むれかなた うみのちのきし
  かすみやみ すかしきのちの みうたなかれむ

(山彼方 海の地の岸 霞止み 清しき後の 神歌流れむ)

解説

山(むれ)は「やま。おか。」、霞は「空気中に浮遊するごく小さな水滴・ちりなどのために、遠くのものがはっきり見えなくなる現象。また、そのために、山腹などに帯状に見える薄雲のようなもの。普通、春のものをいう。」、清し(すがし)は「すがすがしい。さわやかで気持ちがよい。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(やまつみ)’‘海神(わたつみ)’など他の語と複合して用いられる。」の意味です。

余談

この歌は、「大神 オリジナル・サウンドトラック」にある「妖怪退治」~「双魔神 モシレチク コタネチク退治」~「妖魔王キュウビ退治」~「ヤマタノオロチ復活」~「ヤマタノオロチ退治 其の一」~「ヤマタノオロチ退治 其の二」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

霞は、人の物を奪い取る、人をあざむくという意味の「掠み」とかけている。

日月神示では「世をもたれん天地の大泥棒をこの世の大将と思ってゐて、それでまだ眼覚めんのか」(風の巻 第八帖)という部分がある。

貨幣流通システムの仕組みによって、一人一人の働きが一部の人々、突き詰めれば悪神に掠め取られているのが今の世の中であることは明白である。

これは既に山の彼方にある村々から、海岸沿いの各都市にまで隈なく広がっていることは、誰もが認めるところだろう。しかし時節が来て、この仕組みももうまもなく雲散霧消して、尽きることのない恵みを皆で分け合う仕組みが出て来る。

本来、人々の働きは天地の神へ全て捧げて、そしてその恵みを改めて神(天地、或いは森羅万象、或いは自国を含めた世界の人々)から頂き、皆で分け分けするのが本来の姿である。

皆はただ、自分の好きな働き、自分の出来る範囲での働きを神(或いは天地、或いは森羅万象、或いは自国を含めた世界の人々)のために尽くせばよいだけの話である。

つまるところ、皆タダ働きする代わりに、何もかも無料にするということだ。

太陽が私達に「今月の太陽エネルギーの使用料は○○円になります」と、請求書を送って来たことがあるだろうか? 月が「お前ら調子乗りすぎだから、今日は重力を小さめにするわ」と言ったことがあるだろうか?

どこぞの山が「これは私の敷地内だから、ここで取れた山菜は君にはあげない」などと言ってきただろうか? どこぞの川が「ここは俺様の川だから、ここに住む魚は取るなよ?」などと言って来ただろうか? そんな話は見たことも聞いたこともない。

人もそれにならって、自分の出来る事を周りに与えさせて頂いていけば良いだけの話である。その結果、皆タダ働きする代わりに、何もかも無料になる社会制度が出来上がる。

そのような制度になれば、誰も働かなくなるだろうか? いや、そうはならない。

神示では税金なくせ、何もかも無料にせよ、それが与える政治、日の光の政治、神のやり方だと書いてある。

日月神示参照。

『今の政治はむさぶる政治ぞ、神のやり方は与へぱなしざぞ、@(ウズ)ぞ、マコトぞ。今のやり方では世界は治まらんぞ、道理ぢゃなあ。天にはいくらでも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与へるものあるのざぞ、おしみなく、くまなく与えて取らせよ、与へると弥栄へるぞ、弥栄になって元に戻るのざ、国は富んで来るぞ、神徳 満ち満つのぢゃ、この道理判るであらうがな。取り上げたもの何にもならんのぢゃ、ささげられたものだけがまことじゃ、乗るものも只にせよ、田からも家からも税金とるでないぞ、年貢とりたてるでないぞ、何もかも只ぢゃ、日の光見よ、と申してあらうが、黄金(きん)はいらんと申してあろが、暮しむきのものも只でとらせよ、只で与へる方法あるでないか、働かん者食ふべからずと申す事 理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与へてとらせよ、与へる方法あるでないか、働かんでも食べさせてやれよ、何もかも与へぱなしぢゃ、其処に神の政治始まるのぢゃぞ、神の経済あるのぢゃ。やって見なされ、人民のそろばんでは木の葉一枚でも割出せないであらうが、この方の申す様にやって見なされ、お上は幸でうもれるのぢゃ、余る程与へて見なされ、お上も余るのぢゃ、此の道理判りたか。仕事させて呉れと申して、人民 喜んで働くぞ、遊ぶ者なくなるぞ、皆々神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ。むさぶると悪になって来るのぢゃ、今のさま見て改心結構ぞ、そろばん捨てよ、人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民 地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろがな。』(光の巻 第三帖 @は原文では「渦巻きの形」)

