妻・聖子(きよこ)が亡くなってから、私は彼女が残したバイクやワーゲンバス、仕事道具などを少しずつ整理している。
残す物もあれば、使ってくれる人へ有償で引き継ぐ物もある。
状態によっては廃棄せざるを得ない物もある。
ただ、それだけの話である。
ところがSNSでは、私が書いていない物語が次々と生まれた。
「故人の大切なバイクをタダで人にあげようとしている」
「妻の遺品を売って金にしようとする金の亡者だ」
タダで譲れば薄情者。
お金を受け取れば金の亡者。
どう転んでも私を悪者にできる、実によくできた仕組みである。
第1章 存在しない「無償譲渡」に怒る人
最初の事件は、「無償でバイクやワーゲンを譲るつもりだ」と勝手に解釈した人が現れたことだった。
しかし、私はどこにも「無料で差し上げます」とは書いていない。
しっかりと金額を書いている。
車両は相応の対価をいただいた上で売却する予定であり、投稿を普通に読めば分かる内容だった。
それでも、その人物は「故人の大切な物を人に譲るなんてあり得ない」と長文で私を非難した。
ところが、文章の後半ではこう主張する。
「譲るくらいなら、自分で売却して、そのお金を供養や家族のために使うべきだ」
少し待ってほしい。
私は最初から有償で売却すると書いている。
この人が勧めていることと、私が実際に進めていることは、ほぼ同じである。
それなのに、なぜ私は叱られているのだろう。
おそらく、元の投稿を最後まで読む前に、頭の中で次の物語が完成したのだ。
「亡き妻の遺品を無料で手放そうとする冷酷な夫」
一度この配役が決まれば、元の文章に何が書かれているかは関係ない。
存在しない無償譲渡を作り出し、それを根拠に私を断罪する。
自分で書いた架空の物語に、自分で腹を立てているだけである。
第2章 売れば「金の亡者」、残さなければ「愛情がない」
別の方向からは、「妻の遺品を売ってお金にするなんて、金の亡者だ」という声も飛んできた。
では、どうすれば正解なのだろう。
すべての車両を永久に保管し、税金、保険、整備費、修理費、保管場所を一人で負担し続ければ、立派な夫として認定していただけるのだろうか。
申し訳ないが、私の家は博物館ではない。
私はもともと、物に強く執着する性格ではない。
一つ買ったら一つ手放す。大切な物でも写真に残し、役目を終えたら整理する。
遺品を手放すときに涙が出ることはある。
それでも、涙が出ることと、すべてを永久保存することは別の話だ。
愛情の深さを、所有する遺品の数や保管部屋の広さで証明するつもりはない。
聖子が所有していたバイクやワーゲンも、必要に応じて有償で売却する。
事故に遭ったバイクについては、安全に修理できるなら私が乗りたいと思っている。
廃車と判断されれば、残念だが処分する。
廃車状態でも欲しい人がいれば、条件を確認して売却を検討する。
それでも「すべて残せ」と言うのであれば、ぜひ全車両を買い取り、維持管理して「聖子記念館」を運営していただきたい。
費用も責任も負担しない人ほど、他人には永久保存を命じたがる。
SNSとは、なかなか不思議な場所である。
そして金の亡者と言われれば、そうかも知れない。
なぜなら妻が亡くなって、私は東京の仕事を休職して無給である。
生きていくにはお金がいります。
聖子の思い出だけでは生きていけません。
ときに聖子との共有財産を売って生活費に当てることもあるでしょう。
そもそも、バイクは聖子の所有だったとはいえ、私の給料と聖子の稼ぎで夫婦として共に生活して財産を共有していたわけだ。
聖子の遺品であり、私の所有物でもある。
すでに名義変更も済ませた私の所有物を私がどうしようと外野が首を突っ込むとこでは無い。
正直、私の家庭の中のことに首を突っ込んでくるのは気持ち悪いです。
アンチのあなたは隣の家の買うもの、売るものにも首突っ込むのですか?
