Amazon Musicが、すごいなぁと。

 

「ムード」で選べるプレイリストがごまんとあって、

わたしはもう、具体的にどんな曲が聴きたいのかということをほとんど考える必要なく、

ただ、こんな感じの音楽が聴きたい、って思って、

アプリを開いて、なんとなくスクロールするだけで、

映画の中の人のようなドラマティックな気持ちになれたり、

夜のカフェで本を読んでるような気分になれたり、

はたまた、海ものないのに海辺にいるような雰囲気がしたり、とか。

 

(普通にただの感想文…)

 

ほんと、微差なムード種別があって、それも面白おかしい。

全部試したくなっちゃうし、痒いところに手が届くような(あくまで、ような)感覚にさせてくれるのが、すごい。

 

「カフェ・ジャズボッサ」「雨の日のカフェ・ジャズボッサ」

「バスタイムに聴くジャズ」「恋する人と聴くジャズ」…などなど

 

 

それで、今日はなんとなく、

「悲しみに浸りたいときのポップス」

というのを選んでみたら、

一曲目に来たのが、

Norah Jones の "Shoot the moon"で、

なんだかもう、わぁぁぁって気分になって、しまった。

 

 

むかーしむかし、

失恋するなぁってわかってたときの、

雨の日で、

夜で、

車に乗っていて、

ラジオから流れていた音楽だった。

 

 

むぅ、Amazonめ。

 

すっかりしんみりしてしまったじゃないか。

 

 

でも、これって、

わたしの年齢とかそういうの全部把握してのプレイリストなのかな。

 

こういう、経験とリンクする音楽って、時代性がすごくあるだろうから、

人によって(年齢によって)だいぶ変わりそう。

 

…と、無駄に冷静な思考に戻ってみたり、

今、何も調べずに書いてるから、きっと、ネタも答えもネット上に転がってるんだろうな。

 

 

ちょうど夜に、AIがどうとかこうとかいう話もしていて、

なくなる職業がどうとかこうとか、

人のムードを測り、図る職業は、どうなんでしうね?

 

編集者やコーディネーターはなくならない仕事らしいから、

ムードをキュレーションするというのも、根本的には、人間の、心のなせるワザなのかな。

 

 

人の心も思いも、移ろい、ワープの先は誰にも、本人にすら、予測不可能。

 

 

そんな今日は七夕でした。

 

 

子どもの手を引きながら、

そういえば煌々と輝くお月様に気づき、

「今日は晴れてるから、織姫と彦星、会えたかんじゃないかなぁ」

と口にしてみて、

そんなこと考えたの、何十年ぶりか知らないと、ふと思った。

 

「デートしてるかな。」

「天の川のシュターバックス(スタバ)でお茶してるかも!」

などと、わかってるかわかってないか分からない子どもに、このハハは滅茶苦茶を話しながら、

思えば遠くへ来たもんだと(わたしが子どもの頃、スタバなんてなかった…)、

七夕の日のお天気を深刻に気にして一喜一憂していた少女時代と、リンク。

 

 

昔『りぼん』に載ってた漫画の、天文部の男の子と女の子の恋愛に憧れてたことを思い出したり、

星ひとつをとっても、

過去についての、もの思いの旅は終わらない。

 

 

遠くへ来たことは、

悲しいことではないけれど。

 

美しく、逞しいものであるけれど。

 

でもしかし、

心細く感じることもあり、

たぶんに今日は、そういうムードだったのでしょう。

 

 

悲しみに浸りたいというのとも、またちょっと違う(んですよ、Amazonさん)けど、

大体そんな感じで、

音楽聴いて、

そろそろ、寝ましょう。

子どもに、どうしても何かをしてもらいたい時、

おとなは、「脅し」の手段に出る。

 

…のは、結構多くの家庭でやっているのじゃないかと思う。

 

大体、「こわいもの」がやってきて、

イヤイヤしている子どもとか、

“言うこと”を聞かない子どもとか、

約束を守らない子どもとかを、

◯◯しないと、△△されちゃう(なっちゃう)よ、

というストーリー展開において、行動に結びつけるというもの。

 

「恐怖訴求」→親以外の第三者によるエンドースメント(ちょっと矢印の方向違うけど)→回避策(アクション)…

立派なフローが…

(でも、「なんでなんで?」攻撃をくらうと厳しいこともあり、「根拠」や「メリット」を十分に用意しておかなくてはならないですね。。。)

 

この「第三者」が、何者か、というのが重要であり、

年齢とともに変化するというのが難しく、

一体いつまで、どのくらい、通用するのか、というのが、わたしの最近の関心事である。

 

例えば、

歯磨きさせるには、かの有名なバイキンマン

…しかし最近、ちょっとくらい歯磨きしなくてもまだ虫歯になってないことに気づいてきた

 

夜9時に寝せるには、「クジラ」という謎のおばけ(←我が家オリジナル)

…しかし最近、21時に寝なくとも、特にこわい思いをしていないことに気づいてきた

 

泣き止まないときには、秋田名物なまはげ

…しかし最近、なまはげが被り物であることに気づき、「なぐごはいねが〜」的なモノマネまでできるようになってきた

 