『まつりてない時はお日様とお月様おろがめよ、マトとせよ。裁判所(しらす)いらんぞ、牢獄(ろうや)いらんぞ、法律いらんぞ、一家仲ようしたらいらんのぢゃ、国も同様ざぞ。そんな事すれば、世の中メチャメチャぢゃと申すであらうが、悪人がとくすると申すであろが、誰も働かんと申すであらうが、与へる政治だめぢゃと申すであろ、人間の小智恵ぢゃ。其処に人間の算盤(そろばん)の狂うたところ気付かんか、上に立つ人もっともっと大き心 結構ぞ、算盤なしで梶とらすぞ、神の申す通りに進むのぢゃ、これが出来ねば一段さがって頭下げてござれ、余り大き取違ひばかりぢゃぞ、悪の守護となってゐるからぢゃ、此処の道理判るまでは動きとれんのぢゃぞ。世界国々所々に世の大洗濯知らす神柱(かむはしら)現はしてあろが、これは皆この方の仕組ぢゃから、皆 仲良う手引き合ってやって呉れよ。』(光の巻 第四帖)

『瓜(うり)の蔓(つる)に茄子(なす)ならすでないぞ。茄子には茄子と申してあろがな。味噌も糞も一つにするでないぞ。皆がそれぞれに息する道あろがな。野見よ森見よ。神の経済よく見よ。神の政治よく見て、まことの政治つかへて呉れよ。すべてにまつろう事と申してあろがな。上に立つ番頭殿 目開いて下されよ。間に合はん事出来ても神は知らんぞ。神急(せ)けるぞ。役員も気配れよ。』(日月の巻 第八帖)

『今の経済は悪の経済と申してあろがな、もの殺すのぞ。神の国の経済はもの生む経済ぞ。今の政治はもの毀(こわ)す政治ぞ、神の政治は与へる政治と申してあろが。配給は配給、統制は統制ぞ。』(日月の巻 第六帖)

『学の鼻高さん何も出来んことになるぞ、今に世界から正真(しょうまつ)が段々判り来て、あわてても間に合はんことになるぞ、今の内に神示よく肚に入れておけよ、この道には色々と神の試(ためし)あるから漫心するとすぐひっくり返るぞ、考へでは判らん、素直結構ぞ。日本には五穀、野菜、海、川、いくらも弥栄の食物あるぞ、人民の食物 間違へるでないぞ、食い過ぎるから足らんことになるのざぞ、いくら大切な、因縁の臣民でも仕組の邪魔になると取り替へるぞ、慢心取違ひ致すなよ、代へ身魂いくらでもあるぞ。学問の世はすみたぞ、学者は閉口するぞ、商売の世も済みたから商売人も閉口するぞ、力仕事は出来んし、共喰するより他に道ないと申す人民許りになるぞ、今迄とはさっぱり物事変るから今迄のやり方 考え方 変へて呉れよ、神示通りに行へば其の日その時から嬉し嬉しざぞ、此処は落した上にも落しておくから、世の中の偉い人には中々見当とれんから、身魂の因縁ある人には成程なあと直ぐ心で判るのぢゃぞ、九の花咲けば皆よくなるのぞ、九の花中々ぞ。』(空の巻 第十二帖)

『慌てて動くでないぞ。時節が何もかも返報(へんぽう)返しするぞ。時の神様 有難いと申してあろがな。神は臣民から何求めてゐるか。何時も与へるばかりでないか。神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。今の遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ。早よう気付かぬと気の毒出来て来るぞ。金いらぬと申してあろが。』(日月の巻 第十六帖)

『われよしの政治ではならんぞ、今の政治経済はわれよしであるぞ。臣民のソロバンで政治や経済してはならんぞ、神の光のやり方でないと治まらんぞ、与へる政治がまことの政治ぞよ、臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のことぞ、日の光あるときは、いくら曇っても闇ではないぞ、いくら曇っても悪が妨げても昼は昼ぞ、いくらあかりつけても夜は夜ぞ、神のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあらうがな。政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、まつりごとではないぞ。』(地つ巻 第十八帖)

