スピリチュアルは「自己責任」が基本原理です。
スピリチュアルにおいての自己責任とは
「自分に起きること、自分が関わること全ては、自分に責任がある」
ということです。
自己責任というと、厳しいイメージや重いイメージがあるかもしれません。
確かに厳しくストイックな面は否めません。
全て自分の責任ということは、誰かや何かのせいにできなくなるからです。
厳しい面もありますが、自己責任の生き方とは自分軸の生き方でもあります。
誰かや何かのせいにせずに済むということは、他人や外側の現象に委ねて振り回されることや、力を渡すこともなくなります。
自分次第で変えることも可能だと、自分が人生の舵を握れるようになります。
「自己責任」とは本来は重くなく、むしろ軽やかになっていくことができます。
自己責任は、他人が関係してくるとき、誤解される場合があります。
「相手のことは相手の問題」という概念もあります。
これは、自己責任と相反するかのようです。
「相手の問題とするのは自己責任ではない」と否定する考えの人もいます。
相手は一切関係ない。相手の問題とするのは、相手のせいにしてしまい、自己責任ではない
という意見のようです。
それも正しいです。
ですが、あくまで個人的考えではありますが、相手の問題という概念も、ある段階までは持っていていいと私は思ってます。
※このことについては後述します。
相手にも相手の問題や責任があり、それまでこちらが請け負う必要はないということです(ある段階までは)。
相手のことは相手の問題というのは自己責任と相反するかのようですが、共存はできます。
このことをなるべくわかりやすく説明してみます。
例えば、誰かにひどい侮辱的な暴言を言われたとします。
普通は「そんなひどい暴言を吐くあの人が悪い、私は被害を受けた」と考えます。
自己責任だと「暴言を吐かれる現象化をしたのは私だ」という考えになります。
この時、相手の問題否定説だと「暴言を吐かれた私に何かしら問題や原因があるのであり、相手は一切悪くない」となったりします。
それも正しいでしょうが、相手の問題も請け負ってしまいかねない要素もあるように感じます。
相手の問題説も共存させた場合はこうです。
暴言を吐くのは、相手側の問題や責任になります。
しかし、その暴言を受けて、どう思うかはこちらの責任(自己責任)になります。
つまり、暴言を受けてどう感じるかや傷つくかなどは、こちらが選択しています。
無意識だとしても、自分が選択して反応が出てます。
それはこちらの責任になります。
相手がこちらを傷つけているわけではないのです。
こちらに傷つくという選択肢があり、それを選択したから傷つく反応が出てます。
傷つく反応が出る何か(周波数)が自分の内面にあるから、傷つく(のを現象化した)わけです。
それが自己責任ということです。
暴言を吐くことは相手の責任です。
それを受けてどう感じるかどう思うかはこちらの責任です。
相手が傷つけたり不快な思いをさせたとしか思えなくても、どう受けとるか、どう感じるかはこちらの責任になります。
なので、もし傷ついたとしても、相手の責任ではないです。
こちらが傷つかない選択も、自分次第でできるからです。
ただ、暴言を吐くという行為は相手の選択であり、相手の責任です。
これは逆の立場でも同じです。
自分が何か発言し、相手を傷つけたとします。
その発言をしたのは確かにこちらの責任です。
ですが相手がどう感じるかは相手側の責任です。
こちらが「私のせいで傷つけてしまった、私が傷つけたんだ」
と罪悪感を感じ、負を請け負う必要は本来はないです。
※今回は、自己責任と相手の問題共存説を書いてますが。
相手は一切関係なく全て自己責任というのも正しいです。
世界は仮想空間説で考えると、全てはホログラムのような映像(仮想空間)であり、全て自分の意識が作っているとなります。
他人に何か言われた現象も結局自分の意識が作っているので、他人は一切関係ないです。
なので、スピリチュアルを探求していき意識が開いていくと、結局は全部自分とわかっていくので、他人や外側は本当に関係なくなります。
ですが、その境地までいきなり達するわけでもなく、通常は分離感があるので、自分と他人が分かれた段階の人には全ては自分というのは難しいかなと思います。
その段階で、相手は一切関係ない。全部自己責任だと無理に思うと、負担になり負を請け負いかねないです。