なかきよの ももののそみに
  とこはるは ことにみそのの もものよきかな

(永き代の 百の望みに 常春は 殊に神苑の 桃の良きかな)

解説

百(もも)は「ひゃく。また、他の語に付いて複合語をつくり、数の多いことを表す。」、望みは「遠く離れてながめやること。遠く見やること。ながめ。眺望。」「将来よくなりそうな見込み。将来の発展が期待されるようなみどころ。」「人望。名望。」、常春(とこはる)は「一年中春のような気候であること。」、殊には「とりわけ。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(ヤマツミ)’‘海神(ワタツミ)’など他の語と複合して用いられる。」の意味です。

雑感

下記参照。

『霊界物語 第48巻 第3篇 愛善信真 第12章 西王母』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4812

 

 

みなきより かひしんせんは
  いかりつり かいはんせんし ひかりよきなみ

(皆来寄り 佳美新船は 錨吊り 開帆漸次 光良き波)

解説

来寄る(きよる)は「寄せて来る。寄って来る。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、新船(しんせん)は「新しい船。新造船。」、錨(いかり)は「船を一定の場所に留めておくため、綱や鎖をつけて海底に沈めるおもり。石が用いられたが、現在では鉄製のものが多く、海底に食い込む爪をもつ。アンカー。」、開帆(かいはん)は「船の帆をあげ、船出すること。出帆。出航。」、漸次(ぜんじ)は「しだいに。だんだん。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

下記ブログによると、人類は今の地球(船)から新しい地球(船)に移行する、とある。

『予言教団大本から出た謎の言葉【鏖殺】。世の立替論の背景には地球の【核】に異常があるのか?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『予言が当たる神と予言そのものが出来ない神?。神からの予言とは、自作自演なのか?。』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『今、世界中で神の火水(かみ)の働きで山火事や高熱波の火攻め。集中豪雨等の水攻め。人の悪事が次々と世に暴かれるが起きている。』(「人に内在する良心神(神言会)」より)

 

なかきよの ねふるみたから
  みたりけり たみらかたみる ふねのよきかな

(永き代の 眠る神宝 見たりけり 民等潟見る 船の良きかな)

解説

眠る(ねぶる)は「ねむる。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(ヤマツミ)’‘海神(ワタツミ)’など他の語と複合して用いられる。」、等(ら)は「主として人を表わす語また指示代名詞に付いて、複数であること、その他にも同類があることを示す。」、潟(かた)は「浦。入り江。湾。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

イメージとしては、人々が船に乗って航海して、ついには永遠無窮の神の宝がある島を見つけた、といったもの。

歌では「神宝」とあるので、これは我々が普段想像するような金銀財宝などの物質的な宝ではなく、霊的な作用を持った宝であることが伺える。

また最初に「永き代」とあるので、常世の国(あの世)的な世界観を感じる。

つまり、現し国(この世)的な世界から常世の国(あの世)的な世界へといつの間にか移行していて、その先で宝の島を発見する、という感じ。

なんちゅうか、南国の楽園の島とか、パラダイスとか、そういう世界に行き着く、というイメージ。別の言い方をすると、普段は魂の奥底に眠っていて決して知覚できない原風景が目の前に広がっているような世界観で、いわば神の楽園のようなイメージ。

さらに厳密に言えば、そのような楽園にいるような心情、心境を得られるということで、その心の状態こそが「神宝」だということ。

むろん、霊界は霊(心)の世界であって、そのような清々しく楽しい心を持つことで、(霊界では)実際に目の前にそのような風景が現れ、そのような楽園的な世界に住むことが出来るのは言うまでもない。

だから天国的な心を持った人は目の前に天国的風景が広がりそこに住み、地獄的な心を持った人は目の前に地獄的な風景が広がりそこに住む、ということになる。

要するに、玉石混交の現界と違って、霊界では玉と石がくっきりはっきり分かれていて、上下が厳然としている、ということだ。

ちなみに下記霊界物語では、同じ天界でも差異があって勝手に移動できない、と書かれてある。

霊界物語参照。

『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第12章 天界行』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第14章 天開の花』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


また別の箇所では、(生前に悪事を働いた結果)地獄に行くべき霊が、その順序を度外視して無理やり天国に行こうとすると、大変に苦しむ、とも書かれてある。

『霊界物語 第48巻 第2篇 幽冥摸索 第8章 亡者苦雑』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


逆に上の天国に居る人が、それより下の世界に行ってしまうと証覚を失う、ということが書かれてあり、非常に厳然としている。

『霊界物語 第48巻 第3篇 愛善信真 第14章 至愛』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第15章 公義正道』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


