くろみのき いさりんゑよし
  つうするす うつしよゑんり さいきのみろく

(黒み退き いざ輪廻止し 通ずる主 現し世遠離 再帰の弥勒)

解説

黒みは「黒いこと。黒い色。」「黒い部分。また、暗い所。」、輪廻(りんね/りんゑ)は「仏語。生ある者が迷妄に満ちた生死を絶え間なく繰り返すこと。三界・六道に生まれ変わり、死に変わりすること。インドにおいて業(ごう)の思想と一体となって発達した考え。流転。転生。輪転。」、止す(よす)は「やめにする。するのをやめる。」、通ずる(つうずる)は「道筋が他とつながる。また、道筋をつける。」「何かを伝って到達する。また、届かせる。」、主(す)は「主(しゅ)に同じ。」、現し世(うつしよ)は「この世。現世。」、遠離(えんり/ゑんり)は「遠く離れること。また、遠く離れていること。おんり。」「遠ざけること。」、再帰(さいき)は「再び帰ること。」の意味です。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

下記参照。

『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その1』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その2』(「人に内在する良心神(神言会)」より)

 


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その3』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その4』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その5』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その6』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その7』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その8』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その9』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その10』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか? その11』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか?  その12(最終)』(「人に内在する良心神(神言会)」より)

 

 

とりとむめ よきみろくのよ
    きうちのち  うきよのくろみ きよめむとりと

(鳥と梅 良き弥勒の世 救治の地 浮世の黒み 清めむ取りと)

解説

梅(むめ)は「うめ。」、救治(きゅうじ/きうぢ)は「悪いところをなおして、もとのよい状態にすること。」、浮世(うきよ)は「つらいことの多い世の中。苦しみに満ちたこの世。」、黒みは「黒いこと。黒い色。」「黒い部分。また、暗い所。」、取り(とり)は「最後に上演・上映する呼びもの番組・映画。」の意味です。

余談

この歌は、下記霊界物語を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第54巻 序文』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

三千世界一度に開く梅の花

ということで、ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

よのつまり つひのまたみの
  つみとると みつのみたまの ひつりまつのよ

(世の詰まり 終の間民の 罪取ると 瑞の御玉の びくり松の世)

解説

詰まりは「 物の終わりの部分。もののはて。すみ。ゆきどまり。つまりつまり。」「行きづまること。困窮すること。また、事件・行為などの結末・結果。ことの落着。結局。」、終(つい/つひ)は「物事のおわり。終局。最後。また、生命のおわり。多く、‘ついの’の形で用いる。」、瑞(みず/みづ)は「若々しく、生き生きとしていること。みずみずしいこと。事物の新しく清らかなこと。」、びくりは「意外なことに驚くさまを表わす語。びっくり。」の意味です。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

大本神諭や日月神示では、ミロクの世(別名:松の世)になると身魂が輝きだすとあり、いわゆる「水晶」の身魂になると書かれてある。

大本神諭参照。

『大本神諭 明治30年(月日不明)』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『大本神諭 明治32年(月日不明)』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『大本神諭 明治36年旧6月4日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『大本神諭 大正6年閏2月22日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『大本神諭 大正7年旧1月12日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示参照。

『神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になるのぞ。悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ、ばくち、しょうぎは無く致すぞ。雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきやうに吹かしてやるぞ、神をたたえる声が天地にみちみちて うれしうれしの世となるのざぞ。』(天つ巻 第二十帖)

『世が変りたら天地光り人も光り草も光り、石も物ごころに歌ふぞ、雨もほしい時に降り、風もほしい時に吹くと雨の神、風の神 申して居られるぞ。今の世では雨風を臣民がワヤにしているぞ、降っても降れず、吹いても吹かん様になりてゐるのが分らんか。盲つんぼの世の中ぞ。神のゐる場所塞いで居りて お蔭ないと不足申すが、分らんと申しても余りであるぞ。神ばかりでもならず、臣民ばかりではなおならず、臣民は神の入れものと申してあろが、あめのひつくの民と申すのは、世界治めるみたまの入れもののことぞ、民草とは一人をまもる入れものぞ、ひつくの臣民は神がとことん試しに試すのざから、可哀そうなれど我慢して呉れよ、その代り御用つとめて呉れたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ。何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな、今に上、下になるぞ、逆立ちがおん返りて、元のよき楽の姿になるのが近づいたぞ、逆立ち苦しかろがな、改心した者から楽にしてやるぞ、御用に使ふぞ。』(下つ巻 第三十七帖)

『世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ。天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ。道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ、終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ、その光によりて その御役、位、分るのざから、みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ。』(地つ巻 第十一帖)

『天(あま)さかり地(くに)さかります御代となるぞ、臣民の心の中にいけおいた花火 愈々ひらくとききたぞ、赤い花火もあるぞ、青いのもあるぞ、黄なのもあるぞ、それぞれのミタマによりて、その色ちがふのざぞ、ミタマ通りの色出るのざぞ。金は金ぞ、鉄は鉄ぞ、鉛は鉛として磨いてくれよ、金のまねするでないぞ。地つちの軸 動くぞ、フニャフニャ腰がコンニャク腰になりて どうにもこうにもならんことになるぞ、其の時この神示、心棒に入れてくれよ、百人に一人位は何とか役に立つぞ、あとはコンニャクのお化けざぞ。』(磐戸の巻 第五帖)

『天(あめ)の岩戸ばかりでないぞ、地(くに)の岩戸 臣民の手で開かなならんぞ、誠一つで開くのぢゃ、誠のタチカラオの神、誠のウズメの命殿、御用結構ぞ。ダマシタ岩戸開きではダマシタ神様お出ましざぞ、この道理判らんか、取違ひ禁物ぞ、生れ赤子の心になれば分るのぢゃぞ。今の臣民お日様明るいと思ふてゐるが、お日様、マコトの代のマコトのお日様どんなに明るいか見当とれまいがな。見て御座れ、見事な世と致してお目にかけるぞ、神示読みて聞かせてやれよ、嫌な顔する人民 後廻しぢゃ、飛び付く人民 縁あるのぢゃ、早う読み聞かす神示より分けておいて下されよ、間に合はんぞ、御無礼ない様に致し下されよ。』(梅の巻 第十三帖)

