よさるまの きつきしんしん
  てるまいま るてんしんしき つきのまるさよ

(世去る間の 気付き心身 照る間今 流転深識 月の円さよ)

解説

心身(しんしん)は「こころと、からだ。精神と身体。」、流転(るてん)は「移り変わってやむことがないこと。」、深識(しんしき)は「深く知ること。また、深い見識。深い知識。」、円さ(まるさ)は「形容詞‘円い’‘丸い’が、接尾語‘さ’により体言化した形。」、よは「呼びかけの意を表す間投助詞。~よ。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Forest Funk』(「Sakuzyo Official」より)

雑感

「清浄道論」に、涅槃を月にたとえている箇所があったが、この表現はとても新鮮だった。

下記参照。

『『清浄道論』和訳 第二十二章 知見の清浄についての釈示』(「アラナ精舎 経典ライブラリーⅡ」より)


「世去る間の 気付き」は、今まさに自分が死ぬ直前だ、という心構えで「気付き(サティ)」を実践する、といった感じ。

お釈迦様も、頭についた火を消すために必死になるような気持ちで、と仰っている。

下記参照。

『初期仏教の世界心を育てるキーワード 浄心所 2.sati サティ:念』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)


『あなたの命がもしあと一日だったら 仏教の「不死なる道」|スマナサーラ長老の初期仏教月例講演会(25 Dec 2004 かやの木会館)#jtba #仏教心理学 #ブッダの教え』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)

 

しきのかは みやれはあはれ
  つゆのまの ゆつれはあはれ やみはかのきし

(色の川 見遣ればあはれ 露の間の 移ればあはれ 止みは彼の岸)

解説

色(しき)は「五蘊(ごうん)の一。五感によって認識される、物質や肉体。存在物。もの。」「五境の一。目でとらえられるもの。色や形のあるもの。」、見遣る(みやる)は「視線をその方向へ転じ向ける。」「全部終わりまで見る。見終わる。」、あわれ(あはれ)は「ああ。あれ。」「‘をかし’とともに、平安時代における文学の基本的な美的理念。深いしみじみとした感動・情趣をいう。のち、しだいに日本文学の美の根幹として発展し、調和美・優雅美・静寂美・悲哀美などのさまざまな内容を持つようになった。」、露の間は「露が結ばれてから消えてしまうまでの間。転じて、わずかのあいだ。」、移る(ゆつる)は「うつる。多く、時間が経過する意に用いられる。」、止み(やみ)は「続いてきた事態が終わること。とまること。」、彼の岸(かのきし)は「‘彼岸 (ひがん) ’を訓読みにした語。涅槃 (ねはん) 。」の意味です。

雑感

余談

この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Forest Funk』(「Sakuzyo Official」より)


雑感

「色の川」は、瞬間瞬間流れていく川のように変化していくこの目に見える世界を表現したもので、いわゆる「無常」のことと解釈できるかと思う。

「見遣ればあはれ 露の間の 移ればあはれ」は、瞬間瞬間移り変わってゆくその無常の流れを見ていくと、全てがあわれ(あはれ)に感じられて来る、ということ。

朝起きて、一日中何かの行動をして、疲れたら夜に寝て、そしてまた朝に起きる。或いは、腹が減ったら何かを食べ、その後はまた出して腹が減る、というように、無常の流れを観察していると生滅を繰り返していることがわかり、それも終わりがないことがわかるが、それでも見続けていくと、やがてはそれら現象への執着が「止み」になる、ということ。

特にヴィパッサナー瞑想では、それらの生滅を瞬間瞬間変化する動作の中で見ていくので、それを続けていくと五蘊(色受想行識)の流れが見えてきたりして、徐々に貪瞋痴(欲・怒り・無知)が解消されて、無執着の境地になれる、といった感じ。

ちなみに「痴(無知)」というのは、たとえば、人は誰もが死ぬことは客観的に観察していれば明らかな事実なのに、自分だけはいつまでも死なないように、変わらないように思ってしまって、いざ自分が病気になったり年老いたりして死が近づく気配を感じた途端、あわてふためいたりしてしまう、といったようなこと。

なのでヴィパッサナー瞑想で生滅を観察したり、死随念を普段からしていると、必ず訪れる「死」というものを受け入れやすくなる、といった感じ。

下記参照。

『「死」は幸福のキーワード ~「死隨念」のススメ~』(「 日本テーラワーダ仏教協会」より)


『『清浄道論』和訳 第八章 〔他の〕随念たる〔心を定める〕行為の拠点についての釈示』(「アラナ精舎 経典ライブラリーⅡ」より)

 

なかれゆき ほときせいめつ
  つみきつき みつつめいせき とほきゆれかな

(流れ行き 解き生滅 積み気付き 見つつ明晰 遠き揺れかな)