おそらく、この「証覚を失う」というのは、元の上の天国に戻れなくなることを意味しているものと思われる。

霊界物語の下記部分に、元は盲目だった老人の文助という人物が、(死後)第二霊国に昇った後に文治別命(あやはるわけのみこと)となって、中有界(天国と地獄の間にある霊界のこと)にいる高姫という人物の下に降りて来て、いろいろと諭すシーンがある。

※細かい説明は省略するが、霊界物語では天界は「天国」と「霊国」に分かれてあるとあり、第二霊国は三段ある内の中間の天界に位置する世界になる。

『霊界物語 第56巻 第2篇 宿縁妄執 第9章 我執』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


補足説明をすると、この文助と高姫は生前面識があり、さらに文助は自分の部下だったので、高姫にしてみれば、盲目の老人であるはずの文助が三十前後の若者になって、しかも姿かたちが目映(まばゆ)く光り、イケメンの顔立ちで出て来たことが信じられないのだ。

それに対して文助は「ああ元の肉体になつてみせてやりたいが、さうすれば忽(たちま)ち神格が下つて、再び今の地位になるのは容易な事ことではなし、どうしたら助けることが出来やうかなア」と思案に暮れている。

つまり、高姫が今、籍を置いている中有界の位置に自分から降りて行くと、再び第二霊国に戻るのは難しくなる、ということを言っている。

みのきえし いめのものみの
  ほとりより とほのみのもの めいしえきのみ

(身の消えし 夢の物見の 畔より 遠の水面の 瞑し良きのみ)

解説

夢(いめ)は「ゆめ。」、物見(ものみ)は「物事を見ること。見物すること。」、畔(ほとり)は「その付近。近辺。あたり。そば。」「海や川・池などの水際。きわ。」「はし。はずれ。辺際。」、遠の(とおの/とほの)は「隔たりの程度がはなはだしい。遠くの。遠方の。」、水面(みのも)は「水の表面。すいめん。みなも。」、瞑する(めいする)は「目をとじる。目をつぶる。また、眠る。」「心安らかに死ぬ。往生する。」、良し(えし)は「よい。」の意味です。

余談

この歌は、下記音楽動画を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Koumori no Uta』(「小南泰葉」より)

 

またのるま すみきるあをと
  なみとひと みなとをあるき みすまるのたま

(また乗る間 澄み切る青と 波と人 港を歩き 御統の玉)

解説

乗るは「乗物の上におさまって移動する。」「音楽の調子に従う。拍子・リズムに合う。仕種や踊りが、音楽に合う。」、澄み切るは「わずかなくもりもなくよく澄んでいる。転じて、心に迷いがなくなる。」、青(あお/あを)は「色の名。三原色の一つで、晴れた空のような色。藍(あい)系統の色から、黄みを加えた緑系統の色までを総称する。また、公家の染織衣服や襲(かさね)の色目では、緑色を意味する。」、御統(みすまる)は「多くの玉を一本の糸に貫いて環状にしたもの。上代、首または腕にまいて飾りとした。みすまろ。」の意味です。

余談

この歌は、下記音楽動画を見て、それをモチーフに書いた歌です。

『奇跡のLive うないぐみ feat. 坂本龍一 弥勒由果報 みろくゆがふ』(「おもいでたからばこ」より)


雑感

この曲を聴いているとなんだか、最近見ているドラマ『Dr.コトー診療所』の世界観を彷彿とさせるなぁ……。

 

ライブ版もいいけど、こっちもいいなぁ。

『弥勒世果報(みるくゆがふ) - undercooled』(「うないぐみ - トピック」より)

 

なかきよの こたへかまたく
  よきかみか きよくたまかへ たこのよきかな

(永き代の 答へが全く 良き神が 清く魂替へ 田子の良きかな)

解説

答え(こたえ/こたへ)は「こたえること。質問や呼びかけに応じること。返答。返事。答申。」「むくい。応報。返報。」「問題を解いて得る結果。解答。」、全く(またく)は「まったく。すっかり。」、清し(きよし)は「澄んで美しい。」「(連用形を副詞的に用いて)きれいさっぱりだ。」、魂(たま)は「たましい。」、替える(かえる/かへる)は「前からあるものや、決まっているものをやめて、新しく別の物にする。とりかえる。交代させる。また、あるものの役目を他のものにさせる。代理をさせる。」、田子(たご)は「田を耕す人。農民。」の意味です。

雑感

下記参照。

『みろくの夜明け前-1 みろくの世には通貨や税が無い?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『霊学№96 この世のネットワークと霊界ネットワーク。インターネット世界で活動する悪霊達』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『霊学№62 天国は金銀財宝で輝いている?。天国住人の心が宝石の如く輝いているのが【分かちの国】』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『何気ない日常にこそ幸せはある。何も無い田舎の様な風景の天国界。大都会の様な風景の地獄界』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『霊界物語 第48巻 第3篇 愛善信真 第10章 天国の富』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

 

