ロックベーシスト 西本圭介 -2ページ目

ロックベーシスト 西本圭介

テクニカルベーシストとしてベース・マガジンでも紹介 / ディープ・パープルのグレン・ヒューズ達と共にヨーロッパ11カ国を周り、また巨匠ビリー・シーンと共にKoRnのドラマー[レイ・ルジアー]のリズム隊として登場。

妻・聖子(きよこ)が亡くなってから、私は彼女が残したバイクやワーゲンバス、仕事道具などを少しずつ整理している。

残す物もあれば、使ってくれる人へ有償で引き継ぐ物もある。

状態によっては廃棄せざるを得ない物もある。

ただ、それだけの話である。
 

ところがSNSでは、私が書いていない物語が次々と生まれた。


「故人の大切なバイクをタダで人にあげようとしている」

「妻の遺品を売って金にしようとする金の亡者だ」


タダで譲れば薄情者。
お金を受け取れば金の亡者。

 

どう転んでも私を悪者にできる、実によくできた仕組みである。


image

第1章 存在しない「無償譲渡」に怒る人

最初の事件は、「無償でバイクやワーゲンを譲るつもりだ」と勝手に解釈した人が現れたことだった。

しかし、私はどこにも「無料で差し上げます」とは書いていない。
しっかりと金額を書いている。
 

車両は相応の対価をいただいた上で売却する予定であり、投稿を普通に読めば分かる内容だった。

それでも、その人物は「故人の大切な物を人に譲るなんてあり得ない」と長文で私を非難した。
 

ところが、文章の後半ではこう主張する。

「譲るくらいなら、自分で売却して、そのお金を供養や家族のために使うべきだ」

少し待ってほしい。
 

私は最初から有償で売却すると書いている。

この人が勧めていることと、私が実際に進めていることは、ほぼ同じである。
それなのに、なぜ私は叱られているのだろう。


おそらく、元の投稿を最後まで読む前に、頭の中で次の物語が完成したのだ。

「亡き妻の遺品を無料で手放そうとする冷酷な夫」
 

一度この配役が決まれば、元の文章に何が書かれているかは関係ない。
存在しない無償譲渡を作り出し、それを根拠に私を断罪する。
 

自分で書いた架空の物語に、自分で腹を立てているだけである。
 

image

第2章 売れば「金の亡者」、残さなければ「愛情がない」

別の方向からは、「妻の遺品を売ってお金にするなんて、金の亡者だ」という声も飛んできた。

では、どうすれば正解なのだろう。

 

すべての車両を永久に保管し、税金、保険、整備費、修理費、保管場所を一人で負担し続ければ、立派な夫として認定していただけるのだろうか。

 

申し訳ないが、私の家は博物館ではない。

 

私はもともと、物に強く執着する性格ではない。

一つ買ったら一つ手放す。大切な物でも写真に残し、役目を終えたら整理する。

 

遺品を手放すときに涙が出ることはある。

それでも、涙が出ることと、すべてを永久保存することは別の話だ。

 

愛情の深さを、所有する遺品の数や保管部屋の広さで証明するつもりはない。

 

聖子が所有していたバイクやワーゲンも、必要に応じて有償で売却する。

 

事故に遭ったバイクについては、安全に修理できるなら私が乗りたいと思っている。

廃車と判断されれば、残念だが処分する。

廃車状態でも欲しい人がいれば、条件を確認して売却を検討する。

 

それでも「すべて残せ」と言うのであれば、ぜひ全車両を買い取り、維持管理して「聖子記念館」を運営していただきたい。

費用も責任も負担しない人ほど、他人には永久保存を命じたがる。

SNSとは、なかなか不思議な場所である。

そして金の亡者と言われれば、そうかも知れない。
なぜなら妻が亡くなって、私は東京の仕事を休職して無給である。
生きていくにはお金がいります。
聖子の思い出だけでは生きていけません。

ときに聖子との共有財産を売って生活費に当てることもあるでしょう。

そもそも、バイクは聖子の所有だったとはいえ、私の給料と聖子の稼ぎで夫婦として共に生活して財産を共有していたわけだ。
聖子の遺品であり、私の所有物でもある。
すでに名義変更も済ませた私の所有物を私がどうしようと外野が首を突っ込むとこでは無い。

正直、私の家庭の中のことに首を突っ込んでくるのは気持ち悪いです。

アンチのあなたは隣の家の買うもの、売るものにも首突っ込むのですか?

