※最初にお断りしておきます
今回の記事は、万人に向けて書いたものではありません。
妻・聖子(きよこ)を亡くしてから私自身が実際に感じたこと、SNSでの言葉や善意、遺族との距離感について、かなり率直に書いています。
読む方によっては「そこまで言わなくても」「考え方が違う」と感じたり、気分を害されたりする内容もあると思います。
それで構いません。人それぞれ考え方は違います。
ただ、読んで不快になりそうだと感じる方は、今回はここで閉じていただくことをおすすめします。
誰かに考え方を押しつけるための記事ではありません。
あくまで、遺族になった私がこの二か月で感じたことを、自分自身と家族の記録として残しておくために書くものです。
それでも読んでみようと思われる方だけ、この先へお進みください。

さて、妻・聖子(きよこ)が亡くなってから、たくさんの方から温かい言葉をいただきました。
聖子を偲んでくださる方、私や子供たちを気遣ってくださる方。
そのお気持ちには、遺族として本当に感謝しています。
一方で、自分が遺族になって初めて気づいたこともあります。
それは、善意であっても、距離感を間違えると受け取る側には負担になることがある、ということです。
悪気がないのは分かっている。
親切で言ってくださっていることも分かっている。
それでも、
「そこまでは入ってこないでほしいな」
と思うことがあります。
今日はそんな「遺族との距離感」について書いてみます。
「百か日法要は終わりましたか?」と聞かれて
「百か日法要(卒哭忌)も終わりましたか?」
というコメントをいただきました。
これには少し戸惑いました。
聖子が亡くなったのは2026年6月15日。
百か日は9月22日(火)です。
つまり、まだ一か月以上先の話です。
なので最初に思ったのは、
「この方は、そもそも聖子が亡くなった日を知らない通りすがりの一見さんかな?」ということでした。
そこまで法要のことを気にしてくださる一方で、日付は合っていない。
逆に少し不安になりました。
もちろん悪意はなく、遺族に対して気遣ってくださったのだと思います。
それは感謝いたします。
ただ、そもそも四十九日をするのか、百か日をするのか、一周忌をどうするのか。
何をやって、何をやらないのか。
それは私たち家族が決めることです。
仮に私が、「百か日法要はやりません」とその方へ答えたとします。
すると相手は、
「せっかく故人のためを思って言ったのに」
と感じるかもしれません。
あるいは、
「西本家はそんなこともしないのか」
と思うフォロワーもいるかもしれない。
そうなると今度はこちらが、返事をするべきか。
しないほうがいいのか。
どう返せば角が立たないのか。
と考えることになります。
何気なく書かれた一言でも、受け取った側には新しい判断が一つ増えるのです。
そもそも、わが家の法要について他人から実施の有無は確認はされたくありません。
法要をするから故人を大切にしている。
しないから大切にしていない。
法要のために、家族が生活しているわけではない
親族・親戚はどう思うかわかりませんが、私は、ことさら熱心な仏教徒ではありません。(スマン)
もちろん宗教自体を否定しているわけでもありません。
誰かのお葬式に参列すれば、その家の宗派や習わしを尊重して手を合わせます。
それと同じように、聖子の葬儀、四十九日、初盆、納骨も、これまでのわが家の習わしを尊重して行いました。
正直なところ、 通夜と葬儀、初七日も四十九日も意味は分かっていません(汗)
そこまで勉強する余裕も時間も私にはありませんでした。
周りの意見を聞きながら、わからなかったらチャッピーに聞いてなんとか切り抜けている状態なのです。
聖子自身は毎月、お寺さんに月参りに来ていただき、熱心に手を合わせていました。
どこまでの信仰心だったのかは私にはわかりません。
だからといって、法要を一回やらなかったら聖子が地獄に堕ちる、なんて私は思っていません。
子供たちにも、それぞれ仕事と生活があります。
法要のたびに仕事を休み、遠方から広島へ集まらなかったからといって、聖子が怒るとも思いません。
たぶん聖子なら、「仕事があるなら無理せずに仕事しんさい」と言うでしょう。
法要のために家族の生活があるのではなく、家族の生活の中に法要がある。
私はそのくらいでいいと思っています。
またこれからの未来はどんどんとそのように変化していくのだと思います。
先回りした「おせっかい」も、今は少ししんどい
もう一つ、お願いしたいことがあります。
何かを投稿すると、
「次はこれをしたほうがいいですよ」
「○○の手続きは済みましたか?」
「これも調べておいたほうがいいですよ」
と、こちらが尋ねていないことまで先回りしてアドバイスをいただくことがあります。
親切心なのは分かっていますm(_ _)m
でも今の私にとって、それが必ずしも「ありがたい情報」になるとは限りません。
むしろ、「ああ、またやることが一つ増えた」と心が重くなることがあります。
聖子が亡くなってから、相続、保険、税金、年金、銀行、証券、車、事業の片付け、名義変更……。
一つ終わったと思えば、また次が出てきます。
そんな毎日の中で、頼んでもいない「これもやったほうがいいですよ」が届くと、それが本当に必要なのかを調べることから、また私のタスクになります。
だから必要なことは、こちらから聞きます。
困ったときは相談します。
そのときは、ぜひ力を貸してください。
お願いいたしますm(_ _)m
それまでは、少し放っておいてください(笑)
今の私には、そのくらいの距離感がちょうどいいです。
「世界で一番、聖子を支えていましたね」
もう一つ、今でも忘れられないSNS上のコメントがあります。
ある方が聖子を偲ぶ投稿をしてくださいました。
それ自体はありがたいことでした。
ところが、その投稿に別の方が、
「あなたが世界で一番、聖子さんを支えていましたね」
という趣旨のコメントを書かれていました。
それを見たとき、私は固まりました。
世界で一番?????
