なかきよの ねふるみたから
みたりけり たみらかたみる ふねのよきかな
(永き代の 眠る神宝 見たりけり 民等潟見る 船の良きかな)
解説
眠る(ねぶる)は「ねむる。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(ヤマツミ)’‘海神(ワタツミ)’など他の語と複合して用いられる。」、等(ら)は「主として人を表わす語また指示代名詞に付いて、複数であること、その他にも同類があることを示す。」、潟(かた)は「浦。入り江。湾。」の意味です。
余談
この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
イメージとしては、人々が船に乗って航海して、ついには永遠無窮の神の宝がある島を見つけた、といったもの。
歌では「神宝」とあるので、これは我々が普段想像するような金銀財宝などの物質的な宝ではなく、霊的な作用を持った宝であることが伺える。
また最初に「永き代」とあるので、常世の国(あの世)的な世界観を感じる。
つまり、現し国(この世)的な世界から常世の国(あの世)的な世界へといつの間にか移行していて、その先で宝の島を発見する、という感じ。
なんちゅうか、南国の楽園の島とか、パラダイスとか、そういう世界に行き着く、というイメージ。別の言い方をすると、普段は魂の奥底に眠っていて決して知覚できない原風景が目の前に広がっているような世界観で、いわば神の楽園のようなイメージ。
さらに厳密に言えば、そのような楽園にいるような心情、心境を得られるということで、その心の状態こそが「神宝」だということ。
むろん、霊界は霊(心)の世界であって、そのような清々しく楽しい心を持つことで、(霊界では)実際に目の前にそのような風景が現れ、そのような楽園的な世界に住むことが出来るのは言うまでもない。
だから天国的な心を持った人は目の前に天国的風景が広がりそこに住み、地獄的な心を持った人は目の前に地獄的な風景が広がりそこに住む、ということになる。
要するに、玉石混交の現界と違って、霊界では玉と石がくっきりはっきり分かれていて、上下が厳然としている、ということだ。
ちなみに下記霊界物語では、同じ天界でも差異があって勝手に移動できない、と書かれてある。
霊界物語参照。
『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第12章 天界行』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)
『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第14章 天開の花』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)
また別の箇所では、(生前に悪事を働いた結果)地獄に行くべき霊が、その順序を度外視して無理やり天国に行こうとすると、大変に苦しむ、とも書かれてある。
『霊界物語 第48巻 第2篇 幽冥摸索 第8章 亡者苦雑』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)
逆に上の天国に居る人が、それより下の世界に行ってしまうと証覚を失う、ということが書かれてあり、非常に厳然としている。
『霊界物語 第48巻 第3篇 愛善信真 第14章 至愛』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)
『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第15章 公義正道』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)
おそらく、この「証覚を失う」というのは、元の上の天国に戻れなくなることを意味しているものと思われる。
霊界物語の下記部分に、元は盲目だった老人の文助という人物が、(死後)第二霊国に昇った後に文治別命(あやはるわけのみこと)となって、中有界(天国と地獄の間にある霊界のこと)にいる高姫という人物の下に降りて来て、いろいろと諭すシーンがある。
※細かい説明は省略するが、霊界物語では天界は「天国」と「霊国」に分かれてあるとあり、第二霊国は三段ある内の中間の天界に位置する世界になる。
『霊界物語 第56巻 第2篇 宿縁妄執 第9章 我執』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)
補足説明をすると、この文助と高姫は生前面識があり、さらに文助は自分の部下だったので、高姫にしてみれば、盲目の老人であるはずの文助が三十前後の若者になって、しかも姿かたちが目映(まばゆ)く光り、イケメンの顔立ちで出て来たことが信じられないのだ。
それに対して文助は「ああ元の肉体になつてみせてやりたいが、さうすれば忽(たちま)ち神格が下つて、再び今の地位になるのは容易な事ことではなし、どうしたら助けることが出来やうかなア」と思案に暮れている。
つまり、高姫が今、籍を置いている中有界の位置に自分から降りて行くと、再び第二霊国に戻るのは難しくなる、ということを言っている。