デジタルとかアナログとか。

そういう言葉自体、もはやどことなく古めかしい。

 

ビッグデータとかAIとかブロックチェーンとか

プラットフォームとか

バーチャルなんとか、とか。

 

わたしの日常、仕事の日常に溢れる言葉。

 

「未来」がどうとかこうとかいうことばかりを考えたり議論したりして、

「未来」をどうとかこうとか予測する本を何冊か読みあさったりして(だってみんな読んでる)、

そうこうしているうちに、

何だかどんどん頭がおかしくなってきた、気がするのは、気のせいなのか。

頭と心が合致しないままのような、気がするのは、気のせいなのか。

 

 

ここ数週間、謎の感覚にふわふわとして、

集中力に欠けている。

 

 

そもそも、今からやってくるらしい未来に、わたしはとても楽観的だし、

希望を持っている。

 

たぶんどちらかというと、強い希望を持っている。

何でもできそうな気がするし、今よりきっと、よくなると思っている。

 

 

そもそも人間の存在はエゴイスティックなものだ、と考えているので、

生きていること、繁栄すること自体が、例えば地球にとってみればネガティブなのだ、と考えているので、

人間の気づきや反省や努力や改善やテクノロジーの進化やその活用によって、

そのネガティブのインパクトが、より小さくなれば、

それは十分に十分なことなんだというふうに、考えているので、

今、起ころうとしている変化は、きっと、面白い。

 

ヒトとモノとコトの境界線をぼかして、

行き来をすること、自由になることを夢見てた。

 

夢見てた世界が、いよいよ現実味を帯びてきた、この感覚に、

わくわくしないわけがない。

 

少なからず年を重ねてきて、その大きな流れの中にいることを感じていること、そのもの。

仕事でも、まさにその変化の中にいて、これは客観的に見ても、きっととても、面白い。

 

面白いんだけど…

 

ふと、奇妙な感覚。

 

今あるものが、ゼロになるような(「限界費用ゼロ社会」なんて、まさに、ゼロ!)未来のこと。

 

世界のどこかの誰かが常に新しい仕組みを考えている。

その仕組みが、超高速のスピードで、壮大に、

数多の人を、わたしを、巻き込んで、変化をもたらしていく。

 

わたしの意識など御構いなしに、

どんどんどんどん、今がゼロになっていく感覚。

 

零れ落ちないように、息を切らして走っている感覚。


そんな情報ばかりを仕入れてたら、

「じゃあ、今、ここ、って、何なのか」

「あっという間に何かに取って代わられる、今って、何なのか」

という、問いが浮かんできて、

その一方で、いわゆる「アナログ」な日々の生活があって、

(例えば、子育て。幼子が、新しく言葉を覚えることへの喜び。まぁるいお腹やちいさな手を愛おしく思う気持ち。)

朝と昼と晩とで、

あるいは、

家と職場、内と外、

1日の中でも、

ものすごく大きな振れ幅で、「未来」と「現在」を行き来していたら、

もう何が何だか、わけがわからなくなってきてしまった。

 

 

わたしは今、何のために、何をしてるんだっけ。

 

 

それでどうして、疲れてるのかとか眠たいのかとか。

お腹が空いたのとか。

悲しいとか嬉しいとか、思っているのか。

 

 

未来らしくない今の、この感情に、どんな価値があるのか、とか。

 

 

例えば、今、欲しいもの。

といったような「物欲」の意味が、わからなくなるような、

おかしな感覚。

(モノは何でも、シェアリングする時代なのだ。)

 

それでも、

わたしは素敵な食器で、ごはんを食べることが、ほっこりとした幸福だと感じるのだなぁという、おかしな感覚。

 

 

そう、週末に、悩んだ末に食器を新調したのだ。

 

 

悩んだのは、値段のこととか、仕舞うスペースのこととか、

そういうこと(もあるけど)だけじゃない。

 

何ていうか、モノを買うこと自体がナンセンスなんじゃないかっていう感覚。

 

でも、今わたしは、この器に、何かを盛り付けることを想像した。

幸せな色や匂いがした。

それでやっぱり、買うことにしたのだ。

 

 

別に特段、「丁寧な暮らし」をしているわけではない、けど、

今日、明日、明後日…

今の価値、今の基準で、

なんかいい感じ、の、食事をしたい。

 

ただそれだけ。

それって、いいんだよね?いいんだっけ?

 

 

今日、明日、明後日… 未来に続く、未来から遠い、毎日。

 

今日、明日、明後日…

未来に向けて働いているらしい(生きているらしい)わたしは、

何に基軸をおいて、何をどう選択したいのだろう?

 

なんか好きとか、なんか嫌いとか、

そういう直感が鈍っている。

 

自分らしい選択ってなんだ?

 

未来らしい選択?

 

もしかして、わたしが今、「取り扱っている未来」の中に、

自分が描けていない、のかもしれない?

本で読んだり、考えたり、話している未来は、

誰か(がつくった)未来であって、自分の(欲しい)未来じゃない、から、

わけがわからなくなっているのかしら…?