聖子には夫である私がいて、子供たちがいます。
もちろん聖子は、たくさんの友人、取引業者の方、仕事仲間、地域の方に支えてもらいました。
他力本願な店長として様々な方に頼り切って、ご迷惑も掛けていたことでしょう。
そのことには家族としてたいへん感謝しています。
でも、
なぜ他人が「誰が世界で一番支えたのか」を決めるのでしょう。
しかも、遺族も見ることのできる場所で。
コメントされた方も、「私のほうが支えてもらった側です」
というような返事をされていました。
おそらく、お二人とも悪気はなかったのでしょう。
でも、そのやり取りを眺めながら私は、
「あれ? 私たち家族はどこへ行った?」
と思いました。
聖子を偲んでくださることはありがたい。
でも、外野同士で「あなたが一番支えた」「いや、私のほうが支えられた」と慰め合っている光景を、遺族が見たらどう感じるのか。
そこまで少し想像してもらえたら、と思います。
もし私が逆の立場なら、亡くなった方の家族も見る場所で、第三者に向かって、
「あなたこそ世界で一番、あの人を支えていましたね」とは、とても書けません。
ご主人や奥さん、子供たちがそれを読んだらどう感じるだろう。
そう考えるからです。
私ならば書く前に想像力をフル回転して深呼吸し、必要ならば1日考えてから書くでしょう。

SNSを公開しているからといって、何を言われてもいいわけではない
私は聖子について、かなり多くのことをSNS、Facebookやブログに書いています。
だから、
「そこまで書くなら、あなたは世間からいろいろ言われても仕方ないのでは?」
と思う人もいるかもしれません。
でも私は、公開していることと、意見やアドバイスを募集していることは別だと思っています。
私が自分から法要について書くことと、他人から「次の法要は?」「今日は49日だよね?」と確認されることも別です。
故人を偲ぶことと、その家族の中へ踏み込むことも別です。
SNSに何かを書くときに必要なのは、難しいマナーではなく、
「これを家族が読んだらどう感じるだろう?」
遠回しに批判するくらいなら、私に直接言ってほしい
善意とは別に、辛辣な投稿についても思うところがあります。
時折、名指しこそしていないものの、「これは私のことを言っているのかな」
と思うような投稿を目にすることがあります。
仮に私のことではなかったとしても、誰かの遺族に向けた辛辣な言葉なら、同じ立場の人間が読んでも気分のいいものではありません。
悲しみ方なんて人それぞれです。
泣く人もいる。
仕事をする人もいる。
旅行する人もいる。
SNSに書く人もいる。
何も語らない人もいる。
どれが正しい悲しみ方なのか。
私は、そんな答えはないと思っています。
私の考え方や立ち振る舞いが気に入らない人もいるでしょう。
私がいろいろ発信することが気に入らない。
新聞に出たり、テレビに出たり、人前に出たりすることが気に入らない。
私が目立つこと自体が気に入らない人もいるかもしれません。
それは他人の自由です。
でも、本当に私に言いたいことがあるなら、遠回しに投稿するのではなく、私のスレッドに実名で投稿しなさい。
「西本、お前のここが気に入らない」
そのほうがよほど分かりやすい。
そうすれば広く他の方との賛同を得られるか、もしくは何らかの前向きな議論にも発展するでしょう。
間接的にそれとない書き方をして、何が嬉しいのでしょうか。
対岸から僕が来れないことをわかって石を投げている卑怯者です。
そして、私そのものが気に入らないのであれば、私の投稿を見なければいい。
ブロックすればええやん。
それで済む話です。
私はそいつはブロックしましたがねwww
SNSに書いた言葉やいいね、は自分の人柄も見せている
辛辣な投稿に「いいね」が付いているのを見ると、それも少し不思議に感じます。
心の中で何を思うかは自由です。
人を好きになるのも、嫌いになるのも自由です。
でもSNSに書いた瞬間、それは心の中の言葉ではなくなります。
「いいね」も他人から見えます。
遺族を傷つけるような投稿をして、一体誰が得をするのでしょう。
一円の得にもならない。
むしろ、それを見た人から、
「この人は、大切な人を亡くした人にこういう粗暴な言葉を言う人なんだ」
と悪い印象を思われるだけかもしれません。
