知らなかったなぁ。アヴェ・マリアと聞けば、シューベルト、としか思わなかった。不勉強を反省。
 アルバムの中では、このAVE MARIAとミオ・アモーレだけが、もともと歌曲なんだね。あとは器楽。
 ヨーロピアンテイストっていうのかな。アレンジとしては、ラテン系の入った… といっても南米系のではなくて。最初に聴いたときに思い出したのは、ポルトガルのファドだったな。哀愁の入り方というのか…。
 胸に迫るような歌だよね。同一旋律を、オクターブ違いで歌うというのは、綾香嬢得意とするところ。それが出来るだけでもすごいと思うんだけど、低いとき高いときで、それぞれまったく違う表情というか、二面性を見せていると思う。この曲ではとくに。
 低く歌うときには、何かゆるがない決意というか…梃子でも動かないという決心が伝わるように感じたし、高く歌うときには、澄んだ声が蒼穹に吸い込まれるみたいに、何か人知を超えた存在に対する祈りが伝わるようだなと思った。
 後半ではスキャットが入って(綾香語っていうんだね)、これが前衛的な響きさえ感じさせて、すごく面白い仕上がりになっている。あーやはサックスプレーヤーなので、たとえば歌の端々に管楽器のフレーズっぽいものが出てくるのはよくわかるんだけど、このAVE MARIAのスキャットは、どう聴いたって、ギターのフレーズだよ。こういうセンスって、どうやって身に付くものなんだろうなぁ。

新世界
 僕にとっては、おそらく人生でもっとも多数回聴いたクラシックのひとつと思われるドヴォルザークの「新世界より」。子どもの頃、叔母さんが貸してくれた何枚かのレコードのうちの一枚だったからなんだけど。その頃見聞きしたことってのは、ほんとに忘れないもので、そのとき読んだライナーノーツの内容は30年以上たった今でもおぼえているくらい。
 さて。あーや版の新世界は、バラード風に始まったかと思うとゴスペルのようだったり、間奏ではJAZZになったり、転調もくりかえしてめまぐるしく表情が変わる。「家路」で知られたテーマの他にも、この二楽章の中には、ぐっとくるメロディーが出てくるけど、「新世界」ではそういうところもちりばめられていて、とてもいい。一曲でアメリカ音楽の旅みたいになっていて楽しいんだよね。遊び心と同時に、原曲が生まれたいきさつに対する敬意も込められている感じがしたな。
 彼女はセルフライナーノーツの中で、メロディーのおわりの部分、「レ~ドレ~ラ~ド」がひとつだけ「レ~ドレ~シド~」になっていることに触れて、「ふるさとに帰るイメージ」だと書いている。なるほどなぁ。たしかに、ラよりもシのほうが圧倒的に解決を志向するから、帰るんだという意思を感じ取るというのはわかる気がする。加えて、ラ~ドというそれまでの土着的な音階から、シ~ドはヨーロッパ音楽へ戻ったという感じもあるな、言われてみれば。
 ちょっと悪乗りして便乗すれば、原曲ではこのあと、「ド~ ド(#)~ ド~ ド(#)~ ド~ レ~ ミ~」と終わるんだけど、この部分は、楽章のいちばん冒頭でも調は違うけど出てくるんだよね。それから中盤でちょっと曲調が変わるところの前にも。
 これはちょうど、旅先へ向かう時空のトンネルみたいな気がして仕方ない。どこでもドアみたいな(笑)。あるいは、映画でいうと、回想シーンのワイプみたいな?
 だからライナーノーツを読んだ時、「これで旅はおしまい、さあ帰ろう!」って時空トンネルに入ったなんていう想像をしてしまった。