 

image

第3章 遺品の話から、なぜか事故責任へ

無償譲渡という誤読を指摘された人物は、今度は遺品の話から事故当日の話へ移った。

 

「なぜ深夜にバイクで帰ることを止めなかったのか」

「夫にも聖子さんの死亡について責任がある」

 

驚くべき論理の飛躍である。

 

車両を有償で売却することと、事故当日の移動手段に何の関係があるのだろう。

 

私自身、事故後に何度も考えた。

「あの日、新幹線で行ってもらえばよかった」

「私が切符を買って渡していれば」

 

もしタイムマシンがあるなら、私は迷わずそうする。

 

しかし、現実の人間は映画の登場人物ではない。

未来の事故を知った上で、過去の選択肢を選び直すことはできない。

 

結果を知った後なら、「あのとき、こうすべきだった」と誰にでも言える。

遺族本人がすでに何百回、何千回と考えたことを、事情を知らない第三者が改めて突き付ける。

 

それは助言ではない。

ただ、傷口の場所を確認してから指を突っ込んでいるだけである。

 

しかも確認したところ、同じ人物は約10週間前にも、私が聖子をバイクで出掛けさせたことを責めるコメントを残していた。

 

今回たまたま言葉を誤ったのではない。

以前から同じ筋書きを持ち、新しい投稿が出るたびに「夫にも責任がある」という結論へ結び付けていたことになる。

 

単発の失言ではなく、攻撃の連続性が見えてきた。
その論理の飛躍の仕方が気持ち悪いです。
妻の死亡が私の責任だと思うなら、ぜひ弁護士を建てて私を訴えてください。
それくらいの覚悟がない言葉はたんなる便所の書き込みです。
 

ちなみに関連する投稿は、URLや日時を含めて保存している。

 

image

第4章 「静かにしろ」と叫ぶ長文正義マン

騒ぎは、私のページの外にも広がった。

別の方の投稿では、ある人物が「バカは相手にせず、静かにすればよい」と長文で説教していた。

 

ここまでなら、一つの意見として理解できる。

 

ところが、その人物は「静かにしろ」と言いながら、公開の場で遺族の行動、バイク仲間の人間関係、追悼する人々の動機まで論評し、最後には「広島県民の仲間意識」「全体主義」と県民性にまで話を広げていた。

 

静かにしろと主張するために、誰よりも長い文章で騒ぎへ参加する。

 

見えないところで支えることが本当の優しさだと説きながら、公の場で遺族と周囲の人々を採点する。

これもまた、SNSならではの高度なブラックユーモアなのだろう。

 

正論らしい言葉をまとっていても、他人の家庭、交友関係、地域性にまで踏み込めば、それは助言ではなくなる。

距離感を失った正義は、ときに露骨な悪意よりも粘着質である。

 

image

第5章 事実より先に「悪役」が決まる

今回の一連のコメントには、共通点がある。

まずこういうタイプの人達は文章を最後まで読まない。

 

次に、「西本は薄情な夫だ」「金の亡者だ」という結論を先に決める。

 

そして、その結論に合うように、書かれていない事情を頭の中で補う。

最後に、自分で作った物語を事実だと思い込み、私を非難する。

先に判決を出し、後から証拠を創作する。

 

本人は正義を行使しているつもりなのかもしれない。

しかし、実際に攻撃しているのは私が書いた文章ではない。

その人の脳内で完成した「悪い西本」である。

 

私は、批判的な意見をすべて誹謗中傷だと言うつもりはない。

異なる価値観を持つことも自由だ。

 

しかし、存在しない事実を作り、故人の意思を勝手に代弁し、最後には事故の責任まで遺族に負わせることは、意見の範囲を超えている。

 

第6章 コメントは消えても、証拠は残る

今後、次のようなコメントには個別に反論しない。

 

・事実を確認せず、存在しない前提で非難するもの
・聖子の気持ちを勝手に代弁するもの
・事故や死亡の責任を私へ結び付けるもの
・人格攻撃や執拗な嫌がらせ
・正論を装いながら、家庭や人間関係へ粘着的に介入するもの

 

該当するコメントは、URL、日時、プロフィール情報を含めて証拠として保存する。

その後、削除または非表示にし、投稿者をブロックする。

 

悪質または継続的な投稿については、弁護士へ相談し、発信者情報開示請求や損害賠償請求を含む法的対応を検討する。

 

投稿ボタンは無料で押せる。

しかし、押した後の結果まで無料とは限らない。

 

書き込む前に一度深呼吸し、できれば一晩置いて読み返してほしい。

それは本当に故人や遺族のためになる言葉なのか。

それとも、自分の不満を処理するために、他人のページへ捨てる便所の落書きなのか。

 

私は悲しんでいる。しかし、壊れてはいない

一部の人は、私が聖子の遺影を抱き、酒瓶と空き缶に囲まれた部屋で、毎日うなだれている姿を期待しているのかもしれない。

 

 

残念ながら、私はその「模範的な廃人」を演じる予定はない。

 

私は悲しんでいる。

それでも食事をし、眠り、家を片付け、必要な物を残し、不要になった物を整理する。

そして、聖子との思い出を抱えながら、自分の生活を前へ進める。

悲しみながら生きることと、人生を止めることは同じではない。

 

妻を愛していた証明のために、自分まで壊れる必要もない。

 

嫌なら、見なければいい

これからも応援は歓迎する。

 

一方で、誤読と想像で作られた物語に付き合うつもりはない。

私の人生を書くのは、見知らぬ正義マンではない。

 

私自身である。

 

今週と来週、テレビで西本家のドキュメンタリーが放送される。

放送後には、また一部の人が騒ぎ出すのだろう。

 

「あいつ、また目立ちやがって」

「悲しんでいるはずなのに、なぜテレビに出るんだ」

 

そんな声が聞こえてきそうである。

 

そこで、最後に一つだけ伝えておきたい。

 

