とくこうん てるのかむかい
  かせのまの せかいかむかの るてんうこくと

(解く五蘊 出る野が無涯 風の間の 世界が無我の 流転動くと)

解説

五蘊(ごうん)は「仏語。存在を構成する五つの要素。すなわち、物質的、身体的なものとしての色蘊(しきうん)、感覚作用としての受蘊、表象作用としての想蘊、意志・欲求などの心作用としての行蘊(ぎょううん)、対象を識別する作用としての識蘊。五陰(ごおん)。」、無涯(むがい)は「かぎりのないこと。はてしないこと。」、流転は「状態・境遇などが、たえず移り変わること。同じ状態にとどまらず変化していくこと。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Forest Funk』(「Sakuzyo Official」より)


雑感

「解く五蘊」は、五取蘊(五蘊に執着すること)から解放するとか、五蘊をヴィパッサナー瞑想でその都度観て分解するとか、そういう感じかと思う。

「出る野」は、野に出るということ。出家なんて言葉もあるけれど、自分の家から出て野に出る、というニュアンス。

といっても別にお坊さんになるとかそういうことではなくて、自分の家、つまり自分が普段から見ている煩悩の世界から脱出する、という感じかと思う。

下記参照。

『法話と解説 パティパダー巻頭法話 見た目では分かりません』(「 日本テーラワーダ仏教協会」より)


『法話と解説 パティパダー巻頭法話 生命にマイホームが必ずある』(「 日本テーラワーダ仏教協会」より)


『法話と解説 パティパダー巻頭法話 聖者(阿羅漢)の心②』(「 日本テーラワーダ仏教協会」より)


「風の間の 世界」は、風が吹いている、または止んでいる間の世界ということ。つまり、ある時に風が吹いていることを感じた時に、「あっ!今、風が吹いている!」と感じていても、その風がどこから現れたのかわからないし、また感じているその間に、その風はどこかに消えて行く、という感じで、要するに「無常」とか「生滅」の世界を象徴している、ということかと思う。

「世界が無我の 流転動くと」は、自我を持っていない風、無我なる風がそのまま流転していくような様で(自分が)動くと、ということ。

といっても、本来は「動くと」だけで「(自分が)動くと」ではない。なぜなら風のように無我であり無常だからである。でもわかりやすいように(自分が)といちおう付けた、ということです。

ヴィパッサナー瞑想では、名詞は使わずに動詞だけを使うので「動くと」だけになっている、とも言えるかと思います。

そうして、そのように動くと歌の最初の「解く五蘊」がさらに進む、といった感じになるかと思う。

回文なので、図にするとこんな感じ。こうやってぐるぐる回りながら、深い境地に入っていく、というイメージ。

→  →  →  →  →  →  →  →  →  →  →  →
とくこうん てるのかむかい かせのまの せかいかむかの るてんうこくと
 ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←

(解く五蘊 出る野が無涯 風の間の 世界が無我の 流転動くと)

なかきよの ねむりよきここ
  たまふるふ またここきより むねのよきかな

(永き代の 眠り良き午後 魂震ふ また此処来寄り 胸の良きかな)

解説

魂(たま)は「たましい。」、来寄る(きよる)は「寄って来る。寄せて来る。」、胸は「こころ。思い。心の中。」の意味です。

余談

この歌は、下記音楽動画を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。アニメ「BANANA FISH」のEDテーマです。

『RED』(「Survive Said The Prophet(サバイブ・セッド・ザ・プロフェット)」より)


雑感

自分は男なので、このアニメ特有のとある要素が露骨すぎてちょっとあれだったが、昨今話題になっていたエプスタインファイルのような内容もあって、中々おもしろかった。ある意味、神作品だと思う。

ひむかしの ひかりのみちの
  のそみしみ そののちみのり かひのしかむひ

(東の 光の道の 望み滋味 園の地実り 佳美の其が無比)