月見

部屋の窓、真正面に、丸い月。


roulan
roulan

roulan

『my classics!』3

シェヘラザード
 マイ「好きなクラシック ベストテン」に入る曲だったので、この曲があーやの歌で聴けるとわかったときには、嬉しかったな。

 半音を効果的に使って、実に美しいメロディー。それだけに、歌うのはとても難しいはずだ。
 とくに原曲ではクラリネットやフルート、弦が代わる代わる演奏する、細かい符割のフレーズとか。歌に合うように音数を減らしているにしても、感情を込めて歌おうとすれば、簡単に歌えるフレーズじゃあない。『4つのL』収録の「アリエスの星」で「こんなフレーズまで歌うのか!」とびっくりしたのを思い出す。
 このシェヘラザードのフレーズは、声で歌われることで、さらにオリエンタルな雰囲気が増して、実にいい。
 千夜一夜物語だから、ってわけじゃないけど、お休みのおともにしたい。

仮面舞踏会
 どの曲も素晴らしいのだが、やはり今回のアルバムではこの曲を白眉とせざるを得ないだろうなぁ。えらいこっちゃでこらぁ。
 詞、アレンジ、歌が、まるで作りつけみたいにピタッと曲にはまっていて、ひとつの世界を作ってしまっている。はまると出られなくなりそうな、怖さも感じる世界。壺中天だね、これは…
 仮面舞踏会はなぜ仮面を着けなくちゃいけないか?って問いの答えが示すように、それは”高貴”と”下世話”の境界面だったりするわけで、それはとりもなおさず人間の内面そのものだったりするわけだけど… あーやは狂気と書いていたと思うけれど、それを狂気と呼ぶならば、ある意味人間はすべからく狂っていて、同じ狂い方をしているひとは正常に見えるって考えることもできるかもしれない。
 彼女は今回のアルバムの詞を、作曲家について調べたり、曲のアナリーゼから導き出したものをモチーフにして着想を得ていったそうだけれど、自分の中にまったくないものが出てきたりはしない。
 あのように可憐で、育ちのよいお嬢様然としたひとからこういうものが出てくるというのは、ひとの不思議と面白さを思うとともに、これだから女性はコワい…と言ったら怒られそうだけど(笑)
 彼女の詞では、ふつうはあまり歌詞には使われない言葉が出てきたり、非常に変わった独特の言い回しが出てきてドキッとすることがある。
 以前だと、「voyagers」~飛ぶことを拒んだ僕の背中 歩いてゆくと決めた脚~と歌っているのを聴いたときにも「そういう捉え方があるのか!」とびっくりしたんだけど、今回でいえば~私の素顔が 本性を隠す仮面なの~と歌っているのが面白い。つまり彼女はここではっきり、「本性と素顔はイコールではない」と言っているわけだ。たいていのひとは、本性と素顔というのは、ニュアンスは違うけど同じものを指していると思っている。ペルソナってのがあるでしょ。装う人格とでもいうのかな。でも自分の心を覗けば覗くほど、実はひとは自分に対しても仮面をかぶって演じていることに気がついちゃったりするんだよな。
 そうなるともう、本性と素顔と仮面、どれがどれだか自分にもわからなくなってくるというね。怖い怖い。
 アルバムを購入して最初の日、この曲を聴いていてゾクリとするような怖さを味わった。それは↑で書いたような世界観のためでもあるのはもちろんなんだろうけど、それより”声”というもの”歌”というものを縦横に駆使して世界を作り上げてしまうという、その圧倒的な感じに対してだと思う。
 「こんな感じ、ときどき感じるな、なんだっけ?」と思ってよく考えたら、トップアスリートの競技を見ているときだった。つまり、自分には到底、到達できない世界の先で、なにかとてつもない技能が展開されている、ということに対する怖れと憧れというかね。
 クラシックの器楽曲をポップスに取り入れようとする場合は、部分的に歌になりやすいところを持ってくるとか、歌いやすいように起伏の小さいフレーズに改変するとかってケースが多い。シェヘラザードのところで書いた音数を減らすのもその一例だ。
 でも、この仮面舞踏会に関しては「ええ!? そこはムリだろう!」ってところまで歌っている。E-D-C-B-B♭と駆け下りるとことかね。しかもそれがあると無いとでは、まったく完成度が違ってしまっていたはず。
 そうそう。ギター弾きとしては、左チャンネルからずっと聴こえている、アコギのカッティングがツボ(笑)。実に旨みに溢れた音色なんだな。こういうのがまた、後を引くんだよねー。

 また長くなったので、続きは明日だな。