ロックベーシスト 西本圭介 -3ページ目

ロックベーシスト 西本圭介

テクニカルベーシストとしてベース・マガジンでも紹介 / ディープ・パープルのグレン・ヒューズ達と共にヨーロッパ11カ国を周り、また巨匠ビリー・シーンと共にKoRnのドラマー[レイ・ルジアー]のリズム隊として登場。

昨日で、妻・聖子が亡くなって初七日を迎えました。
 

正直なところ、「初七日」という言葉も、今回の出来事がなければ深く意識することはなかったと思います。

 

先週の今頃、17時40分頃には、家族や親族とともに葬儀場で亡くなった聖子と対面していました。

それからまだ一週間しか経っていないのかと思う一方で、ずいぶん遠い昔のことのようにも感じています。
 

この一週間は、葬儀後の支払い関係や行政手続き、家の中の整理、パソコンやiPhoneの確認など、次から次へとやるべきことに追われる日々でした。

週末は献花に来てくださる方々への対応や、お預かりしたお花の整理に多くの時間を費やし、本当にたくさんの方々に支えていただきました。



 

SNSでは食事に出かけた様子なども載せているので、「少し元気になったのかな」と思われるかもしれません。

 

しかし実際には、朝から晩まで何かをしているうちに一日が終わり、疲れ果てて眠る毎日です。

 

これまで当たり前だと思っていた家事ひとつをとっても、聖子がいない現実を思い知らされます。

 

洗濯機の使い方に戸惑い、掃除に手間取り、昨夜は残り物で焼きそばを作ってみたものの、野菜の切り方すらよく分からず、見事に失敗しました(涙)

 

「聖子がいないと本当に何もできないな」と苦笑いするしかありませんでした。

 

そんな慌ただしい日々の中ですが、一週間が過ぎた今、少しだけ立ち止まって聖子のことを書いてみようと思います。

 

献花に来てくださった方々から、聖子との思い出をたくさん聞かせていただきました。

ここ数年は私が名古屋・神戸を経て東京で単身赴任をしていたこともあり、お客様や友人の皆さんのほうが、今の聖子について多くのエピソードを持っているような気がします。

 

葬儀や献花台に足を運んでくださった方々の数を見ても、私が知らなかった「店長としての聖子」「多くの人に愛されていた聖子」の存在を改めて知ることになりました。

 

けれど、その一方で、私だけが知っている聖子もいます。

 

まだ「3丁目のたこボール」の店長になるずっと前のこと。

誰も知らないわけではないけれど、少なくとも今のお客様たちが知らない時代の聖子です。

 

今日は、そんな頃の話を少し思い出してみたいと思います。

 

彼女と結婚した頃、私たちは福岡にいました。
福岡に私が卒業した大阪スクールオブミュージックの姉妹校を新規オープンするための立ち上げ要員でした。

 



大阪のバンド界隈で出会った聖子。

毎日バイト先にバイク(中型チョッパー)で乗り付けて裏口で待ち構えてプレゼント渡す攻撃をしていました。
当時は僕のことはそんなに好きなタイプというか人柄ではなかったみたいです。

僕には不似合いなくらいに素敵な女性ですから。
聖子に出会ったときに衝撃が走って「絶対結婚するならこの人だと」思いました。
絶対にこの人と結婚したい、絶対にするという運命を感じました。
 

今ならストーカーで訴えられているかもしれませんが、全力で自分をプレゼンして口説きました。
結果的に僕が仕事で福岡に転居するときに一緒に来てくれた。本当に感謝。
 

僕は26才、聖子は22才くらいかな。
写真はおそらく結婚した頃では無いかと思います。

聖子に年末に突然、「年末調整で税金が返ってくるから、籍を入れないともったいない」みたいな説得をされて結婚しました。
もちろん、そんな申し出でなくても僕からプロポーズする予定ではありましたがね...