解説

東(ひむかし)は「太陽の出る方角。東方。ひがし。」、望みは「ながめ。眺望。」、滋味(じみ)は「うまい味わい。また、栄養になる、うまい食べ物。」「(比喩的に)物事に感じられる豊かな深い味わいなど。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、其(し)は「中称の指示代名詞。それ。」、無比(むひ)は「他にくらべるものがないこと。たぐいないこと。また、そのさま。無二。無類。」の意味です。

雑感

下記参照。

『ベートーヴェン : 交響曲第6番『田園』第1楽章 / Beethoven : Symphony No.6 “Pastorale” - 1st mov. / 東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団』(「東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団Feuerwerk Philharmoniker」より)


『ベートーヴェン : 交響曲第6番『田園』第2楽章 / Beethoven : Symphony No.6 “Pastorale” - 2nd mov. / 東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団』(「東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団Feuerwerk Philharmoniker」より)


『ベートーヴェン : 交響曲第6番『田園』第3,4,5楽章 / Beethoven : Symphony No.6 “Pastorale” - 3,4,5 mov./東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団』(「東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団Feuerwerk Philharmoniker」より)


何か天国的な楽園の風景を想像して書いたものです。

ということでその感覚を言葉で表現すると、とある界域の天国に住む天人達は皆、昇りたての太陽の方向に常に向かっている……といっても、それは物理的にだけではなく、感覚的に向かっているということ。

それで……何というか説明が難しいが、現界と違って霊界は永遠なので、心の情態に応じて目の前の風景がパッパッと変わるわけだが、それは逆にいえば、その天人の情動が朝のような清々しい気持ちでずっと変わらなければ、霊界ではずっと朝のままだ、ということ。つまり霊界では現界のように強制的に時間が進んで朝昼晩と巡ってはいかない、ということ。

それで「昇りたての太陽の方向に向かっている」というのを噛み砕いた言葉で表現すると、要するに神の属性である真・善・美・愛の方向に全身全霊が向かっていて、またそれに同化せんとし、さらにより深い真・善・美・愛の高みへと昇らんとして、各天人がそのような立ち振る舞いをしている、ということ。

そしてそれは、唯一の創造主であらせられる主の神のお側により近づかんとする情動でもある、ということ。といってもそれは、現界的な感覚で自分を救ってほしいとか、神の名のもとに誰かを裁いてほしいとか、そういう感覚で近づこうとしているのではなくて、各天人の内奥から出て来る歓喜の情動によって惟神的になされている、ということ。

そのようにして天界にある太陽を通じて、天人が各自それぞれ神と向き合いながら、瞬間瞬間ごとに内的な歓喜交流をしている、ということ。ただ霊界は心の世界なので、その内なる歓喜の交流がそのまま目の前の霊界の風景として、天国的な光景として各人にとっては映っている、ということ。

ちなみに聖書の創世記には、エデンの園は東にある、という旨書かれてある。

『創世記 第2章』(「WordProject」より)
https://www.wordproject.org/bibles/jp/01/2.htm#0

個人的には「エデンの園」は、江田(エデン)の園という感じがして、入り江と田畑が目の前に広がっている園の風景、という感じがする。

また「佳美の其が無比」の其が無比、というのは、立派で美しい‘其れ(それ)’が無比だ、ということ。

現界的な感覚だと、あのチューリップの花が美しいなぁ、とか、このバナナはおいしいなぁ、とかいう表現になって、美しさを備えた‘それ’(チューリップ)が素晴らしいなぁ、とか、黄色に熟した‘それ’(バナナ)を食べるとおいしいなぁ、とかいう表現には普通ならないかと思う。

要するに、現界的な感覚では目の前に見える花が美しい、とか、この食べたバナナがおいしい、とか、それぞれ相対的な対象物が最初にあって、それが感覚されるわけだが、この「佳美の其が無比」はそういう感覚ではなくて、‘其れ(それ)’が無比だなぁ、と言っているということ。

