紙焼き写真をスキャンしながら、思い出にふけっています。
今日の思い出は1993年のアメリカのハリウッドにあるミュージシャンズ・インスティチュートに留学していたときの話です。
その時に天才的なギタリストに出会いました。
シマダ アキラ氏です。
MIのGITというとポール・ギルバート、ジェニファー・バトゥン、スコットヘンダーソン、フランク・ギャンバレ、バケットヘッドとか多くの著名ギタリストを排出した学校なのですが、僕が留学当時も凄いギタリストがたくさんいました。
その中で知り合ったのが、シマダ アキラ氏なのです。
彼はバイオリンを幼少から嗜んでいて、ギターの腕は天才でした。
当時の日本では見たことも無いような、テクニカルギタリストの曲を聞けばすぐに再現して弾ける人だったんです。
当時のMIには後にB'zのドラマーとなるシェーン・ガラースや、もう書ききれないほどのトップミュージシャンが同級生にいました。
僕は留学して世界の壁の高さを実感したと同時に日本人の勤勉さとか、マメさとか、日本人の持つ才能に気が付きました。
それまでアメリカ至上主義だった僕が日本人としてのアイデンティティを持った瞬間でもありました。
それくらいシマダ アキラ氏は天才だったのです。
LtoR 僕・シマダ君・弟
彼とは学校で活動を共にしました。
そして、帰国後には僕とKelly SIMONZ's BLIND FAITHでリズムセクションを組んでいた星山哲也の3人でバンドを始めることにしたのです。
もちろん、まだKelly SIMONZ's BLIND FAITHに僕と星山くんが加入する数年前の事です。
帰国後、僕と星山くんは大阪、シマダくんは関東に住んでいました。
インターネットもない時代に遠距離のバンド活動というのは困難を極めたのですが、僕たち3人はバンドを結成しようという話になりました。
ただ、当時は帰国したばかりで貧乏真っ只中です。
みんな、バイトをしないと会って練習すら出来ない。
電話代も厳しいし、デモ音源を送り合うことすらも困難だったんです。
そんな時にお互いにお金が無いと何も始まらないということで、プロを目指して活動しながらバイトにも性を出していました。
そんなある日「シマダくんが突然なくなった」と電話が入りました。
記憶ではお母様からの電話だったと思いますが、
彼は幼少からバイオリンなどを嗜んでいて、音楽しかやってこなかった人。
どちらかと言うとお坊っちゃんタイプだったと思います。
ギターよりも重いものを持ったことが無いような繊細なタイプなんです。
ただ、彼は僕たちとバンドをするためにと、それまでにやったことも無い建設現場で肉体労働をしていたそうです。
そして、ある日トラックから資材が落ちてきて、その下敷きになって急逝されました。
僕も星山くんもこれを聞いた時は呆然としたのを覚えています。
彼のお葬式には留学時代の友、今では業界でトップクラスになったアーティスト達が各地から集まりました。
僕と星山くんが泣きながら新幹線で帰路についた時、大雨で新幹線が緊急停止しました。
その場所はなんと静岡県島田あたりだったので、僕も星山くんも彼が僕たちに帰って欲しがっていないだね。
と泣きながら話をしたことを思い出します。
あれから27年も経ちました。
僕と星山くんはテクニカルギタリストとして活躍していたケリーサイモンさんのバンドに加入し、おそらくシマダくんがやりたかったであろうメロディックなメタルバンドをやることになりました。
もしも、彼が生きていたら世界的に認められるギタリストになっていたと思います。
なぜなら、この僕程度でも、なんとか音楽業界の片隅で生きて行けているからです。
今でも自宅ガレージには彼の肖像を飾っています。
辛くなったら、それを見て頑張ろうと思っています。
記憶というのは残念なことに薄くなっていく。
どんなに悲しかったことでも、どんどん記憶が薄くなり、彼との思い出にも記憶が曖昧になり、自分に良いようにデフォルメされていくのだろうと思うのです。
もしも紙焼き写真がなかったら、記憶をとどめておくことも困難だったんだろうと思うのです。
僕がこうやって、ブログやSNSを発信する理由は自分が将来に見返して、自分を俯瞰で見るためです。
今から10年前のブログを読むと、やはり青臭いと思うし、タイムマシンがあるならば「お前、これはやめておけ」とか「この選択はこっちにしなさい」とか伝えるだろうと思います。
過去の思い出に浸るわけではなくて、そこから自分がどういう行動をしたのかを逆行することで、これからの人生をどうすべきかの指針にしたいと思うのです。
そんなことを感じた写真でした。
こんにちは
懐かしい紙焼き写真をスキャナーで取り込むのが趣味です。
先日はサンフランシスコにあるアルカトラズ島について書きました。
今回はサンフランシスコです。
ロサンゼルスからサンフランシスコは大体614kmくらいです。
広島から静岡くらいだと思えばいいですね。
当時の愛車は何度か紹介していますが、↓