 

ポジティブな気持ちを持っていても?

 

ちぐはぐが残るのは、

まだまだ、まだまだ、宿題がある証拠?

 

もう何が何だか、さっぱりわからなくって、

行ったり来たり、

このままだと夜も更けるので、

今日と地続きの明日のために、

そろそろこの辺で。

しばらくの間、わたしの朝のアラームは、Bruno Marsの"Just The Way You Are"だったことをここに白状します。

(最近、機種を変えてから、アラーム音はデフォルトのままなのですが。。。)

 

これは痛い、のかもしれない!

 

けれど、基本的に、朝が苦手だし、

何らかの心配事を繰り越して暮らしている身の上としては、

あの爽やかなメロディラインとともに、

自分の「現在」「あるがまま」を「超ラブ!」なんて言ってくれちゃってる彼(いや架空のね)の存在は、

大きく、

目を覚まして、しばしお布団の中でぼんやりするのには、ちょうどいい感じだったのです。

 

"When I see your face

There's not a thing that I would change

'Cause you're amazing 

Just the way you are"

 

…しびれる。はう…。

 

 

 

今がいい、

あるがままがいい、

というのは、

自覚するのは、きっと、なかなかに難しいときが多い。

 

「マインドフルネス」的には、

自分で、自分自身の幸福感を高めていくことが大事になってくる、のだと思うけど、

自分って何とか、

自分の幸福って何っていうときに、

どうしても、

他人(社会)の評価が関わってくる。

(なぜなら、自分は他人との関係や他人の見立てによっても「形作られる」ものであるから。)

 

だから、

自分の評価は、できるだけポジティブなかたちで自己完結できることがきっと理想なのだろうけれど、

そのためのトレーニングは必要なのだろうけど、

そのつなぎ目として、誰かにきっかけをつくってもらうことも、大事なんだと思う。

 

自分の外側の誰かに。

 

 

この間、もうすぐ4歳になろうかというぼっちゃんと二人で話をしているときに、

「赤ちゃんの頃」の話になって、

赤ちゃんの時、彼がどんなにかわいかったんだよっていう思い出話をしていたら、

ふと、

 

「赤ちゃんの時の方が、かわいかった?」

 

と、聞かれた。

 

一瞬、えっ!と驚いて、とっさに、

 

「ううん、ぼっちゃんは、赤ちゃんの時もかわいかったけど、今もとーっても、かわいいよ!」

 

と返したけれど、

少しして、ぎゅっと抱きしめ合っている時に、

 

「赤ちゃんに…戻りたいなぁ。。。」

 

と、何だかしんみりした感じ。

 

「どうして?」と聞くと、

 

「…だって、赤ちゃん、かわいいから…」

 

なんて会話になっていって。

 

 

もしかして、

日々の何気ないやりとりの中から

(例えば、「○年前の今日の写真」がをリマインドしてくれるサービスに、いちいち反応して、

「やー、赤ちゃんのときのぼっちゃん、かわいいー!」なんて叫んでいるときとか)

何か、彼にとって、「今<過去」が、無意識のうちのコミュニケーションされてしまっているのかな、

と心配になり。

 

 

これは大事なことだなと思って、

よくよく話した。

 

ぼっちゃんは、

いつだって、今がいちばんかわいい。かっこいい。

赤ちゃんの時もかわいかった。とても。

そして、今も、かわいい。かっこいい。

今日のぼっちゃんが、ママにとって一番大事。

これからも、そのときどきで、そのときどきが、さいこうだと。

そのときどきのぼっちゃんが、一番大事だと。

 

「おとなになっても?」「パパみたいにおひげが生えても?」

 

うん、おとなになっても。おひげが生えても。

(オットは「いやー、小学校高学年になったらもうかわいくないでしょー、さすがに。」と男同士の冷静な意見をもっているけれど。)

 

 

ママは、ぼっちゃんの現在が一番好きだ、ということ。

あるがままで。ありのままで。

 

 

この話を、どう受け取ったのか、

わたしの思っていることと、彼の感じていることが、

一緒かどうかはわからないけれど、

自分を肯定できるための、日々の訓練のひとつに、

わたしとの会話も、なったらいいなと、

心から、祈るような気持ちで。

 

だって、大人の暮らす世界は、

どんなに頑張ったって、

どんなに努力したって、

何やかんやと、評価されて、何やかんやと、落ち込むことが多い。

 

どれだけママに大事にされていても、

例えば、友だちに「評価」されているかとか、

上司に、同僚に、

社会に評価されているかとか。

 

気にせずには生きていくことは(できる人もいるけれど…)、

それなりに、難しい。

 

 

いつか積み上げたものが崩れても、

キラキラしたものが取っ払われても、

そこに残る「現在がいい感じ」が、残るといいなと。

 

開き直りでも、いいんだから。

 

そして、お互いに、「現在がいい感じ」「現在もいい感じ」という関係性を築いていけたら、

家族も、夫婦も、友だちも、同僚も、

幸福なのかなぁと思う。

 