また、この「瑞の御玉」は「瑞(水)の御玉」で、水晶の身魂(御玉)のことを指しているように感じられる。

そして「瑞」には、若々しいという意味もある。

下記霊界物語によると、天界では男性は三十歳ぐらい、女性は二十歳ぐらいで、永遠に年を取らない、ともある。

 

霊界物語参照。

『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第18章 一心同体』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示でも、無限の生命になる、とある。

『人民には分別与へてあるから反省できるのであるぞ。反省あるから進展するのであるぞ。ほっておいても、いらんものは無くなり、いるものは栄へるのであるが、人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが。慾、浄化して喜びとせよ。喜び何からでも生れるぞ。広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ。よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。ふところ手でいては出来ん。手出せ、足出せよ。』(春の巻 第九帖)

『天国がうつって地が出来てゐるのぢゃから、霊の国は更に立派、微妙ぞ。天界のもの光り輝き幽界のもの暗くなる違ひあるだけぢゃ。その時の状態によって変化するが、総ては神が与へたのぢゃ、現界同様、与へられてゐるのぢゃと知らしてあらうがな。時間、空間もあるのであるが、ないのであるぞ。同じ状態にあれば同じ処に住み、変化すれば別の所に住むのであるぞ。見ようと思へば、念の中に出て来て、見ること、語ること出来るのぢゃ。見まいとすれば見えんのぢゃ。自分で見、自分で語るのぢゃぞ。時、所、位、総てが想念の中、想念のままに現はれて来るのであるぞ。判るやうに申すならば、時間も空間も映像であって、情態が変るのみのことであるぞ。情態のもと、本質は限りないから、無限であるから、自由であるから、霊界は無限、絶対、自由自在であるぞ。現界では、時間に順に得たものでも、心の中では時間に関係なく、距離に関係なく、一所へならべられるであらうがな。心の世界で、時間、空間のない道理これでよく判るであらうがな。』(白銀の巻 第七帖)

『そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人となるのぢゃ。永遠の自分になるのであるぞ。他のために行ぜよ。神は無理申さん。始めは子の為でもよい。親の為でもよい。自分以外の者の為に、先ず行ぜよ。奉仕せよ。嬉し嬉しの光さしそめるぞ。はじめの世界ひらけるぞ。一本足では立てん。二本足がよいぞ。やがては明くる二三(フミ)の朝、二二(フジ)は晴れたり、日本晴れ。』(黄金の巻 第九十三帖)

なので、光り輝く「水晶の身魂」になるということは、霊界的側面が加わった永遠的世界に入る、ということでもあるかと思う。

下記参照。

『霊学№58 朝鮮に残される【白十】字によって人類は救われる?。白十は【八九十】で兔か?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『嘘つきは【泥棒】の始まり?。反対の【正直】とは何の意味?。魂の【杭】を改められるのは創造神』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『みろく世に適応した専用の【水晶玉(魂)】の中に【白十字】』(「人に内在する良心神(神言会)」より)

 

ましみつの ここいらひかり
  とこからか ことりかひらい ここのつみしま

(真清水の 此処いら光り 何処からか 小鳥が飛来 午後の摘みし間)

解説

真清水(ましみず/ましみづ)は「清水の美称。澄みきった清らかな水。」、此処いら(ここいら)は「話し手に近い場所を漠然とさしていう。この辺。このあたり。ここら。」、飛来は「飛んで来ること。」、摘む(つむ)は「指先や爪の先ではさみとる。つまみとる。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

この「摘み」は、草摘みとか花摘みとか、そういうイメージ。

みよくつき よきしんししり
  かひのその ひかりししんし きよきつくよみ

(身欲尽き 良き心思知り 佳美の苑 光りし仁慈 清き月読み)

解説

身欲(みよく)は「自分の欲心。我欲。」「自分だけの利益。」、心思(しんし)は「こころ。思い。考え。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、苑(その)は「草花・果樹・野菜などを栽培するための一区画の土地。」「ある物事の行なわれる場所。また、ある特定の世界。」、仁慈(じんじ)は「思いやりがあって情け深いこと。仁愛。仁恵。」、月読み(つくよみ)は「月の神。つきよみ。」「月。つきよみ。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第53巻 余白歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

 

なかきよの みきひたりかひ
  ちわくとく わちひかりたひ きみのよきかな

(永き代の 右左可否 道別く徳 和知光り手火 岐美の良きかな)

解説

可否(かひ)は「よいかよくないか。事のよしあし。」「賛成と不賛成。可決と否決」、道別く(ちわく)は「勢いよく道をおし分ける。ぐんぐん進路を分け開く。」、手火(たび)は「手に持って道などを照らす火。松明(たいまつ)。」の意味です。

余談

この歌は、下記記事を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『今の世に起きている異変!。の状態は大本教予告の【神が表に現れて、善と悪とに立て別ける。】なのか?。』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)


雑感

上記ブログによると、やがて右と左に分かれるとある。

大本の基本宣伝歌では「善と悪とを立て分ける」とあり、日月神示でも「神と獣に分ける」とある。

霊界物語参照。

『霊界物語 第1巻 基本宣伝歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示(ひふみ神示)参照。

『下つ巻 第二十三帖』(「ひふみ神示データ」より)


『富士の巻 第四帖』(「ひふみ神示データ」より)
『富士の巻 第九帖』(「ひふみ神示データ」より)

 

『天つ巻 第五帖』(「ひふみ神示データ」より)


『地つ巻 第三十六帖』(「ひふみ神示データ」より)


『日の出の巻 第十二帖』(「ひふみ神示データ」より)


二極化についてはずいぶんと言われて来たが、下記記事ではそれぞれの徳分(善行-悪業)によって天国地獄が決まるとある。

下記参照。

『西洋で父なる神は説かれたが、母なる神は?。母なる神として日本の大本教で説かれた【豊雲野大神】とは?。』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『霊学№52 人の今生の幸運と不運、魂の輪廻転生を通じての幸運と不運』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『虹は七色?。今は神世七代。世に創造神の姿は見当たらないが痕跡は【艮】で、艮の演技で神世七代から八代に』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『霊学№2 人の魂の内容は囲碁の【碁笥】と【碁石】で論じると解りやすい』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


徳に関しての説明。

下記参照。

『みのか尾張の国から出る神の高山(神界ピラミッド)に秘められた【41】の意味』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