 

福岡で第一子の長男 昌良(あきら)が誕生しました。
僕は当時はブラックという言葉がない時代で本当に一日14時間働き、月に2日休むとラッキーみたいな働き方をしていました。
だから結婚式をせずに籍だけを入れて、もちろん新婚旅行も無しでした。

そんな僕を不憫に思った当時の学生達が翌年に進級卒業制作展で結婚式を作ってくれました。



ウェディングプランナーコースの学生が僕たちを題材に結婚式を作り、ゴスペルの子達が歌ってくれたり、手作りで素敵な式でした。
本当に感謝いたします。

 

聖子がいたおかげで福岡での学校の仕事に打ち込めました。
そんなときに僕はケリーサイモンさんのという超絶ギタリストとの活動に気持ちを込めていました。

 


写真は福岡当時、僕がポール・ギルバート(MR BIG)のギタリストのソロコンサートをディレクションしたことがあって、その時の楽屋です。ドラマーはレーサー Xのボーカル、ジェフマーティンです。
ジェフはバイク好きなので今でもたまにバイク談義をSNSでする仲です。

福岡でも充実して仕事をしていましたが、今後は福岡ではなく、広島を拠点にして音楽活動を世界的にしたいと思っていました。
そこで聖子に福岡の学校をやめて広島に帰ってゼロから仕事を探すと告白しました。

聖子は「お父さんがやりたいことだったら応援するからやりなさい」、「収入が一時的にゼロになったとしてもお父さんならなんとかなる。」
そういう風に励ましてくれました。




福岡では第二子の将来(まさき)も誕生しました。

結果的に広島に拠点を移しました。
上司のサポートもあり福岡の姉妹校の名古屋の学校立ち上げに関わってほしいということで再雇用されて音楽活動と平行してようということで単身赴任の人生がスタートしました。

 



広島で拠点をすえてからは名古屋での単身赴任生活がスタートしました。
その頃から子育てについては言い方は悪いですが、丸投げ状態であったと思います。

結果的には僕の変な子育て論が介入せず聖子がしっかりしたおかげで子供たちが真っすぐに成長したのだと思います。



広島に帰って来てから長女の陽子(ようこ)も誕生しました。

聖子は本当に素敵な人です。

 

 

常に笑顔で子供たちにもエンターテイメントあふれる事をしてくれていました。

 



お誕生日などには盛大にイベントを作ってくれました。

子供たちの玩具も木工大工をして手作りで作りました。

その後の3丁目のたこボールで発揮されたイベント魂や遊びを全力でするという人を笑顔にする人柄は子育てのときからも発揮されていました。



まだこの当時の聖子はバイクには乗っていません。
彼女に車の免許を福岡で取らせて僕たちの初めての自家用車はトヨタ トレノでした。
そのトレノも色々なところにブツケて本当にボコボコにして、謝りながら屋外でDIYしてパテ埋めしていた彼女を懐かしく思い出します。

バイクも原付を渡しましたが、乗ろうとせずに自転車で坂の下のスーパーへ汗をかきながら降りていました。



写真と時系列はズレていますが、聖子が38才のころに突然バイクの免許を取りに行くと言い出しました。
子供たちが大きくなれば、僕に感化されてバイクを乗り出すだろうと、そうしたら自分がアドバイスとかできなくなる、そう思ったらしいです。

中免から取りに行きました。
おそらく中免も何度かすべってやっと合格だったと記憶しています。

落ちた日は大泣きして帰って来ていたのを思い出します。

そして不屈の精神で大型免許まで取りに行きました。
大型免許はそれこそ2~3回落ちたと思います。
そのたびに中央自動車学校のコースが見える土手のところに座って悔しそうに泣きながら、次を目指していた事を思い出します。

結果的に大型免許まで取得しハーレーにも乗れるようになりました。




私は元ハーレーディーラー勤めなので色々なハーレーに乗りましたが、このダイナは奥さんと共同所有した一台です。
ここで学校勤めじゃなかったっけ??となりますが、
名古屋の系列の音楽学校も6年で退職しました。

理由は大好きなハーレーに一度は関わる仕事がしたかったからです。
ハーレーへの転職は退職後に決まったことで、その時も収入ゼロになる覚悟で相談したが、「お父さんのやりたいよーにやりんちゃい」と背中を押してくれました。



3タコ常連さんもあまり知らないかもですが、ダイナを乗って走っていた時代もあります。



あんだけスクーターも乗りたがらなかった人がとてもアクティブになりましたね。
僕自身は聖子はおしとやかで、おとなしいという印象だったのですが、バイクに乗り出した頃から、元来持っていたイベント魂とか、人を笑顔にする、楽しむときは馬鹿になって楽しむというキャラが作られたように思います。