私が嫌いなら、見なければいい。

 

テレビを消し、SNSを閉じればよい。

わざわざ私の投稿を探し、最後まで読み、腹を立て、長文の説教を書き残す必要はない。

 

私は、頼んでもいない人生講座や夫婦論、遺品整理の講評を募集していない。

 

聖子を知る皆さんは、それぞれの思い出を、それぞれの言葉で自由に投稿してほしい。

 

そこへ出向き、「その悲しみ方は間違っている」「その追悼は自己満足だ」と水を差すことに、何の意味があるのだろう。

 

時間を使い、誰かを傷つけ、周囲から「面倒な人」「距離感がおかしい人」「粘着質な人」と思われる。

それで得られるものは、ほとんどない。

少なくとも、一円の得にもならない。

 

それどころか、投稿の内容が権利侵害に当たれば、発信者情報開示や損害賠償請求などの法的手続きに対応することになる可能性がある。

 

投稿ボタンを押す前に、一度深呼吸してほしい。

その一文を書くために使う時間と、その言葉が自分へ返ってくる可能性を天秤にかけてみてほしい。

 

本当に、割に合う行為だろうか。

嫌いな相手を見ない自由は、誰にでもある。

どうか、その自由を上手に使ってほしい。

今回、FacebookにワーゲンバスとHONDA CD125Tの売却について投稿しました。
 

すると、相互フォローでもない、面識もない、まったく知らない方が突然コメント欄に現れ、私のことを「金の亡者」という趣旨の書き込みをしていきました。

 

たまにこういうことがあります。

私はこれが本当に理解できません。

普段からお互いにフォローしていて、毎日のように投稿が流れてくる関係なら、考え方が合わずに何か言いたくなることも、まあ理解できなくはありません。

 

しかし今回は、ただの通りすがりです。

たまたま私の投稿を見かけた。

内容が気に入らなかった。

 

それなら、そのまま画面を閉じればいいだけの話です。

もっと言えば、私の投稿が今後も表示されるのが嫌なら、私をブロックすれば二度と見る必要もありません。

それなのに、わざわざ他人の投稿欄へ入ってきて、相手を侮辱する言葉を書き残していく。

現実の世界で考えてみれば、かなり不思議な行動です。

知らない人たちが集まって話をしているところへ突然入っていって、

「俺はお前のやっていることが気に入らない」

と言って立ち去るようなものです。

私はそんなことをしません。

気に入らない場所なら、その場から離れます。

 

 

今回、おそらく気に入らなかったのは、私が聖子のバイクやワーゲンバスを売却していることなのでしょう。

故人の物を売ることについては、いろいろな考え方があって当然だと思っています。

 

「自分ならずっと残しておく」という方もいるでしょう。

それはそれでいいと思います。

 

ただ、それを私に要求されても困ります。

バイクは置いておけば永久に保存できる物ではありません。

ガソリンは劣化します。

バッテリーも上がります。

タイヤも硬化します。

キャブレターも詰まります。

 

エンジンも定期的に動かしてやらなければ状態を維持できません。

聖子は何台ものバイクをきちんと走らせながら維持していました。

私もその手伝いをしていました。

 

しかし、それを今後すべて私一人で続けていくことは現実的ではありません。

私はバイクは走ってこその物だと思っています。

 

ガレージの奥で何十年も眠らせて朽ちさせるより、気に入ってくれた人が乗ってくれる方がいい。

そう考えて売却しています。

 

もちろん、売れば代金をいただきます。

当たり前です。

 

「金の亡者」と言われないためには、全部無料で配ればいいのでしょうか。

でも無料にしたら今度は希望者が殺到するでしょう。

「あの人にはあげたのに、なぜ自分にはくれないのか」

そんな別の争いが始まるかもしれません。

 

だから私は相場を調べ、それなりの価格をつけています。

その価格でも欲しいと思ってくださる方と、きちんと話をして譲りたい。

それだけのことです。

 

もし「聖子さんの物は一つ残らず永久保存するべきだ」と本気で思われるのであれば、少々乱暴な言い方になりますが、

それなら全部あなたが買い取って、ご自身で博物館でも作って保存してください。

 

維持費も税金も保管場所も整備費も、すべて引き受けてくださるのであれば話は別です。

外から「残しておけ」と言うだけなら簡単です。

 

 

実際に管理している人間には、現実があります。

私は現在、仕事も休職しています。

生活もしていかなければなりません。

 

さらに今回、聖子の遺品整理を経験したことで、自分自身の所有物についても考えるようになりました。

 

もし数年後に私が突然死んだらどうなるのか。

子どもたちが、

「このバイク何?」

「この車はいくらするの?」

「名義変更はどうするの?」

「この楽器は売れるの?」

と、一つずつ調べることになります。

 

私はそれをさせたくありません。

 

だから今回の整理は、聖子の遺品整理であると同時に、私自身の終活でもあります。

必要な物は残す。

大切な物も残す。

しかし、管理できない物は次の人へ渡す。

それでいいと思っています。

そして今回改めて決めました。

 

今後、私や家族、故人、あるいは私の投稿を見てくださっている方に対して、誹謗中傷や侮辱的な書き込みをする方については、問答無用で削除・ブロックします。

 

