桜がちょうど満開の頃、都内の某庭園に、花を見に出かけたときのこと。
園内のあちこちで、数組(人)の、大学卒業祝いと思しきお嬢さんたちが、
振袖や、袴姿で、カメラマン(と、母親と)を引き連れて、写真撮影を行っていました。
ただでさえ華やかな季節にあって、
華やかなお召し物と、若さと希望に溢れた表情と。
行き交う人たちが、「わぁ、素敵ねぇ!」と言いながら通り過ぎるのを、
誇らしげに、横目に、ポーズをとって、微笑んで。
…誇らしげに、と思うのは、意地悪な見方…というよりも、
自分にも、そういうことがあったなぁという身に覚えが、あるから。
造形がきれいとかきれいじゃないとかそういうことでなく、
今この瞬間の自分が、何か、特別なものに感じていた、
そういう誇らしい、若い時が、あったなぁという記憶。
すると、とある一角で、
「鈴なり」になっているおばあちゃんたち。
70代後半〜80代と見受けられる、ふっくらちっちゃな、おばあちゃん8人くらいの団体さんが、
そのスポットで、長らく立ち止まって(その様子を形容すると、鈴なりになって…)、
柵に寄りかかりながら、のんびりと、お嬢さんらの撮影鑑賞。
「あらあら綺麗だわ、綺麗だわね」
「わたしたちにも、ああいう時代があったのよ〜」
「あったのねぇ、あったのかもしれないわねぇ」
「わたしたちだって、綺麗だったのよ!」
なんて、話しながら。
あはは、おほほ、なんて、笑いながら。
若い時代。
それだけで、美しい何かをまとっていて。
時には、誰かの熱い視線を浴びて。
そんな時代が、誰にもあって、
わたしにもあって、
おばあちゃんたちにもあって。
この、誇らしげにすっと立っているお嬢さんたちも、
いつかは、わたしやおばあちゃんたちの側に立って、
またいつかの、瑞々しい女性を眺めながら、何かを思う時が来るのだろう。
先日、益田ミリさんの『沢村さん家の久しぶりの旅行』を読んだ時に、
登場人物の一人である「母・典江さん」が、バスで若い女性に席を譲ってもらい、
そういう年齢になった自分をふと寂しくなって、
でも、
「時間は誰にも平等なんだ」と思い直して元気になる、という短いストーリーがあって、
わたしは、
「自分の母親が、わたしくらいの年齢だったとき(または、お嬢さんだったとき)」
のことを、想像して、すごくすごく切ない気持ちになって、
一人で泣いてしまったのだけれど、
なんかそのことと、すごくリンクする光景だったなぁと、思う。
桜が咲き始めると、その美しさと、儚さに、
人は心が浮き足立って、ざわついて。
満開のときの雨風に持つ憤りにも似た焦りや切なさや、
散り始めたときの、なんとも言えない悲しさ。
でも、もうほとんど、葉桜になっていくと、ふと取り戻す、落ち着き。
葉桜の隙間から、光が差して、
きらきらと、穏やかな新緑の季節に移っていく様子。
…花がなければ、「何の木だっけ?」なんて気にも留められない、
長い長い季節が来る。
乙女のあり方に、似ている気がする。
一年(一生)のうち、咲いている時は一瞬だけど、
その記憶は永遠で、
花はなくとも、枝葉を広げ、光をあつめて、生きていく。
そこに、あり続ける。
そういうのも、悪くない。
わたしはわたしの今を、大切にしようと、
ふんわりと思うのでした。