だからまず最初に創造神の真・善・美・愛があって、目の前の花やバナナは創造神の真・善・美・愛の表現の一つ一つに過ぎない、ということ。

つまり現界的には、花は花で美しい、果物は果物でおいしい、と、それらは何ら関係なく、別個で感覚されていることが多いと思うがそうではなくて、まず最初に創造神の真・善・美・愛が感覚されて、花が美しいのはその創造神の真・善・美・愛の一つの表現であって、バナナがおいしいのもまたその創造神の真・善・美・愛の一つの表現だ、ということ。

言葉で説明するのが難しいが、たとえばバナナと柿を食べるとして、それらを食べるとどちらも「甘くておいしい」という表現になるが、バナナの味と柿の味は全然違う味だ、ということは味わってみればわかるかと思う。

しかし仮に、バナナも柿も知らない人に、バナナがどんなおいしさか、柿はどんなおいしさか、と伝えようとすれば、中々伝えようがないのではないだろうか。

バナナは当然バナナの味がして「そういう美味(うま)さ」としか表現し得なくなるだろうし、柿もまた当然柿の味がして「そういう美味(うま)さ」としか表現し得なくなる。

ではバナナと柿の味はどう違うのか、と聞かれれば、バナナはバナナの味であってそういう味としか言いようがない。其れ(それ)としか言いようがない味、となってしまう。

柿もまた同じで、柿は柿の味であってそういう味としか言いようがない、其れ(それ)としか言いようがない味、となってしまう。

要するに「佳美の其が無比」の部分は、それぞれ名称とか表現方法という、いわば外の部分を全部取っ払って、表現し得ない中身の正味の部分、‘其れ(それ)’としか言いようがない部分を言っている、ということになる。

だから天国的な光景を見た時に、あの花が綺麗だなぁ、とか、この木の実はおいしいなぁ、とか、そういう個別的な外の部分を味わっているのではなく、美しい花とかおいしい木の実とか綺麗な川とか、それら無数に表現されている事象を事象たらしめている創造神の真・善・美・愛が無比だなぁ、と言っている、ということ。

みきにのと みいつみしまの
  けいしよし いけのましみつ いみとのにきみ

(神酒に祝詞 御稜威見し間の 慶事良し 池の真清水 斎殿に岐美)

解説

神酒(みき)は「酒の美称。特に、神に供える酒。おみき。」、祝詞(のと)は「‘のりと’に同じ。」、御稜威(みいづ)は「御威勢。御威光。」、慶事は「よろこびごと。いわいごと。現代では、特に、結婚、出産などの祝い事をいう。」、真清水(ましみず/ましみづ)は「清水の美称。澄みきった清らかな水。」、斎(いみ)は「他の語の上に付いて複合語をつくり、汚れを清めた、神聖な、の意を表す。」の意味です。

雑感

何となく出て来た歌です。

すのかみの ひかりのみたま
  たまはるは またまたみのり かひのみかのす

(主の神の 光の御霊 賜る場 未だ未だ実り 佳美の実が伸す)

解説

賜る(たまわる/たまはる)は「‘もらう’の意の謙譲語。目上の人から物などをいただく。ちょうだいする。」、未だ未だ(まだまだ)は「もっと。さらに。」、実るは「草木や穀物などが実を結ぶ。また、実が熟する。」「努力が報いられて、成果があがる。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、実(み)は「植物の種子・果実。みのり。」、伸す(のす)は「伸びる。伸びひろがる。」の意味です。

余談

この歌は、下記音楽動画を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『手紙 -The Letter-』(「Sakuzyo Official」より)

 

雑感

 

曲の世界観に浸っていたら、何となく出て来た歌です。

ひんかしの ひかりゆめひる
  けさめさめ さけるひめゆり かひのしかんひ

(東の 光夢びる 今朝目覚め 咲ける姫百合 佳美の詞甘美)