『我が勝手に解訳してお話して神の名汚さん様にしてくれよ、曇りた心で伝へると、曇りて来る位 判って居ろがな、神示通りに説けと申してあろが、忘れてならんぞ。履物も今に変って来るぞ、元に返すには元の元のキのマヂリキのない身魂と入れ替へせねばならんのぢゃ、ゝ(タマ)が違って居るから世界中輪になっても成就せん道理分るであろがな、一度申した事はいつまでも守る身魂でないと、途中でグレングレンと変る様では御用つとまらんぞ、人力屋、酒屋、料理屋、芸妓(げいこ)屋、娼妓(しょうぎ)、無く致すぞ、世つぶす基(もと)ざぞ、菓子、饅頭も要らんぞ、煙草もくせぞ、よき世になったら別の酒、煙草、菓子、饅頭出来るぞ、勝手に造ってよいのざぞ、それ商売にはさせんぞ。』(空の巻 第十三帖 娼妓は「公認の売春婦。公娼。」のこと)

『神の道は一筋ざと申してあろが。何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ。神国の政治経済は一つざと申してあろうがな、今の臣民に判る様に申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな、元の世になる迄に、さうした事になって それからマコトの神の世になるのざ。神の世はマツリあるだけぞ、それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ。判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ。このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな。』(磐戸の巻 第十三帖)

『この神示は心通りにうつるのざぞ、思ひ違ふといくら神示読んでも違ふことになるぞ、心違ふと今度はどんなに偉い神でも人でも気の毒出来るぞ、この方クヤム事嫌いぞ。次の世となれば、これ迄の様に無理に働かなくても楽に暮せる嬉し嬉しの世となるのざが、臣民 今は人の手に握ってゐるものでもタタキ落して取る様になりてゐるのざから神も往生ざぞ、神は臣民楽にしてやりたいのに楽になれて、自分でした様に思ふて神をなきものにしたから今度の難儀となって来たのざぞ、其処にまだ気付かんか、キが元ざと申してあろがな、早う気付かんと間に合はんぞ。この神は従ふ者にはおだやかざが、さからふ者には鬼となるのざぞ。』(キの巻 第五帖)

少し考えれば解ると思うが、何もかもタダにして税金も無くなると、まず皆の生活が楽になると同時に、今までの無駄な仕事が劇的に減る。たぶんその割合は軽く9割を超えると思う。

またここで強調したいのは、貧困層、富裕層関係なく、その尽きることのない恩恵を受けることができる、という点だ。

まず、借家に住んでいる人は家賃や光熱費に心配することがなくなり、大豪邸に住んでいる人も、何百万とかかる固定資産税に心配することが無くなる。

公共交通機関もタダなので、皆、気軽に外に出たり遠出するようになる。結果、全国津々浦々、活気があふれてくる。

近所のスーパーマーケットは、各家々にとっての巨大な冷蔵庫となり、衣料品店はそれぞれの人にとっての巨大なクローゼットとなる。

そしてここが肝心な所だが、何もかも無料になれば、無駄な仕事は一切無くなるという点だ。

何もかも無料なので、スーパーのレジ打ちや売上計算の仕事は要らない。衣料品店も各自自分に合った物を選ぶので、接客する仕事も要らない。一日の売上を確保するために、朝から夜中近くまで働くという形態そのものが必要無くなる。

また、あらゆる税金が無いので確定申告も要らないし、税に関わる複雑な計算もしなくてよくなる。還付金や追徴課税などの手続きも不要になり、そのための書類を発送する必要も無くなる。これによって役所の人々も無駄な仕事が減る。

さらには全てが無料であるがゆえ、年金を払ったり貰ったりする必要が無くなり、今言われているような、若い人は年金が貰えない、などの世代間の確執も無くなる。

そもそも全てが無料なので強盗や詐欺もする必要が無くなる。犯罪を犯す以前に、何でもタダで遊んだり手に入れられる世界が目の前にあるので、そちらに夢中になる。結果、刑務所も要らなくなる。