解説

解く(ほどく)は「結んだり、縫ったり、もつれたりしたものをときはなす。とく。」「迷いや疑いをはらす。正しく判断する。」、生滅(せいめつ)は「生き死に。変化の速やかなことをいう。」、明晰(めいせき)は「はっきりしていてわかりやすいこと。筋道が通っていること。明らかになること。また、そのさま。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Forest Funk』(「Sakuzyo Official」より)


雑感

モロにヴィパッサナー瞑想を思わせる感じの歌になってしまった。

下記参照。

『執着の発見ーー自宅で瞑想する心構えと観察のコツ|スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想法話(初期仏教のマインドフルネス、気づきの実践)#jtba #ブッダの教え #ブッダの瞑想』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)


「流れ行き」は、一瞬一瞬の無常の流れの中を行って、ということ。要は、その都度その都度、気付き(サティ)を持って観察しながら無常を感じる、ということ。

ヴィパッサナー瞑想を知らない人は、下記を見ればだいたいどんな瞑想かわかるかと思います。

下記参照。

『初期仏教の世界心を育てるキーワード 浄心所 2.sati サティ:念』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)


『ヴィパッサナー瞑想入門① 三帰依・五戒・懴悔/慈悲の瞑想/補足Q&A|スマナサーラ長老指導』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)


~~省略~~(興味があるならリンク先で順番に見ていってください)

『ヴィパッサナー瞑想入門⑩ Lesson8 座る瞑想/智慧の世界|スマナサーラ長老指導』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)


「解き生滅」は、「気付き(サティ)」でもって瞬間瞬間の生滅を見ていく、瞬間瞬間の生滅を判断していく、ということ。

「積み気付き」は、そうして「気付き(サティ)」を体験的に積んでいく、または「気付き(サティ)」のない状態の中で、知らず知らずに積まれてゆく「貪瞋痴の自分」に気付く、ということ。

たとえば電車が揺れた時に、誰かに足を踏まれて「怒り」が生じたとする。

通常であれば、踏まれた瞬間に「怒り」を感じて、さらにその感じた「怒り」が新たな「怒り」を増幅させて、結果相手と喧嘩になったり、或いはその時は我慢してもあとでそのことを思い出して怒りが湧いて来る、というようなことになるが、足を踏まれて「怒り」が生じた時に「気付き(サティ)」を入れて、「怒り」「怒り」と、知らず知らずに起こって来たその「怒り」の感情をそのまま観察していると、その「怒り」の状態に没入して‘怒っている自分’に気付くことによって、逆にその「怒り」が静まる、ということ。

「気付き 見つつ明晰」は、上記の説明にあるように「気付き(サティ)」を入れて見ていると、自分が怒っているなら、その怒りの状態を客観的に明確に見られるようになる、ということ。

慣れて来ると「あっ、今怒りが湧いた」と明確に解り冷静になれることで、淡々と物事に対処できるようになる、ということ。

最後の「遠き揺れかな」は、そのような自分の中の感情の揺れを遠くに感じる、或いは自分という実感、私という存在が、蜃気楼や陽炎のように遠くに感じる、ということ。

そうして‘私’と呼ばれているところの存在は、ただ瞬間瞬間生滅を繰り返すだけの‘現象’に過ぎなかった、ということが感じられて来るということ。

よのくろみ ひかりてかひの
  ひむかしか むひのひかてり かひみろくのよ

(夜の黒み 光りて佳美の 東が 無比の日が照り 加被弥勒の世)

解説

黒み(くろみ)は「黒いこと。黒い色。」「黒い部分。また、暗い所。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、東(ひむかし)は「方角の名。日の出る方向。西の対。十二支では卯(う)をあてる。ひんがし。」、無比は「他に比べるものがないこと。たぐいないこと。また、そのさま。無類。無双。無二。」、加被(かび)は「神仏が力を貸して守ってくれること。加護。」の意味です。

余談

この歌は、下記記事を読んでそれをモチーフに書いた歌です。

『まとめ1。神が表に現れて、善と悪とに立別ける。この世の閻魔とは何か?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

日月神示参照。

『上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ。悪神は如何様にでも変化(へんげ)るから、悪に玩具にされてゐる臣民人民 可哀想なから、此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ。未だ未だ忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざから くどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民 沢山出て来るから気付けておくのざ。まだまだ人民には見当取れん妙な事が次から次にと湧いて来るから、妙な事 此の方がさしてゐるのざから、神の臣民 心配ないなれど、さうなった神の臣民 未だ未だであろがな、掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ。天の様子も変りて来るぞ。何事にもキリと云ふ事あるぞ、臣民 可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気付けて下され、人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んから やりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ、まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され、神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ。人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるのざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民 自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな。』(雨の巻 第十二帖)