反論合戦もしません。

説得もしません。

議論もしません。

 

私の考え方が嫌いなら、それで構いません。

 

ただ、嫌いな人間の投稿をわざわざ追いかけて、自分から不快になりに来る必要はないでしょう。

 

ミュートしてください。

フォローを外してください。

ブロックしてください。

 

そして、お互い関わらずに生きましょう。

 

SNSにはそのための便利なボタンがちゃんと付いています。

私は現実の世界でも、SNSでも、気持ちよく付き合える人たちと過ごしたいと思っています。

 

今回の件も、「世の中にはいろいろな人がいる」ということを再確認する機会になりました。

 

それ以上でも、それ以下でもありません。

 

そして最後に。

聖子の物を手放すことを、一番辛く感じているのは、少なくとも通りすがりの誰かではありません。

 

私です。

 

そこだけは、外から簡単に決めつけないでいただきたいと思っています。

先日から取材していただいていた、RCCテレビの夕方ワイド番組『イマナマ!』。


毎週金曜日の6時台に放送されている人気コーナー、**「広島超大家族」**で取り上げていただくことになっています。


そして本日の「広島超大家族」の放送を見ていたところ、ついに次回放送の宣伝が流れました。
 

どうやら放送日は、

2026年9月4日(金)
2026年9月11日(金)

2回になるそうです。


予告編動画↓

https://www.facebook.com/share/v/19HV94PPGm/


取材を受けているときはカメラの前で普通に話していたつもりなのですが、いざ「テレビで放送される」となると、やっぱり恥ずかしいものですね。
 

なので、

「皆さん、めちゃくちゃ見てください!」

……と大々的に宣伝するのは、少々躊躇します(笑)
 

ただ、せっかく時間をかけて取材していただき、どんな番組になったのかは私自身も楽しみにしています。


実は私も、どんな編集になっているのかまだ知りません。


何をしゃべっていたのか。
どこまで使われているのか。

そして、どんなふうに映っているのか。

考え始めるとなかなか怖いものがあります(笑)

楽しみ半分、怖さ半分。

そんな気持ちで放送日を待っています。
 

もしお時間がありましたら、9月4日と11日の金曜日、RCCテレビ『イマナマ!』の**「広島超大家族」**をご覧いただければと思います。

※最初にお断りしておきます

今回の記事は、万人に向けて書いたものではありません。

妻・聖子(きよこ)を亡くしてから私自身が実際に感じたこと、SNSでの言葉や善意、遺族との距離感について、かなり率直に書いています。

 

読む方によっては「そこまで言わなくても」「考え方が違う」と感じたり、気分を害されたりする内容もあると思います。

 

それで構いません。人それぞれ考え方は違います。
 

ただ、読んで不快になりそうだと感じる方は、今回はここで閉じていただくことをおすすめします。
 

誰かに考え方を押しつけるための記事ではありません。
 

あくまで、遺族になった私がこの二か月で感じたことを、自分自身と家族の記録として残しておくために書くものです。

それでも読んでみようと思われる方だけ、この先へお進みください。

image
 

さて、妻・聖子(きよこ)が亡くなってから、たくさんの方から温かい言葉をいただきました。


聖子を偲んでくださる方、私や子供たちを気遣ってくださる方。

そのお気持ちには、遺族として本当に感謝しています。


一方で、自分が遺族になって初めて気づいたこともあります。

それは、善意であっても、距離感を間違えると受け取る側には負担になることがある、ということです。


悪気がないのは分かっている。
親切で言ってくださっていることも分かっている。


それでも、

「そこまでは入ってこないでほしいな」

と思うことがあります。
 

今日はそんな「遺族との距離感」について書いてみます。

 

image

「百か日法要は終わりましたか?」と聞かれて

「百か日法要(卒哭忌)も終わりましたか?」

というコメントをいただきました。
 

これには少し戸惑いました。


聖子が亡くなったのは2026年6月15日。

百か日は9月22日(火)です。


つまり、まだ一か月以上先の話です。


なので最初に思ったのは、

「この方は、そもそも聖子が亡くなった日を知らない通りすがりの一見さんかな?」ということでした。
 

そこまで法要のことを気にしてくださる一方で、日付は合っていない。

逆に少し不安になりました。


もちろん悪意はなく、遺族に対して気遣ってくださったのだと思います。
それは感謝いたします。
 

ただ、そもそも四十九日をするのか、百か日をするのか、一周忌をどうするのか。

何をやって、何をやらないのか。

それは私たち家族が決めることです。

 

仮に私が、「百か日法要はやりません」とその方へ答えたとします。

すると相手は、

「せっかく故人のためを思って言ったのに」

と感じるかもしれません。

 

あるいは、

「西本家はそんなこともしないのか」

と思うフォロワーもいるかもしれない。
 

そうなると今度はこちらが、返事をするべきか。
しないほうがいいのか。

どう返せば角が立たないのか。

と考えることになります。
 

何気なく書かれた一言でも、受け取った側には新しい判断が一つ増えるのです。

そもそも、わが家の法要について他人から実施の有無は確認はされたくありません。


法要をするから故人を大切にしている。

しないから大切にしていない。

 