※「徳」の漢字を分解すると「行+十+四+心」になる。

要は、最後の審判によって右と左へと行く道がきっぱりと分かれて、それぞれのこれまで積んだ「徳分」によって、さらに細かに分かれていく、ということかと思う。

また、歌の中にあるこの「和知光り」は、いわゆる京都の和知だと思う。

大本の文献では和知川(由良川)が出て来るのだが、この由良川にはヨルダンのルビが振られていることがある。

『由良川』(「オニペディア」より)


また、下記伊都能売神諭では「和知川(いすずがは)十二の支流(ながれ)を寄(よ)せ集あつめ」ともあり、先の由良川(ヨルダン川)と合わせて見てみると、いわゆるユダヤの十二部族が一か所に集まる、とも解釈できる。

『伊都能売神諭 大正8年4月13日』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


日月神示でも『「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来た」』と、同様のことが書かれている。

※ちなみにこの「イスラ」は、イスラエルを連想させられる。

『天の日津久の大神(あめの一二の◎)のお神示(ふで)であるぞ、特にお許しもろて書きしらすぞ。十二の巻 説いて知らすのであるぞ、此の巻アメの巻と申せよ、此の度は昔から無かりた事致すのであるから人民には判らん事であるから素直に致すが一等ざぞ、惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ。今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ、心大きく、深く、広く持ちて下されよ、愈々となるまでは落しておくから見当とれんから、よくこの神示読んでおいて下されよ。世界ぢゅうに面目ない事ないよにせよと申してあろが。足元から鳥立ちてまだ目覚めんのか、神示(ふで)裏の裏までよく読めと申してあろがな。此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。所の洗濯と身魂の洗濯と一度になる所あるぞ、「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来たぞ。命がけで御用つとめてゐると思ふて邪魔ばかり致しておろがな、金や学や智では大峠越せんぞ。神はせよと申すことするなと申すこともあるのぞ、裏の裏とはその事ぞ、よく心得て下さりて取違ひいたすでないぞ。手のひら返すぞ返さすぞ、此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。神の仕組 愈々となったぞ。』(雨の巻 第一帖 ◎は原文では「〇の中にヽ」の記号)

だが火水伝文では、『【元つマコトの神真釣り】に関わりてありた事』とあり、誠、誠実さが肝腎だと書かれてある。

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 汝等、ユダヤ十二部族申すを知りて居るか。今世に至りて、失われた十部族の血統をのみ、探すが如き成さり様を致し居りては、マコトの事は解かりはせんぞ。そは知らず『あやま知』に囚われ居るからであるよ。ちいとは真釣りに気付いて下されよ。こは汝等スメラだけにはあらずして、ユダヤのイシヤも囚われ居るのじゃ。オカシキ事にてござろうが。『あやま知』操る者共も、自ら囚われ居るを知りて無いのぞ。こに秘密がありたのじゃ。思いも出して下されよ。ユダヤに至る御霊統は、竜には成れぬ『蛇の力』と呼び習わしめた『知恵の神』がその源でござろうが。なぜに竜には成れぬと申すかは、ただただ、真釣る真中を知らぬからでござるよ。【元つマコトの神真釣り】を知らぬが由でござりたのじゃ。彼の者共も九分九厘まで知りて居れど、知りては居るが肝腎要の真中の一厘を、知りたくありても知れぬのじゃ。そは【真中の一厘】を見失うた御霊統にあるからでござるよ。彼の者共にとりては、越すに越されぬ真中の一厘じゃ。由に彼の者共は、彼の神の一力より他に何も無き思い込み、一厘のあるをも知らず、そのままに総ての総てを知りて居る思いておるのじゃ。そこそ囚われ居る証でござろうが。ただの一厘申せども、こが無くれば何も無い、総てを顕し生かしある、彼等の神をも生かしある、総ての総ての基なる【元つマコトの神真釣り】を知りて無いのでござるから、こ度の仕組みのマコトも知らず、汝等と同じく、見失われた十部族の、人の流ればかりに、血統ばかりに惑わされて居りたのじゃ。

 少しは解かりて参りたか。見失われた十部族のマコトの意味申すは【元つマコトの神真釣り】に関わりてありた事なのじゃ。ユダヤ十二部族の型示しあるは、正しくイザナギ、イザナミ御二神の分かれ型。初発の岩戸閉めの、大事な型を知らしめあるのぞ。開き盲ばかりでござるから、解からぬのは無理もござらぬが、こ度に関わる大事にてあるから申して置くぞ。ナミ、カミサラレなさるにありて、末のこ度に【元つマコトの神真釣り】復するを計ろいて、計りた仕組みをご守護なさる正神真神の御二神を、残し置かれた、いう事にてあるのぞ。十(カミ)サラレマシテ二神を残されあそばされたのであるぞ。十(カミ)真釣り閉じ去られまして地のへに二民を残し置かれた、とも言えるのぞ。十(カミ)真釣りと引き換えに、二つに分かつ知を残し置かれた、とも言えるのじゃ。ご自身のオイノチと引き換えに、知恵の神をお産みになられた、申すことじゃよ。十(カミ)サラレル申すは【元つマコトの神真釣り】が解からなくなりた、申すことにてあるから、いずれも【元つマコトの神真釣り】を末のこ度に復すため、ミロクをこの地に顕ずための大事な神経綸の型示しでありた言うことじゃ。これでお解かり下されたか。

 元つ天の大神様は、地のへにスメラとユダヤの神策成就の経綸を背負うた二民を創り降ろされて、天地のご守護に、正神真神のご霊統にあらせられる二柱の大神を配し置かれたのじゃ。天上をご守護しなさるご一柱をアマテラスオオカミ様と称し奉る。地のへをご守護なさり、こ度、神響きにて地のへの王の王の王と現れなされミロクを顕じます、尊き御役のご一柱をカムスサナルノオオカミ様と称し奉る。

 ナギご一柱でお産み成されたアマテラス様、スサノウ様と、ゆめお取り違え召さるなよ。ご二神で息合わせ、真釣りてお産みに成られた正神真神のご二神と、ご一柱でお産み成されたご二神では違うのが道理でござろうぞ。正神真神申すは、火水構えマコト真釣りたハタラキをなさる方々のことにてござるのぞ。正神真神のご霊統より産まれし神々は別なれど、ナミ、カミサラレまして後、お産まれの中つ神々様方は、未だ自らマコト真釣り無き、神成る神にてあらせられる由、おハタラキは片ハタラキにて、こ度一二三(ヒフミ)に結び真釣りて真神と成りなさる方々じゃ。