フォルクスワーゲンのラビットのオープン。
所謂ゴルフという車種です。
アメリカ留学生活でオープンカーを乗っていたのですからね(笑)
恵まれた時代でした。
とはいえ、この車は帰国直前にはリアのデフがおかしくなって、タイヤが外れる寸前まで行きました(T_T)
廃車寸前をコリアンタウンでだまくらかして売却して難を逃れたという逸話も。
※騙してというよりも査定ミスで切り抜けたというべきか....(苦笑)
アメリカは車検がないので、入手は安くてもさ、ボロボロの個体も多くて大変でした。
このころは快適に走っていましたが、なにせナビゲーションなどない時代です。
まじで道に迷ったら、強盗に襲われるか、ガス欠だと死ぬかもと恐怖で走っていたものです。
英語も片言だったし、無謀だといえばそ~ですけど、楽しんだなと思います。
サンフランシスコはとにかく坂が多い。
映画のカーチェイスシーンでよく出てくる風景で感動しました。
ロサンゼルスの住んでいたハリウッドとは全く違う感じです。
ちなみにハリウッドに住んでいた頃はチャイニーズシアターという名所から徒歩3分の場所で毎日チャイニーズシアターを通って生活していました。
ちなみに当時はシリコンバレーなどという言葉は知らなかったので、そんな場所には観光には行っていません。
1993年当時、学校にはコンピュータはすでにありましたが、まだまだコンシューマ用ではなかったですからね。
坂が多いと言いましたが、マジで下り坂は恐怖なくらい。
そして車高が低いと腹をスッて走れない環境です。
バイクのチョッパーの世界でフリスコカスタムというサンフランシスコ・スタイルのチョッパーがありますが、あれば現地に行かないとピンとこないでしょう。
この町をベタベタの車高では走れたものではないのです。
左: 弟、右が僕(当時 23才、今52才)
走る場所すべてが、映画で見たことありそう〜な感じです。
ただ、ここには住みたくない。
坂が多すぎて徒歩だと死ぬでしょう。
完全、車社会ですね。
ここが最も有名な坂の名所くねくね坂の「ロンバードストリート」
初めて車で来たらサンフランシスコは運転の恐怖ですよ。
そして、そこからゴールデンゲートブリッジへ
ちなみに、ここを通った経緯は当時、速弾きギタリストだと知らない人はいないシュラプネル・レコーズ (Shrapnel Records)にデモテープを持っていくためでした。
創始者はマイク・ヴァーニーでこの人がイングヴェイ・マルムスティーンやポール・ギルバート、トニー・マカパイン、リッチー・コッツェンとかを発掘しました。
僕は当時、ベーシストとしてマイク・ヴァーニーに認められたら成功すると思っていました(笑)
そして、インターネットもない時代なので、サンフランシスコのノバトというクソ田舎の町にあるシュラプネル・レコーズに押しかけてデモテープを渡せたらデビュー出来ると思っていました。まじで甘ちゃんだけどさ。
結果的には留守にされていて会えなかったけど、日本人なんて来ることが無い街の人からは、「おまからワザワザそれで来たのか?」とかびっくりされ、シュラプネル・レコーズの横にあったレコード店には日本にないくらいのシュラプネルのレコードが鎮座していて、感動しました。
結果的にはその後、当時はシュラプネル御用達の現在KoRnのドラマーであるレイ・ルジアーさん、現在アリス・クーパーバンドのグレンソーベルさんとか、シュラプネル縁のあるミュージシャンと仲良くなったわけなので、ツアー中にこのエピソードを話すと。
「ケースケ、お前バカか!! あそこに雇われてもレコーディングのギャラなんか1円もねーぜ!」
「あそこで良いならいくらでも紹介してやるよ!」みたいに笑われたものです。
インペリテリのドラマーだったグレンさんに「インペリテリとかシュラプネル系とかに紹介してよ〜」って頼んだら「ギャラ安いのになぜそんなにやりたい??」と不思議がられたことも(笑)
当時はシュラプネル・レコーズに入れたら大成功して、世界的に有名になって大金持ちだと思っていたのですよ。
今思えば、単なる速弾きギタリストレーベルでして、別にそんなジャンルで食えるわけは無いのですけど、当時は信じて疑っていなかったのですね。
若造の考え方だと思うけど、ただ、そういう無鉄砲さが発揮できて情報の少ない時代で良かったです。
今なら、ネットで調べてYou Tubeを送れば一瞬でコンタクト出来るし、そもそもレーベルに入る意味も無い。
自分の演奏を投稿してバズれば、まあまあ有名にはなれる。
ただね、僕たちは今ならそれだけのことを車で見知らぬ田舎へ夢を持って走った。
結果よりもプロセスが大切だと思うんだ。
僕はその無鉄砲さから人格形成をしたと思うし、そこで得た経験が自分の人間性の柱になっている。
インターネット社会は便利だ。
ただ、自分の目で見て、空気をすったという経験はインターネットでは出来ない。
52才の自分
今は別にそんなにアグレッシブな生活、冒険心のある生活はしていない。