当時はクラブハーレーやガレージの特集本によく取材されていましたね。



後年には全くすることがなかったバイクのタンデムも当時は良くしていました。
バイカーミーティングに行ったりも良くしたな。



そんな奥さんがたこ焼きのケータリングカーをしたいと言い出しました。
というか、たこ焼きのケータリングカーは最終的に家族会議で決まったので、当初は店舗にしようとか、たこ焼きというのも最終的にそうなったという感じです。

もともとはアルバイトへ出ていました。
坂の下のスーパービックでパン屋さんのバイトをしてました。

しかし、子供たちが全員小学校になると、各自で下校してくる、その時にちゃんと「おかえりなさい」と声を掛けて対応したい、所謂鍵っ子にしたくないということで、家族会議をした結果、自宅で商売をするしかないという結論になり、子供たちも設計図を書いたりロゴデザインをしたり、ある時は街中のたこ焼きを買いまくって全員で試食して、ライバル調査をするということもやりました。

3丁目のたこボールは本当に子供たちとの協力によってできた店なのです。


https://ameblo.jp/poppy2010/theme5-10020351962.html

このリンク先に開業前からの時系列で聖子のブログが出てきます。
どの用に開業したかがよくわかります。
今後開業をしたいと思っている人にも参考になります。



開業当時は本当に閑古鳥が鳴くという表現がぴったりなくらいに静かな宮園で小鳥のさえずりが響くくらいに暇でした。

僕と聖子は二人で店頭に座り込んで町内ポスティングするかの〜という相談をしていました。
実際にそれをしたようにも記憶しています。

2010年頃は、現在のようにInstagram・TikTok中心ではなく、mixi、Twitter、Facebook(初期)、ブログが主役だった時代です。
スマートフォンは普及し始めたばかりで、多くの人はまだガラケーを使っていました。

そんな時代でしたが、僕は当時ハーレーディーラーのバルコムの本部でネットマーケティング部を立ち上げた頃だったので、それを活かしてSNSマーティングをしようと提案しました。

しかし聖子もまだSNS過渡期でしたから、疑心暗鬼だし、今ほど写真を投稿したりがスマートでない時代です。
ブログを書くのも億劫になったり、書きながら疲れて寝たりしていたのを思い出します。
それを根気よく、やるべきだということを伝えて、投稿しているうちにブログにファンがついたり、SNS経由でバイク乗りが集まるようになりました。

当時はバイク中古車も雑誌を見て調べる時代だったので、MJバイクという中古車情報誌がうちの店を取り上げてから、盛り上がったように思います。

そんな当時に僕はバイクと車関係の仕事バルコムを退職することにしました。
その時も「お父さんがやりたいことならやりんちゃい」と背中を押してくれました。
聖子は一貫して僕がやりたいという選択を否定することなく、「お父さんならできる」と言ってくれる人でした。

結果的にライブハウス オクトパスを開店し数年は経営と運営をしました。
ライブハウスの当初は本当に貧乏で僕も財布には数百円で飯を食うのも躊躇する生活でした。

なけなしの10万くらいを包んで「今月はこんだけじゃスマン」と平謝りしたときも常に前向きなアドバイスをくれていました。

当時「あげまん」って言葉がありましたが、聖子こそが「あげまん」の辞書に出てくるような人だと思いました。



3タコを始めた頃は聖子はバイクには全く詳しくありませんでしたが、後年は僕よりも車種の判別ができていました。
すごい努力をしてバイクを覚えていたのでしょう。


お客様とバイクとの関連などの記憶も凄いし、ツーリングルートやオススメの名店などは僕は「聖子、明日ツーリング行きたいけど、オススメの店とルート教えて」と聞くと、詳しくアドバイスをしてくれていました。
兵庫から広島くらいはマップみずに普通にバイクで下道で帰るような人でした。


写真は世界的なニューメタルバンドKORNのドラマー レイ・ルジアーがうちの家に泊まりに来たときです。
世界的なミュージシャンと秋吉台の観光に行ったりととても楽しんだ思い出があります。

3丁目のたこボールはその後、5年10年と歴史を重ねていき、開業16周年になりました。

聖子は本来ならば盛大に周年祭をしたかったと思います。
コロナ禍で大きなイベントをすることが自粛ムードになってしまったので、近年はやることがなかなか難しいと思うようになっていたのでしょう。

またお客様もどんどん増えていたこともあり、当初は観音の空港様やマリーナホップ様、宮島ビューマリーナ宮島様などで開催しましたが、今ならばどの規模でやったのだろうと考えることがあります。