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さらに、下記ブログでは、(市内に由良川が流れている)綾部市が世界宗教都市になっている、ともあるが、その部分が歌の中の「和知光り」という感じがする。

下記参照。

『イエスは何故に旧約聖書の神(国常立尊)を地獄の長官で【サタン(悪魔)】としていたのか?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『霊学№23 日本から出た旧約聖書予言の男女の預言者。大祓祝詞旧版の母と子との罪?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


また「手火」は松明(たいまつ)のことだが、大本や日月神示等でさかんに言われている「五六七(みろく)の世」は、別名「松の世」とも呼ばれている。

下記ブログでは松(=木+公)は「公」の意味が隠されている、ともある。

下記参照。

『魂を磨く⑩/枝葉の神の栄えの教えではなく、松(公)の根元神を知る』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


要するにこの手火(=松明)の意味は、公が明らかになる、公正公平の世の中になる、また明(日+月)の神が公(おおやけ)の場に出て来る、という意味と解釈できるかと思う。

このようにミロクの世、松の世では、皆が松明を手にもつように、常に公の心を持って物事に当たって行く、ということになる、ということかと思う。

そして公(おおやけ)は公(きみ)とも読めるので、次の「岐美(きみ)」に通じる。

いわゆる伊邪那岐の神様と伊邪那美の神様で「岐・美」となるわけだが、日月神示ではこの神様が相抱き給う時が来たともあり、今までのように誰かが得をしたら誰かが損をするとか、何かの問題を解決すると今度は別の問題が出て来るなどの、そのような片ハタラキの世界ではない、ということが示されている。

日月神示参照。

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。』(碧玉の巻 第十帖)

『まだ〇のみ追ふてゐる人民 沢山あるなれど、〇では世は治まらん、自分自身は満たされんぞ、ヽでなくてはならん、と申してヽだけでもならんぞ、ヽが元ぢゃ、内ぢゃ、〇は末ぢゃ、外ぢゃ、ヽから固めて下されよ、〇はおのづから出来てくる、ふさはしい〇が出来てくるのぢゃ。今の世はひらけたひらけたと申しているが、それは半面だけのこと、半面がひらけると半面がとざされる世の中、開け放しの明るい世が目の前に来てゐるぞ。用意はよいか、真中うごいてはならんと申してあろう、動くのは外ぢゃ、忙しい急しいと申すのは外側にゐる証拠であるぞ、気つけて早う中心に飛び込めよ、真中結構、日本は真中の国であるぞ、日本精神は真中精神、末代動かぬ精神であるぞ、三千世界の大掃除であるから、掃除するには、掃除する道具もゐるぞ、人民もゐるぞ、今の有様では、いつ迄たっても掃除は出来ん、益々けがれるばかりぢゃ、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ。神が致すのでは人民がかあいそうなから、【くどう】申してゐるのぞ。』(碧玉の巻 第十三帖)

翻って、今、日本と中国とでいざこざが起きているが、一般的に見れば、日本の政権は右翼と呼ばれ、中国は共産主義で左翼ということになる。

上記ブログの右・左に分ける、という事柄の型示しが出て来ているようにも思われる。ただ日本人が全員右にいって、中国人が全員左にいく、というわけではないものと思われる。

日月神示には、外国にも神の子がいて、日本にも外国の子がいる、外国もやまともない、ともあるからだ。

日月神示参照。

『親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。木の根でも食うて居れ。闇のあとには夜明け来る。神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ。酒と煙草も勝手に作って暮らせる善き世になる、それまで我慢出来ない臣民 沢山ある。早く◎(モト)の神の申す通りにせねば、世界を泥の海にせねばならぬから、早うモト◎心になりて呉れよ、神頼むぞよ。盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、気のついた人から、まことの神の入れものになりて呉れよ、悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、初めは辛いなれど、さきを楽しみに辛抱して呉れよ。配給は配給、統制は統制のやり方、神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ。人の知恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損なひばかり、にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、盲には困る困る。救はねばならず、助かる臣民はなく、泥海にするは易いなれど、それでは元の神様にすまず、これだけにこと分けて知らしてあるに、きかねばまだまだ痛い目をみせねばならん。冬の先が春とは限らんぞ。◎の国を八つに切って殺す悪の計画、◎の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。岩戸が明けたら一度に分かる。』(上つ巻 第二帖 ◎は原文では「〇の中にヽ」の記号)

『神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。臣民物言はなくなるぞ、この世の終り近づいた時ぞ。石物言ふ時ぞ。神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。てん詞様が世界みそなはすのざぞ。世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神様に気附かんか、盲つんばばかりと申してもあまりでないか。』(地つ巻 第十五帖)

『今まで世に落ちてゐた神も、世に出てゐた神も皆一つ目ぢゃ、一方しか見へんから、世界のことは、逆の世界のことは判らんから、今度の岩戸ひらきの御用は中々ぢゃ、早う改心して こ(九、光)の神について御座るのが一等であるぞ。外国の方が早う改心するぞ、外(幽)国人とは逆の世界の人民のことであるぞ。神の目からは世界の人民、皆わが子であるぞ。世界中皆この神の肉体ぞ、この神には何一つ判らん、出来んと申すことないのぢゃ。どんなことでも致して見せるぞ。』(極めの巻 第七帖)

また天理教の「おふでさき」では‘から’と‘にほん’をわける、ということが出て来るが、これも上記ブログの右と左に分ける話に通じるとも思う。

『おふでさき 第二号三四』(「天理教研究所」より)

 

みかきよく こころいくさの
  なはきよき はなのさくいろ ここくよきかみ

(身が清く 心行く座の 名は清き 花の咲く色 護国良き神)

解説

座(ざ)は「座る場所。座席。」、名(な)は「その人の、固有の呼び方。氏名。姓名。また、姓に対して、家の中でその人を区別する呼び方。」「名声。名誉。」「守るべき分際。名分。」、護国(ごこく)は「国の平安を守ること。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画を見て、それをモチーフに書いた歌です。

『愛国百人一首 / 全100首を一気に読める動画』(「cavefilm」さん)