『この方の道、悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやるぞ。何事も得心させねば、根本からの掃除は出来んのざぞ、役員 気つけて呉れよ。皆和合して呉れよ。わるき言葉、息吹が此の方一番邪魔になるぞ、苦労なしにはマコト判らんぞ、慾はいらぬぞ、慾出したら曇るぞ。めくらになるぞ、おわびすればゆるしてやるぞ、天地に御無礼ない臣民一人もないのざぞ。病治してやるぞ、神息吹つくりてやれよ、神いぶきとは一二三書いた紙、神前に供へてから分けてやるもののことざぞ。腹立つのは慢心からぞ、守護神よくなれば肉体よくなるぞ、善も悪も分からん世、闇の世と申すぞ。天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから、開いた神々様に大きなメグリあるのざぞ、今度はメグリだけのことはせなならんぞ、神にはわけへだて無いのざぞ、今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ。まぢりありたら、にごり少しでもありたら、またやり直しせなならんから くどうきつけてゐるのざぞ。何時迄もかわらんマコトでひらくのざぞ。』(磐戸の巻 第十五帖)

『今迄は闇の世であったから、どんな悪い事しても闇に逃れる事出来てきたが闇の世はもうすみたぞ。思ひ違ふ臣民 沢山あるぞ。何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ。早ふさっぱり心入れ換へて下されよ。神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへて呉れよ。日本の国の臣民 皆兵隊さんになった時、一度にどっと大変が起るぞ。皆思ひ違ふぞ。カイの御用はキの御用ぞ。それが済みたら、まだまだ御用あるぞ。行けども行けども、草ぼうぼう、どこから何が飛び出すか、秋の空グレンと変るぞ。この方 化(ば)けに化けて残らずの身魂調べてあるから、身魂の改心なかなかにむつかしいから、今度と云ふ今度は、天の規則通り、びしびしとらちつけるぞ。御三体の大神様 三日此の世をかまひなさらぬと この世はクニャクニャとなるのざぞ。結構近づいて居るのざぞ。大層が近づいて居るのざぞ。この神示読みて神々様にも守護神殿にも聞かせて呉れよ。いよいよあめの日津久の神様おんかかりなされるぞ。』(水の巻 第十四帖)

『学も神力ぞ。神ざぞ。学が人間の智恵と思ってゐると飛んでもない事になるぞ。肝腎の真中なくなりてゐると申してあろが。真中動いてはならんのざぞ。神国の政治は魂のまつりことぞ。苦しき御用が喜んで出来る様になりたら、神の仕組判りかけるぞ。何事も喜んで致して呉れと申してあろがな。臣民の頭では見当取れん無茶な四(よ)になる時来たのざぞ。それを闇の世と申すのぞ。神はヽ、臣民は〇、外国は〇、神の国はヽと申してあろが、神国から見れば、まわりみな外国、外国から見れば神国真中。人の真中には神あらうがな。悪神の仕組は此の方には判りてゐるから一度に潰す事は易いなれど、それでは天の大神様にすまんなり、悪殺して終(しま)ふのではなく、悪改心さして、五六七(みろく)のうれしうれしの世にするのが神の願ひざから、この道理忘れるでないぞ。今の臣民 幾ら立派な口きいても、文字ならべても、誠がないから力ないぞ。黙ってゐても力ある人いよいよ世に出る時近づいたぞ。力は神から流れ来るのぞ。磨けた人から神がうつって今度の二度とない世界の、世直しの手柄立てさすぞ。みたま磨きが何より大切ぞ。』(日月の巻 第十一帖)

『今は闇の世であるから夜の明けたこと申しても、誰にも分らんなれど、夜が明けたらなる程さうでありたかとビックリするなれど、それでは間に合はんのざぞ、それまでに心改めておいて下されよ、この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ、道に外れたものは誰れ彼れはないのざぞ、これまでのやり方スックリと変へねば世は治まらんぞと申してあるが、上の人 苦しくなるぞ、途中の人も苦しくなるぞ、お〇(かみ)のいふこときかん世になるぞ。』(地つ巻 第二帖)

三鏡参照。

『三鏡 水鏡 [124]ミロクの世』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


そういえばトドメノフミに「春、魔、下、ドン(ハルマゲドン)」とか「ギリギリ午の秋まで」とかあったことを思い出した。

下記参照。

『トドメノフミ 転記 (元サイト消失)』(「ムムム」さん)


なので、今年の節分過ぎてから、急転直下の状態になるのかもしれない。

日本国債の金利上昇、金銀価格の乱高下、イラン国会がホルムズ海峡の封鎖を求める方針を承認したなど、いまだかつてない事態に世界が突入している。概ね、日月神示の予言通りになっている。