彼女は無鉄砲なので、本当に自分がどれほどきついことになるかを想像せずに楽しいことを実行してしまう人です。

 

僕は彼女が企画したものを見て、パワーポイントで具体的に何が起きそうとか、どうやって告知するのかということを一緒に考えていました。

ある時はエクストリームバイクのタイヤ跡が借りた場所についてしまって、それを後日お詫びと消す作業に行ったりと、とても女性一人でなんとかなるような代物では無いことを臆せずやる人でした。

それも聖子を常にサポートしてくれていた人達、仲間のおかげだと思います。

 

聖子はバイク事故で去りましたが、彼女からみんなへの安全運転で楽しもーねというメッセージだと思っています。

僕は今回のことで、ことさらバイクを乗ることが危険な行為だという風には思わないし、バイクは楽しい乗り物だと聖子も今でも思っていると思います。

聖子は事故の前日に長女の陽子のフットサルの試合を応援しに兵庫県までバイクで行きました。
その帰路の事故だったわけですが、最後に娘を応援できてよかったねと声を掛けました。

 

聖子がいなくなって淋しいです。

 

もっと話したかった、相談に乗ってもらいたかった。
老後に二人で何かやるのか話したかった。

次男と一緒に事業を起こすこと、出資したいみたいなことを言っていたので、聖子がどんな新しいチャレンジをするか見たかった。

 

 

もう一回人生があるならまた聖子に出会って、一からストーリーをやり直して、子供たちともう一回今と同じストーリーを歩み、事故で終わる結末で無い未来を見てみたい。


その時は僕から先に自分の葬儀のことをリストにして渡して迷惑を掛けないようにして上げたい。

僕よりもせめて長生きしてエンジョイする人生を歩んでほしい。

もしも、そんなことができるならばそうしてあげたいと思っています。

とても悲しいことですが、僕も前を向かなければなりません。
聖子は家族がモチベーションを落としている姿は見たくないでしょう。

 

今回の死が僕に与えたメッセージは子供たちと僕は絶対に仲違いせずに楽しく生きていく。
聖子の死を言い訳にして後ろ向きな生き方はしない。
むしろ全力で楽しく生きていく。



僕は次の世界のことはわからないし、あの世とか極楽とかよーわからん。
でも、僕が死んだときにもう一度、聖子とあえて、今回のことを話ししたい。

なんでiPhoneのパスワード残してくれんかったん?
家の中で大切なものをまとめておいてほしかったよ。
そして僕のこれからの人生を語って上げる。

その時にまたいつもの笑顔で「お父さん、ホンマっ物覚え悪くなったね」と叱ってください。

僕はこれからも毎日必死に生きていきます。


聖子出会ってくれて本当にありがとう。

読んでくれた皆様、少しだけでも聖子に想いを寄せて、記憶を風化させないことが聖子が一番喜ぶことだと思います。
 

令和8年6月15日午前4時25分頃、妻であり「3丁目のたこボール」オーナー店長の西本聖子(きよこ)が、広島市西区の西広島バイパスにおいて普通乗用車に追突される交通事故に遭い、救急搬送先の病院にて死亡が確認されました。

6月16日に通夜を、6月17日に葬儀・告別式を執り行い、いずれも滞りなく終了いたしましたこと、また献花台の設置などについては昨日まではSNSやホームページを通して投稿いたしました。

 

 



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ここ数日はどうしても業務報告的な内容を発信する必要があり、私のFacebook、妻のFacebook、店舗のSNSともに現在は私が運用しているため、私個人の気持ちについては触れず、事実を淡々とお伝えしてきました。

 

長文になるかもしれませんが、今の思いを書き綴ることで、自分自身の気持ちを整理したいと思います。

昨日、ようやく聖子の遺骨とともに子どもたち3人と自宅へ戻りました。

久しぶりに家族全員が揃って帰宅した形になりました。

通夜の夜も、子どもたち3人と棺の中の聖子のそばで眠りました。

布団は2組しかなく、みんなで川の字になって寝ました。

子どもたちが小さかった頃、聖子と私で子どもたちを挟んで川の字になって寝ていたことを思い出しました。

 


