blogをnoteにお引っ越ししました。

どうなることやら…??

 

記念すべき第1回目の記事:

https://note.mu/rollingcat/n/n88c13369391e

 

埋め込み方法などよく分からないので、リンク直貼り…

アナログ…

ぼちぼち、世の中についてこー!

桜がちょうど満開の頃、都内の某庭園に、花を見に出かけたときのこと。

 

園内のあちこちで、数組(人)の、大学卒業祝いと思しきお嬢さんたちが、

振袖や、袴姿で、カメラマン(と、母親と)を引き連れて、写真撮影を行っていました。

 

ただでさえ華やかな季節にあって、

華やかなお召し物と、若さと希望に溢れた表情と。

 

行き交う人たちが、「わぁ、素敵ねぇ!」と言いながら通り過ぎるのを、

誇らしげに、横目に、ポーズをとって、微笑んで。

 

 

…誇らしげに、と思うのは、意地悪な見方…というよりも、

自分にも、そういうことがあったなぁという身に覚えが、あるから。

 

造形がきれいとかきれいじゃないとかそういうことでなく、

今この瞬間の自分が、何か、特別なものに感じていた、

そういう誇らしい、若い時が、あったなぁという記憶。

 

 

すると、とある一角で、

「鈴なり」になっているおばあちゃんたち。

70代後半〜80代と見受けられる、ふっくらちっちゃな、おばあちゃん8人くらいの団体さんが、

そのスポットで、長らく立ち止まって(その様子を形容すると、鈴なりになって…)、

柵に寄りかかりながら、のんびりと、お嬢さんらの撮影鑑賞。

 

「あらあら綺麗だわ、綺麗だわね」

「わたしたちにも、ああいう時代があったのよ〜」

「あったのねぇ、あったのかもしれないわねぇ」

「わたしたちだって、綺麗だったのよ!」

 

なんて、話しながら。

あはは、おほほ、なんて、笑いながら。

 

 

若い時代。

 

それだけで、美しい何かをまとっていて。

時には、誰かの熱い視線を浴びて。

 

そんな時代が、誰にもあって、

わたしにもあって、

おばあちゃんたちにもあって。

 

この、誇らしげにすっと立っているお嬢さんたちも、

いつかは、わたしやおばあちゃんたちの側に立って、

またいつかの、瑞々しい女性を眺めながら、何かを思う時が来るのだろう。

 

 

先日、益田ミリさんの『沢村さん家の久しぶりの旅行』を読んだ時に、

登場人物の一人である「母・典江さん」が、バスで若い女性に席を譲ってもらい、

そういう年齢になった自分をふと寂しくなって、

でも、

「時間は誰にも平等なんだ」と思い直して元気になる、という短いストーリーがあって、

わたしは、

「自分の母親が、わたしくらいの年齢だったとき(または、お嬢さんだったとき)」

のことを、想像して、すごくすごく切ない気持ちになって、

一人で泣いてしまったのだけれど、

なんかそのことと、すごくリンクする光景だったなぁと、思う。

 

 

桜が咲き始めると、その美しさと、儚さに、

人は心が浮き足立って、ざわついて。

 

満開のときの雨風に持つ憤りにも似た焦りや切なさや、

散り始めたときの、なんとも言えない悲しさ。

 

でも、もうほとんど、葉桜になっていくと、ふと取り戻す、落ち着き。

 

葉桜の隙間から、光が差して、

きらきらと、穏やかな新緑の季節に移っていく様子。

 

…花がなければ、「何の木だっけ?」なんて気にも留められない、

長い長い季節が来る。

 

乙女のあり方に、似ている気がする。

 

一年(一生)のうち、咲いている時は一瞬だけど、

その記憶は永遠で、

花はなくとも、枝葉を広げ、光をあつめて、生きていく。

 

そこに、あり続ける。

 

そういうのも、悪くない。

 

わたしはわたしの今を、大切にしようと、

ふんわりと思うのでした。

そういえば、『めがね』っていう映画、あったなぁ。

 

観たなぁ、もう、何年も前だろう?

と思って、調べたら、2007年公開。

うん、そんな前じゃないね?11年…。

 

それで、映画とは関係なくって、

先週の話。

 

いつもと違うめがねをして仕事に出かけたら、

その日に、何人かの方がたに、

「めがね、変えたね」

って言われて、

驚いたっていう、話。

 

結構… 見られてるんだな!という、驚きです。

 

「やばい(まずい)」

「はずかしい(うれしい)」

 

なんだか、ここ最近、鏡を見ると落ち込んだりしちゃったりして(「あー、こんなところにシミが!」「疲れた顔、してるなぁ…」)、

例えば、着ていく服がなかなか決まらないときも、ちぐはぐなコーディネートしちゃったなぁみたいな気分のときも、

でもまぁ、誰も、おそらくわたしの顔や格好やちぐはぐなんてどうでもいいわけで、

こんなに大事に捉えているのは、自分くらいなもんで、

大体みんな、自分の顔や格好やちぐはぐのことに忙しいわけで(あるいは、そんなことそもそもどうでもいい)、

そう、みんな、見てない、気にしてない。

 

自分が落ち込まなければ、それは問題でもなんでもないのさ。

だから、気にしない、気にしない、気にしない〜〜〜

 

なんて思って(思うことにして)、大手を振って(言い過ぎ)歩いてたんですが、

意外や意外、

結構、見られてるやん?

 

 

自分でも、違うめがねかけてること忘れてたくらいなのに。。。

(最近使っているPC用の(安い、ベネフィット重視)めがねを紛失したために、そんなめがねが世を席巻する前に買った、ファッション?めがねを引っ張り出して行ったわけです。)

 

 

ついでにいえば、先週は、履いてる靴にもコメントをいただいて(「それ、○○の靴ですよね!」)、

おお、結構、見られてる…

 

 

驚きました。

背筋の伸びる思いです。

(シミも疲れも、ちぐはぐもちょっと気をつけよう…)

 

 

でも、別に嫌な気分ではなくって、

それをきっかけに始まった会話が、とても楽しかった。

 

その、ものを買ったときの思い出。

を、きっかけに、

どうしてとか、なんでとか、そういう話が広がって。

 

お互いが、ものに対して持ってるストーリーをシェアして、

その時、どういう時間を過ごしていたのかとか、

どういう価値観で、お買い物してるのとか、ものを選んでいるのとか、

似たような関心があるんだなとか、わかって、面白かったり。

 

今度、欲しい情報が、入ってくるかもしれないなって期待したり。

 

これって、ファッションのひとつの正当な機能なのでしょうね、きっと。

忘れてた感覚ですが。

 

なんだか久しぶりに、わくわくした。

 

機能や価格や、「とりあえず、OK」のものや、気持ちや、スタイルもいいけど、

ストーリーがあるのも、やっぱり、いいんだよね。

 

 

ちなみに、そのめがねは、

12〜13年前に、銀座でOL(オツトメレディ)をしていた時に買ったもので、

お店に足を踏み入れた瞬間、店長さんと目が合って、

「そこに座って。あなたに似合うのが、ある」

と、持ってこられたものなんです。

自分で選んだのじゃなく、めがねに選ばれた…というところ。

(そんな感じで「選ばれた」ものが、他にもあと1本、引き出しのどこかに、眠っているなぁ…)

 

 

久しぶりに、あのめがね屋さんに行ってみたい気にもなった。

今の気分、今の状況で選んだものが、

10年後の自分にどう語られるのか…っていうのも、面白そう。