 

世の中には、“ほんとっぽさ”を演出するために、「鬼から電話がかかってくるアプリ」とかも存在するらしい。

けど、こんな調子で大人のからくりを見破るようになってくるとなると、

アプリ使って演出してた…なんてバレるのも時間の問題かと思い(その時のうまい言い訳が思い浮かばない)、

ウチではその禁断のツールに手を出さないまま、

「鬼」がこわい時期も、とっくに過ぎてしまったような。

 

 

よくしゃべり、周囲の状況もほぼわかるようになってきた3歳児。

 

 

そんな彼が、長らく、ずっと怖がっているもの。

それは、雨風(嵐)や雷(かみなり様)。

 

 

今夜も、東京では雨が降っていて、

通りを行く車のタイヤがアスファルトに擦れる音が、雨の激しさを増長している。

 

悪天候の日は、「お風呂に入って、早く寝よう」という流れが、

とってもすんなりといく。

 

雨の音、風の音、…時々雷。

そういうものが、本当に、怖い様子。

 

これは、もっと赤ちゃんの頃から、今まで、ずっと変わらない。

 

窓から聞こえる雨の音、風の音にとっても敏感になっていて、

「こわいねぇ、嵐だねぇ、いやだねぇ」

と、本当に心細そうに話して、

「朝、起きたら、嵐どっかに行っちゃう?」「埼玉とか?(←ちょっと北)」

と、だいぶ心配している。

 

「嵐もかみなり様も、眠っている間にどこかに行っちゃうから、目をつぶって、さぁ、寝よう?」

と提案すると、すんなり、お布団に向かうのである。

(そして、眠るまで、ぶつぶつと心配している。)

 

これに加えて、

最近では、

お風呂に入りたがらない息子に対し、

実家の母が上京して子守をしてくれていた時に発明(?)した、

「かみなり様は、冷たいおへそが大好きなのよ」

が大ハマリしていて(以前から、「かみなり様はちびっこのおへそが好き」という話をしていた…この「かみなりにおへそを取られる」的な言説って、日本だけ?)、

天候にかかわらず、ここ数週間、お風呂には積極的に入り、湯船にも浸かるようになった。

 

お風呂から上がると、

「もうおへそあったかいから、取られない?」

と安堵感。

 

 

おばけや鬼と違って、

雷や雨や風は、

目で見たり、耳で聞いたり、触ったり(濡れたり)、体で感じるもの。

(おばけも、感じる人はいるでしょうが…一般論として…)

 

 

何よりも説得力があって、何よりも絶対的な感じ。

 

 

威勢良く張っていたものが、「しゅん…」と、しぼむ、感じ。

 

 

「自然への畏怖を抱かせること」が子育てにとって大事…

とは、いつか読んだ育児書的な本に書いてあったけど、

子どもは直感的に、自然というものをとらえ、

その「本物らしさ」に、「本当に怖い」という思いを抱くのだろうなと思わされる。

(そう考えると、大きな地震などを経験した子どもたちの心の傷、トラウマは想像を絶するものだろうと、心が痛い。こんな、「子どもに何かをさせよう」なんていう動機づけのために自然の怖さを提示していられるくらいの平穏さを、鑑みる。)

 

 

この「自然への畏怖」のようなものが、

大人になると失われ、

自然を恐れるというよりは、

ただ「人」を怖れ、「人の考えること」「人の振る舞い」を怖れ、

自分を怖れ、

人の論理で動き、動かされ、

傲慢になっていくのは、

自然から離れた街に暮らしているから?

“自然的でないロジック”が、この社会を回しているから?

 

 

例えば、震災のこと、その時に感じた恐怖や畏怖を、

人工的な毎日の中で、忘れてしまってはいないかということも。

「大事じゃないもの」に、してしまっていないかということも。

 

 

わたしは子どもの頃、何が怖かったか?

 

 

親でも、先生でもなく、

お金でも老いることでも、

何かを得ること失うことでも、なんでもなく、

夜の星空だったことを、思い出す。

 

北海道のちいさな町で、

真っ暗な夜空いっぱいに広がる無数の星に、

自分のこと…悪い考えや行い…を隅々まで見張られているような気がして、

ものすごく、怖かったこと。

 

 

自然と行き来することは、

自分の内面や、「永遠」と行き来することで、

うわべを通り過ぎていく瞬間的な善し悪しではないものを、

感じられるのかもしれない。

 

 

雨が降って、

保育園のお迎えが嫌だなぁ…とかそういうことだけでなくって、

ただ、雨を感じる、ということも、大事かもしれない。

 

 

誰かや何かを怖れて、つまらないものになっているかもしれない自分を、

解放するきっかけとして。

 

 

ちなみに、

息子が最近非常に怖れているもう1つのもの…

 

それは、ゴキブリ。

 

最近、保育園で初めて遭遇したようで(不衛生とかそういうこともあるかもしれないけれど、古い施設なので仕方ないかなと…)、

その時の出来事がだいぶ衝撃的だった様子。

(本人の実況のみがソースだけど、想像するに、かなりの大騒ぎになり、おそらく先生がスリッパか何かで叩いた、それを、彼はドアの影からこっそり見ていた。)