解説

東(ひんがし)は「方角の名。日の出る方向。西の対。十二支では卯(う)をあてる。ひがし。」、びるは「名詞または形容詞の語幹などに付いて、~らしく見える、~のふうである、などの意を表す。」、姫百合(ひめゆり)は「ユリ科の多年草。本州南部の山地に生え、主として観賞用に栽培される。高さ三〇~八〇センチメートル。鱗茎は卵形で白い。葉は広線形で長さ三~七センチメートル。初夏、黄または赤色で径六センチメートルぐらいの花が上向きに咲く。花被片は六個で巻いていなく、内面に紫黒色の細点のあるものが多い。花の色や形によってキヒメユリ、アカヒメユリ、カバヒメユリなどに分けられる。漢名、山丹。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、詞(し)は「ことば。文章。詩歌。」、甘美(かんび)は「心地よくうっとりとした気持ちにさせること。また、そのさま。」の意味です。

余談

この歌は、下記音楽動画を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Piano Sonata - I -』(「Sakuzyo Official」より)

 

よせかきて みよまたくおに
  ひとくおく とひにおくたま よみてきかせよ

(寄せが来て 三世跨ぐ鬼 秘匿奥 肚皮に置く玉 読みて聞かせよ)

解説

寄せ(よせ)は「迫り近づくこと。押しよせること。」「気持をそちらに傾けること。頼ったり、信任したり、後援したりすること。」「うしろだてとなって世話をする人。後見。」「縁。ゆかり。ちなみ。」「子細。わけ。いわれ。」、三世(みよ)は「仏語。前世・現世・来世。さんぜ。」、秘匿(ひとく)は「秘密にして隠しておくこと。」、肚皮(とひ)は「腹の中。心の中。」、読むは「文字で書かれたものを一字一字声に出して言う。」「文字や文章、図などを見て、その意味・内容を理解する。」「外面を見て、その隠された意味や将来などを推察する。」の意味です。

雑感

この歌は、下記記事を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『出口王仁三郎と大本』(「ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符号」より)


雑感

「寄せが来て」は、何か迫りくるものが来て、という意味の他、その迫りくるものを見て、何かに頼りたくなって、お任せしたい気持ちが出て来て、という意味になるかと思う。

それで何に頼ればいいのか、何にお任せすればいいのか、ということになるが、それが「三世跨ぐ鬼 秘匿奥 肚皮に置く玉」の部分ではないかと思う。

要するに、三千世界を跨ぐ鬼神、即ち国常立尊が秘密にして隠し置かれた玉、各人の心の奥の奥底に安置された玉(魂)、それに頼れよ、ということかと思う。

で、普通の感覚だと、いやそんなこと言われてもさっぱりわからん、となるかもしれないが、それがゆえに「読みて聞かせよ」ということかと思う。

「玉(魂)を読む」というのも意味不明かもしれないが、日月神示ではミタマの命令に従って、という表現が出て来る。

日月神示参照。

『世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。』(磐戸の巻 第十六帖)

なんていうかこう、何かを判断する時に、何かこっちのほうがよさそう、とか、そういう心の奥底から浮かんで来る感覚に従ってみる、ということ。

ただ、このような言葉で説明すると、自我は巧妙なので、必ず「直観に従っていればいい」とかいう単純思考になって無意識の内に楽な方へ行きがちなので、そこは自分の心をサニワしながら、ということにはなってくるかと思う。

日月神示参照。

『言はれる間はよいぞ。読まれる間はよいぞ。綱切れたら沖の舟、神信じつつ迷信に落ちて御座るぞ。日本の国のミタマ曇ってゐることひどいぞ。外国、同様ながら筋通ってゐるぞ。型にはめると動きないことになるぞ。型外せと申してあらうが。自分で自分を監視せよ。~後略~。』(黄金の巻 第二十一帖)