さて

6月14日(日)、私は東京で勤務している音楽学校の文化祭のようなイベントに参加していました。

一日中動き回り、かなり疲れて東京のアパートへ戻りました。

その日は早めに就寝しました。

そして6月15日(月)深夜午前2時40分。

携帯電話の激しいバイブレーションで目が覚めました。

画面を見ると広島県廿日市市の市外局番からの着信でした。

夜中に市外局番から電話がかかってくることなど、良い知らせであるはずがありません。

心臓が激しく鳴るのを感じながら電話を取りました。

ある救急病院からでした。

その時点では、聖子が事故に遭ったという報告でした。

「今すぐ来られますか」
「すぐに来られる親族はいますか」

そう聞かれました。

私は2年前にバイクの自損事故で救急搬送された経験があります。

そのため、この時は「大怪我をしたのだろう」と考えていました。

その後、一度電話が切られました。

私は動転しながら、どうやって広島へ帰るのが最も早いのかを調べ始めました。

レンタカーで帰れるのではないか、など現実的ではないことまで考えていました。

冷静になって調べると、

午前4時47分発の井の頭線に乗れば、新幹線を利用して午前9時39分に広島へ到着できることが分かりました。


午前3時1分、再び電話がありました。

医師から、心肺停止後30分以上が経過していること、一度は心臓が動いたものの、回復できる保証はないことなどを説明されました。

そして看護師さんから、

「奥さまには聞こえていると思います。最後に声をかけてあげてください」

と言われました。

私は電話越しに、

「愛している」
「ありがとう」

と伝えました。

返事はありませんでした。

再び電話は切れました。

午前3時17分にも電話がありました。

状況はさらに厳しいこと、私の母は来られるかという確認などでした。

しかし高齢の母が深夜に動くのは現実的ではありません。

私は「私が午前10時半頃には病院へ行きます」と伝えました。

その後、荷造りを始めました。

そして家を出る直前の午前4時26分。

病院から電話がありました。

正式に心肺停止したとの連絡でした。

私は、その言葉の意味を理解できませんでした。

急いで帰れば何かできるのではないかと、本気で思っていました。


そこからの移動は地獄のようでした。

電車も新幹線も、まったく前へ進まないように感じました。

涙で前が見えませんでした。

 

午前6時15分。

意を決して家族LINEで子どもたちへ連絡しました。

北海道、神奈川、高知にいる子どもたちが動揺し、事故に遭わないかが心配でした。

医師を目指している長女は、すぐに兄たちへ電話をかけてくれました。

その後、娘と電話で話しました。

新幹線のデッキで、二人とも泣きながら話しました。

私の母とも連絡を取り、子どもたちと合流方法を相談しました。

その後、警察から連絡が入りました。

救急病院から、広島県警察本部 高速道路交通警察隊へ移送されているため、病院には行かないでほしいとのことでした。


広島へ到着後、一度自宅へ戻りました。

急ぐべきなのに、もう1分2分早く着いたところで事態は変わらないという思いもありました。

猫たちのトイレを掃除し、餌を与えました。

そして場所を確認し、広島IC近くにある広島県警察本部 高速道路交通警察隊へ向かいました。

到着してまず事故車両を確認しました。

後方から追突された事故であると説明を受けました。

私はその瞬間まで、自損事故だと思っていました。

事故の状況について説明を受け、少なくとも私が想像していたものとは違うことを知りました。

その後、各種手続きがありました。

こういう時にも事務的な手続きがあるのだなと思いました。

そして遺体と対面できると言われました。

案内された安置場所で聖子と対面しました。

顔には出血の痕があり、両手には包帯が巻かれていました。

私は顔以外を見る勇気がありませんでした。

その時に初めて、本当に亡くなったのだと実感しました。


その後は親族や子どもたちとの合流、葬儀の準備に追われました。

午後2時40分には私個人のFacebookで訃報を発信しました。

不謹慎と思われるかもしれませんが、3丁目のたこボールの休業をお知らせしなければならないという思いがありました。

店舗のSNSにも転載しました。

その後、ご遺体を葬儀場へ移送することとなり、広栄社株式会社 葵会館様にお願いしました。

午後5時40分頃、子どもたちや親族が集まりました。

しかし現実は泣いてばかりいられる状況ではありませんでした。

通夜の準備、葬儀の準備、席数、香典返し、祭壇、お花、料理など、本当に多くのことを決めなければなりませんでした。

音楽の仕事では考えられないほどのスピードで、翌日の式を準備していく必要がありました。


そんな中、聖子のiPadが開けることに気づきました。

Facebookにもアクセスできました。

そして午後9時50分、聖子本人のアカウントから通夜の案内を発信することができました。

それはとても大きな安心でした。

また、当初は聖子の親族と連絡が取れず苦労しました。

仕事用の携帯電話から連絡先を見つけることができ、ようやく連絡がついた時には本当にほっとしました。


通夜当日も慌ただしく過ぎました。

私は喪服も革靴も東京に置いたままでした。

長男も仕事先から直接来たため喪服がありませんでした。

急いで買いに行くなど、本当に慌ただしい一日でした。

 

