なかきよの みきひたりかひ
ちわくとく わちひかりたひ きみのよきかな
(永き代の 右左可否 道別く徳 和知光り手火 岐美の良きかな)
解説
可否(かひ)は「よいかよくないか。事のよしあし。」「賛成と不賛成。可決と否決」、道別く(ちわく)は「勢いよく道をおし分ける。ぐんぐん進路を分け開く。」、手火(たび)は「手に持って道などを照らす火。松明(たいまつ)。」の意味です。
余談
この歌は、下記記事を読んで、それをモチーフに書いた歌です。
『今の世に起きている異変!。の状態は大本教予告の【神が表に現れて、善と悪とに立て別ける。】なのか?。』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
雑感
上記ブログによると、やがて右と左に分かれるとある。
大本の基本宣伝歌では「善と悪とを立て分ける」とあり、日月神示でも「神と獣に分ける」とある。
霊界物語参照。
『霊界物語 第1巻 基本宣伝歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)
日月神示(ひふみ神示)参照。
『下つ巻 第二十三帖』(「ひふみ神示データ」より)
『富士の巻 第四帖』(「ひふみ神示データ」より)
『富士の巻 第九帖』(「ひふみ神示データ」より)
『天つ巻 第五帖』(「ひふみ神示データ」より)
『地つ巻 第三十六帖』(「ひふみ神示データ」より)
『日の出の巻 第十二帖』(「ひふみ神示データ」より)
二極化についてはずいぶんと言われて来たが、下記記事ではそれぞれの徳分(善行-悪業)によって天国地獄が決まるとある。
下記参照。
『西洋で父なる神は説かれたが、母なる神は?。母なる神として日本の大本教で説かれた【豊雲野大神】とは?。』(「人に内在する良心神(神言会)」より)
『霊学№52 人の今生の幸運と不運、魂の輪廻転生を通じての幸運と不運』(「人に内在する良心神(神言会)」より)
『虹は七色?。今は神世七代。世に創造神の姿は見当たらないが痕跡は【艮】で、艮の演技で神世七代から八代に』(「人に内在する良心神(神言会)」より)
『霊学№2 人の魂の内容は囲碁の【碁笥】と【碁石】で論じると解りやすい』(「人に内在する良心神(神言会)」より)
徳に関しての説明。
下記参照。
『みのか尾張の国から出る神の高山(神界ピラミッド)に秘められた【41】の意味』(「人に内在する良心神(神言会)」より)
※「徳」の漢字を分解すると「行+十+四+心」になる。
要は、最後の審判によって右と左へと行く道がきっぱりと分かれて、それぞれのこれまで積んだ「徳分」によって、さらに細かに分かれていく、ということかと思う。
また、歌の中にあるこの「和知光り」は、いわゆる京都の和知だと思う。
大本の文献では和知川(由良川)が出て来るのだが、この由良川にはヨルダンのルビが振られていることがある。
『由良川』(「オニペディア」より)
また、下記伊都能売神諭では「和知川(いすずがは)十二の支流(ながれ)を寄(よ)せ集あつめ」ともあり、先の由良川(ヨルダン川)と合わせて見てみると、いわゆるユダヤの十二部族が一か所に集まる、とも解釈できる。
『伊都能売神諭 大正8年4月13日』(「人に内在する良心神(神言会)」より)
日月神示でも『「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来た」』と、同様のことが書かれている。
※ちなみにこの「イスラ」は、イスラエルを連想させられる。
『天の日津久の大神(あめの一二の◎)のお神示(ふで)であるぞ、特にお許しもろて書きしらすぞ。十二の巻 説いて知らすのであるぞ、此の巻アメの巻と申せよ、此の度は昔から無かりた事致すのであるから人民には判らん事であるから素直に致すが一等ざぞ、惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ。今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ、心大きく、深く、広く持ちて下されよ、愈々となるまでは落しておくから見当とれんから、よくこの神示読んでおいて下されよ。世界ぢゅうに面目ない事ないよにせよと申してあろが。足元から鳥立ちてまだ目覚めんのか、神示(ふで)裏の裏までよく読めと申してあろがな。此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。所の洗濯と身魂の洗濯と一度になる所あるぞ、「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来たぞ。命がけで御用つとめてゐると思ふて邪魔ばかり致しておろがな、金や学や智では大峠越せんぞ。神はせよと申すことするなと申すこともあるのぞ、裏の裏とはその事ぞ、よく心得て下さりて取違ひいたすでないぞ。手のひら返すぞ返さすぞ、此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。神の仕組 愈々となったぞ。』(雨の巻 第一帖 ◎は原文では「〇の中にヽ」の記号)
だが火水伝文では、『【元つマコトの神真釣り】に関わりてありた事』とあり、誠、誠実さが肝腎だと書かれてある。
------------
