「堕落」というのも、極まると、「転落」になりますれど、
一生懸命なのに、「転落」する人がいますね。
これが、どうしても、理解できない。
易では、不知其極。といって、戒めます。
力の限界を知らない。そんな力ないのに。といっているわけです。
そんな自力の限界を知らないでは、危ないですよ。
かならず、こういうときは、「大人」に会うようにと、忠告しますね。
大人というのは、立派な人格者のことでもあるし、よい意味で、
社会的な力を発揮されている方ですね。「大丈夫」のことです。
生まれたときから、霊的な感性にすぐれた方も、そこに含まれています。
中には、仏教の経典を、山ほど、もっていて、必死に、よんでいる人も
いるんです。
しかし、どうしたことなんでしょうか。
めぐり合わせが、よくないのか、せっかく、いい先生が、近づいてきている
のに、そちらに、顔をむけない。
わたしだって、大日如来が、第一ですよ。といわれないと、こんな当たり前
のことを、いい加減にしていたころがありました。
当然のことですね。
観音菩薩が、大切だよ。観音経を毎日、読経しないといけないよ。
と言われて、やっぱり、この功徳の重要性に気がつくわけなんです。
みな、大丈夫から、教わったことです。
そういう「大丈夫」の見分けがつかないで、ひょこひょこ、へんな人に、ついて
いったりすることがありますね。芸能界でも、マインド・コントロールだとか、
つぎから、つぎと話題になっていました。
だから、言うんです。
伝統的なお寺や神社。できるだけ、おおきいところ。
お寺なら、本山。神社なら、延喜式にのっているところ。
そういう縁なら、かならず、立派な方がおられるからと。
それが、「大丈夫」なんですよ。
だから、ついていっても、大丈夫です。
お寺でも、本山に行けば、かならず、日本屈指の修行者に、お目にかかれます。
密教の修行に、チベットまで行く必要もないんですね。
風土の中で、方便されたもののほうが、わたしたちに、しっかり、根付くんです。
大峰山でお会いする行者に、とんでもなく、好きな方がいますね。
こちらは、てくてく、どころか、あえぎながら登っているのに、
颯爽と、笑いながら、駆け抜けて行かれます。
それも、こちらは、登りで、あちらは、下り。
ご挨拶で、「よう。お参り。」と声をかけられますね。
こちらは、真っ青になりますよ。
岩場を駆けて、走り回っているだけじゃなくて、笑って、ご挨拶できる余裕です。
それも、もう、朝から山頂まで、駆け上がって、参拝を済ませてるわけです。
これが、力の限界を知っている大丈夫の余裕ですね。
まあ、足を踏み外して、岩場から「転落」するなんてこと、聞いたこともないですね。