ま〜この歳で冒険してベンチャーしまくるのも、色々とリスクがあるしね。
ただ、若い時に冒険したことは本当に良かった。
いや、長らくそういう気分は忘れていたけど、紙焼き写真をスキャンして簡単に思い出を辿れるようになると、自分という人間がどうやって、こうなったかを俯瞰で見られるようになる。
僕が面倒を見ている学生君たちに伝えたいのは、もっともっと世界を見てほしいということだ。
インターネットで見える世界では無く、異国の文化にふれること。
そして、夢を叶えるために行動をすること。
学校と家の往復でYouTubeに投稿する程度では駄目だ。
若い時には冒険をするべきだ。
留学で得た知識と技術も大切だったけど、それよりも車でアメリカを走り回ったことのほうが人生において大きな意味を持っていると思う。
そんなことを感じた昔の写真でした。
最近は昔のアナログ資料をスキャンしたり、デジタルで取り込むことが趣味のケースケです。
VHSテープを取り込んでいて、面白い動画を見つけました。
MR.BIGのビリー・シーンさんのベースクリニックの秘蔵映像です。
今回紹介するビデオではカットしていますが、リハーサルシーンでは僕がお世話している様子が映っていて懐かしいと思ったよ。
このクリニックは1998年に福岡のイムズホールで行ったと記憶しています。
このビリー・シーンのベースクリニックをなぜ行うことになったのかを記憶を頼りに書きたいと思います。
大前提として当時SNSとかフェイスブックなど無くて、外国人のトッププレイヤーとコンタクトをとるのは至難の業だった時代。
僕は当時、福岡スクールオブミュージック専門学校(当時はFCA)の職員の2年目だったと思う。
その当時の学生がビリー・シーンを呼んでくれと僕にリクエストしました。
経緯は忘れたけど「呼んでくれなかったら辞める」みたいなことを言ってきた。
そして、僕(僕たち)に対して「どうせ呼べるわけ無いだろ。この能力なしめ! 」くらいの勢いで文句を言われたように思う。
そして、僕の性格を知っている人はわかるだろうが、「おまえっ!!呼べたら土下座せーよ!!」とまでは言わなかっただろうが、それくらいの気持ちで「だったら呼んでやろうじゃねーか!!!」となったとおぼえている。
そこで、同僚のダグ・ロスさんというベーシストと相談しながらナイアシン(というサイドプロジェクト)のツアーで日本来ている時に福岡に立ち寄ってほしいとメールして聞いてよ〜とお願いしたのだ。
↓このライブのときの来日だねっ
当時は芸能人のメールを探すのも大変だし、そもそも見つかっても連絡がつくのかな〜???みたいな時代。
今ならフェイスブックでいつでも話しかけられるけどさ。
結果的にナイアシンのツアー終わりに東京から福岡へ移動して来てくれることになった。
簡単そうに書くけど、ギャラ交渉とか、予算作ったりとか会場費とか色々と知恵を絞ってやったんだ。
僕も28歳くらいだったからイベントのプロダクション経験値も低くて大変だった。
今の僕の知識だったら「ビリーさん、ここにあるベーアンでとりあえずやってくださ〜い。」
とお願いできるだろうが、当時は外タレというのは雲の上の存在、今よりも普通に会話してくれる存在ではないと思ったし、
アーティストもSNSなんてしていないから、一般人とは大きな壁みたいなものもあった。
ビリーからは「アンペグのSVT2台用意してっ」て言われて、結果的に1台は東京から飛行機で空輸したように記憶している。
ナイアシンのツアーで使ったヤツだっけかな?!すごいコストを掛けてさ。
それくらい、当時はビリー指定のアンペグSVT(アンプ)が無いとやってくれないって思い込んでいたんだ。
今だったら、前記したみたいに「この高いギャラなんで勘弁してこのベーアン一台でお願げーします〜。」って頼むだろう(笑)
とりあえず、すべてが大変だったという記憶があるが、前半戦は学生のバンド合戦の審査員をしてもらい、後半にベースクリニックをして、最後にトゥービー・ウィズ・ユーというビルボード1位になった彼たちの曲をゴスペル演奏でプレゼンとして終わるという内容を作った。
映像を見てわかると思うけど、アンペグSVT2台でこの音です。
ディストーションとか、そういうのを繋いでいないの。
記憶ではMXRの小さなコンプを使っていたような気がする。
当時、ビリーはレコーディングスタジオのようなラックコンプを使っている印象だったので、
「こんなんでい〜の???」と質問したり、ベースを触らせてもらったりさ。
めちゃくちゃ質問したのを覚えている。
でさ、話をぶっ飛ばして、ここですごいトラブルがあってさ。
事前にベーアンの音作りを入念にしていたのに、当時のアホな学生がベーアンのつまみをゼロに戻しやがった。
学生が使いまわししているベーアンだと、たしかにリハ後で戻す必要はあったかもしれないが、
まーそんなことはしなくてもいいという話だが、どこのバカが戻したかわからないが、つまみをリセットしやがった!!!!