そんな単純なものではないと思っているからです。

image

法要のために、家族が生活しているわけではない

親族・親戚はどう思うかわかりませんが、私は、ことさら熱心な仏教徒ではありません。(スマン)

もちろん宗教自体を否定しているわけでもありません。
 

誰かのお葬式に参列すれば、その家の宗派や習わしを尊重して手を合わせます。

それと同じように、聖子の葬儀、四十九日、初盆、納骨も、これまでのわが家の習わしを尊重して行いました。
正直なところ、 通夜と葬儀、初七日も四十九日も意味は分かっていません(汗)
そこまで勉強する余裕も時間も私にはありませんでした。
周りの意見を聞きながら、わからなかったらチャッピーに聞いてなんとか切り抜けている状態なのです。
 

聖子自身は毎月、お寺さんに月参りに来ていただき、熱心に手を合わせていました。
どこまでの信仰心だったのかは私にはわかりません。


だからといって、法要を一回やらなかったら聖子が地獄に堕ちる、なんて私は思っていません。


子供たちにも、それぞれ仕事と生活があります。

法要のたびに仕事を休み、遠方から広島へ集まらなかったからといって、聖子が怒るとも思いません。


たぶん聖子なら、「仕事があるなら無理せずに仕事しんさい」と言うでしょう。
 

法要のために家族の生活があるのではなく、家族の生活の中に法要がある。

私はそのくらいでいいと思っています。

またこれからの未来はどんどんとそのように変化していくのだと思います。

 

image

先回りした「おせっかい」も、今は少ししんどい

もう一つ、お願いしたいことがあります。

何かを投稿すると、


「次はこれをしたほうがいいですよ」

「○○の手続きは済みましたか?」

「これも調べておいたほうがいいですよ」
 

と、こちらが尋ねていないことまで先回りしてアドバイスをいただくことがあります。
 

親切心なのは分かっていますm(_ _)m
 

でも今の私にとって、それが必ずしも「ありがたい情報」になるとは限りません。


むしろ、「ああ、またやることが一つ増えた」と心が重くなることがあります。
 

聖子が亡くなってから、相続、保険、税金、年金、銀行、証券、車、事業の片付け、名義変更……。
 

一つ終わったと思えば、また次が出てきます。


そんな毎日の中で、頼んでもいない「これもやったほうがいいですよ」が届くと、それが本当に必要なのかを調べることから、また私のタスクになります。
 

だから必要なことは、こちらから聞きます。

困ったときは相談します。


そのときは、ぜひ力を貸してください。
お願いいたしますm(_ _)m


それまでは、少し放っておいてください(笑)

今の私には、そのくらいの距離感がちょうどいいです。

 

image

「世界で一番、聖子を支えていましたね」

もう一つ、今でも忘れられないSNS上のコメントがあります。

ある方が聖子を偲ぶ投稿をしてくださいました。

それ自体はありがたいことでした。


ところが、その投稿に別の方が、

「あなたが世界で一番、聖子さんを支えていましたね」

という趣旨のコメントを書かれていました。
 

それを見たとき、私は固まりました。

世界で一番?????


聖子には夫である私がいて、子供たちがいます。


もちろん聖子は、たくさんの友人、取引業者の方、仕事仲間、地域の方に支えてもらいました。
他力本願な店長として様々な方に頼り切って、ご迷惑も掛けていたことでしょう。