雑感

日月神示参照。

『目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心(みこころ)のままに弥栄(いやさか)に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。心配りはせなならんぞ。何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となりきれよ。何もかも捨てきらねばならんぞ。天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ。取違ひ致して呉れるなよ。幾ら戦してゐても天国ぞ、天国とは神国ぞ。神国の民となれば戦も有難いぞ。いきの生命いつも光り輝いてゐるぞ。神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな。ここの道理よく判りたであろが。何も云ふ事ないぞ。神称へる辞(コト)が光透(コト)ぞ。あめつち称へる言(コト)が光透(コト)ぞ。草木の心になれと申してあろがな。神風もあるぞ。地獄の風もあるぞ。迷ふでないぞ、神の申すコトはコトであるぞ。コトに生きてくれよ。コトにまつろへよ。』(日月の巻 第十五帖)

『喜べば喜ぶ事出来るぞ、悔やめば悔やむ事出来るぞ。先の取越苦労は要らんぞ、心くばりは要るぞと申してあろがな。神が道つけて楽にゆける様に嬉し嬉しでどんな戦も切抜ける様にしてあるのに、臣民 逃げて眼塞いで、懐手してゐるから苦しむのぞ。我れよしと云ふ悪魔と学が邪魔してゐる事にまだ気付かぬか。嬉し嬉しで暮らせるのざぞ。日本の臣民は何事も見えすく身魂授けてあるのざぞ、神の御子ざぞ。掃除すれば何事もハッキリとうつるのぞ。早よ判らねば口惜しい事出来るぞ。言葉とこの神示と心と行と時の動きと五つ揃たら誠の神の御子ぞ、神ぞ。』(日月の巻 第三十九帖)

『火と水と申してあろがな。火つづくぞ。雨つづくぞ。火の災(わざわい)あるぞ。水の災あるぞ。火のおかげあるぞ、水の災 気つけよ。火と水 入り乱れての災あるぞ、近ふなりたぞ。火と水の御恵みあるぞ。一度は神の事も大き声して云へん事あるぞ、それでも心配するでないぞ。富士晴れるぞ。家族幾人居ても金いらぬであろが。主人(あるぢ)どっしりと座りておれば治まっておろが。神国の型 残してあるのざぞ。国治めるに政治はいらぬぞ、経済いらぬぞ。神おろがめよ、神祭れよ、てんし様おろがめよ。何もかも皆神に捧げよ、神からいただけよ。神国治まるぞ。戦もおさまるぞ。今の臣民 口先ばかりでまこと申してゐるが、口ばかりでは、なほ悪いぞ。言やめて仕へまつれ。でんぐり返るぞ。』(水の巻 第十三帖)

『ツギ、アメノトコタチノミコト、ツギ、クニノトコタチノミコト、ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ。 辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ。この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。恐ろしい日ざぞ。今は型であるぞ。改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。猫に気付けよ、犬来るぞ。臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。◎と神との戦でもあると申してあろがな。戦のまねであるぞ。神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。手も足も動かすこと出来んぞ。たとへではないのざぞ。くどう気付けておくぞ。これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦ばかりでないぞ。その日その日の戦烈しくなるぞ、褌締めて呉れよ。』(日月の巻 第十帖 ◎は原文では「〇の中にヽ」の記号)

『今度は末代動かぬ世にするのざから、今までの様な宗教や教への集団(つどひ)にしてはならんぞ、人を集めるばかりが能ではないぞ、人も集めねばならず、六ヶ敷い道(おしへ)ぞ。縁ある人は早く集めて呉れよ、縁なき人いくら集めても何もならんぞ、縁ある人を見分けて呉れよ。顔は神の臣民でも心は外国身魂ぞ、顔は外国人でも身魂は神の臣民あるぞ。やりかけた戦ぞ、とことんまで行かねば納まらん。臣民一度は無くなるところまでになるぞ、今のうちに この神示よく読んでゐて呉れよ。九月になったら用意して呉れよ。』(上つ巻 第十五帖)

『世界中まるめて神の一つの詞(王)で治めるのぞ。それが神のやり方ぞ、百姓は百姓、鍛冶は鍛冶と、今度はとことはに定まるのぞ、身魂の因縁によりて今度はハッキリと定まって動かん神の世とするのぞ、茄子の種には瓜はならんぞ、茄子の蔓に瓜をならすのは悪の仕組、今の世はみなそれでないか。これで世が治まったら神はこの世に無いものぞ。神とアクとの力競べぞ。今度はアクの王も神の力には何うしてもかなはんと心から申す所まで、とことんまで行くのざから、アクも改心すれば助けて、よき方に廻してやるぞ。神の国を千切りにして膾(ナマス)にするアクの仕組は分りて居る、アクの神も元の神の仕組を九分九厘までは知ってゐて、天地ひっくり返る大戦となるのぞ。残る一厘は誰も知らぬ所に仕かけてあるが、この仕組、心で取りて呉れよ、神も大切ざが、この世では臣民も大切ぞ。臣民この世の神ぞ、と言ふて鼻高になると、ポキン折れるぞ。』(上つ巻 第二十八帖)

『今度の戦で何もかも埒ついて仕まふ様に思うてゐるが、それが大きな取違ひぞ、なかなかそんなチョロッコイことではないぞ、今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。今に戦も出来ない、動くことも引くことも、進むことも何うすることも出来んことになりて、臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、それからが、いよいよ正念場ぞ、まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。戦出来る間はまだ神の申すこときかんぞ、戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ、神の申すこと、ちっとも違はんぞ、間違ひのことなら、こんなにくどうは申さんぞ。神は気(け)もない時から知らしてあるから、いつ岩戸が開けるかと云ふことも、この神示(ふで)よく読めば分かる様にしてあるのぞ、改心が第一ぞ。』(下つ巻 第二十五帖)

『神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き。一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ。日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ。戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来るぞ。それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ。今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ。悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ。悪も改心すれば助けてやるぞ。海の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。海の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。まつわり呉れよ。竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかんぞ。朝日照る夕日たださす所に宝いけておいてあるぞ。宝 愈々世に出るぞ。人民の改心第一ぞ。顔は今日でも変るぞ。民の改心なかなかぞ。』(松の巻 第八帖)