下記参照。

『マーケット 指数・為替・金利 日本国債10年』(「SBI証券」より)


『この先どうしたらよいかと云ふ事は、世界中 金(かね)の草鞋(わらじ)で捜しても九九(ここ)より他 分からんのざから、改心して訪ねて御座れ。手取りてよき方に廻してやるぞ。神の国の政治は、もの活かす政治と申してあろが、もの活かせば、経済も政治も要らんぞ。金もの云ふ時から、物もの云ふ時来るぞ。誠もの云う時来るぞ。石もの云ふ時来るぞ。』(松の巻 第五帖)

 


『XAU/USD - 金スポット アメリカドル』(「Investing.com」より)

https://jp.investing.com/currencies/xau-usd-chart


『この神示読むとミタマ磨けるぞ、ミガケルぞ。神示読むと改心出来るぞ。暮し向きも無理なく結構にヤサカ、弥栄えるぞ。まだ判らんのか。苦しいのは神示読まんからぢゃ。金の世すみて、キンの世来るぞ。~後略~。』(黄金の巻 第二十三帖)

『金(きん)では治まらん、悪神の悪では治まらん、ここまで申してもまだ判らんか、金では治まらん、悪の総大将も其の事知って居て、金で、きんで世をつぶす計画ざぞ、判ってゐる守護神殿 早う改心結構ぞ、元の大神様に御無礼してゐるから病神に魅入られてゐるのぢゃぞ、洗濯すれば治るぞ、病神は恐くて這入って来られんのぢゃぞ、家も国も同様ざぞ。神示幾らでも説けるなれど誠一つで説いて行(おこな)って下されよ、口で説くばかりではどうにもならん、魂なくなってはならん。』(梅の巻 第二十六帖)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『イランは対決姿勢、報復焦点 ホルムズ海峡封鎖論も』(「yahooニュース」より)

 

とひみかく たまもてまこと
  きさみこみ さきとこまても またくかみひと

(問ひ磨く 霊以て誠 刻み込み 先何処までも 全く神人)

解説

問う(とう/とふ)は「質問する。問いたずねる。また、判断を求める。」、霊(たま)は「たましい。」、以て(もて)は「~でもって。~で。~(を)使って。▽手段・材料を示す。」、誠(まこと)は「誠実で偽りのない心。すなおでまじめな心。」、全く(またく)は「まったく。すっかり。」の意味です。

余談

この歌は、下記霊界物語を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第55巻 余白歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm558801


雑感

この「問ひ磨く 霊」は、自らのしたことを問うて、自問自答して、その都度見直し聞き直しをしながら磨く霊(たま)、という感じがするので、要するに自身を省みながら磨く霊、という解釈が出来るのではないかと思う。

そしてまた、この「省みる」とは、下記の五情の戒律における直霊(なおひ)の働きを指しているとも言えるかと思う。

下記参照。

『霊界物語 第10巻 第2篇 禊身の段 第29章 言霊解三』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1029


さらに霊界物語では、この天地の律法は国治立命(国常立尊)が制定した、と説明されている。

『霊界物語 第2巻 第7篇 天地の大道 第45章 天地の律法』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0245


『霊界物語 第3巻 第1篇 国魂の配置 第1章 神々の任命』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0301


ちなみに日月神示でも、この五情の戒律について書かれてある部分がある。

『ひかり教の教旨 書き知らすぞ、人民その時、所に通用する様にして説いて知らせよ。 教旨 天地(てんち)不二、神人合一。天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり、不二(ふじ)なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神、幽、現、を通じ、過、現、末、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ。 次に信者の実践のこと書き知らすぞ。 三大実践主義 弥栄実践 祓実践 ◎(まつり)実践 大宇宙の弥栄生成化育は寸時も休むことなく進められてゐるのざぞ、弥栄が神の御意志ざぞ、神の働きざぞ、弥栄は実践ざぞ。人としては其の刹那々々に弥栄を思ひ、弥栄を実践して行かねばならんのざぞ。宇宙の総ては◎となってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、悉く中心に統一せられてゐるのざぞ。マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ、人々のことごとマツリ合はすはもとより、神、幽、現、の大和実践して行かねばならんのざぞ。天地(あめつち)の大祓ひと呼応して国の潔斎、人の潔斎、祓ひ清めせねばならんのざぞ、与へられた使命を果たすには潔斎せねばならんのざぞ。かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる、の五つのはたらきを正しく発揮して、みそぎ祓を実践せねばならんのであるぞ。役員よきにして今の世に、よき様に説いて聞かして、先づ七七、四十九人、三百四十三人、二千四百〇一人の信者早うつくれよ、信者は光ぞ、それが出来たら足場出来るのざぞ。産土の神様 祀りたら、信者出来たら、国魂の神様 祀れよ、次に大国魂の神様 祀れよ、世光来るぞ。』(青葉の巻 第三帖 ◎は原文では「〇の中にヽ」の記号)

『カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ。誰でも霊かかりであるぞ。石でも木でも土でも霊かかりぞ。これは一般かみかかりであるぞ、特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。九分通りしくじるのぢゃ。太陽の光集めること知っているであらうが。神の理(ミチ)をよりよく、より高く集める理(ミチ)がマコトの信仰であるぞ。理(ミチ)であるぞ。世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。サニワせよ。外はウソが多いぞ。内の声ウソないぞ。』(春の巻 第二帖)

そして、今度は直日(直霊)のみでなくてはならん、とも。

『言はれる間はよいぞ。読まれる間はよいぞ。綱切れたら沖の舟、神信じつつ迷信に落ちて御座るぞ。日本の国のミタマ曇ってゐることひどいぞ。外国、同様ながら筋通ってゐるぞ。型にはめると動きないことになるぞ。型外せと申してあらうが。自分で自分を監視せよ。顕斎のみでも迷信、幽斎のみでも迷信、二つ行っても迷信ぞ。二つ融け合って生れた一つの正斎を中として顕幽、両斎を外としてまつるのが大祭りであるぞ。荒、和、幸、奇、ミタマ統べるのが直日のみたま。みすまるのたまぞ。今度は直日のみでなくてはならん。直日弥栄えて直日月※の能(ハタラキ)となるのぞ。食物 気つけよ。信仰は感情ぞ。飢えた人には食物。神よ勝て。人間 勝ってはならんぞ。』(黄金の巻 第二十一帖 ※は原文では「〇の中に十」の記号)

霊界物語では「省みる」の働きが無くなると直霊が曲霊に変ずる、と説明されているが、下記ブログでは、曲霊になっている場合は直霊がなくて(乱れた状態の)四魂のみになっている、と説明がある。

下記参照。

『最後の審判迄の【時は金なり】と四ッ花で知る甲斐の【風林火山】。そして、解釈誤りのお詫び。』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


つまり四魂(荒魂、和魂、幸魂、奇魂)を統率する直霊が無くなることによって、悪い状態の四魂(争魂、悪魂、逆魂、狂魂)のみになり、一霊四魂ではなくて四魂のみになっている、ということになる。

下記参照。

『一霊四魂』(「オニペディア」より)

https://onipedia.info/wiki/%E4%B8%80%E9%9C%8A%E5%9B%9B%E9%AD%82


なので、直日のみでなくてはならん、とは、身魂を磨いて直霊(直日)とより深く繋がって、天帝の分霊としての役割を全うせしめよ、という意味があるようにも感じる。

逆から言うと、四魂は悪い状態に変化する可能性があるが、直霊だけはそうはならない、ということかと思う。

だからその直霊が無くならないように、常に「省みる」ということをしながら、せっかく給わっている天帝の分霊という唯一無二のお恵み、お宝を外すな、ということかと思う。

またそのようにして、一霊たる直霊と繋がっていれば、他の四魂も自ずと正しく機能する、ということではないかとも思う。

きゐのつい ふかんしんしに
  またきいき たまにしんしん かふいつのゐき

(貴威の対 俯瞰神事に 全き水火 魂に神人 合一の域)

解説

貴威(きい/きゐ)は「貴さのある威光。」、俯瞰(ふかん)は「高い所から見下ろし眺めること。鳥瞰。」「(比喩的に)広い視野で物事を見たり考えたりすること。また、ある事柄や状況に対して客観視すること。」、神事(しんじ)は「神を祭る儀礼。祭り。かみごと。」、全し(またし)は「事物・事態が不足なく、または、欠点やきずがなく完全である。全部が整っている。完全である。完璧である。不都合のない。まったい。」、魂(たま)は「たましい。」、神人(しんじん)は「神と人。」、合一(ごういつ/がふいつ)は「二つ以上のものが合わさって一つになること。また、合わせて一つにすること。」、域(いき/ゐき)は「物事の程度の、一定の段階。範囲。境地。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画を見て、それをモチーフに書いた歌です。

『植芝開祖の合氣道の変遷5 鎮魂法と言霊、そして呼吸力へ』(「片桐実里」さん)


雑感

昨日、ふとyoutubeのオススメ欄に出て来て、拝見していたら何となく歌が出て来たけど、あんまり気分が乗らずにボツにしたのだが、今日また何となく気になってしまって、結局元の歌をちょっと修正して出すことにしました。

それにしても、水火は普通は「イキ」とは読まないけど、なんか独自にそう呼ぶらしいので「息」ではなくて「水火」の漢字を当ててみた。

他には「水火」は水火(みづほ)とも読めるらしい。


下記参照。

『鎮魂帰神』(「神言会」より)