 

もし家にゴキブリが出てきたら、どう対処したらよいのかを、

その日以来、度々気にしており、

スリッパに代わる武器が家にあるのかをだいぶ心配している模様。

(わたしも、心配になってきた。。。)

 

 

そして、それまで全然片付けなかったおもちゃの類を、

「お片づけしないとゴキブリが出てきちゃうんだよ」「ゴキブリは汚いところが大好きよ」

と言うと、片付けるように(少なくとも素振りは見せるように)なった。

 

 

人間が、ゴキブリを恐れるのは、太古からの経験によりDNAに刻まれているとか、なんとか。

 

ゴキブリ=虫、だと思えば、これもまた、「自然」的な恐怖とも言えるわけで、

そういうものへの怖さほど、やっぱり、身に堪えるものはないのかもしれない。

 

 

子どもへの脅しは、

大人への脅しでも、あるんじゃないかな。

月並み!べた!
 
 
 
でも、毎年、2月14日になると思い出す気持ちを、
今日は、なんだかすごく思い出した。
 
 
正確に言うと、
バレンタイン→ホワイトデーの一連の流れで、
コトが起こったのは、
3月14日のことだったりするわけですが。
 
 
 
当時5歳のわたしは、
(たぶん)好きだった男の子に、バレンタインのチョコレートを渡したのです。
 
 
(たぶん、というのは、今となってはほんとに好きだったのかどうかわからない。おそらく、どの男の子を好きになるのかという選択肢もあまりなかったと思う←ひどい。でもこれもまた、恋愛の真理。)
 
 
地元のデパートに、母親と買いに行った記憶も鮮明で、
(父親の分も買ったのも覚えてる、しかし、どんなものだったかは覚えていない)
それはクレヨンを模して、ケースにカラフルなクレヨン型チョコレートがたくさん収まったものだった。
 
 
子どもらしい、かわいらしい感じですねぇ。
 
 
バレンタインデー、
雪の降る中(北海道に住んでたから)、
その子の家までひとりで行って、
ひとりでピンポーンして、はいって渡して、
なんか、そのピンポーンするときのドキドキな感じも、
よく覚えてる。
 
 
ここまでは美しいです。
 
 
それで、
問題は、
ホワイトデー、なわけです。
 
 
なんでそうなったのかわからなかったけど、
その子の家に呼ばれて、バレンタインのお返しをもらうことになった。
 
ピンクの、表に女の子の絵が描かれている、クッキーの缶。
 
わたしはすごく張り切って出かけて、
すごく嬉しくって、
誇らしくって、
「ありがとう!!」
って言って、それで、その子の家の玄関先でその缶を胸に抱えて…
 
 
視線を落とした先、
お母さんの前に立ってにこやかにしている、
彼の足元左側に、
色違いのグリーンのやつが置いてあるのを、見てしまった。
 
 
それで、
気づいてしまったわけね。
 
 
ああ、わたしは彼にとって、特別じゃなかったんだっていうことに。
 
これ、同じの、他の女の子にもあげるんだねって。
 
 
ガラガラガラ〜〜〜〜
って、何かが崩れた感じがしました。
俗に言う、音を立ててって、やつ。
 
 
たぶんわたしの、「特別な感じ」や「誇り」というものでしょう。
 
 
今でも、時々、ある。
 
自分だけかなって思ってたことが、
実は自分だけじゃなかったこと。
 
ちょっといい気分でいたのが、
一気に切なくなってしまう瞬間。
 
大人になったら、
「まっ、そうだよね」「そりゃ、そうだよね」
って、
大人になった風に、
一人で(心の中で)苦笑いなんかしちゃったりして、やり過ごす感情。
 
 
…でも本当は、なんか泣きたいくらいな感情…
 
 
そういう、胸がきゅうぅ…ってするような感情を、
初めて持ったのが、まさに、その日、その瞬間のことだったって、
はっきり言える。
 
 
だから、
チョコレート会社の思惑だとか、悪しき習慣とか、
女性がプレゼントを渡すのは日本だけだ!!おかしい!!などなど、
バレンタインにはなんとかかんとかまつわる話があるわけだけど、
わたしにとっては、
わたしが、ひとつの感情を持った、
人間的な成長の日の記念でもあるんだなって、
いうことです。
 
 
あの、きゅうぅ…、だけは、
いくつになっても、
あぁ、ヤダヤダ。
 
 
オンリーワンになりたい気持ちの、
恥ずかしい、かっこ悪い。
を真正面から突きつけられる、きゅうぅ…です。
 
 
あまりに、
舞い上がってた自分が恥ずかしくてかっこ悪くて、
家に帰り着いたとき、
その悲しい気持ちを、母親にも話せなかったなぁ。
 
 
それで今日は、
そのチビっこなわたしを、
抱きしめてあげたい。
とも、思います。
 
 
…そのチビっこが、ただでっかくなって、おばさんになってきたって、
ただそれだけだっていう真実も含めて。