SNSで誰かについて書いた言葉は、書いた本人の人柄をよく見せています。
これは私自身も気をつけなければいけないと思っています。
そしてそういう他人を誹謗中傷するコメントに安易にいいねをつける人たち。
私はそのいいねの人たちもインプットして、絶対この世で関わらないでおこうリストに入れます。
本当にいいねと思うならば、何がいいねなのかその人のスレッドで書けばいいやん。
でも最後に確認したときも数名がいいねをつけただけの淋しい投稿でした。
聖子もあの世から、すべて見ていて、自分が生前関わった人なのに何で....と悲しんでいることでしょう。
それでも私が、ほぼ毎日のように投稿する理由
ここまで書くと、
「だったら自分からSNSやFacebookにいろいろ書かなければいいじゃないか」
と思う方もいるでしょう。
それも分かります。
私自身、ほぼ毎日のように投稿しておきながら、
「そこには踏み込まないでほしい」
「頼んでいないアドバイスはいらない」
と書いているわけです。
わがまま君です。
コメントする側からすれば、少々面倒くさいヤツかもしれません(笑)
でも、私が書き続けているのには理由があります。
今この瞬間に、友人やフォロワーに読んでもらうためだけに書いているわけではありません。
これは、西本家の記録でもあります。
2026年6月15日に何が起きたのか。
聖子がどんな人だったのか。
その後、家族に何が起きたのか。
子供たちはどうしていたのか。
私が何を考え、何に悩み、どうやって一つずつ片付けていったのか。
楽しかったことも、腹が立ったことも、どうでもいい日常も含めて残しておきたい。
いつか子供たちに家族ができて、私に孫ができるかもしれません。
その孫や、その先の親族が何十年か後にこの記録を見返して、
「聖子ばあちゃんって、こんな人だったんだ」
「2026年に、こんなことがあったんだ」
「そのとき西本家はこうして生きていたんだ」
と、家族の歴史を辿ることができたらいい。
それが、私が書き続けている大きな理由の一つです。
だから、
投稿することと、意見を募集することは別です。
私が本当に困って、
「誰か教えてください」
と書いたときには、ぜひ皆さんの知恵を貸してください。
そうでないときは、
「西本、今日もなんか書いとるな」
くらいで読んでもらえれば十分です。
また文句があるなら実名で私のスレッドに堂々と書き込みしなさい。
遺族になって初めて分かったこと
私もこれまで、たくさんのお葬式に参列してきました。
でも、自分が遺族になって初めて分かったことがたくさんあります。
「あの言葉って、こう聞こえるんだ」
「親切心でも、相手はしんどいことがあるんだ」
世の中によくある例で病気や事故で治療に専念している人へ「頑張ってね」というコメントはすべきではない場合があります。
頑張っている人へ「頑張ってね」という応援は逆に患者には苦しく・辛く感じるということなのです。
これは今の僕も同じです。
僕は妻が亡くなった喪失感と毎日、全力で頑張って戦っています。
誰かに言われるまでもなく、これから一人で生きていくために頑張っています。
なので、頑張ってという応援はあまり心には響きません。
言われるまでも無く“超絶に”頑張ってますよという事なのです。
ただ、私自身も、知らず知らずのうちに過去に誰かに同じことをしていたかもしれません。
死ぬ気で頑張っている人に頑張れとメッセージをしたことも何度もあるでしょう。
だから、悪気なく書かれた一言まで責めたいわけではありません。
今回は誰かを責め立てるつもり、謝ってほしいつもりで書いたのではありません。
これを機会に誰かに何か気づきがあれば、良いと思ったからです。
故人について何か書くとき。
遺族に何かを尋ねるとき。
何かを教えてあげようと思ったとき。
一瞬だけ、
「これは今、この人が本当に欲しい言葉かな?」
と考えてもらえたらありがたいです。
必要なことはこちらから聞きます。
助けてほしいときには、助けてほしいと言います。
法要についても、家族で決めます。
聖子のことは、これからも時々思い出してやってください。
それで十分です。
そして今は、
「西本家のことは、西本家に任せとこう」
くらいの距離で見てもらえると助かります。