『人民同士の戦ではかなはんと云ふ事よく判りたであろがな。神と臣民融け合った大和魂でないと勝てんことぞ。悪神よ。日本の国を此処までよくも穢したな、これで不足はあるまいから、いよいよ此の方の仕組通りの、とどめにかかるから、精一杯の御力でかかりて御座れ。学問と神力の、とどめの戦ざぞ。』(松の巻 第十八帖)

『世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな、五十九柱いくらでもあるのざぞ、かへミタマあると申してあろがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ。心から勇む仕事よき事ぞ、此の方の好く事ざぞ。木の葉落ちて冬となれば淋しかろがな、紅葉(もみじ)ある内にと気付けおいたが紅葉の山も落ちたであろがな、他で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち付いて聞き落しのない様になされよ、悔しさ目に見へておろがな、どぶつぼに我と落ち込む人民許り出て来て、神の国 臭くて足の踏場もないぞ、なれども見て御座れ、三千世界一度にひらいて世界一列一平一つのてん詞(四)で治めるぞ。地の世界に大将なくなって五大州引繰り返りてゐると申すことまだ判らんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだ判らんか、尻の毛まで悪魔に抜かれてゐて まだ判らんのか、あんまりな事ぢゃなあ。是までは高し低しの戦でありたが、是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ、誠とはコトざぞ 口でないぞ、筆でないぞ コトざぞ、コト気付けと申してあろがな。コト、コト、コト、ざぞ。始めウタあったぞ、終もウタぞ、今も昔もウタざぞ、人民も動物もウタ唄ふのざぞ、終の御用の始はウタぞ、ウタの集団(つどひ)とせよ。此の神示ウタとして知らす集団とせよ、ウタの集団 始ざぞ、表ざぞ、裏の裏ざぞ、表の表ぞ、道開く表の終の御用ぞ、江戸の御用すみたから、尾張の御用と申してあろがな、カイの御用も忘れてならんのざぞ。食物(おしもの)の集団も作らなならんぞ、カイの御用の事ぞ、此の集団も表に出してよいのざぞ、時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのがまことの神の集団ざぞ。不動明王殿も力あるに、あそこ迄落してあるは神に都合ある事ぞ。世に落ちて御座る守護神と 世に落ちてゐる神々様と 世に出てゐる神々様と 世に落ちて出てゐる守護神殿と 和合なさりて物事やって下されよ、二人でしてくれと申してあろがな、判りたか。』(雨の巻 第十三帖)

『此の世と申しても臣民の世ばかりでないぞ、神の世界も引くるめて申してゐるのぢゃぞ、勇んでやって下されよ、勇む所 此の方 力添え致すぞ。心配顔 此の方 嫌ひぞ、歌唄ひ下されよ、笑ひて下されよ、笑へば岩戸開けるぞ。今の人民キリキリ舞しながら まだキリキリ舞する様もがいて御座るぞ。つ千に返ると申してあろがな、早う気付いた臣民人民 楽になるぞ。神の守護と申すものは人民からはちっとも判らんのであるぞ、判る様な守護は低い神の守護ざぞ、悪神の守護ざぞ、悪神の守護でも大将の守護ともなれば人民には判らんのざぞ、心せよ、何んな事あっても不足申すでないぞ、不足悪ざぞ、皆 人民の気からぞと くどう申してあろがな、人民キから起って来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むより方法(ほか)ないぞ、人民の心さへ定まったら、此の方 自ら出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ。此の世の物 一切 神の物と云ふ事まだ判らんのか、一切取り上げられてから成程なァと判ったのではおそいから嫌がられても、くどう同じ様な事申してゐるのざぞ、人民の苦しみ此の方の苦しみざぞ、人民も此の方も同じものざぞ、此の道理判りたか、此の方 人民の中に居るのざぞ、別辞(ことわけ)て申してゐるのざぞ。まだまだ大き戦激しきぞ、是で世よくなると思ってゐると大間違ひとなるのざぞ、是からが褌(ふんどし)ざぞ、よき世となれば褌要らんのざぞ、フラリフラリと風に吹かれるヘチマぢゃ、ヘチマ愉快で嬉しひなあ、風の間に間に雨の間に間にユタリユタリと嬉しかろがな、何も彼も嬉し真から楽しき世ざぞよ。誠が神であるぞ、コトが神であるぞ、元であるぞ、道であるぞ、日であるぞ月であるぞ。始めコトありと申してあろがな、キであるぞ、まつりであるぞ。』(雨の巻 第十六帖)

『人民同士の戦では到底かなはんなれど、いよいよとなりたら神がうつりて手柄さすのであるから、それまでに身魂みがいておいて呉れよ。世界中が攻め寄せたと申しても、誠には勝てんのであるぞ、誠ほど結構なものないから、誠が神風であるから、臣民に誠なくなりてゐると、何んな気の毒出来るか分らんから、くどう気つけておくのざぞ、腹掃除せよ。』(地つ巻 第三帖)

『いくさ何時も勝と許りはかぎらんぞ、春まけとなるぞ、いざとなれば昔からの生神様総出で御働きなさるから、神の国の神の道は大丈夫であるなれど、日本臣民 大丈夫とは申されんぞ、その心の通りになること忘れるなよ、早うミタマ磨いてくれよ、も少し戦すすむと、これはどうしたことか、こんなはづではなかったなあと、どちらの臣民も見当とれん、どうすることも出来んことになると知らしてあろが、さうなってからでは遅いからそれ迄に、この神示よんで、その時にはどうするかと云ふこと判りて居らんと仕組成就せんぞ、役員の大切の役目ざぞ、われの思いすてて了ふて早うこの神示、穴のあく程うらの裏まで肚に入れておいてくれよ、この神示の終りに、神強く頼むぞよ。』(磐戸の巻 第二十帖)