ビリーが登場してプラグインした瞬間に鬼のような表情になったが、結果的にはパパパってつまみをイジってクリニックスタート。
結果的にはいつもの音がしていたわけだが、そこでプロというのを見た。
あっという間に音作りして、あの音がするのよ。
プロというのはテクニックも大切だけど、オリジナルのトーンを楽器とアンプだけで作れるという事。
プリアンプがどーたらこーたらとか、歪がどーこーとYou Tubeでぶつくさ言ーとるのが結構あるが
プロはアンプ直で問題ないんだよ。
話を戻して、実際に彼のベースを試奏した印象は↓
弦高が低すぎて弾けない〜でした。
弦高が低いと言われている自分がこの人のベースはマジで弾けないと思ったのです。
それくらいに弦高が低いのです。マジでビビりました。
※ちなみに国内でも借りたベースが弦高低すぎて弾けないと思ったのはトッププロのJXXOさんのベース。
あの弦高だと、所謂ジャコ・パストリアス的なミッドの効いたブリブリとした音が出ないのです。
僕は比較的、リアピックアップ使ったジャコっぽいトーン、またはゲイリー・ウィリスのような音のほうが好きなので、対極のセッティングやな〜って思った。
それ以降「西本さん弦高低いですねっ」と人に言われても「いや〜高いほうですよ」と答えるようにしています(笑)
とにかく、ビリー・シーンさんというと複雑なエフェクターとか機材を使っているイメージがあるけど、ぶっちゃけSVT一発であの音だせるんだよね〜。
生音の時点でフレットに当たる音で歪んでいるような音。
彼の生音はまさにディストーションサウンドだったんですよ。
ちなみにロサンゼルスで彼の手伝いをした時はフルセット(ピアースのプリアンプ時代)を使っていたけど、ビビるくらいにローの無い音だった。
ステージ上で彼と同じ位置で聞いたんだけど、驚くほどのディストーションの量でさ本当にびっくりした。
常に不必要なローは出さないと言っていたし、ミッドレンジの大切さを言われていたので、実感としてそう思った。
僕の経験として彼と何度が一緒に仕事出来たことで、彼とは違うアイデンティティを身に着けなければならないと思ったし、明確に彼と比較されないようなスタイルをどうすべきかがわかった。
話を戻して、このライブ後には一緒に飲み屋にいって大騒ぎをしたんだけどさ、彼が女好きなので、結構たいへんで、僕はファンというかリスペクトしていたこともあるので、飲めて嬉しいと思った反面。
面倒くさいのでビリーさんをほって逃げて帰って寝てーなと思った記憶もある(笑)
ビリーさんとはアメリカ留学時代にレッスンを受け、そしてこの時に帰国後に初めてお仕事を一緒にし、その後ロサンゼルスで彼のライブの手伝いとステージ上での撮影というのをやらせて頂いた。
そしてその数年後にはビリーさんと一緒に現在KORNという世界的なバンドのドラマーのレイルジアーさんのビデオに出演した。
ビリーシーンさんと自分の名前が一緒にクレジットされたときは嬉しかったことを覚えている。
今では相当な有名人でないとドキドキすることも無いし、海外のミュージシャンといっても、スーパートップレベルのセレブ以外は、僕たちが恐れおののくほど別世界の人ではないとわかっている。
だけど、当時というのは外タレ=神であり別世界の人だったからね。
良い時代。
逆に言うと、今ではそんな彼らもギャラを払えば、日本人のYouTubeネタでも、すぐベース弾いてくれそうな感じになってしまい、なんか寂しい〜時代やな〜と思う。
僕たちの80年代という時代は外タレは神であり、手が届かない存在だったのにさ.......
今の子達はそういう雲の上の存在的な憧れは少ないだろな〜。
高校生に「誰を目標にしていますか」って聞くと、たいていは知らない地元のアマチュアバンドだったりするしな。
夢を目指すのに自分には負荷を掛けない世代、ハングリー精神は培われにくくて可愛そうな時代とも思う。
ということで、大昔のビリー・シーンさんのベースクリニックのネタでした。
今日はこの辺で!!!



