汝等、ユダヤ十二部族申すを知りて居るか。今世に至りて、失われた十部族の血統をのみ、探すが如き成さり様を致し居りては、マコトの事は解かりはせんぞ。そは知らず『あやま知』に囚われ居るからであるよ。ちいとは真釣りに気付いて下されよ。こは汝等スメラだけにはあらずして、ユダヤのイシヤも囚われ居るのじゃ。オカシキ事にてござろうが。『あやま知』操る者共も、自ら囚われ居るを知りて無いのぞ。こに秘密がありたのじゃ。思いも出して下されよ。ユダヤに至る御霊統は、竜には成れぬ『蛇の力』と呼び習わしめた『知恵の神』がその源でござろうが。なぜに竜には成れぬと申すかは、ただただ、真釣る真中を知らぬからでござるよ。【元つマコトの神真釣り】を知らぬが由でござりたのじゃ。彼の者共も九分九厘まで知りて居れど、知りては居るが肝腎要の真中の一厘を、知りたくありても知れぬのじゃ。そは【真中の一厘】を見失うた御霊統にあるからでござるよ。彼の者共にとりては、越すに越されぬ真中の一厘じゃ。由に彼の者共は、彼の神の一力より他に何も無き思い込み、一厘のあるをも知らず、そのままに総ての総てを知りて居る思いておるのじゃ。そこそ囚われ居る証でござろうが。ただの一厘申せども、こが無くれば何も無い、総てを顕し生かしある、彼等の神をも生かしある、総ての総ての基なる【元つマコトの神真釣り】を知りて無いのでござるから、こ度の仕組みのマコトも知らず、汝等と同じく、見失われた十部族の、人の流ればかりに、血統ばかりに惑わされて居りたのじゃ。
少しは解かりて参りたか。見失われた十部族のマコトの意味申すは【元つマコトの神真釣り】に関わりてありた事なのじゃ。ユダヤ十二部族の型示しあるは、正しくイザナギ、イザナミ御二神の分かれ型。初発の岩戸閉めの、大事な型を知らしめあるのぞ。開き盲ばかりでござるから、解からぬのは無理もござらぬが、こ度に関わる大事にてあるから申して置くぞ。ナミ、カミサラレなさるにありて、末のこ度に【元つマコトの神真釣り】復するを計ろいて、計りた仕組みをご守護なさる正神真神の御二神を、残し置かれた、いう事にてあるのぞ。十(カミ)サラレマシテ二神を残されあそばされたのであるぞ。十(カミ)真釣り閉じ去られまして地のへに二民を残し置かれた、とも言えるのぞ。十(カミ)真釣りと引き換えに、二つに分かつ知を残し置かれた、とも言えるのじゃ。ご自身のオイノチと引き換えに、知恵の神をお産みになられた、申すことじゃよ。十(カミ)サラレル申すは【元つマコトの神真釣り】が解からなくなりた、申すことにてあるから、いずれも【元つマコトの神真釣り】を末のこ度に復すため、ミロクをこの地に顕ずための大事な神経綸の型示しでありた言うことじゃ。これでお解かり下されたか。
元つ天の大神様は、地のへにスメラとユダヤの神策成就の経綸を背負うた二民を創り降ろされて、天地のご守護に、正神真神のご霊統にあらせられる二柱の大神を配し置かれたのじゃ。天上をご守護しなさるご一柱をアマテラスオオカミ様と称し奉る。地のへをご守護なさり、こ度、神響きにて地のへの王の王の王と現れなされミロクを顕じます、尊き御役のご一柱をカムスサナルノオオカミ様と称し奉る。
ナギご一柱でお産み成されたアマテラス様、スサノウ様と、ゆめお取り違え召さるなよ。ご二神で息合わせ、真釣りてお産みに成られた正神真神のご二神と、ご一柱でお産み成されたご二神では違うのが道理でござろうぞ。正神真神申すは、火水構えマコト真釣りたハタラキをなさる方々のことにてござるのぞ。正神真神のご霊統より産まれし神々は別なれど、ナミ、カミサラレまして後、お産まれの中つ神々様方は、未だ自らマコト真釣り無き、神成る神にてあらせられる由、おハタラキは片ハタラキにて、こ度一二三(ヒフミ)に結び真釣りて真神と成りなさる方々じゃ。
------------
さらに、下記ブログでは、(市内に由良川が流れている)綾部市が世界宗教都市になっている、ともあるが、その部分が歌の中の「和知光り」という感じがする。
下記参照。
『イエスは何故に旧約聖書の神(国常立尊)を地獄の長官で【サタン(悪魔)】としていたのか?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)
『霊学№23 日本から出た旧約聖書予言の男女の預言者。大祓祝詞旧版の母と子との罪?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)
また「手火」は松明(たいまつ)のことだが、大本や日月神示等でさかんに言われている「五六七(みろく)の世」は、別名「松の世」とも呼ばれている。
下記ブログでは松(=木+公)は「公」の意味が隠されている、ともある。
下記参照。
『魂を磨く⑩/枝葉の神の栄えの教えではなく、松(公)の根元神を知る』(「人に内在する良心神(神言会)」より)
要するにこの手火(=松明)の意味は、公が明らかになる、公正公平の世の中になる、また明(日+月)の神が公(おおやけ)の場に出て来る、という意味と解釈できるかと思う。
このようにミロクの世、松の世では、皆が松明を手にもつように、常に公の心を持って物事に当たって行く、ということになる、ということかと思う。
そして公(おおやけ)は公(きみ)とも読めるので、次の「岐美(きみ)」に通じる。