『三千年の昔に返すと申してあらうがな。よい御用いたす身霊(みたま)ほど苦労さしてあるのぢゃ。他から見ては、わからんなれど、苦労に苦労さして、生き変り、死に変り、鍛へに鍛へてあるのぢゃぞ。肉体の苦労も霊の苦労も、どちらの苦労にも、まけん人民臣民でないと、眼先のことで、グレングレンと引繰りかへりて、あわてふためく様なことでは、どんな事あっても、びくともせん、ミタマでないと、御用六ヶ敷いぞ。こんどの苦の花は真理(ふじ)に咲くのみざぞ。不二に九(こ)の花咲くや媛(ひめ)まつれと申してあるが、九(こ)の花、おのもおのもの心の富士にも咲くのざぞ。九(こ)の花咲けば、此の世に出来んことないぞ。まことの@かかりぞ。この先もう建替出来んギリギリの今度の大建替ぢゃ。愈々の建替ざから、もとの神代よりも、も一つキの光輝く世とするのぢゃから、中々に大層ざぞ。人民 苦しからうが、先楽しみに御用見事つとめ上げて下されよ。二つづつある神様を一つにするのであるから、嘘偽(うそいつわり)ちっともならんのぢゃ。少しでも嘘偽あったら、曇りあったら、神の国に住めんことになるのざぞ。途中から出来た道では今度と云ふ今度は間に合はんのざぞ。根本からの道でないと、今度は根本からの建直しで末代続くのぢゃから間に合はん道理わかるであらうがな。われの国同士の戦 始まるのぢゃ。この戦、神は眼あけて見ておれんなれど、これも道筋ぢゃから、人民にも見て居られんのぢゃが、友喰ひと申して知らしてあらうが。この方等が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、あたらしき、キの光の道つくるのぢゃ。あらたぬし、世にするのぢゃと申してあること愈々ざ、人民、臣民 勇んでやりて下され。神々様 守護神どの、勇め勇め。』(岩の巻 第二帖 @は原文では「渦巻き」の記号)

『元の神代に返すといふのは、たとへでないぞ。穴の中に住まなならんこと出来るぞ、生(なま)の物食うて暮らさなならんし、臣民 取り違ひばかりしてゐるぞ、何もかも一旦は天地へお引き上げぞ、われの慾ばかり言ってゐると大変が出来るぞ。』(上つ巻 第三十六帖)

『山の谷まで曇りてゐるぞ、曇りた所へ火の雨降るぞ、曇りた所には神は住めんぞ、神なき所 愈々ざぞ。ひどい事あるぞ、神がするのでないぞ、臣民 自分でするのざぞ。一日一日のばして改心さすやうに致したなれど、一日延ばせば千日練り直さなならんから、神は愈々鬼となって規則通りにビシビシと埒(らち)あけるぞ、もう待たれんぞ、何処から何が出て来るか知れんぞと申してあろがな。花火に火つけよ、日本の国の乱れて来たのは来られんものを来らしたからぞ。三千年の昔に返すぞ、三万年の昔に返すぞ、三十万年の昔に返さなならんかも知れんぞ。家内和合出来ん様では、この道の取次とは申されんぞ、和が元ざと申してあろが、和合出来ぬのはトラとシシぞ、どちらにもメグリあるからざぞ、昼も夜もないのざぞ、坊主 坊主くさくてはならんぞ。』(キの巻 第十帖)

『日の大神様は日の御働き、月の大神様は月の御働き、日の大神様も世の末となって来て御神力うすくなりなされてゐるのざぞ、日の大神様も二つ、三つ、自分一人の力では何事もこれからは成就せんぞ、心得なされよ、神示で知らしただけで得心して改心出来れば大難は小難となるのぢゃ、やらねばならん、戦は碁、将棋、位の戦ですむのぢゃ、人民の心次第、行ひ次第で空まで変ると申してあろがな、この道理よく心得なさりて、神の申すこと判らいでも、無理と思ふ事も貫きて下されよ、これがマコトぢゃ。』(青葉の巻 第十六帖)

『この神示読むとミタマ磨けるぞ、ミガケルぞ。神示読むと改心出来るぞ。暮し向きも無理なく結構にヤサカ、弥栄えるぞ。まだ判らんのか。苦しいのは神示読まんからぢゃ。金の世すみて、キンの世来るぞ。三年目、五年目、七年目ぢゃ、心得なされよ。欲しいもの欲しい時食べよ。低うなるから流れて来るのぢゃ。高うなって天狗ではならん道理。頭下げると流れ来るぞ。喜び、愛から来るぞ。神様も神様を拝み、神の道を聞くのであるぞ。それは◎と@と@とによって自分のものとなるのぢゃ。融けるのぢゃ。一つ境があるぞ。世界の人民一人一柱 守りの神つけてあるぞ。人に説くには人がいるぞ。役員 取違ひしてゐるぞ。われよし信仰だからぞ。あまり大き過ぎるから判らんのも道理ながら、判らんでは済まん時来てゐるぞ。いざと云ふ時は日頃の真心もの云ふぞ。付け焼刃は付け焼刃。神拝むとは、頭ばかり下げることでないぞ。内の生活することぞ。内外共でなくてはならん。残る一厘は悪の中に隠してあるぞ。』(黄金の巻 第二十三帖 「◎と@と@」は原文では「〇の中にヽと右巻きの渦巻と左巻きの渦巻」の記号)

 

『金(きん)では治まらん、悪神の悪では治まらん、ここまで申してもまだ判らんか、金では治まらん、悪の総大将も其の事知って居て、金で、きんで世をつぶす計画ざぞ、判ってゐる守護神殿 早う改心結構ぞ、元の大神様に御無礼してゐるから病神に魅入られてゐるのぢゃぞ、洗濯すれば治るぞ、病神は恐くて這入って来られんのぢゃぞ、家も国も同様ざぞ。神示幾らでも説けるなれど誠一つで説いて行(おこな)って下されよ、口で説くばかりではどうにもならん、魂なくなってはならん。』(梅の巻 第二十六帖)

『この先どうしたらよいかと云ふ事は、世界中 金(かね)の草鞋(わらじ)で捜しても九九(ここ)より他 分からんのざから、改心して訪ねて御座れ。手取りてよき方に廻してやるぞ。神の国の政治は、もの活かす政治と申してあろが、もの活かせば、経済も政治も要らんぞ。金もの云ふ時から、物もの云ふ時来るぞ。誠もの云う時来るぞ。石もの云ふ時来るぞ。』(松の巻 第五帖)

 

『四十九、天明 神示(ふで)書かす御役ぞ。一二三(ひふみ)となる日近づいたぞ、節分迄に皆の守護神 同じ宮に祀りくれよ、まつりまつりてまつり合せ、和合して物事成就するのぞ。まつる心なき者 誠ないぞ、マコト判らんぞ。靖国のミタマもそれ迄に奥山に祀りくれよ、まつり替へてやりてくれよ。世界の神々様、守護神様、人民のみたま、祀りくれよ、まつり結構ぞ。節分からの誓言(ちかひ)変へさすぞ、大神様には御三体の大神様 御三体の大神様と七回くり返せよ、それでよいぞ、神々様には弥栄ましませと五回くり返せよ、霊(タマ)の宮には弥栄ましませと三回繰り返せよ、それでよいぞ、弥栄ざぞ。』(梅の巻 第十九帖)

