新年になると抱負めいたこと考えちゃうのも、慣習の一種だとして、

そんなこと考えなくなる日もくるのかな。

 

このお正月明けの、

スタートラインに立って、「よーいドン!」と、遠いゴールを目指して走り出さなくちゃならない感じが、

なんとも寂しく感じられる、アラフォーです。

(aroundと言えるのも今年まで…ということで、妙に使ってみたい。)

 

年末に、2017年は息切れした、というブログを書いてから、

そう月日は経っていないし、わたし自身は何も更新はされていないので、

やっぱり、ダウナーなスタートで、お疲れモード変わらず。

 

そんな自分に多少の気合をいれるため、

昨日、実家を後にする時に、「2018年の抱負を決めた!」とハハとぼっちゃんに高らかに宣言。

 

 

今年は、

「やりたくないことはやらない」

ことに取り組んでみたい。

 

特に仕事に関して。

 

 

…言い方がやや(結構?)後ろ向きですが、

「やりたいことをやる」とはまたちょっとニュアンスが違うので、

仕方がない。

 

 

(今朝さっそく、ぼっちゃんに「きつねごっこ」に誘われた際、後ろから羽交い締めにされながら、

「ママ、これ、やりたくない?やりたくないことは、やらない?」と心配そうに尋ねられました…。)

 

 

わがままボンバーみたいな発言ですが、

実際、

やりたくないことはやらない、

というのは、

多分いろんな意味で難しい。

 

例えば、

 

「ストレッチ」信仰で育ってしまったゆえに、

「やりたくないこと」を目の前にすると、

「それって、お前成長の機会逃してない?」「それって、びびってない?」って、

自分の中のマネージャー(!)が、叱咤激励しちゃったり。

 

(お正月に見ていた福山雅治さんの『ウタフクヤマ』で、ましゃ氏がまったく同じ話をしていて(←僭越すぎる)、

ああ、こういう人でも、そういうことに悩んだりするんだなー、ってなんかすごい親近感感じて(←僭越すぎる)、

野田秀樹さんとか周りの人たちが、「俺らの歳になったら、もういいんだよ、やりたいことだけやれば!」

と言っていたのがとても印象的。

…わたしの歳では…まだダメでしょうか、先生…)

 

それに、(サラリーマンの)仕事っていうのは、そもそもやりたいかやりたくないか、じゃなくって、

「この人に○○してもらいたい」という論理のうえでに、役割が規定されていることがほとんどだ。

 

わたし自身、たぶんかなりバランサーであることを自覚しているので、

やりたくないことでもなんでも、とにかくボールを拾って調和を図っているときに価値を発揮している、

なんてことが結構あるはず。

「それやりたくない」と言った瞬間、「お前要らないし」と、なりかねない。

 

 

でも、そろそろ、

「やれるよね?(ボール拾ってくれるよね?)(そのボール拾えないの?)」

って感じのプレッシャーは、

積もり積もると沼っぽい感じで、心身蝕むなぁと感じるようになってきた(病んでる!?)。

 

わたしも、投げたいし、打ちたいんです。

まぁ今も、投げたり打ったりしてるんですけど、できればもっぱら、投げたいし、打ちたいんです。

もうちょっと、明るい気持ちで。

ボール拾ってると、その分結構、疲れちゃうんで。。。

という感じ。

 

それに、やりたくないことやっていると、

「こんなにやりたくないこと頑張っているのに、どうして認めてもらえない?」

っていう「認めてほしい」欲求が高まって、

なんだか健全じゃない状態にもなっていく。

 

 

ちょっと似てるようで似てないけども、

子ども育てはじめて、何度か窮地に陥ったことがあるけれど、

ぼっちゃんが2歳半くらいの時、

「わたしが一生懸命やってるのに、なんで(わかってくれない、反応返ってこない)」

というのが最高潮に達して、勝手に疲れ果ていったことがあった。

(例えば、「(ママがこんなに疲れてるのに(せっかく作ったご飯、なんで食べてくれないの!?」とか、

「わたしこんなに頑張っているのに、なんでオットは褒めてくれないの?」とか。)

 

子育てや家庭のことに関しては、

この種の問題は多少乗り越えられるようになり、

「やりたくてやっている」んだと自覚できるようになったら、すごく楽になった。

 

ごはんも、(どんなに疲れていても作るのは)作りたい、作ったのを食べたい(食べさせたい)から作っている。

ぼっちゃんとどこかに出かけるのも、連れて行ってあげよう、じゃなくて、わたいが行きたい、

わたしがそこで輝いている子どもを見てみたい、から、出かけている。

 

という風に。

 

○○してあげよう、じゃなくって、

わたしが○○したい。

 

 

そう考えると、

ボール拾うのも、「拾いたい!」って思えてる間は、結構やりがいあるんですけどね。

 

 

そうね、もう少しポジティブに言うなら、

自分の心の声を聞く。

やりたい!と変換できるかどうか考えてみる。

やりたい!と感じられることに優先的に時間を使う。

といったことでしょうか。

 

「(いろんな意味で)やった方がいいかなぁ(いいんだろうなぁ)。」

と考えることを少し脇に置いておくことで、

感じることを優先させてみることで、

また違った歩み方(走り方でなく)が見えてくるのかもしれないと思っています。

 

 

チャレンジ!

