もてまこと ことたまひかる
  たいのわの いたるかひまた とことこまても

(持て誠 言霊光る 大の和の 至る加被また 何処何処までも)

解説

加被(かび)は「神仏が力を貸して守ってくれること。加護。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第7巻 第4篇 鬼門より竜宮へ 第22章 竜宮の宝』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


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『何心配するにや及ばぬ。俺がこれから竜神に一つ談判して、その宝を見せて貰はう。モシ竜神殿、乙姫の眷属殿、我は日の出神ぢや、宝を一遍見せて呉れよ』

と云ひも終らず、たちまち海面は四方八方にまン円き渦を巻ききたりぬ。船頭は驚いてますます慄ひ上りゐる。ブクツと音がすると共に大きな金塊が波の上に浮き出て、次で右にも左にも、前にも後にも数限りのなき金銀、真珠、瑪瑙、瑠璃、硨磲などの立派な宝玉は、水面に浮き上り、実に何とも知れぬ美観なりける。日の出神は、

『もうよろしい、乙姫殿に宜敷云うて下さい』

と言葉終ると共に浮き出たる諸々の宝は又もやぶくぶくと音をさせて海底に残らず潜みける。船客一同は手を拍つてその美観を褒めたり。船は悠々として西南に向つて進み行く。

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雑感

硫黄島沖で噴火があったそうだ。

『硫黄島沖でマグマが噴出する噴火か 海岸に溶岩、1千年ぶりの可能性』(「朝日新聞社」より)


上記霊界物語の部分では、竜宮の乙姫様のお宝はすごいらしいことが解る。下記部分では、ある時期が来ると、そのお宝が陸に上がって来るという。

下記参照。

『霊界物語 第1巻 第3篇 天地の剖判 第24章 神世開基と神息統合』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


日月神示でも、南の島に埋めてある宝が云々とある。

『日本の国はこの方の肉体であるぞ。国土おろがめと申してあらうがな、日本は国が小さいから一握りに握りつぶして喰ふ積りで攻めて来てゐるなれど、この小さい国が、のどにつかえて何うにも苦しくて勘忍して呉れといふやうに、とことんの時になりたら改心せねばならんことになるのぞ。外国人もみな神の子ざから、一人残らずに助けたいのがこの方の願ひと申してあらうがな、今に日本の国の光出るぞ、その時になりて改心出来て居らぬと臣民は苦しくて日本のお土の上に居れんやうになるのぞ、南の島に埋めてある宝を御用に使ふ時近づいたぞ。お土の上り下りある時近づいたぞ。人の手柄で栄耀してゐる臣民、もはや借銭済(な)しの時となりたのぞ、改心第一ぞ。世界に変りたことは皆この方の仕組のふしぶしざから、身魂みがいたら分るから、早う身魂みがいて下されよ。身魂みがくにはまつりせねばならんぞ、まつりはまつらふことぞと申して説いてきかすと、神祭りはしないでゐる臣民居るが、神祭り元ぞ、神迎えねばならんぞ、とりちがへと天狗が一番恐いのざぞ、千匁(せんじん)の谷へポンと落ちるぞ。神の規則は恐いぞ、隠し立ては出来んぞ、何もかも帳面にしるしてあるのざぞ、神の国に借銭ある臣民はどんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ、家は家の、国は国の借銭済(な)しがはじまってゐるのぞ、済(す)ましたら気楽な世になるのぞ、世界の大晦日(おおみそか)ぞ、みそかは闇ときまってゐるであらうがな。借銭(かり)返すときつらいなれど、返したあとの晴れた気持よいであらうが、昔からの借銭ざから、素直に苦しみこらへて神の申すこと、さすことに従って、日本は日本のやり方に返して呉れよ、番頭どの、下にゐる臣民どの、国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いて呉れよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな、九十に気つけて用意して呉れよ。』(地つ巻 第三十五帖)

ある日突然、一夜にして、南の島付近の、見渡す限りの海に、宝の山が浮かんで来る、ということは、ここまで世が迫って来た以上、あるかもしれない。

もしそうなれば日本は疎(おろ)か、世界中がびっくりするだろうが、日本はそのお宝を、善人悪人分け隔てなく、無料で誰にでもそのエネルギーを与えているお天道様(=太陽)のあの姿に倣って、税金を撤廃して、何もかも無料にする代わりに、皆がタダ働きする「日の光の政治」「与える政治」のために使い、一日でも早くここにミロクの世を実現せねばならないのだ。

下記参照。


このお宝が晴れて表に出て来れば、世界中の外国が、いよいよ日本に攻めて来ることが決定づけられる、ということでもあるので、目の前の金銀財宝のきらびやかな姿に浮かれていてはならない。

