ひむかしの ひかりのみちの
のそみしみ そののちみのり かひのしかむひ
(東の 光の道の 望み滋味 園の地実り 佳美の其が無比)
解説
東(ひむかし)は「太陽の出る方角。東方。ひがし。」、望みは「ながめ。眺望。」、滋味(じみ)は「うまい味わい。また、栄養になる、うまい食べ物。」「(比喩的に)物事に感じられる豊かな深い味わいなど。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、其(し)は「中称の指示代名詞。それ。」、無比(むひ)は「他にくらべるものがないこと。たぐいないこと。また、そのさま。無二。無類。」の意味です。
雑感
下記参照。
『ベートーヴェン : 交響曲第6番『田園』第1楽章 / Beethoven : Symphony No.6 “Pastorale” - 1st mov. / 東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団』(「東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団Feuerwerk Philharmoniker」より)
『ベートーヴェン : 交響曲第6番『田園』第2楽章 / Beethoven : Symphony No.6 “Pastorale” - 2nd mov. / 東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団』(「東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団Feuerwerk Philharmoniker」より)
『ベートーヴェン : 交響曲第6番『田園』第3,4,5楽章 / Beethoven : Symphony No.6 “Pastorale” - 3,4,5 mov./東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団』(「東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団Feuerwerk Philharmoniker」より)
何か天国的な楽園の風景を想像して書いたものです。
ということでその感覚を言葉で表現すると、とある界域の天国に住む天人達は皆、昇りたての太陽の方向に常に向かっている……といっても、それは物理的にだけではなく、感覚的に向かっているということ。
それで……何というか説明が難しいが、現界と違って霊界は永遠なので、心の情態に応じて目の前の風景がパッパッと変わるわけだが、それは逆にいえば、その天人の情動が朝のような清々しい気持ちでずっと変わらなければ、霊界ではずっと朝のままだ、ということ。つまり霊界では現界のように強制的に時間が進んで朝昼晩と巡ってはいかない、ということ。
それで「昇りたての太陽の方向に向かっている」というのを噛み砕いた言葉で表現すると、要するに神の属性である真・善・美・愛の方向に全身全霊が向かっていて、またそれに同化せんとし、さらにより深い真・善・美・愛の高みへと昇らんとして、各天人がそのような立ち振る舞いをしている、ということ。
そしてそれは、唯一の創造主であらせられる主の神のお側により近づかんとする情動でもある、ということ。といってもそれは、現界的な感覚で自分を救ってほしいとか、神の名のもとに誰かを裁いてほしいとか、そういう感覚で近づこうとしているのではなくて、各天人の内奥から出て来る歓喜の情動によって惟神的になされている、ということ。
そのようにして天界にある太陽を通じて、天人が各自それぞれ神と向き合いながら、瞬間瞬間ごとに内的な歓喜交流をしている、ということ。ただ霊界は心の世界なので、その内なる歓喜の交流がそのまま目の前の霊界の風景として、天国的な光景として各人にとっては映っている、ということ。
ちなみに聖書の創世記には、エデンの園は東にある、という旨書かれてある。
『創世記 第2章』(「WordProject」より)
https://www.wordproject.org/bibles/jp/01/2.htm#0
個人的には「エデンの園」は、江田(エデン)の園という感じがして、入り江と田畑が目の前に広がっている園の風景、という感じがする。
また「佳美の其が無比」の其が無比、というのは、立派で美しい‘其れ(それ)’が無比だ、ということ。
現界的な感覚だと、あのチューリップの花が美しいなぁ、とか、このバナナはおいしいなぁ、とかいう表現になって、美しさを備えた‘それ’(チューリップ)が素晴らしいなぁ、とか、黄色に熟した‘それ’(バナナ)を食べるとおいしいなぁ、とかいう表現には普通ならないかと思う。
要するに、現界的な感覚では目の前に見える花が美しい、とか、この食べたバナナがおいしい、とか、それぞれ相対的な対象物が最初にあって、それが感覚されるわけだが、この「佳美の其が無比」はそういう感覚ではなくて、‘其れ(それ)’が無比だなぁ、と言っているということ。
だからまず最初に創造神の真・善・美・愛があって、目の前の花やバナナは創造神の真・善・美・愛の表現の一つ一つに過ぎない、ということ。
つまり現界的には、花は花で美しい、果物は果物でおいしい、と、それらは何ら関係なく、別個で感覚されていることが多いと思うがそうではなくて、まず最初に創造神の真・善・美・愛が感覚されて、花が美しいのはその創造神の真・善・美・愛の一つの表現であって、バナナがおいしいのもまたその創造神の真・善・美・愛の一つの表現だ、ということ。
言葉で説明するのが難しいが、たとえばバナナと柿を食べるとして、それらを食べるとどちらも「甘くておいしい」という表現になるが、バナナの味と柿の味は全然違う味だ、ということは味わってみればわかるかと思う。
しかし仮に、バナナも柿も知らない人に、バナナがどんなおいしさか、柿はどんなおいしさか、と伝えようとすれば、中々伝えようがないのではないだろうか。
バナナは当然バナナの味がして「そういう美味(うま)さ」としか表現し得なくなるだろうし、柿もまた当然柿の味がして「そういう美味(うま)さ」としか表現し得なくなる。
ではバナナと柿の味はどう違うのか、と聞かれれば、バナナはバナナの味であってそういう味としか言いようがない。其れ(それ)としか言いようがない味、となってしまう。
柿もまた同じで、柿は柿の味であってそういう味としか言いようがない、其れ(それ)としか言いようがない味、となってしまう。
要するに「佳美の其が無比」の部分は、それぞれ名称とか表現方法という、いわば外の部分を全部取っ払って、表現し得ない中身の正味の部分、‘其れ(それ)’としか言いようがない部分を言っている、ということになる。
だから天国的な光景を見た時に、あの花が綺麗だなぁ、とか、この木の実はおいしいなぁ、とか、そういう個別的な外の部分を味わっているのではなく、美しい花とかおいしい木の実とか綺麗な川とか、それら無数に表現されている事象を事象たらしめている創造神の真・善・美・愛が無比だなぁ、と言っている、ということ。