『【鎮魂の印】合気道〜技の極意〜【紅葉重ねの手】』(「天龍寺クッキング談義」より)


そういや霊界物語にも合気道っぽい描写があるけど、やっぱり霊界物語が合気道の源流なんかしら。

だいたいの場面では、〇〇姫などの女性が複数の男性を放り投げとるし。

霊界物語参照。

『霊界物語 第8巻 第4篇 巴留の国 第19章 刹那心』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0819


※ちなみにここに出て来る蚊々虎(ががとら)は男だけど、別の箇所(霊界物語第31巻の第14章など)では、蚊々虎(ががとら)は木の花咲耶姫(或いは木の花姫)の化身、と説明があったりする。

『霊界物語 第22巻 第5篇 神界経綸 第18章 布引の滝』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm2218


『霊界物語 第39巻 第2篇 黄金清照 第4章 河鹿越』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3904


『霊界物語 第40巻 第4篇 関風沼月 第18章 沼の月』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4018


それにしても、下記動画の途中に出て来る植芝開祖の祝詞って、モロに霊界物語60巻にある「天津祝詞」やん。

『植芝盛平 合気道の奥義』(「デコギピン」さん)


『霊界物語 第60巻 第4篇 善言美詞 第14章 神言』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm6014


さらに下記動画では、霊界物語の口述に常に側近として立ち会っていた、と解説があるので、やはり合気道の源流はここにあるんではないやろか。

『合気道と大本』(「高橋剛造」さん)

 

※何気に、出口王仁三郎聖師のみならず2代教主3代教主、また出口日出麿尊師の動いている映像があるのもすごい。


『植芝開祖の合氣道の変遷4 開祖は大本で何を学んだか』(「片桐実里」さん)

 

しらはすの さとりはなのか
  なみたたた みなかのなはり とさのすはらし

(白蓮の 悟り花の香 涙ただ 真中の隠り 十座の素晴らし)

解説

白(しら)は「(他の語の上に付いて複合語をつくり)白色である意を表す。」、香(か)は「かおり。におい。現代では、良いにおいをさすことが多い。」「美しい色つや。光沢。」、真中(みなか)は「まなか。まんなか。」、隠る(なばる)は「隠れる。なまる。なぶ。」、十(と)は「数の、とお。じゅう。多く、名詞の上に付けて用いる。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Wanna Cry』(「Sakuzyo Official」より)

 

下記参照。

『Wanna Cry -Sonata- (feat. Katali)』(「Sakuzyo Official」より)

 

ひころよの ひしうかゑみの
  まいにちに いまのみゑかう しひのよろこひ

(日頃世の 悲愁が笑みの 毎日に 今の身回向 慈悲の喜び)

解説

悲愁(ひしゅう/ひしう)は「悲しみに深く心が沈むこと。悲しみとうれい。」、笑み(えみ/ゑみ)は「にっこりとすること。笑うこと。ほほえみ。微笑。」、回向(えこう/ゑかう)は「自分の修めた功徳(くどく)を他にも差し向け、自他ともに悟りを得るための助けとすること。」、慈悲は「仏語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Forest Funk』(「Sakuzyo Official」より)


雑感

下記参照。

『初期仏教の世界 慈悲の瞑想』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)


『慈悲は人生の必需品 『慈悲の瞑想』で幸せになる理由|スマナサーラ長老の初期仏教法話(09 May 2019 栄中日文化センター)※音声のみ』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)


個人的には動画の最後らへんにある「自愛」と「自我」の違いの話がおもしろかった。

また「慈悲の瞑想」は下記のような講演会などでも、よく唱えられている。

『騙し騙される人生 ―― 騙されたくないからこそ騙される|スマナサーラ長老の初期仏教月例講演会(18 Dec 2022 一橋講堂)』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)


ちなみに動画の内容は、伝統的な宗教から新興宗教、カルト宗教、或いはジャーナリズムや政治まで、色々な分野での騙しのお話から、最後は、自分でも気付かない内に自分を騙してしまっているという、いわゆる自我による騙しにまで話が広がっていて、とてもおもしろい。

何となく、日月神示の自分が自分に騙されている、を思い出す。

日月神示参照。

『悪を食ふて暮さなならん時近づいたぞ、悪に食われんように、悪を噛んで、よく消化し、浄化して下されよ、悪は善の仮面をかぶってゐること多いぞ、だが悪も大神の中に生れたものであることを知らねばならん。ダマシたいものには一先づダマサレてやれよ、ダマサレまいとするからダマサレるのであるぞ。生命の樹の実は美しくおいしいぞ、食べてはならんが食べねばならんぞ、肉体慾が先に出るから生命を失ふ、心でとりて実を喜ばせて食べるとよいのであるぞ、食べないで食べる秘密。』(五葉の巻 第十三帖)