『見へる幸福には限りがあり、見へぬ幸福は永遠であるぞ。理(ミチ)にいそしめ。理(ミチ)にとけ入れよ。モノは無くなるぞ。霊は永遠に弥栄えるぞ。毎日々々掃除してもホコリはたまる。絶えず心の掃除よいか。洗濯よいか。目に見へず、上、下、左、右、前、後から何となくせまってくるものをサニワせよ。サニワして受けいれねばならん。自分の魂をはぐくみ、生長さしてくれる大切なものは目に見へんところから流れてくるぞ。和せよ。調和せよ。調和とは、上から、より清い所から流れて来るものに従ふことぞ。いよいよが一四一四となるぞ。雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、大地震の神。』(春の巻 第五十四帖)

『幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊かかりの殆どは この幽界からの感応によることを忘れるでないぞ。霊かかりの動作をよく見極めればすぐ判る。高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは必ず下級霊であるぞ、インチキ霊であるぞ、インチキ霊にかかるなよ、たとへ神の言葉でも尚サニワせよと申してあろう。迷信であってもそれを信ずる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界の一部をつくり出すことがあるから気付けておくぞ。無き筈(はず)のものを生み出し それが又地上界に反影してくるのであるから心して下されよ。今の人民 九分九厘は幽界とのつながりをもつ、胸に手をあててよくよく自分をサニワせよ。』(竜音の巻 第五帖)

だから、何でも自分の心に従うんだ、といって、朝仕事に行かなくちゃならないのに、今日は特段眠いからといって、あまり行く気が起きないからといって、そのまま寝て仕事を休んだとしたら、それはただの怠惰ですよ、ということ。

ただ一方で、もしかするとその眠気が大病のサインかもしれないので、よくよく見極めが必要ですよ、ということ。

なので一つの判断としては、一旦仕事に行ってみて、それでもどうしてもその眠気が収まらない、或いは通勤途中だけど、どうしても会社に行く気が起きない、などという場合には、その事についてもう一度考えてみる、という判断もあるかと思う。

それで考えてみて、やはり何か引っかかるものがあれば、その日は休んでみる、という判断も有り得るかと思う。ただ、あくまでそれは自分で決断したことなので、当然休んだ後の責任は全部自分にありますよ、ということ。

このように自分の奥底の心と相談しながら、自分で判断せよ、ということかと思う。

日月神示参照。

『流れ出たものは又元にかえると申しても、そのままでは帰られんのであるぞ。天から降った雨が又天に昇るには、形をかえるであろうが、この道理をわきまえんと、悪かみかかりとなるぞ。 それはそなたの自己慾から出てゐるぞ。自己慾もなくてはならんが、段々浄化して行かねばならん。浄化して大き自己の慾とせよ。自分のみの慾となるから弥栄えんのぢゃ。弥栄えんもの神の御心に逆行。 自分で判断出来ることを何故にきくのぢゃ。神にきけば神に責任をきせるのと同様ぞ。人間の悪いくせぞ。出直せよ。』(月光の巻 第十四帖)

『食物は科学的栄養のみに囚われてはならん。霊の栄養大切。 自分と自分と和合せよと申してあるが、肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。更に、又奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ。 高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。 山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。』(月光の巻 第二十五帖)

で、結局それでは玉(たま)を頼りにせよ、と言いながら、全部自己責任じゃないか、と思うかもしれないが、日月神示では頼りないのが頼りになる、神の守護は人にはわからん、とあるので、人事尽くして天命を待つ、の態度がよさそうである。

日月神示参照。

『神は人民には見へん、たよりないものであるが、たよりないのが、たよりになるのであるぞ。外国行きとは幽界行きの事ぞ。時節来て居れど人民心でせくでないぞ、せくとしくじるぞ。あちらに一人、こちらに一人、と云ふ風に残る位むごい事にせなならん様になってゐるのざから、一人でも多く助けたい親心汲みとりて、早う云ふこと聞くものぢゃ。ここ迄神示通りに出てゐても、まだ判らんのか、疑ふのにも余りであるぞ。地に高天原(たかあまはら)が出来るのざぞ、天の神 地に降りなされ、地(くに)の神と御一体と成りなされ大日月の神と現はれなさる日となった、結構であるぞ、肉体の事は何とか分るであろが、タマは判るまい、永遠(とわ)にタマは生き通しであるから、タマの因縁の判る所は九九(ここ)の二(ふ)でより他にはいくらさがしてもないのざぞ。』(海の巻 第十二帖)