日月神示参照。

『宝の山に攻め寄せ来ると申してくどう気付けておいたでないか。神の国にはどんな宝でもあるのざぞ、◎(かみ)の国、昔から宝埋けておいたと申してあろがな。○(かみ)の国にも埋けておいてあるのざぞ。この宝は神が許さな誰にも自由にはさせんのざぞ。悪が宝取らうと思ったとて、どんなに国に渡り来ても どうにもならん様に神が守ってゐるのざぞ。いよいよとなりたら神がまことの神力出して宝取り出して世界のどんな悪神も神の国にはかなはんと申す所まで、とことん心から降参する所まで、今度は戦するのざから臣民余程見当取れんことに、どんな苦労もこばらなならんのざぞ。知らしてありた事、日々(にちにち)どしどしと出て来るぞ。われよしすてて呉れよ。』(日月の巻 第三十三帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

上記霊界物語でも、物質的なお宝は大神様はあまりお喜びにならない、とある。だがしかし、神業の補助材料とはなる、とも書かれている。

本当の間に合う宝ではないが、確かに補助材料になるとは思う。

中東やロシアなど見ても、いくら無尽蔵に近い資源があっても、それをいつまでも奪い合っていたり、末端の国民にその恵みが行き渡っていなかったり、またその資源をエサに、他国をコントロールしようとする様を目の前でまざまざと見せつけられていれば、物質的なお宝のみによって、ここに地上天国が開かれるとはどうしても思えない節がある。

であるから、日本はこの目の前の悪しき型示しをよく見て、そしてよく考えて、今回海底から出て来るであろう無尽蔵のこのお宝を、日本の上の人達、或いは日本の国だけで独り占めしようとしてはならないのだ。

なぜならこのお宝は、この地上に天国を開かんが為に、神様が特に許して、目の前に現せて見せてくれるからである。

日月神示参照。

『海一つ越えて寒い国に、まことの宝 隠してあるのざぞ、これからいよいよとなりたら、神が許してまことの臣民に手柄いたさすぞ、外国人がいくら逆立ちしても、神が隠してゐるのざから手は着けられんぞ、世の元からのことであれど、いよいよが近くなりたら、この方の力で出して見せるぞ、びっくり箱が開けて来るぞ。』(天つ巻 第十四帖)

であるから、今回出て来るであろう海底資源は、あくまで「日の光の政治」「与える政治」を始める時の、担保金、ただの見せ金としてのみ、使うべきなのだ。

そして本当のお宝とは「誠」であって、大本の基本宣伝歌にもあるように「誠の力は世を救う」からである。

「日の光の政治」「与える政治」がいざ始まると、みんな気付くだろう。

全てが無料なのに、世界中何処を見ても過不足も起きず、また不平不満も出ずに、何もかもうまくいってしまうのは、皆が皆、周りの為にと思ってタダ働きする、その奉仕の心、即ち「誠」こそが、その原動力となっているからだということに。

決して、金(ゴールド)や銀(プラチナ)などの金銀為本によって、この「日の光の政治」「与える政治」が支えられているのではない、ということが、実際にこの政治が始まれば、はっきりと解るだろう。

宝は「ウ+玉」である。有(ウ)の玉が「宝」である。即ち玉が有るのが「宝」なのだ。

宝とは「十(た)から」であって、「十(神)から」という意味である。全て神から頂いている、と思う、その考え方が、タカラなのだ。

またタカラは高裸(たから)であり、裸になることである。霊界物語や日月神示では、一番高い天国にいる人は、衣服を着用していない、とある。

霊界物語参照。

『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第17章 天人歓迎』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


日月神示参照。

『霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する。また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめない。これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる。但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである。霊人はまた、いろいろな食物を食している。云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である。また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである。そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。~~後略~。』(地震の巻 第十五帖)

つまり、これは自分の土地だとか、これは自分のお金だ、とか、そういう考え方から抜け出して、自身の持っている能力さえも、全て神から流れ出て来たものだ、という考え方である。

また玉は「十(た)」と「○(ま)」である。十とは「たり(足り)」であり、○とは「れい(澪)」である。

「日の光の政治」「与える政治」が始まれば、土地も家も日用品も、全ての全てが「自分の物」としては何も無くなるのだが、全ての物が神から無料で与えられているので、周りの物やサービスは全て自由に与えられ、受けられるので、全てが自分の物と同じように、その恵みを享受できるようになるのだ。

まさに十(全てが満ち足りている状態)と○(何も無い状態)が一心同体となった形が出て来る、ということである。

故に、ベーシックインカムなどは必要なく、人々はただ与え合うだけで、全てが事足りることに気付くのだ。そして今まで、どれだけ回りくどいことをしていたかを、思い知らされるのだ。

さらに気付くのは、我々に与えて下さるのは、どこぞの世界政府や各国政府を跨いだエリート集団では決してなく、神のみが唯一我々に与えて下さる存在である、ということである。

「何もかも管理された中での月10万円前後のベーシックインカム」と「目の前の全ての物やサービスを、いつでもどこでも無料で享受できる日の光の政治」と、どちらが良いかは、火を見るよりも明らかである。