『考えてゐては何も成就せんぞ。神界と交流し、神界に生き、神界と共に弥栄すればよいのぢゃ。人間だけの現実界だけで処理しようとするのが今迄の考えぢゃ。今迄の考えでは人間の迷ひぞと申してあろうがな。迷ひを払って真実に生きよ。みたましづめぢゃ。加実しづめぢゃ。そなたは信仰のありかたを知らんぞ。長い目で永遠の立場からの幸が、歓喜がおかげであるぞ。局部的一時的には いやなことも起ってくるぞ。天地を信じ、自分を知り、人を理解する所にこそ まことの弥栄あるぞ。だますものにはだまされてやれよ。一先づだまされて、だまされんように導いて下されよ。そなたはそんな場合に我を出すからしくじるのぞ。だまされてやろうとするからカスが残るのぞ。まことにだまされる修業が大切ぢゃなあ。』(月光の巻 第四十六帖)

『気の合う者のみで和して御座るなれど、それでは和にならんと知らしてあろうがな、今度は合わんものと合せるのぢゃ、岩戸がひらけたから、さかさまのものが出て来てゐるのぢゃ、この行(ぎょう)、中々であるなれど、これが出来ねば岩戸はひらけんのぢゃ、マコトの神さえ魔神のワナにかかって御座るのぢゃ、人民がだまされるのも無理ないようなれど、だまされてゐては今度の御用は成就せんぞ。自分自身にだまされてゐる人民も多いのであるが、ついて御座れよ、少しは苦しき行もあるなれど見事なことを致して御目にかけるぞ、自分でもビックリぢゃ、はじめからの神示よく読んで下されよ、霊かかりよろしくないぞ、やめて下されと申してあろう。』(碧玉の巻 第二帖)

『頭さげて低うなって見なされよ、必ず高い所から流れてくるぞ。高くとまっているから流れて来んのぢゃ、神のめぐみは水のように淡々として低きに流れて来るぞ、自分が自分にだまされんように心して下されよ、善悪をきめて苦しんで御座るぞ。世界の片端浜辺から いよいよが起って来たぞ、夜明け近づいたぞ。』(極めの巻 第十六帖)

『伊豆幣帛(いづぬさ)を 都幣帛(とぬさ)に結び 岩戸ひらきてし。 ウヨウヨしてゐる霊かかりにまだ、だまされて御座る人民多いのう、何と申したら判るのであるか、奇跡を求めたり、われよしのおかげを求めたり、下級な動物のイレモノとなってゐるから、囚われてゐるから、だまされるのぢゃ、霊媒の行ひをよく見ればすぐ判るでないか。早うめさめよ、因縁とは申しながら、かあいそうなからくどう申して聞かせてゐるのであるぞ、マコトの道にかへれよ、マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、そのうらは十九八七六五四三二一〇で、合せて二十二であるぞ、二二が真理と知らしてあろう、二二が富士(不二、普字)と申してあろうが、まだ判らんか。』(紫金の巻 第三帖)

『世界中が霊かかりとなると申してあるのは今のことであるぞ、かかりてゐる世界自身わからなくなっているぞ、サニワせねばならん、サニワの方法書き知らすぞ。世界を、日本を、自分をサニワせねばならん。目に見へぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならんぞ、下級霊は現実界と紙一重の所に住んでゐるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤(もっと)もらしく人民の目にうつるものであるぞ、高度のものは、その人民のミタマの如何(いかん)によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。また天使の霊が母体に宿り人民として生れてくる事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ。』(竜音の巻 第三帖)

はかなさの ひしんこんしき
  よきりけり きよきしんこん しひのさなかは

(儚さの 微震金色 過りけり 清き心根 慈悲の最中は)

解説

微震(びしん)は「かすかな震動。微小のふるえ。」、金色(こんじき)は「黄金の色。こがねいろ。きんいろ。きんしょく。」、過るは「前を通りすぎる。通過する。通りこす。」、心根(しんこん)は「性質。性格。また、心の奥底。心底(しんそこ)。こころね。」、慈悲は「仏語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。」、最中は「たけなわであるとき。さいちゅう。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Forest Funk』(「Sakuzyo Official」より)


雑感

金色(こんじき)は今識(こんじき)でもあるように感じる。今この瞬間を認識する、というような感じで。

昔読んだ「神との対話」という本に「すべての時は黄金である。」とかいうような一文があったように記憶しているが、その表現にも通ずるものがあるように感じる。

「儚さの 微震金色 過りけり」の部分は要するに、一瞬も絶えることのない無常の流れの中に感じる、今この瞬間、といった感覚を表現しているのではないかと思う。「微震」は微妙な振動、いわゆる一瞬の間に起こる「生滅」を表しているっぽい感じがする。