そのことには家族としてたいへん感謝しています。
 

でも、

なぜ他人が「誰が世界で一番支えたのか」を決めるのでしょう。


しかも、遺族も見ることのできる場所で。

コメントされた方も、「私のほうが支えてもらった側です」

というような返事をされていました。
 

おそらく、お二人とも悪気はなかったのでしょう。

でも、そのやり取りを眺めながら私は、


「あれ? 私たち家族はどこへ行った?」


と思いました。
 

聖子を偲んでくださることはありがたい。
 

でも、外野同士で「あなたが一番支えた」「いや、私のほうが支えられた」と慰め合っている光景を、遺族が見たらどう感じるのか。
 

そこまで少し想像してもらえたら、と思います。


もし私が逆の立場なら、亡くなった方の家族も見る場所で、第三者に向かって、

「あなたこそ世界で一番、あの人を支えていましたね」とは、とても書けません。

ご主人や奥さん、子供たちがそれを読んだらどう感じるだろう。

そう考えるからです。
私ならば書く前に想像力をフル回転して深呼吸し、必要ならば1日考えてから書くでしょう。

image

SNSを公開しているからといって、何を言われてもいいわけではない

私は聖子について、かなり多くのことをSNS、Facebookやブログに書いています。

だから、

「そこまで書くなら、あなたは世間からいろいろ言われても仕方ないのでは?」

と思う人もいるかもしれません。
 

でも私は、公開していることと、意見やアドバイスを募集していることは別だと思っています。


私が自分から法要について書くことと、他人から「次の法要は?」「今日は49日だよね?」と確認されることも別です。
 

故人を偲ぶことと、その家族の中へ踏み込むことも別です。


SNSに何かを書くときに必要なのは、難しいマナーではなく、


「これを家族が読んだらどう感じるだろう?」

という、ほんの少しの想像力だと思います。

image

遠回しに批判するくらいなら、私に直接言ってほしい

善意とは別に、辛辣な投稿についても思うところがあります。

時折、名指しこそしていないものの、「これは私のことを言っているのかな」

と思うような投稿を目にすることがあります。
 

仮に私のことではなかったとしても、誰かの遺族に向けた辛辣な言葉なら、同じ立場の人間が読んでも気分のいいものではありません。
 

悲しみ方なんて人それぞれです。
 

泣く人もいる。
仕事をする人もいる。
旅行する人もいる。
SNSに書く人もいる。
何も語らない人もいる。
 

どれが正しい悲しみ方なのか。


私は、そんな答えはないと思っています。


私の考え方や立ち振る舞いが気に入らない人もいるでしょう。


私がいろいろ発信することが気に入らない。

新聞に出たり、テレビに出たり、人前に出たりすることが気に入らない。

私が目立つこと自体が気に入らない人もいるかもしれません。

それは他人の自由です。
 

でも、本当に私に言いたいことがあるなら、遠回しに投稿するのではなく、私のスレッドに実名で投稿しなさい。
 

「西本、お前のここが気に入らない」
そのほうがよほど分かりやすい。

そうすれば広く他の方との賛同を得られるか、もしくは何らかの前向きな議論にも発展するでしょう。

間接的にそれとない書き方をして、何が嬉しいのでしょうか。
対岸から僕が来れないことをわかって石を投げている卑怯者です。


そして、私そのものが気に入らないのであれば、私の投稿を見なければいい。
ブロックすればええやん。

それで済む話です。
私はそいつはブロックしましたがねwww

 

image

SNSに書いた言葉やいいね、は自分の人柄も見せている

辛辣な投稿に「いいね」が付いているのを見ると、それも少し不思議に感じます。
心の中で何を思うかは自由です。

人を好きになるのも、嫌いになるのも自由です。


でもSNSに書いた瞬間、それは心の中の言葉ではなくなります。

「いいね」も他人から見えます。
 

遺族を傷つけるような投稿をして、一体誰が得をするのでしょう。

一円の得にもならない。

 

むしろ、それを見た人から、

「この人は、大切な人を亡くした人にこういう粗暴な言葉を言う人なんだ」

と悪い印象を思われるだけかもしれません。
 

SNSで誰かについて書いた言葉は、書いた本人の人柄をよく見せています。

これは私自身も気をつけなければいけないと思っています。

そしてそういう他人を誹謗中傷するコメントに安易にいいねをつける人たち。
私はそのいいねの人たちもインプットして、絶対この世で関わらないでおこうリストに入れます。

本当にいいねと思うならば、何がいいねなのかその人のスレッドで書けばいいやん。
でも最後に確認したときも数名がいいねをつけただけの淋しい投稿でした。

聖子もあの世から、すべて見ていて、自分が生前関わった人なのに何で....と悲しんでいることでしょう。

 

image

それでも私が、ほぼ毎日のように投稿する理由

ここまで書くと、

「だったら自分からSNSやFacebookにいろいろ書かなければいいじゃないか」

と思う方もいるでしょう。

 

それも分かります。

私自身、ほぼ毎日のように投稿しておきながら、

「そこには踏み込まないでほしい」

「頼んでいないアドバイスはいらない」

と書いているわけです。
わがまま君です。
 

コメントする側からすれば、少々面倒くさいヤツかもしれません(笑)
 

でも、私が書き続けているのには理由があります。
 

今この瞬間に、友人やフォロワーに読んでもらうためだけに書いているわけではありません。

これは、西本家の記録でもあります。

2026年6月15日に何が起きたのか。

聖子がどんな人だったのか。

その後、家族に何が起きたのか。

子供たちはどうしていたのか。
 

私が何を考え、何に悩み、どうやって一つずつ片付けていったのか。

楽しかったことも、腹が立ったことも、どうでもいい日常も含めて残しておきたい。
 

いつか子供たちに家族ができて、私に孫ができるかもしれません。

その孫や、その先の親族が何十年か後にこの記録を見返して、

「聖子ばあちゃんって、こんな人だったんだ」

「2026年に、こんなことがあったんだ」

「そのとき西本家はこうして生きていたんだ」

と、家族の歴史を辿ることができたらいい。
 

それが、私が書き続けている大きな理由の一つです。

だから、

投稿することと、意見を募集することは別です。


私が本当に困って、

「誰か教えてください」

と書いたときには、ぜひ皆さんの知恵を貸してください。

 

そうでないときは、

「西本、今日もなんか書いとるな」

くらいで読んでもらえれば十分です。

また文句があるなら実名で私のスレッドに堂々と書き込みしなさい。

 

image

遺族になって初めて分かったこと

私もこれまで、たくさんのお葬式に参列してきました。
 

でも、自分が遺族になって初めて分かったことがたくさんあります。


「あの言葉って、こう聞こえるんだ」

「親切心でも、相手はしんどいことがあるんだ」

世の中によくある例で病気や事故で治療に専念している人へ「頑張ってね」というコメントはすべきではない場合があります。
頑張っている人へ「頑張ってね」という応援は逆に患者には苦しく・辛く感じるということなのです。