しらなみの すすとおきより
  きかねふね かきりよきおと すすのみならし

(白波の すすと沖より 黄金船 限り良き音 鈴のみならし)

解説

白波(しらなみ)は「泡立って白く見える波。」、すすとは「物事がすばやく静かに変化するさまを表わす語。すすっと。」、黄金(きがね)は「こがね。おうごん。近世では、大判や小判をいう場合が多い。」、限り(かぎり)は「限界となる地点。しきり。さかい。はて。」「限界に達するまでのある範囲。」、鈴は「世界的に見られる体鳴楽器の一つ。主に金属製の、裂目のある球形の空洞のなかに、銅の球などを入れたもの。振って鳴らす。日本では、神楽(かぐら)・能楽などに楽器として用いるほか、神社の社頭につるすもの、参詣人や巡礼のもつもの、装身用のものなど種々ある。」、ならしは「(たしかに)~であるらしい。」「~であるよ。~だなあ。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

歌のイメージとしては、白波が立つ海の沖より、黄金色の米俵や大判小判を一杯に積んだ船が、鈴の音と共にやって来る、というもの。

たぶん「鈴のみならし」は「鈴の実生(な)らし」に通じ、いわゆる鈴生り(すずなり)になった実をイメージさせられ、五穀豊穣などの意味があるように思われる。

また宝は「田から(たから)」に通じるので、畑や田から取れる作物も指しているようにも感じる。

さらには、船が白波に揺られることによって、中に積まれている大判小判がジャラジャラと音を立てている様が、ちょうど鈴の音のように聞こえる、といったイメージも湧く。

下記参照。

『鹿島みろく』(「鹿島デジタル博物館」より)

 

なかきよの たからのるふね
  なみてきて みなねふるのら かたのよきかな

(永き代の 宝乗る船 並みて来て 皆眠る野良 潟の良きかな)

解説

並む(なむ)は「ならぶ。つらなる。」、眠る(ねぶる)は「ねむる。」、野良(のら)は「野。野原。」「田や畑。」、潟(かた)は「浦。入り江。湾。」の意味です。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

下記参照。

『鹿島みろく』(「鹿島デジタル博物館」より)

 

いはとあき かみのまたみて
  いつのめの ついてみたまの みかきあとはい

(岩戸開き 神のまた見て 伊都能売の 次いで身魂の 磨き後拝)

解説

次いで(ついで)は「先行の事柄に後行の事柄が続くことを示す。それから。次に。」、拝(はい)は「おがむこと。頭を下げて敬礼すること。」の意味です。

雑感

下記参照。

『みろく世に行くと予言された人の数は三分とは3%?。それとも30%?。』(「人に内在する良心神(神言会)」より)

 

むれかなた なかれはあはれ
  つゆのまの ゆつれはあはれ かなたなかれむ

(群れ彼方 流れはあはれ 露の間の 移ればあはれ 彼方流れむ)

解説

群れ(むれ)は「むらがっている状態。むらがった集団。あつまり。」「なかま。ともだち。」「動物の集団をいう。」、あわれ(あはれ)は「しみじみとした風情のあるさま。情趣の深いさま。嘆賞すべきさま。」「しみじみと感慨深いさま。感無量のさま。」、露の間(つゆのま)は「露が結ばれてから消えてしまうまでの間。転じて、わずかのあいだ。」、ばは「接続助詞。已然形に付く場合、順接の確定条件、偶然の条件を表す。~と。~たところ。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Forest Funk』(「Sakuzyo Official」より)


雑感

下記参照。

『スッタニパータ「犀の角(Khaggavisāṇasuttaṃ)」を読む』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)


『ブッダのことば|スマナサーラ長老のパーリ経典解説』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)


『古語のふり・神道と天皇(16)』(「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」さん)


「群れ彼方」は、(集団の人とか動物とかの)群れが彼方へと遠のいていくということで、相対的に一人である、というニュアンスを表現しているとも解釈できるが、この「群れ」を仏教的に考えて、色受想行識の塊、即ち五蘊と置き換えると、また違った味わいがあっておもしろいかもしれない。

下記参照。

『五蘊』(「wikipedia」より)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%98%8A


要は、存在するのは五蘊のみであって、それが瞬間瞬間、彼方(時間が進んでいく方向、未来)と共に流れていくだけだ、ということ。

ちなみにこれは、「私」という何か自我と呼ばれるものがあって五蘊(色受想行識)を制御しているのではなくて、五蘊(色受想行識)そのものしかない、ということ。五取蘊(五蘊に執着すること)ではない、ということ。

下記参照。

『五蘊こそが刺客なり――サーリプッタ尊者の「逢佛殺佛」論 誓教寺オンライン仏道実践会⑤|スマナサーラ長老の初期仏教法話(21 Mar 2021 ゴータミー精舎からライブ配信)』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)