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通夜では涙が止まりませんでした。

聖子への思いももちろんですが、多くの方々が集まってくださり、どれほど愛されていたのかを実感したからです。

結果として300名を超える方々にご来場いただきました。

立ち見になってしまった方、駐車場に入れず帰られた方もおられたと聞いています。

本当に申し訳なく思っています。

葬儀場の方からも、一般の方でここまで多くの来場者は珍しいと伺いました。

香典返しが不足し、後日配送になった方にもご迷惑をおかけしました。


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その夜は家族で聖子のそばに集まり、再び川の字になって眠りました。

 

翌17日の葬儀・告別式も無事に終わり、火葬場へ向かいました。

多くのご友人にもお見送りいただき、お骨も拾っていただきました。

聖子も喜んでいると思います。


帰宅後、一つ気がかりなことがありました。

事故現場へ献花に行きたいという方がいることを知ったからです。

しかし現場はバイパス道路です。

飲食物や花が飛散すれば新たな事故につながる可能性があります。

また、私たち家族が回収に行くこともできません。

そこで子どもたちと話し合い、自宅前に献花台を設置することにしました。

 

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準備を始めると、ちょうど聖子を偲んで来てくださっていた友人たちがいました。

せっかくなので一緒に作ってほしいとお願いし、献花台が完成しました。

すでに多くの方が手を合わせてくださっています。

地域の子どもたちが寄せ書きをしてくれているのも見ました。

本当にありがたいことです。


献花台について詳細は以下ページを必ずお読みくださいませ。

 

 

 

 


そして今日です。

子どもたちは疲れ切って熟睡しています。

私は朝早く目が覚めました。

 

事故前に遡りの事故前日、聖子は娘のフットサルの試合を応援しに兵庫へバイクで行っていました。

試合で2位になったと写真付きでLINEを送ってくれていました。

 

私はその時すぐには見ていませんでした。

病院からの電話を受けた後に見返しました。

「あの時、気をつけて帰りんさいと言えばよかった」

「高速道路を使って帰りんさいよと言えばよかった」

何か優しい言葉を返してあげればよかった

そんな後悔はあります。


今回の事故について、家族の中で相手への憎しみが話題になることはありませんでした。

もちろん許したという意味ではありません。

ただ、怒りを向けたところで聖子が帰ってくるわけではありません。

 

3日が経ちました。

悲しみはまったく消えていません。

それでも現実は前へ進み続けます。

手続きや対応は山のようにあります。

単身赴任中の私が広島の家をどう管理するのか。

猫たちはどうするのか。

仕事はどうするのか。

いろいろな現実が押し寄せています。

今、聖子がいたら、

「俺はどうしたらええん?」

と聞いていたと思います。

きっと、

「そんなの自分で決めんさいや」

と言われるのでしょう


こうして文章を書いている今でも、

「お父さん、朝ごはんできたけぇ上がってきんさい」

という声が聞こえてきそうです。

遺骨の入った小さな箱と遺影を見ていると、葬儀場にいた時よりも現実感が薄い気がします。

 

昨夜も子どもたちと将来のこと、私の老後のこと、兄妹が仲違いしない仕組みを作ろうという話をしていました。

リビングには笑い声もありました。

近所の方に「西本家は不謹慎だな」と思われるかもしれないと一瞬考えたくらいです。

でも、それも家族が前を向こうとしている証なのかもしれません。


今日からは聖子のiPhoneのロック解除の問題、取引先との精算、3丁目のたこボールの出店中止連絡など、まだまだやるべきことが続きます。

 

幸い、子どもたちが全員いてくれます。

私よりもしっかりした子どもたちで、本当に頼りになります。

そして皆さまのFacebook投稿を読ませていただくたびに涙があふれます。

聖子がどれほど多くの方に愛されていたのかを知ることができました。

妻でいてくれたことを誇りに思います。

 