『此の世と申しても臣民の世ばかりでないぞ、神の世界も引くるめて申してゐるのぢゃぞ、勇んでやって下されよ、勇む所 此の方 力添え致すぞ。心配顔 此の方 嫌ひぞ、歌唄ひ下されよ、笑ひて下されよ、笑へば岩戸開けるぞ。今の人民キリキリ舞しながら まだキリキリ舞する様もがいて御座るぞ。つ千に返ると申してあろがな、早う気付いた臣民人民 楽になるぞ。神の守護と申すものは人民からはちっとも判らんのであるぞ、判る様な守護は低い神の守護ざぞ、悪神の守護ざぞ、悪神の守護でも大将の守護ともなれば人民には判らんのざぞ、心せよ、何んな事あっても不足申すでないぞ、不足悪ざぞ、皆 人民の気からぞと くどう申してあろがな、人民キから起って来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むより方法(ほか)ないぞ、人民の心さへ定まったら、此の方 自ら出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ。此の世の物 一切 神の物と云ふ事まだ判らんのか、一切取り上げられてから成程なァと判ったのではおそいから嫌がられても、くどう同じ様な事申してゐるのざぞ、人民の苦しみ此の方の苦しみざぞ、人民も此の方も同じものざぞ、此の道理判りたか、此の方 人民の中に居るのざぞ、別辞(ことわけ)て申してゐるのざぞ。まだまだ大き戦激しきぞ、是で世よくなると思ってゐると大間違ひとなるのざぞ、是からが褌(ふんどし)ざぞ、よき世となれば褌要らんのざぞ、フラリフラリと風に吹かれるヘチマぢゃ、ヘチマ愉快で嬉しひなあ、風の間に間に雨の間に間にユタリユタリと嬉しかろがな、何も彼も嬉し真から楽しき世ざぞよ。誠が神であるぞ、コトが神であるぞ、元であるぞ、道であるぞ、日であるぞ月であるぞ。始めコトありと申してあろがな、キであるぞ、まつりであるぞ。』(雨の巻 第十六帖)

ときよいさ いはとひらかむ
  くしきにき しくむからひと はいさいよきと

(時世いざ 岩戸開かむ 奇しき二儀 仕組むから人 配剤良きと)

解説

時世(ときよ)は「時と世。時代(じだい)。時節。」「その当時の世の姿。その時その時の世の風潮。また、その時の人々。時勢。」、いざは「ある行動を思い立って実行に移そうという時に発する声。さあ、どれ。」、 奇し(くし)は「神秘的である。不思議である。」、二儀(にぎ)は「天地間の万物をつくり出す、陰と陽の二気。天と地。」「転じて、日と月を指す。」、仕組むは「物事を組み立てる。企てる。計画する。」「芝居、歌舞伎などの筋を組み立てる。趣向を考える。脚色する。また、配役を決める。」「中に入れる。組み込む。」「男女がまじわる。交合する。」、配剤(はいざい)は「ほどよく配合すること。ほどよくとりつくろうこと。」の意味です。

雑感

何かふと出て来た歌です。

ひよたたに もとれさかなへ
  きおくおく おきへなかされ ともにたたよひ

(日よ直に 戻れ魚へ 記憶奥 沖へ流され 共に漂ひ)

解説

日(ひ)は「太陽。日輪。おひさま。」「日数。ひにち。」、直(ただ)は「曲がっていないこと。また、そのさま。まっすぐ。」「時間を置かないこと。また、そのさま。すぐ。」、漂う(ただよう/ただよふ)は「空中・水面などに浮かんで揺れ動く。一つ所にとどまらずゆらゆら動いている。」の意味です。

雑感

下記参照。

『fish~silent cruise』(「菅野よう子 / Yoko Kanno」より)

 

