今朝方は、楽しい夢をみた。


誇らしげな夢であり、耽美な夢である。


こういう夢をみると、どうしても、ことばまでかわってしまう、


あるいは、かえてしまおうという、気になる。



もう、ソネットで、はじまってますね。中国なら、律詩。


インドのすぐれた瞑想家たちが、


前世紀のことになってしまうけれども、


みごとな詩の表現で、その体験を語ってましたね。



叙情的なことばを、詩と思い込むのは、


この国の、けっしてよいとは、いえないことばの


一種、風俗ですね。風俗です。


わたしは、そう、思ってますね。



スピリットな場面で、概念用語を、つかおうとするのも、


これも、風俗、ですね。


むこうを見てきた人間、というのは、


こういう、ことばを、手放してましたね。彼岸ですね。



彼岸、なんていうことばは、


お墓参りか、ニーチェか、


どちらかになってしまったけれど、


それをみた現代の瞑想家は、怒涛のようにことばをつかった



詩的だけれど、怒涛ですね。


洪水や津波で、押し流すような、怒涛です。


この勢いというのは、経典にもあったでしょう。


この勢いでないと、押し流せない。勝てない。



経典にも、勝つという言葉が、出てきますね。


勝曼といった。邪悪に、勝つものでしょうね。


神将というのは、神の将軍ですね。代表格が、毘沙門天のような。


神兵も出てきますね。九字を切るときに、呼び出します。



妙吉祥菩薩。文殊菩薩。


右手に、剣。左手に、経。


これも、この菩薩の性格を表しています。


この剣の構え方は、いかにも、不動明王を思い起こさせます。


ただ、左手には、経です。


不動尊のように、縄で縛るのではなくて、経で、つかまえる。


いかにも、この菩薩らしい方便の仕方に表現されています。


またがるのは、獅子。


もっとも、強いものを、象徴しています。獰猛といってもいいでしょう。


象や孔雀と、対比してみるといいですね。


いかにも、獰猛な強さがあるんです。



この獰猛なほどの強さ。


彼岸をみてきた瞑想家たちの、怒涛のことばを


思わせます。


道教でも、まず、聡明でないといけない。といいます。


けど、現代の賢さとか、優秀さとは、ちがいますね。


純朴な知性とでも、いったほうがいい。


こどもたちの純粋な好奇心のほうに、近い気がしますね。


大人の聡明さでは、絶対無いですね。



大般若経なんて、まるで、経蔵の中の怒涛じゃないですか。


それを、率いたのも、妙吉祥菩薩。文殊菩薩でしたか。



サンスクリットも、ことばです。


こんなことをも考えてみましょうか。


いちばん、上が、大日如来。


オン・バザラ・ダト・バン。

オン・アービラ・ウン・ケン。


オン・サンマヤ・ソワカ。普賢菩薩

オン・アラパチャナ。文殊菩薩


オン・マイトレーヤ・ソワカ。弥勒菩薩

オン・アロリキャ・ソワカ。観音菩薩


人間を教導する菩薩の真言は、短いですね。

覚えるのも、むずかしくありません。


天の真言を、並べてみますね。

これも、なじみのあるものから。


カマ・キャラ。大黒天

ギャーギャー・キリク。歓喜天

キリカ。鬼子母神


ソラソバティエイ。弁財天

マカ・シリエイ。吉祥天

マーリーシエイ。摩利支天


モーカンマネイ。大梵天

ベイシロマンダラ。毘沙門天(バイシュラバナヤ)

インダラヤ。帝釈天


なまっているところは、()で、もとのサンスクリット読みに

もどしてみましたが、長くなると、なまってきますね。


けど、日ごろつかう真言というのは、

実は、短くて、覚えやすいんですね。


真言を覚えるのが、むずかしいように、

思われますが、英単語を覚えるより、

楽じゃないか、と思います。


お釈迦さんの真言は、というと、ただの


バク。


です。


ノウマクサンマンダ・ボーダーナン・バク。


というように、なってますが、

ノウマク・・・だけ、覚えれば、いろんなものに

つかえるようになっています。