「清き心根 慈悲の最中は」は、そのように瞬間瞬間における無常を感じることで、貪瞋痴とか煩悩がなくなっていって、何とも言えない清い心、慈悲の心を感じることが出来る……と感じた先から、瞬間その心も無常のままに流れていき、さらに純化された清い心、慈悲の心を感じるようになり、気が付けば今のこの瞬間瞬間に清い心、慈悲の心を感じられるだけになったなぁ、といった感じ。

下記参照。

『慈悲の瞑想フルバージョン ブッダの聖なる心を体験しましょう|アルボムッレ・スマナサーラ長老(字幕テキスト付)』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)


『慈悲の瞑想フルバージョン 生命の真理に達する実践|アルボムッレ・スマナサーラ長老の瞑想指導(日本語字幕付き)』(「日本テーラワーダ仏教協会 公式チャンネル」より)

 

すへかみの ちきのひかてり
  のりとこと りのりてかひの きちのみかへす

(皇神の 直の日が照り 祝詞言 理宣りて加被の 奇智の見返す)


解説


皇神(すべがみ)は「神を敬っていう語。すめかみ。」、直(じき/ぢき)は「間に人や物を置かずにすること。また、そのさま。直接。じか。」、祝詞言(のりとごと)は「‘のりと’に同じ。」、理は「物事の筋道。ことわり。道理。」、宣る(のる)は「告げ知らせる。述べる。口に出して言う。」、加被(かび)は「神仏が力を貸して守ってくれること。加護。」、奇智は「すぐれた知恵。奇抜な才知。」の意味です。

余談

この歌は、下記記事を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

 

雑感

下記参照。

『霊界物語 第60巻 第4篇 善言美詞 第14章 神言』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


上記の記事を拝読していたらふと出て来た歌だけど、「皇神の 直の日が照り」の部分は「神」「直」「日」(=神直日)の言葉が織り込まれているっぽい。

ご存じの方はご存じだろうけど、日本神話に出て来る神様で大本の基本宣伝歌にも出て来る。

下記参照。

『神直日神』(「wikipedia」より)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9B%B4%E6%97%A5%E7%A5%9E


『霊界物語 第1巻 基本宣伝歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


歌の後半の「奇智」は、奇魂(くしみたま)の智慧の意味もあるっぽい感じがする。

「奇魂」はいわゆる一霊四魂のうちの一つで、智を司ると言われている。

下記参照。

『霊界物語 第10巻 第2篇 禊身の段 第29章 言霊解三』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


また死後は各自生前の立ち振る舞い、いわゆるカルマに応じて天国地獄に分けられるわけだが、霊界物語では智慧証覚(ちえしょうかく)の大小によって、同じ天国でも上・中・下のそれぞれ違う天国に行く、と記されている。

下記参照。

『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第14章 天開の花』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


ということで、たぶん普段から祝詞を唱えている人とかは、神の直々の光をその身魂に受けているので、天国に昇りやすいのだろうとも思う。

ただ、汚い心で祝詞を上げているとダメらしい。

下記場面では、神言(≒大祓詞)が改変された醜い祝詞が上げられていたりする。この部分のタイトルは噛言(かむごと)となっているが、おそらく神言(かむごと)のまがい物という意味も含まれているのではないかと思う。

真心から宣りあげる神言ではなくて、ただ言葉を噛むようにして読んでいるだけ、という感じで、本人は一生懸命有難い祝詞を唱えていると思っていても、全然祝詞になっていないよ、というきつい戒めなのだと思う。

下記参照。

『霊界物語 舎身活躍 第46巻 第1篇 仕組の縺糸 第3章 噛言』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


物語では、この改変された醜い祝詞を上げる前に「お寅(とら)は又(また)もや神言(かみごと)を奏上(そうじょう)した。」とあるので、口から出る言葉は「神言」の文言に違いないけれども、その心が汚れているので、霊的に聞けば改変された醜い祝詞を上げているのと同じ状態になっている、ということなのかもしれない。

つまり、我々も汚い心で「天津祝詞」や「神言」を奏上していれば、神様には上記のような醜い祝詞に聞こえているよ、即ち祝詞としての体(てい)を成していないどころか、天地に害悪を垂れ流しているだけだよ、ということのようにも思う。

また別の場面では、この「神言」を何かのついでに奏上する、というような心持ちに対して、同じく強い戒めがなされている。

『霊界物語 第9巻 第3篇 天涯万里 第15章 団子理屈』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『霊界物語 第7巻 第8篇 一身四面 第42章 分水嶺』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)