ちよのきろ ととめしはふと
  ひかりなり かひとふはしめ ととろきのよち

(千代の岐路 止め司法と 光なり 可否問ふ始め 轟きの輿地)

解説

千代(ちよ)は「千年。また、非常に長い年月。とこしえの年。ちとせ。千載。」、岐路(きろ)は「幾筋にも分かれたみち。また、道が分かれる所。分かれ道。」「 ( 比喩的に ) どういう道を選ぶべきかを決めなければならない時点。重大な分かれ道。」、止め(とどめ)は「人を殺すとき、その喉(のど)を刺して息の根をとめ、死を確実にすること。また、その刺すべき箇所。喉。」、司法(しほう/しはふ)は「民事(行政事件を含む)および刑事の裁判。」、可否(かひ)は「よいかよくないか。事のよしあし。」「賛成と不賛成。可決と否決」、問う(とう/とふ)は「訊問する。詰問する。罪を取り調べる。問いただす。」「追及する。罪や責任を、その人について追及するのにいう。」、轟く(とどろく)は「音が荒々しく鳴り響く。力強く響きわたる。」「転じて、驚く。驚きさわぐ。」「広く世に知れわたる。有名になる。」「鼓動が激しくなる。動悸がする。ときめく。」、輿地(よち)は「大地。地球全体。全世界。」の意味です。

雑感

下記参照。

『来年は【みろくの八十吉?】。神の存在を忘れた大多数の人達と、そうでない人の総仕上げ』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『お釈迦様の死後五十六億七千万後に現れる【みろく菩薩】を仕組んだ存在がある。だが誰もそれが仕組まれた物だとは思わなかった。』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『霊学№81 人の魂の本質は【善】であり、悪は存在しなかった。悪は魂に附着した汚れから起きた。』(「人に内在する良心神(神言会)」より)

 

『2004年9月9日』(「旦那の部屋」さん)


『神の経綸 変化の12年 〜神の経綸〜』(「旦那の部屋」さん)

 

話は変わるが、日本国債と円がいよいよやばいようだ。

『「日本が人類史上最大の富の移転を引き起こした」』(「braindeadworld」さん)


『「日本は完全に破滅のループに陥っている」というアメリカ人の投稿』(「braindeadworld」さん)


数年前、下記に書いておいた事柄がいよいよ出て来た感がある。

 

 

 

 

 

なかきよて みろくはんせん
  かりのよの りかんせんはく ろみてよきかな

(永き代で 弥勒判然 仮の世の 離岸船舶 艫見て良きかな)

解説

判然(はんぜん)は「はっきりとわかること」、仮の世は「無常なこの世。はかない現世。うきよ。」、離岸(りがん)は「船が海岸・岸壁から離れること。」、船舶(せんぱく)は「大型の船、特に人間や荷物を積載して海上を航行するように建造した船。」、艫(ろ)は「へさき。船の前部。船首。」の意味です。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

 

「仮の世」は、儚いこの世のことを言うわけだが、この世は別名此岸(しがん)とも言う。なので「仮の世の 離岸」は、此岸であるこの世から離れる、という意味と捉えることが出来ると思う。

昔風に言えば、三途の川を渡る、ということ。

下記参照。

『みろく世に渡す【みろく丸】とノアの箱船との関係は、七五三と玉置による』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)


『霊学№16 この地球から人々の魂を乗せて去って行く【新・ノアの箱船(みく丸)】とは』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)


『霊学№85 そもそも神は言葉の【言】は何を意味しているのか?』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)

 

ひのくろし くもゐふたたひ
  のそみかみ そのひたたふゐ もくしろくのひ

(日の黒し 雲居再び 臨み神 其の日ただ怖畏 黙示録の日)

解説

雲居(くもい/くもゐ)は「雲のある場所。雲のたなびいている所。大空。」「雲。」「はるかに遠く、または高く隔たった所。」、其の(その)は「現在、話に出ている、または、話に出たばかりの事柄をさす。」、怖畏(ふい/ふゐ)は「おそれること。おそれ。畏怖。」、黙示録は「新約聖書の最後の一書。95年ごろローマの迫害下にある小アジアの諸教会のキリスト教徒に激励と警告を与えるために書かれた文書。この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利など、預言的内容が象徴的表現で描かれている。ヨハネ黙示録。アポカリプス。」「転じて、破滅的な状況や世界の終末などを示したもののこと。」の意味です。

余談

この歌は、下記音楽動画を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Pachelbel's Canon D Dur - Rap - Evangelion canon rap by Mali』(「Daily videos」さん)


雑感

下記参照。

『ヨハネの黙示録 第6章』(「WordProject」さん)


それにしてもこの6章の第12節で太陽が黒くなるとあるけど、太陽の黒点増殖からの巨大太陽フレア到来で、空全体が赤いオーロラで覆われて、その影響で月すら赤く見えるとか、そういうことなんやろか?

また第13節で(いちじくのまだ青い実のような)天の星が落ちて来るとかあるけど、最近騒がれてる青色(緑色)の3I/ATLAS彗星のこと?

『【恒星間天体「3I/ATLAS」が3度目の“色の変化”か?】宇宙船説も浮上する来訪者の奇妙な変化』(「yahooニュース」より)

 

ただ、下記記事によれば3I/ATLAS彗星は12月19日に地球に最接近するとのことだが、それでも約2億6900万キロメートルなので、今後予測された軌道が変わらない限り、地球に衝突する恐れはないかとも思う。

『3I/ATLAS最新情報:これはエイリアンの宇宙船?』(「Star Walk」より)


第14節の部分はたぶん、地軸がずれて全ての大陸(山と島)が別の場所に移動するということだろうと思う。

下記参照。

『D語録 〜26.ヨハネの黙示録 解説 その1〜』(「旦那の部屋」さん)


『D語録 〜28.ヨハネの黙示録 解説 その2〜』(「旦那の部屋」さん)


『D語録 〜30.ヨハネの黙示録 解説 その3〜』(「旦那の部屋」さん)