第3章 遺品の話から、なぜか事故責任へ
無償譲渡という誤読を指摘された人物は、今度は遺品の話から事故当日の話へ移った。
「なぜ深夜にバイクで帰ることを止めなかったのか」
「夫にも聖子さんの死亡について責任がある」
驚くべき論理の飛躍である。
車両を有償で売却することと、事故当日の移動手段に何の関係があるのだろう。
私自身、事故後に何度も考えた。
「あの日、新幹線で行ってもらえばよかった」
「私が切符を買って渡していれば」
もしタイムマシンがあるなら、私は迷わずそうする。
しかし、現実の人間は映画の登場人物ではない。
未来の事故を知った上で、過去の選択肢を選び直すことはできない。
結果を知った後なら、「あのとき、こうすべきだった」と誰にでも言える。
遺族本人がすでに何百回、何千回と考えたことを、事情を知らない第三者が改めて突き付ける。
それは助言ではない。
ただ、傷口の場所を確認してから指を突っ込んでいるだけである。
しかも確認したところ、同じ人物は約10週間前にも、私が聖子をバイクで出掛けさせたことを責めるコメントを残していた。
今回たまたま言葉を誤ったのではない。
以前から同じ筋書きを持ち、新しい投稿が出るたびに「夫にも責任がある」という結論へ結び付けていたことになる。
単発の失言ではなく、攻撃の連続性が見えてきた。
その論理の飛躍の仕方が気持ち悪いです。
妻の死亡が私の責任だと思うなら、ぜひ弁護士を建てて私を訴えてください。
それくらいの覚悟がない言葉はたんなる便所の書き込みです。
ちなみに関連する投稿は、URLや日時を含めて保存している。
第4章 「静かにしろ」と叫ぶ長文正義マン
騒ぎは、私のページの外にも広がった。
別の方の投稿では、ある人物が「バカは相手にせず、静かにすればよい」と長文で説教していた。
ここまでなら、一つの意見として理解できる。
ところが、その人物は「静かにしろ」と言いながら、公開の場で遺族の行動、バイク仲間の人間関係、追悼する人々の動機まで論評し、最後には「広島県民の仲間意識」「全体主義」と県民性にまで話を広げていた。
静かにしろと主張するために、誰よりも長い文章で騒ぎへ参加する。
見えないところで支えることが本当の優しさだと説きながら、公の場で遺族と周囲の人々を採点する。
これもまた、SNSならではの高度なブラックユーモアなのだろう。
正論らしい言葉をまとっていても、他人の家庭、交友関係、地域性にまで踏み込めば、それは助言ではなくなる。
距離感を失った正義は、ときに露骨な悪意よりも粘着質である。
第5章 事実より先に「悪役」が決まる
今回の一連のコメントには、共通点がある。
まずこういうタイプの人達は文章を最後まで読まない。
次に、「西本は薄情な夫だ」「金の亡者だ」という結論を先に決める。
そして、その結論に合うように、書かれていない事情を頭の中で補う。
最後に、自分で作った物語を事実だと思い込み、私を非難する。
先に判決を出し、後から証拠を創作する。
本人は正義を行使しているつもりなのかもしれない。
しかし、実際に攻撃しているのは私が書いた文章ではない。
その人の脳内で完成した「悪い西本」である。
私は、批判的な意見をすべて誹謗中傷だと言うつもりはない。
異なる価値観を持つことも自由だ。
しかし、存在しない事実を作り、故人の意思を勝手に代弁し、最後には事故の責任まで遺族に負わせることは、意見の範囲を超えている。
第6章 コメントは消えても、証拠は残る
今後、次のようなコメントには個別に反論しない。
・事実を確認せず、存在しない前提で非難するもの
・聖子の気持ちを勝手に代弁するもの
・事故や死亡の責任を私へ結び付けるもの
・人格攻撃や執拗な嫌がらせ
・正論を装いながら、家庭や人間関係へ粘着的に介入するもの
該当するコメントは、URL、日時、プロフィール情報を含めて証拠として保存する。
その後、削除または非表示にし、投稿者をブロックする。
悪質または継続的な投稿については、弁護士へ相談し、発信者情報開示請求や損害賠償請求を含む法的対応を検討する。
投稿ボタンは無料で押せる。
しかし、押した後の結果まで無料とは限らない。
書き込む前に一度深呼吸し、できれば一晩置いて読み返してほしい。
それは本当に故人や遺族のためになる言葉なのか。
それとも、自分の不満を処理するために、他人のページへ捨てる便所の落書きなのか。
私は悲しんでいる。しかし、壊れてはいない
一部の人は、私が聖子の遺影を抱き、酒瓶と空き缶に囲まれた部屋で、毎日うなだれている姿を期待しているのかもしれない。
残念ながら、私はその「模範的な廃人」を演じる予定はない。
私は悲しんでいる。
それでも食事をし、眠り、家を片付け、必要な物を残し、不要になった物を整理する。
そして、聖子との思い出を抱えながら、自分の生活を前へ進める。
悲しみながら生きることと、人生を止めることは同じではない。
妻を愛していた証明のために、自分まで壊れる必要もない。
嫌なら、見なければいい
これからも応援は歓迎する。
一方で、誤読と想像で作られた物語に付き合うつもりはない。
私の人生を書くのは、見知らぬ正義マンではない。
私自身である。
今週と来週、テレビで西本家のドキュメンタリーが放送される。
放送後には、また一部の人が騒ぎ出すのだろう。
「あいつ、また目立ちやがって」
「悲しんでいるはずなのに、なぜテレビに出るんだ」
そんな声が聞こえてきそうである。
そこで、最後に一つだけ伝えておきたい。
私が嫌いなら、見なければいい。
テレビを消し、SNSを閉じればよい。
わざわざ私の投稿を探し、最後まで読み、腹を立て、長文の説教を書き残す必要はない。
私は、頼んでもいない人生講座や夫婦論、遺品整理の講評を募集していない。
聖子を知る皆さんは、それぞれの思い出を、それぞれの言葉で自由に投稿してほしい。
そこへ出向き、「その悲しみ方は間違っている」「その追悼は自己満足だ」と水を差すことに、何の意味があるのだろう。
時間を使い、誰かを傷つけ、周囲から「面倒な人」「距離感がおかしい人」「粘着質な人」と思われる。
それで得られるものは、ほとんどない。
少なくとも、一円の得にもならない。
それどころか、投稿の内容が権利侵害に当たれば、発信者情報開示や損害賠償請求などの法的手続きに対応することになる可能性がある。
投稿ボタンを押す前に、一度深呼吸してほしい。
その一文を書くために使う時間と、その言葉が自分へ返ってくる可能性を天秤にかけてみてほしい。
本当に、割に合う行為だろうか。
嫌いな相手を見ない自由は、誰にでもある。
どうか、その自由を上手に使ってほしい。