いわゆる伊邪那岐の神様と伊邪那美の神様で「岐・美」となるわけだが、日月神示ではこの神様が相抱き給う時が来たともあり、今までのように誰かが得をしたら誰かが損をするとか、何かの問題を解決すると今度は別の問題が出て来るなどの、そのような片ハタラキの世界ではない、ということが示されている。
日月神示参照。
『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。』(碧玉の巻 第十帖)
『まだ〇のみ追ふてゐる人民 沢山あるなれど、〇では世は治まらん、自分自身は満たされんぞ、ヽでなくてはならん、と申してヽだけでもならんぞ、ヽが元ぢゃ、内ぢゃ、〇は末ぢゃ、外ぢゃ、ヽから固めて下されよ、〇はおのづから出来てくる、ふさはしい〇が出来てくるのぢゃ。今の世はひらけたひらけたと申しているが、それは半面だけのこと、半面がひらけると半面がとざされる世の中、開け放しの明るい世が目の前に来てゐるぞ。用意はよいか、真中うごいてはならんと申してあろう、動くのは外ぢゃ、忙しい急しいと申すのは外側にゐる証拠であるぞ、気つけて早う中心に飛び込めよ、真中結構、日本は真中の国であるぞ、日本精神は真中精神、末代動かぬ精神であるぞ、三千世界の大掃除であるから、掃除するには、掃除する道具もゐるぞ、人民もゐるぞ、今の有様では、いつ迄たっても掃除は出来ん、益々けがれるばかりぢゃ、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ。神が致すのでは人民がかあいそうなから、【くどう】申してゐるのぞ。』(碧玉の巻 第十三帖)
翻って、今、日本と中国とでいざこざが起きているが、一般的に見れば、日本の政権は右翼と呼ばれ、中国は共産主義で左翼ということになる。
上記ブログの右・左に分ける、という事柄の型示しが出て来ているようにも思われる。ただ日本人が全員右にいって、中国人が全員左にいく、というわけではないものと思われる。
日月神示には、外国にも神の子がいて、日本にも外国の子がいる、外国もやまともない、ともあるからだ。
日月神示参照。
『親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。木の根でも食うて居れ。闇のあとには夜明け来る。神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ。酒と煙草も勝手に作って暮らせる善き世になる、それまで我慢出来ない臣民 沢山ある。早く◎(モト)の神の申す通りにせねば、世界を泥の海にせねばならぬから、早うモト◎心になりて呉れよ、神頼むぞよ。盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、気のついた人から、まことの神の入れものになりて呉れよ、悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、初めは辛いなれど、さきを楽しみに辛抱して呉れよ。配給は配給、統制は統制のやり方、神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ。人の知恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損なひばかり、にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、盲には困る困る。救はねばならず、助かる臣民はなく、泥海にするは易いなれど、それでは元の神様にすまず、これだけにこと分けて知らしてあるに、きかねばまだまだ痛い目をみせねばならん。冬の先が春とは限らんぞ。◎の国を八つに切って殺す悪の計画、◎の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。岩戸が明けたら一度に分かる。』(上つ巻 第二帖 ◎は原文では「〇の中にヽ」の記号)
『神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。臣民物言はなくなるぞ、この世の終り近づいた時ぞ。石物言ふ時ぞ。神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。てん詞様が世界みそなはすのざぞ。世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神様に気附かんか、盲つんばばかりと申してもあまりでないか。』(地つ巻 第十五帖)
『今まで世に落ちてゐた神も、世に出てゐた神も皆一つ目ぢゃ、一方しか見へんから、世界のことは、逆の世界のことは判らんから、今度の岩戸ひらきの御用は中々ぢゃ、早う改心して こ(九、光)の神について御座るのが一等であるぞ。外国の方が早う改心するぞ、外(幽)国人とは逆の世界の人民のことであるぞ。神の目からは世界の人民、皆わが子であるぞ。世界中皆この神の肉体ぞ、この神には何一つ判らん、出来んと申すことないのぢゃ。どんなことでも致して見せるぞ。』(極めの巻 第七帖)
また天理教の「おふでさき」では‘から’と‘にほん’をわける、ということが出て来るが、これも上記ブログの右と左に分ける話に通じるとも思う。
『おふでさき 第二号三四』(「天理教研究所」より)