ときかあり かひのまたらか
  たいにちに いたからたまの ひかりあかきと

(解きが在り 加被の曼荼羅が 大日に 甚唐玉の 光明かきと)

解説

解くは「腹立ち、不機嫌、恨み、悲しみ、疑いなど、心のわだかまりを消してさっぱりさせる。」「疑問や問題に対する答えを出す。解答する。」、加被(かび)は「仏語。神仏などが、慈悲の力を加えて、衆生を助け守ること。加護。擁護。加祐。」、曼荼羅(まだら)は「(梵語maṇḍala 輪円具足・道場・壇・本質などと訳す)諸尊の悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、諸仏・菩薩および神々を網羅して描いた図。四種曼荼羅・両界曼荼羅など多くの種類がある。もともと密教のものであるが、浄土曼荼羅や垂迹(すいじゃく)曼荼羅、日蓮宗の十界(じっかい)曼荼羅のように、他にも転用される。まんだら。おまんだら。」、大日(だいにち)は「‘大日如来’の略。」、甚(いた)は「程度のはなはだしいさま。非常に。たいへん。」、唐玉(からたま)は「唐や朝鮮などから渡来した珠玉。また、美しい玉。」、明かし(あかし)は「明るい。」「清らかだ。偽りがない。」の意味です。

余談

この歌は「魔法少女まどか☆マギカ MUSIC COLLECTION」にある「prelude to Act 1」~「prelude to Act 2」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

曲に浸り切りながら、あまり頭を使わず感覚寄りの姿勢で書いた歌です。はっきり言うと、完全に個人的な満足のための趣味の歌で、意味は不明かと思います。

何というか説明するのが難しいが、普段は何かしら歌の体裁とか、言葉の意味とか、〇〇のテーマとか、大小問わずそういうものを無意識の内にでも考えたり、調整していたりしていると思うが、そういうものを極限まで排除して、もうまるっきり感覚だけで書いたものです。

あと「唐玉」は本当は「空玉(からたま)」にしたかったけれど、辞書を調べたらそんな言葉はなかったので、やむなく「唐玉」にしました。霊界物語だと「からたま」は身体のこと指す言葉だった気がするが、まあそういうニュアンスで取っても良いかと思う。

つまり何というか……うまく言えないが、普段身体の中にあるんじゃないかと感じている自我とか意識とか煩悩とか、そういうものが全部解き放たれて、この身体感覚、またはこの空間に認識そのものが移る、といった感じ。

何というか……自分が居て目の前の空間を認識しているのではなくて、この空間そのものがそのままにして認識されている、といった感じ。だから‘自分’が空間を認識しているのではなくて、この‘空間’そのものが空間を自認、認識しているような感じ。

だからたとえば、普段の感覚だと自分が呼吸していると感じているが、自分を中心にせずに空間を中心にすると、呼吸するということは、鼻から空気が出たり入ったりしているだけに過ぎず、その現象自体を瞬間瞬間認識する、ということ。

さらに深くイメージしていくと、そこら中に流れている無限の光の粒子の中に、この意識そのものが溶けていって、何かエクスタシーにも似た感覚を伴いながら究極の安穏の境地に入る、といった感じ。

昔、とある神社にいって鳥居をくぐったら、その瞬間から、身体が何かこうフワンとした感覚になって、全身がジーーンと細かく振動している感じのまま、何かエクスタシーにも似た感覚を感じたことがあったが、あの感覚に近いイメージ。

といっても、何かエロ的な意味ではなく、完全に純粋無垢な清らかな愛の波動というか何というか、うまく言葉にできないが、そういう感じだった。試しに、しめ縄張ってある神社の木に触ったら、そこの木からさらに強い、明らかに気のせいではないレベルの、ジーーンとした振動を感じて、手のひらから伝わって、全身がものすごく気持ちよくなったことがあったが、一体あれは何だったのか今でもよくわからん……。

でも、そんな変な経験は後にも先にもあの一回こっきりだったけれど。