なかすこせ もののあはれと
たかいせい かたとれはあの のもせこすかな
(流す後世 もののあはれと 他界性 象れば彼の 野面越すかな)
解説
後世(ごせ)は「生まれかわった後の世。後生(ごしょう)。来世。」「死後の世界で幸福に暮らすこと。後世の安楽。」、もののあはれは「平安時代の文芸の美的理念の一つ。自然・人生に触れて起こるしみじみした内省的で繊細な情趣。あらわな表現を避けて、洗練された繊細さを重んじる。江戸時代、国学者本居宣長(もとおりのりなが)がその著『源氏物語玉の小櫛(おぐし)』で、『源氏物語』の本質は‘もののあはれ’であると唱えたのに始まる。」、他界は「他の世界。自己が属していない、ほかの世界。」、象る(かたどる)は「物の形をうつしとる。また、似せたりまねたりする。」、ばは「接続助詞。已然形に付く場合、順接の確定条件、偶然の条件を表す。~と。~たところ。」、彼の(あの)は「話し手から遠く離れている人・事物をさす。」、野面(のもせ)は「野原一面。また、野のおもて。のづら。」の意味です。
余談
この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。
『Forest Funk』(「Sakuzyo Official」より)
雑感
何となく気まぐれに、解釈を書いておこうかと思う。
「流す後世」は、自分の死後の世界を思い描いたり、またその死後の世界で幸福で暮らすことを願ったりするようなことを綺麗さっぱり流す、ということ。
つまり、次の瞬間、一分後、十分後、一時間後、明日等々、未来に何が起こるかわからないという「無常性」の中に身を置くということ。
そのような心で以て「もののあはれ」と「他界性」を象ったところ、向こう側の野を越すなぁ、ということ。
つまり、無常に流れて行く自然の情景、たとえば、絶えず流れていく川とか常に巡っていく四季とか、そういう「無常性」の中へと入っていく、ということ。
そもそも、自分の死後の幸福を願う、というのはつまり、永遠に変わらない‘私’がまず最初にあって、その前提で以て、死後もずっと永遠に幸せで居たい、と願い望むことなわけだが、その前提となる「永遠に変わらない‘私’」というものが、目の前の無常性の中に入っていくことで完全に崩れ去る、ということ。
加えて言うならば、それは‘私’が入っていくのでもなくて、物の怪とかいう表現があるように(一般的には私と呼ばれているところの)物(者)’が入っていく、ということ。
さらにこの「野」は、火葬場または埋葬地のことも意味する「野辺」や、或いは「野辺送り」という言葉もあるように、此の世(このよ)と彼の世(あのよ)の境界線としての「野」ということでもあるかと思う。
なので、その「野」を越すというのは、一言で言えば彼の世に行く、ということになるわけだが、これは成仏できない幽界的な彼の世ではなくて、完全に成仏した本来の霊界的な彼の世に行く、というニュアンスかと思う。