これは今の僕も同じです。

僕は妻が亡くなった喪失感と毎日、全力で頑張って戦っています。
誰かに言われるまでもなく、これから一人で生きていくために頑張っています。

なので、頑張ってという応援はあまり心には響きません。
言われるまでも無く“超絶に”頑張ってますよという事なのです。
 

ただ、私自身も、知らず知らずのうちに過去に誰かに同じことをしていたかもしれません。
死ぬ気で頑張っている人に頑張れとメッセージをしたことも何度もあるでしょう。
 

だから、悪気なく書かれた一言まで責めたいわけではありません。

今回は誰かを責め立てるつもり、謝ってほしいつもりで書いたのではありません。
これを機会に誰かに何か気づきがあれば、良いと思ったからです。
 

故人について何か書くとき。

遺族に何かを尋ねるとき。

何かを教えてあげようと思ったとき。


一瞬だけ、

「これは今、この人が本当に欲しい言葉かな?」

と考えてもらえたらありがたいです。


必要なことはこちらから聞きます。

助けてほしいときには、助けてほしいと言います。
 

法要についても、家族で決めます。
 

聖子のことは、これからも時々思い出してやってください。

それで十分です。


そして今は、

「西本家のことは、西本家に任せとこう」

くらいの距離で見てもらえると助かります。


今の私には、それが一番ありがたいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

image

今週、聖子の四十九日法要と初盆、そして納骨式を迎えます。

 

image

2026年6月15日の事故から、この一か月半。
悲しむ時間がなかったわけではないけれど、目の前には、止めることのできない現実が次々と現れました。
 

相続、解約、名義変更、事業の整理。


聖子が残してくれたもの、聖子の名前で動いていたものを、一つひとつ確認し、手続きを進め、終わらせていく。


東京の音楽学校の仕事は休職していました。

この先のことを考えても、すぐに以前と同じように東京で働くことは、簡単ではないと感じています。

 

その理由として今日も宅急便が来ました。
「あれっ俺何も注文しとらんがの〜」と思って受け取ったら、加害者の勤めていた会社からの生花の贈り物でした。
初盆だから気を使っていただいたのでしょう。
それについては大変感謝しています。
同時にもしも僕が2週間、東京に戻っていたら、この生花はどうなったんかの〜と心配になりました。

僕が受け取らないせいで箱の中で生花を枯らしてしまったかもしれません。

先日も回覧板が地域で回ってきました。
これも僕が2週間留守にしていたら、僕で止まるんだよね....と思ったのです。

こういうときに「あ〜東京には戻れないよな〜。自宅を守るということは簡単ではないな...」と感じるのです。

聖子に任せきりだった地域の活動(町内清掃や草むしり等)にも僕は参画しなくてはならないので、それは徐々に近隣の方のサポートを得ながら参加したいと思っている。

 

image

 

東京での仕事が困難な理由は前記のことや相続のことだけではありません。
 

事故に関する刑事・民事の事もこれから続きます。
刑事は結構長引くそうで2年くらいを覚悟してと言われています。

また3丁目のたこボールの事業をどう整理していくか。
ワーゲンバスを誰にどうやって販売するのかなど...

image

ガレージにあるたくさんあるバイクをどのように残し、手放していくのか。
バイクは腐らないので、廃車にして持っておけば良いという話もあります。


ただ古いバイクは走らせないと、とたんに調子が悪くなります。
聖子は小まめに走らせて維持していたのですが、僕がその立場になると意外と大変です。


毎日、バイクを交代して走らせるのですが、昨日もヤマハYB125がキックで掛からないので、坂道を使って押しがけしてなんとか走れました。
こんな感じのバイクが多いので、1台なら集中してメンテナンスもできますけど、8台ありますからね。
少し気を抜いて忘れていると調子悪くなるという感じで、流石に今の僕には気が重たい。

頻繁にバッテリーを買っている気がするけど、それも流石に財布に痛いよね。

image

バイクがガレージにあって今とても困るということではないのだけど。

今あるのから2台を選抜して1台を普段の足バイクとして徹底的にメンテする。
もう一台をコレクション号として将来価値が出ることを期待してナンバー外して所有する、それくらいでいいんだよな。

そんな感じでやるべきことと、考えることは、まだまだ山のようにあります。


そして、お盆が終われば、自宅前の献花台も一区切りにします。
飾っている写真なども外して普通の窓に戻そうと思っている。


image

3丁目のたこボールの店頭だった場所を、これからはもう一度、西本家の家として、そして僕が一人で暮らしていくための自宅とした見た目に整えていかなければなりません。
 

もちろん、これまでもここは家でした。
ただ、店だった頃の名残は、家の内外にたくさん残っています。

それを無理に消したいわけではありません。

image

 

聖子の息遣いや、聖子が積み重ねてきた時間まで消してしまいたいわけでは、決してありません。

ただ、これから僕がここで生きていくために、少しずつ形を変えていく必要があります。
 

人生の「シーズン2」が始まるのかもしれない。
いや、これまでだって、何度も生活は変わってきました。
だからシーズン3か、4か、5かもしれません。

 