乱文となりましたが、ここをご覧になる方はもちろんのこと、特に県内外の旧友や仕事関係の皆さまへ、私が今どのような状況なのかをお伝えしたく、この文章を書きました。

 

式場では十分にお話しすることも、お礼をお伝えすることもできませんでした。

 

そのことがずっと気がかりでした。

まだ気持ちの整理はついていませんし、これからも様々な手続きや対応が続きます。

それでも、この数日間でどれほど多くの方に聖子が愛されていたのかを知ることができました。

 

皆さまからいただいた言葉や思いは、家族一同の支えになっています。
子供達と僕たちはお通夜と葬儀の感想は「やっぱうちのお母さんは最後まで凄いわ!!!」という感想でした。
 

今はまだ一つひとつを受け止めるのが精一杯ですが、落ち着いたら改めてお礼をお伝えしたいと思います。

本当にありがとうございました。


私も子供達も前を向いて進んでいます。
 

2026年6月18日
西本 圭介

 

今日は2026年6月9日。

ふと気付けば、あの事故で県立広島病院に入院していた頃のブログを書いてから2年が過ぎていました。

当時の記事を読み返してみると、手術の痛みやリハビリの苦しさ、思うように動かない左手、車椅子生活の不自由さ、そして「もう二度とバイクに乗らなくてもいい」と本気で思っていた自分がいました。

正直、あの頃の自分に今の姿は想像できなかったと思います。

 

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左手と左足はどうなったのか

結論から言うと、完全には元に戻っていません。

左足の複雑骨折と左手中指の骨折から2年。

歩けるようにはなりましたし、普段の生活にも大きな支障はありません。

ただ、怪我をする前の身体と全く同じかと言われると、そうではありません。

寒い日や疲れた日は違和感を感じることもありますし、指の可動域も決して100%ではありません。

それでも、あの病室で「ベースが昔みたいに弾けなくなるかもしれない」と不安に思っていたことを考えれば、今こうして普通にベースを弾き、授業をし、仕事をし、バイクに乗れていること自体が奇跡みたいなものです。

 


ベースは再び弾けるようになった

あの時のブログには、

「ベースが弾けるようになった姿を見せることが、自分が回復していることを伝える一番良い方法だ」

と書いていました。

結果として、それは実現できました。

リハビリ代わりにベースを触ろうと思っていたのですが、気付けばベースがリハビリそのものになっていました。

指が思うように動かない。

力が入らない。

以前なら簡単だったフレーズが弾けない。

そんな現実に何度も直面しました。

それでも少しずつできることが増え、いつの間にか人前で演奏することへの抵抗もなくなっていました。

2年前の病室で想像していたよりも、ずっと普通に音楽を続けています。

 


教員としての価値観は本当に変わった

実は、この2年間で一番変わったのは身体ではなく仕事への考え方かもしれません。

入院中のブログでは、

「学生にとって看護師のような存在になりたい」

と書いていました。

あれは入院中の感傷でも何でもなく、本当に今もそう思っています。

病院で学んだのは、人は正しいことを言われるだけでは前向きになれないということです。

同じ処置を受けても、同じリハビリをしても、言葉の掛け方一つで気持ちは大きく変わる。

教育も同じでした。

良い授業をすること。

良い知識を伝えること。

もちろんそれは重要です。

でも学生たちは、人として見てもらえているか、自分を気に掛けてもらえているかという部分にも大きく影響を受けています。

事故がなければ、今ほどそのことを実感できていなかったかもしれません。


「健康が全て」は本当だった

入院中に書いた

「全ては健康あってのこと」

という言葉。

2年経った今でも全く変わらない考えです。

むしろ以前より強く思います。

仕事も趣味も音楽もツーリングも、人間関係も。

結局は身体と心が健康だから楽しめる。

事故を経験すると、その当たり前がどれだけありがたいことなのかが分かります。

何も問題なく歩けること。

好きな時に風呂へ入れること。

トイレへ自由に行けること。

好きな楽器を弾けること。

当時は全部失っていました。

だから今は、そういう何気ない日常に以前より感謝できるようになりました。


そして、またバイクに乗っている

あの頃は本当に怖かった。

「もう乗らなくてもいい」

と書いていました。

実際、退院後しばらくはバイクを見るのも複雑な気持ちでした。

でも不思議なもので、人間は少しずつ前に進むものです。

今、久しぶりに乗っているのは自宅にあるビジネスバイク達。

速さを競うバイクではありません。

むしろ景色や音や振動を楽しみながら走るようなバイクです。

事故前の自分なら、もっと性能や速さに目が向いていたかもしれません。

でも今は違います。

「今日も無事に帰って来られた」

そう思えることが一番大切です。

 