「ベーシックインカム」とは、基本(basic)収入(income)の意味であり、逆に言えば、基本収入以上のものは何も与えられない、ということでもある。

そしてベーシックインカムが始まれば、財源はどうするのか、という問題が必ず出て来る。

しかし「日の光の政治」には、財源は要らないのだ。

なぜなら、全てが無料で税金を取らない「日の光の政治」の財源は、人々が日々行なう無料奉仕という名の「誠」が財源だからだ。

であるが故に、「誠」はいくら使っても無くならない永遠無窮の「宝」であることが、ここに来て初めて、広く人々に理解され得るのである。

しかも「日の光の政治」が始まれば、今の仕事の軽く9割を超える無駄な部分が減るので、無料奉仕するといっても、一日1~2時間であり余るほどになる。

再び下記参照。


この度、出て来るであろう海底資源のお宝は、まさにその「日の光の政治」「与える政治」を始めるために出て来るのだ、ということは決して忘れてはならない。

これから青天井に上がっていくゴールドの価値と連動させて、目を眩ませてはならない、ということだ。

一日毎に、うなぎのぼりに上がって行くゴールドの値段を見て「やっとこれで世界中の人々を救うことが出来る!!」と、思えるぐらいにならないと到底駄目である。

でないと、既に始まっている「天地へ引き上げ」がさらに激しくなって、我々を含めた世界中の人々の衣食住の入手が、さらに困難になって行き、果ては無くなる所まで行ってしまって、阿鼻叫喚の地獄がこの世に顕現して来るからである。

日月神示参照。

『江戸の仕組 江戸で結ばんぞ。この道開くに急いではならんぞ、無理して下さるなよ、無理急ぐと仕組壊れるぞ。まだまだ敵出て来るなれど、神心になれば敵、敵でなくなるぞ、敵憎んではならんぞ、敵も神の働きぞ。神は六ヶ敷いこと云はんぞ、神に心皆任せてしまうて、肉体慾 捨ててしまふて、それで嬉し嬉しぞ。神が限りなき光り、よろこび与へるのざぞ。いやならいやでそなたのすきにしてやりてござれ、一旦天地へ引上げと申してある通りになるぞ。一度の改心六ヶ敷いからくどう申してあるのざぞ。今までほかで出て居たのは皆 神示先(ふでさき)ぢゃ、ここは神示(ふで)ぢゃ、何時もの如く思って居ると大変が足元から飛び立つのざぞ、取返しつかんから気付けてゐるのぢゃ。何れは作物(つくりもの)取らしておくから、沢山取れたら更に更に愈々ざと心得よ。神の国治めるのは物でないぞ、まことざぞ、世界治めるのもやがては同様であるぞ、人民マコトと申すと何も形ないものぢゃと思ってゐるが、マコトが元ざぞ。タマとコト合はしてまつり合はして真実(マコト)と申すのぢゃ。○とヽをまつりたものぢゃ、物無くてならんぞ、タマなくてならんぞ、マコト一つの道ざと申してあろがな、わかりたか。ミタマ相当にとりて思ふ様やりてみよ、行出来ればその通り行くのぢゃ、神に気に入らん事スコタンばかりぢゃから、引込み思案せずに堂々とやりて下されよ。こんな楽な世になってゐるのぢゃ、屁(へ)も放(ひ)れよ、沈香もたけよ、ふらふらして思案投首この方嫌ひぢゃ。光る仕組、中行く経綸(しくみ)となるぞ。』(風の巻 第六帖)

『何も分らん枝葉の神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、早う其の神と共に此処へ参りて、マコトの言(こと)を聞いて誠に早う立ち返りて下されよ、○九十(マコト)とは○一二三四五六七八九十であるぞ、一二三四五六七八かくれてゐるのざぞ。縁あればこそ、そなた達を引寄せたのぢゃ、此の度の二度とない大手柄の差添へとなって下されよ、なれる因縁の尊い因縁をこわすでないぞ。見て見よれ、真只中になりたら学でも智でも金でもどうにもならん見当取れん事になるのぢゃ、今は神を見下げて人民が上になってゐるが、さうなってから神に助けてくれと申しても、時が過ぎてゐるから時の神様がお許しなさらんぞ、マコトになってゐれば何事もすらりすらりぞ。』(海の巻 第十四帖)

『【ヽ(テン)忘れるなよ】。世を捨て、肉をはなれて天国近しとするは邪教であるぞ。合せ鏡であるから片輪となっては天国へ行かれん道理ぢゃ。迷信であるぞ。金で世を治めて、金で潰して、地固めして みろくの世と致すのぢゃ。三千世界のことであるから、ちと早し遅しはあるぞ。少し遅れると人民は、神示は嘘ぢゃと申すが、百年もつづけて嘘は云へんぞ。申さんぞ。』(黄金の巻 第五十九帖)