(わたしだって、学生の頃から知るオットに、「あの頃はよかったなぁ」なんて言われたら猫パンチだ。)

 

Just The Way You Areなメッセージを、お互いに伝えられたら、

幸福なのかなぁと思う。

 

ずっと、幸福が、そのときどきのベストな感じで、続いていくのかなぁと思う。

先週は、

「Hugh Grantが57歳で5児のパパに」

というニュース(ゴシップ)が飛んで、

しかもお相手は、わたしと同年代。。。

 

ヒューさまファンとしては、

「ほっほー さすがですね」とか

「今のわたしがヒューさまとお付き合いして、彼の子どもを産むのかぁ むーん どういう気持ちかしらん」

といったことを無駄に(無駄でしかない)考えたりしていました。

 

そして、そういうトピックが、タイムラグなく自分の手元に届くという、

そのこと自体をしみじみと噛み締めていました。

 

 

大学1年生の時、英語の授業で、

「好きな映画俳優」について話すトピックで、Hugh Grantの名前を出したら、

先生に「あいつは最低な男だ!!そんなのが好きだなんて!!」

とけっこう激しめに否定されて、え…、となった経験がありました。

 

先生は、彼が、当時からすると数年前に起こしたスキャンダルについて、すごい嫌悪感を持ってたんですね。

 

わたしは、その事件を全然知らなくて。

その場で(だったか授業の後だったか)、彼がどんなに最低かの話になり、

えー、そうなのー…と少なからずショックを受けた記憶があります。

 


でも、それが事実なのかどうかを、「ググる」ことはせず、

「聞いた話」と、「自分が思うヒューさま」を頭の中で天秤にかけ、

「うん、わたしはやっぱりヒューさまが好き♡」

と結論付けて、このトピックはわたしの中で終了した。

 

 

その後、あまり思い出すこともなく。

 

 

時々、テーマをチェックして、「いいな」と思う映画を観る、程度のいたって普通な10代を過ごし、

その中で、声とか表情とかユーモア溢れ出てる感じとか、そういうのが気に入ってヒューさまを好きになったけど、

例えば、映画雑誌を読んだり、海外セレブのトピックを収集するほどには熱心でなかったので、

日本で普通に暮らしている限りでは、そんなスキャンダルって、すぐに目や耳に入ってくるものではなかった(と思う)。

 

そう、当時はインターネットも、わたしのような一般人については、

ようやく使い始め…という時期だったと思う。

日常的に情報収集したり調べ物をする手段としては、浸透していなかったのです!!

(高校の授業で出される課題は、もっぱら図書館に行って調べ物してた!)

 

旧時代〜〜〜〜

 

グーグル先生不在〜〜〜

(大体、Google創業と時を同じくする頃で、まだまだネット上で情報は整理されていなかったはず!)

 

最近になって、そういえば…って感じでネットを探ると、

まぁ色々出てくるわけで、大人になってしまったわたしは、すっかり過去の情報となったそのトピックを、

「ふーん」という感じで眺めるのだけど、

ティーンの頃にそういう情報に触れていたら、やっぱりショックはもっと大きかったかもしれない。

 

その後の、ヒューさま好き人生が変わっていたかもしれない。

 

 

今のわたしは、ちょっと何かで見かけた俳優さんやセレブリティについて気になると、

ぱぱっとwikiやらまとめサイトなどで調べてしまって、

経歴やらの(誰かが勝手に構成した)バックグラウンドを知り、

「なるほどこういう人なのね」的な、ある意味先入観とともに、

その作品や言動を見る、というのが、通常の行動になっている。

 

 

昔と、今とで、

好きになるなり方とか、

好きでい続けるい方(日本語変)とかが、

だいぶ様変わりしてるんだろうなと思う。

 

 

「何かよくわからないけど、好き!」が、きっと少なくなってきてるというか。

 

 

どっちがいいか(幸せか)わからないけど。

 

 

憧れは憧れのまま、が、許されないというか、必要とされない時代なのかもしれないし。

 

 

因みに去年は、勝手に「ヒューさま大復習年」がやってきて、

Amazon primeやら何やらでHugh Grant出演作品を一気見してました。

 

ヒューさまが美しいのは、"Notting Hill"(1999)だと思うけど(21歳の時、初めてロンドン旅行(一人旅!)した時、まっさきに行ったよね)、

わたしは”Four Weddings and a Funeral”(1994)が、一番好き。

 

そして、安心したいときは、

"Love Actually" (2003)。鉄板。

 

"Florence Foster Jenkins"(2016)は、まだ観れていない…観たい!!

 

そして、今年公開の"Paddington 2"、観てみたいな〜〜〜〜

ぼっちゃんも、これなら、行けるかな?

暗いの&うるさいの怖いから、映画館はやっぱりダメだろうか。

 

 

若いときも、年を重ねても、

ずっと追いかけられる俳優さんがいるって、なんか嬉しいなって思う。