2年前の自分へ

大丈夫。

ちゃんと歩けるようになる。

ベースも弾けるようになる。

授業もできるようになる。

そしてまたバイクにも乗る。

ただし、以前と同じ人間には戻らない。

少し慎重になって、少し優しくなって、少し健康のありがたみを知った人間になる。

それは失ったものではなく、事故を経験したからこそ得られたものだったと思う。


2年前の病室で励ましの言葉をくださった皆様、本当にありがとうございました。

おかげさまで、今こうして元気に暮らしています。

そして今日もまた、安全第一で。

皆様も、ご安全に。🏍️🎸
 

新年あけましておめでとうございます。

 

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皆さまにとって、2026年が心穏やかで実り多い一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。
 

昨年も多くの方々に支えられ、仕事でも私生活でも本当に充実した一年を過ごすことができました。
特に神戸勤務から渋谷勤務に変わり、昨年の春からは下北沢へ単身赴任して生活をスタートしました。
改めて、日々関わってくださるすべての皆さまに感謝いたします。

 

さて、年末には家族にとって一つ大きな節目となる、嬉しい出来事がありました。
長男・アキラと、のどかちゃんが昨年結婚しました。
そのお祝いするパーティーを、ささやかながら家族・親戚の方々と共に開くことができました。

 

僕の弟は福岡から帰省してくれましたし、次男のマサキは北海道からオーストラリアを経由して帰省しました。
アキラとのどか夫婦は東京から帰省してくれました。
長女の陽子は香港に旅行に行っていて不参加だったのが残念ではありました。
 

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当日は終始和やかな空気に包まれ、二人の人柄そのままの、温かく笑顔あふれる時間となりました。


新しい人生を歩み始めた二人の姿を見ながら、親として胸がいっぱいになると同時に、ここまで多くの方に支えていただいたことを改めて実感しました。

 

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これから先、楽しいことばかりではないかもしれませんが、二人ならきっと力を合わせて、一歩ずつ歩んでいってくれることと思います。

親としては、少し距離を保ちながら、変わらず見守っていけたらと思っています。

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新年早々、大雪の広島でした。

新しい年の始まりとともに、家族の新しいスタートを迎えられたことに感謝しつつ、今年も一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。


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昨日は次男マサキくんが東京経由で北海道の釧路市阿寒町へ戻りました。

さきほど、アキラ夫婦も東京へ戻りました。

 

今夜は奥さんと僕の二人に戻るのですごく淋しくなりますね....。

 

明日には僕も東京へ戻ります〜🚅

 

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本年もどうぞよろしくお願いいたします。

先日、長年の親友であるくぢらちゃが、なんとフェラーリF355(1998年後期型)を手に入れたとの知らせが!
クルマ好きとしては居ても立ってもいられず、すぐに見せてもらいに行ってきました。

 

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目の前に現れたF355は、まさに芸術品。

 

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流れるようなボディライン、独特の低いフォルム、そしてフェラーリのアイコンでもある赤の輝き――。
イタリア車ならではのデザイン哲学が、そのまま形になったような美しさでした。

 

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見せて同乗させてもらえるだけでも十分に感激だったのですが、
なんと松本さんのご厚意で、人生初のフェラーリのハンドルを握らせていただくことに!

 

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エンジンをかけた瞬間、V8サウンドが背中を震わせます。
アクセルを少し踏み込むだけで、全身に響くあの独特の咆哮。
回転が上がるたびに音が変化していくのが、まるで生き物のようで、まさに“フェラーリの鼓動”という言葉がぴったりでした。


ステアリングの重さ、クラッチの感触、そしてシフトを入れるたびに伝わる金属的なフィードバック——
どれもが特別で、まるで“運転する”という行為そのものが儀式のように感じました。

 

 

ほんの短い時間でしたが、忘れられない体験。
フェラーリというブランドがなぜ世界中の人々を惹きつけてやまないのか、その理由を身をもって理解した気がします。

松本さん、本当に貴重な経験をありがとうございました!