カーテンを洗濯しながら、
お昼ご飯を食べながら、
ラジオを聴きながら、

そうだなぁ、
今年を漢字一文字で表すと何になるだろうと考えてみた。

2015年にはそれらしきことをブログに書いてるけど、
2016年はやってないし、
恒例行事でもなんでもない、けど、
走ったり倒れたり(!)する日々の中で、
はたと振り返ることを疎かにしていたのは事実なので、
冴えない頭をぐーんと動かして、考えてみた。


ということで、
発表します!

2017年の漢字は、ずばり、
「波」。


はい。


大波小波が押し寄せ、引いてはまた寄せて…
そんな、心も身体も休まることない一年でした。

仕事の波、
ライフの波、
身体の波、
心の波。


2016年末に、まったく生まれ変わるような出来事があって、
更には一日の大半の時間を占める仕事において、
新しいプロジェクトを担当するようになったことがとても大きくて、
ゼロからイチを生み出すために、
何ができる?何をする?を考え、動き続けて、
毎日が、良くも悪くも、
息継ぎの時間を忘れるような、
夢中にあった。


海中にあったのか。


キラキラまぶしい光が見えるような、
見えないような、
怖いような、楽しいような、
そしてぐったりとした、疲れ。。。


って、
…疲れてるじゃん…!!



と、ネガティブな感じかもなんだけど、
いや、いいことであったと思う。


(サーフィンはしたことないけど)波を選ばずとにかく乗ろうとした、
改めましての初心者っぽさ、
あんな感じって場所を目指しもがいて、
それで、疲れちゃってる…のは、
「はい、そうね、頑張ったね」
って、
とある着地点に、自分を連れてきてくれた感じがあります。


なんや抽象的なことばっかり、
ですが、
そんなわけで、
波に乗れたか乗れなかったかといえば、
乗ったのもあったし乗れなかったのもあったし、
波にもまれたし、飲まれたし、
そうそう自分で作った波も、あったかもしれない。
(まだまだ小波だけど。)


そして今、わたしは放り出された。


ここはどこだ?
と言わんばかりに、着地して、波を遠目に見てます。(例えるなら、ですね。)


2018年の占いやら占いやら占いによれば、
認められず苦しむとか、準備するとか、
素の自分になるとか、
何やら、内に入って行きそうなキーワード。



でも、そうかもしれないっていう直感もあり、
こうなったら、
この放り出された場所で、
至極居心地のいいキャンプを張って、
潜伏してやろうと思っている次第です。


泳ぎ疲れた後には、
そんな感じがちょうどよさそう。


潜伏仲間募集〜!


というわけで、
今年も一年、お世話になりました。
来年も、よろしくお願いいたします(o^^o)

お盆といえど、カレンダーどおり、

といえど、

2つの原爆の日を越えて、の週末は、やはり夏休みの気分。

 

(山の日ができた時は、「こんな夏休み時期に祝日つくっても、ねぇ。どうせなら6月あたりに作ってもらいたいよねぇ。」とひとり悶々してたけれど、

いわゆるお盆休みのない会社にいて、昨年もこの時期に体調崩したりして、なんだかんだ、祝日あって、夏休み感あって、助かっている。。。)

 

図書館行って、予約していた本を受け取る道すがら(通路すがら?)、

誰かから返却されたばっかりっぽい田辺聖子さんの『甘い関係』を見かけて、

その、いかにも夏休みっぽい表紙と、いい感じのタイトルに惹かれて、

「ジャケ借り」した。

 

のも、夏休み風マジック。

 

 

レモンの、表紙で。

 

 

眠いのに、眠れない、

山の日の夜中に、

ベッドの上で、一気に、読んだ。

 

 

女の話、

若い女の哀れと、楽しみが、

イキイキと、

ランランと、描かれている話。

 

 

読んだ後に、1975年の作品と知り、

ふっくらとした気持ちになる。

 

 

生まれる、前!

 

 

古くて新しい、新しくて古い、

つまり、何も変わってないというべきか、

それは悲しいのか、美しいのか。

 

 

でも、時を超えた、友情を、

おばちゃん、とか、おばあちゃん、たちと育むことができるのでは、

という希望は、

ほんのりと、ふっくら広がるわけで。

 

 

(女性の年齢設定は、確かに、現在より10歳くらい、若い。つまり、もっと若いうちに、結婚したり、女性の価値がどうこうっていうことを感じさせられたりしていたのだということでしょう。)

 

 

恥ずかしながら、

田辺聖子さんの本は、一度も読んだことがなかった。

(恥ずかしながら、などと言って、実際作品を読んだことない作家さんの方が、読んだことあるのより、圧倒的に多いのだ。)

 

 

また、読んでみよう。

しっとりとした、元気が、湧いてくるような。

人生の先輩が、感じてたこと、直面してたこと、

悩んでたこと、幸せ感じてたこと、

プライベートな話を、なんとなく、話してもらいたい。

 

 

そんなブーストが必要な夜に。

 

 

…ちなみに、

予約していて、取りに行った、「本命」だった方の本は、

オードリー若林正恭(まさやす、と読むと初めて知った!)さんの、『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』

でした!

 

全然、違うなぁ。

人生、ジェンダーもジェネレーションも超えて、

いろいろ、あるよね、って。

 

こっちも、

読もう。

 

いいな、夏休み(風)。。。