みのきしる くうかむりをり
つゆのまの ゆつりをりむか うくるしきのみ
(身退き知る 空被り居り 露の間の 移り居り無我 受くる色のみ)
解説
空(くう)は「仏語。すべての事物はみな因縁によってできた仮の姿で、永久不変の実体や自我などはないということ。」、被る(かむる)は「頭や顔などにそれを覆うものを載せる。また、全体をすっぽり覆う。」「頭からからだ全体にかけて受ける。水・ほこりなどを浴びる。」、居る(おる/をる)は「(動詞の連用形に付いて)~し続ける。~している。」、露の間(つゆのま)は「露がおいてから消えるまでの間。転じて、ちょっとの間。」、移る(ゆつる)は「うつる。多く、時間が経過する意に用いられる。」、無我(むが)は「 仏語。我(われ)というとらわれを離れること。また、不変の実体である我(が)は存在しないとすること。」、色(しき)は「五蘊(ごうん)の一。五感によって認識される、物質や肉体。存在物。もの。」の意味です。
余談
この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。
『Forest Funk』(「Sakuzyo Official」より)
雑感
最初の「身退き」の部分は、有身見から退いて、離れてという感じがする。
下記参照。
『法話と解説 パティパダー巻頭法話 自由への道』(「 日本テーラワーダ仏教協会」より)
「空被り居り」の部分は、普通だと五蘊(色受想行識)が自分だと思って居て、ちょうど五蘊という中身に‘私’を被せている感じかと思うが、そうではなくて、その‘私’の部分を‘空’に置き換える、という感じ。
つまり、普通はこの身体を見て「これは私の身体だ」とか認識したり、何か甘い物を食べた時に「私が甘いと感じている。」とか認識したりして、その都度現れる五蘊(色受想行識)に対して、常に覆いかぶさるようにして‘私’というものがあるが、その‘私’の部分を‘空’に置き換える、ということ。
なので五蘊(色受想行識)を永久不変の実体のある‘私’だと思っていると、たとえば10歳の時の私と30歳の時の私と50歳の時の私と80歳の時の私が、全部同じ‘私’だと思ってしまう、ということ。
だから「空被り居り」の部分はそれの反対で、永遠不滅の実体がない、という見方なのだから、さっきの例でいうと10歳の時の私と30歳の時の私と50歳の時の私と80歳の時の私は、みな因縁によってできた仮の姿である、という見方になっている、ということ。
だから次に「露の間の 移り居り無我」となっていて、この部分は一瞬一瞬時間が移り変わって居り、ということで、一言で言えば「無常」だということ。
それで一瞬一瞬移り変わって行く「無常」という見方になれば、先ほど例でも言ったように、10歳の時の私と30歳の時の私と50歳の時の私と80歳の時の私は、みな因縁によってできた仮の姿であり、我(われ)というとらわれから離れた状態が判る、即ち「無我」だよ、ということ。
下記参照。
『三相 (仏教)』(「wikipedia」より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9B%B8_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
『法話と解説 パティパダー巻頭法話 魂は巨大妄想の産物である』(「 日本テーラワーダ仏教協会」より)
最後の「受くる色のみ」の部分は、先ほどの例でいうと、この身体を見て「これは私の身体だ」と認識していたのが、その‘私(の)’という部分が抜けて、ただ単に「これは身体だ」という認識になって、立っている時は立っている時の身体、座っている時は座っている時の身体、という風に、私の身体、ではなく、その都度その都度現れた現象に過ぎなくなる、ということ。
結果、10歳の時の身体は10歳の時の身体であり、30歳の時の身体は30歳の時の身体であり、50歳の時の身体は50歳の時の身体であり、80歳の時の身体は80歳の時の身体であり、という風に、永久不変の実体がないことが解る、ということ。