それでも今は、自分にとって無理のない形で、この家をもう一度、自分が気負いなく生活して使えるようにしていく時期なのだと思っています。

誰の目も気にすることなく、家の前の駐車場にビーチチェアでも置いて、音楽でも聞きながら日光浴でもしたい。

涼しくなったら外でバイクをいじって一人だけの時間を堪能したい。
庭の花をいじって家の周りに彩りを加えたい。
ときには駐車場でバーベキューでも仲間内でやりたい。

 

昔は子どもたちが3人いて、5人で暮らしていた頃の部屋。
子どもたちが巣立ったあと、いつの間にか3タコの資材倉庫のようになっていた部屋。
 

 

たこ焼き屋の材料・資材・二台の冷凍ストッカー、使い切れなかった備品や道具。

 

物が山積みだった場所も、少しずつ片付いてきました。もう一息で空にできそう。

まだまだ冬場に店頭でお客様が使うためのブランケット(ひざ掛け)、クッションなどが山積みで保管されています。
それはどうするかな....と悩みつつ(どこかに寄付かの....)、腐らないので、まあうちの中の別の倉庫へ仕舞うかと考えたり....

巨大なクリスマスツリーや備品、ハロウィン用の飾り物達は今年はどうしよう......。
店でも無い家の駐車場に期間中は飾っておくかの〜。
能天気なアメリカ人の家みたいになりそうじゃの〜。
 

そんな事を考えつつ、何もなくなりつつある部屋を見ていると、寂しさもあります。
 

でも同時に、ここを僕の書斎兼・配信部屋・ベースレッスンの部屋にできるかもしれない、と想像する自分もいます。

ベースを教えている時は、不思議と少しだけ、本来の自分に戻れる気がします。

また配信部屋を作って、オンラインのレッスンに対応しても良いし、事故の遺族として何か発信できることもあるのでは無いかと思うこともあります。

 

image

 

ガレージも、これから少しずつ仕様を変えていこうと思っています。
入口を改装したら車も入れられるスペースがあるからね。

ガレージに入れるような車は持っていないけど、逆説的にガレージが無いと持てない車というのもあるからさ。

車が入れられるガレージを作ることで、新しい趣味ができるかもね....と夢想もしてみる。
 

只今、聖子のバイクは、事故で大きく傷ついた状態で警察で検査中です。

 

image


まだ警察から戻ってきていないので、今は状態は何も判断できません。
 

僕が警察で見たときは後方から衝突されているので、後ろが大破していたからフレームは駄目かもしれないね。
フレームが逝ってたら、フレーム修正するような価値のバイクではないので全損でしょう。

もしもフレームとエンジンが生きているなら、バイク屋で大まかに走る・止まるができるように直してもらった上で外装は保険金使って自分でカスタムするかもしれない。

現在は僕自身が2年前に大事故でバイクを手放したこともあって、自分用のバイクを持っていないので、聖子のボルティを引き継ぐことになるかもしれません。あくまでも可能性がある程度。

そのためのガレージに長期間使って修理するための専用スペースをつくるのもありかと思っている。
今すぐ直さないと困るということでも無いので、何か長期的に集中することが僕自身にあることは精神的な支えになるような気もしている。
直すのをYouTubeで配信しても良いかなと思う。
これはカスタムの配信というよりも安全運転の啓蒙のための入口と思っている。

それを機会にバイク用リフトテーブルでも買おうかいの...
僕自身はメカニックの素養は無いけど、バイクのカスタムをやりたいとは以前から思っていたので、それのチャンスかもしれん。
 

image

 

ただ夢想しているだけで、まだ、何も決まっていません。
バイクカスタムよりも先にやることが山積みだからさ。

 

でも、片付けながら、そして残すものを選びながら、部屋の使い方を考えながら、僕は少しずつ次の暮らしをつくろうとしています。

聖子がいない現実は、これからも変わりません。

 

image

 

そうそう、来週には心療内科に通う事になっているのだ。
警察のカウンセラーからもサポート頂き、心の健康を取り戻そうと思っている。
一見元気そうに見えている僕も不眠だったり、感情の起伏が以前より激しくなったり、着信音に動悸がしたり、仕事に集中力がなくなったりと以前と同じ自分かと言われると、やはり心は疲れ果てていいると自覚しています。

 

image

 

56歳の今、これからの余生をどうやって生きていくのかという本質的なことに目が向くようになりました。

これまでやっていた仕事をどうするのかではなく。
聖子がいたときを思い出して過去にすがるのかではなくて。

聖子がいなくなって独り身になった自分としてどういう人生を残り過ごしたいのかということを考えるようになった。

聖子が残してくれたメッセージとして彼女は本当に全力で毎日を生きていたと思う。
お客様の笑顔のために、また被災地ボランティア活動や献血活動、寄付活動など、人から恨まれることなく全力で生きていたことを僕も学ばせてもらって、僕自身も全力で自分の人生を後悔のないように生きていこうと思っている。
 

image
 

この家で生きていく。

聖子が残してくれたものを大切にしながら、自分自身もちゃんと生きていく。
 

その準備を、今、少しずつ始めています。

 

image