そうして犯罪が劇的に減り、また賠償金や慰謝料をもらう必要も無くなるため、裁判所への申し立て件数もほとんど無くなる。結果、裁判官も検事も弁護士の仕事も要らなくなる。

当然のことながら、全てが無料であるがゆえにパチンコや競馬などの博打も無くなる。それでもパチンコや競馬が好きな人は、博打性のないパチンコや競馬で勝手に遊ぶようになる。

さらには、女性もお金のために身体を売らなくて済むので風俗も無くなる。

本、映画、漫画、アニメ、ゲームなども全て無料なので、制作側は販売促進も要らないし、広告費も要らない。一様に印刷したりDVDにせずとも、全てネットを介するようになるので、無駄に資源を浪費しなくなる。またそれを楽しむ人も、好きな時、好きなだけ、好きな場所で見られるようになる。

こうして人々は時間に追われることも無くなるので、ギスギスした職場や世の中の雰囲気も無くなる。余裕が出て来るので不注意からの交通事故が減ったり、毎日毎日抱えるストレスも無くなるので、心身含めた病気も劇的に減る。結果、タダになった医療を使う人も減って行き、医者の仕事も減る。

このように税金を無くし、何もかも無料にすることで、人々は自分に合った好きな仕事を1~2時間するだけで有り余るようになる。

絵を描くことが好きな人は絵を描き、音楽が好きなら音楽を制作し、料理を創ることが好きなら料理をふるまう。農が好きな人は農業をし、建築が好きな人は家を創る。

おもしろいのは「好きこそ物の上手なれ」と言うように、各人が自分に合った仕事を自分で見つけるがゆえ、非常に質の高い物やサービスが生まれて来るということである。

そしてそれらは全て瞬時にして全世界と共有されるため、その出て来た良い物やサービスを起点にして、さらに他の人がもっと良い物やサービスを生み出していく、という歯車が回り出す。こうして世界中の人々が、常に最高の物やサービスを無料で手にれたり楽しんだりできるという楽園が、めでたくこの地上に出現するようになる。こうして人々は、常に歌を歌いたくなるような清々しい気持ちで、日々を過ごせるようになるのだ。

そしてその世界では、何もしたくない、働きたくない、という人にも、惜しみなくその恩恵が注がれる。なぜなら、その世界ではそのような人はごく少数であり、それら人々を全て受容してもなお、あり余る恵みが世界中を駆け巡るからである。

……と、思いつくままにざっと書いてみたが、この「与える政治」がどれほど世の中を良い事尽くめにするか、少し考えるだけで誰でも理解でき、また大いに共感できるのではないだろうか。

火水伝文参照。

「 心濁らずば魂濁らず。魂もともとスミキリて居る。心濁らずばマハタラキ成るのぞ。心濁るは《囚われ》しが由なるぞ。心魂濁るれば言魂濁るのじゃ。言魂濁るれば不調和産むだけぞ。汝等皆々言魂スミキリて神に真釣り人に真釣りて好きなハタラキ成すなれば、汝等に出来ぬ事など無きが世と知りて解かりて下されよ。
 神、汝等の申せし理想語りておるのでないぞ。汝等食らうことなど自然と真釣り合わせつれば足ることぞ。神と人、真釣り合えば、ほんのチョットの嬉し楽しのお手伝いで済むことぞ。汝等の時間でいうならば日々一~二時間のことで有り余るのぞ。後は汝等の好きなことして良いのざぞ。食らう事から自由になれるのぞ。食らう事から自由になるれば、人民様ワレもワレもハタラクさせくれよと申し来るのぞ。汝等のハタラキ輝くぞ。今の今でもこれできるのぞ。マコトぞ。
 今の今も汝等の食らう分、有り余れる程に用意してあるのじゃぞ。天恵、誰のものでもないのじゃ。気候、風土誰のものでもないのと同じ事ぞ。誰のものでもないが由、そのお土に生まれし汝等、その地にあるもの好きなだけ自由に食らうて良いのざぞ。人、食らう量限りあるぞ。天恵限りないのぞ。限りあると思うこと『あやま知』なるぞ。限りあると申しつること『あやま知』の信奉者なるぞ。汝等働かずば食らう事出来なくなりたるは、汝等働かずば困る者の図りし事ぞ。そは『あやま知』操りし者どもの、成せしが悪しき業なるぞ。」

「 これより日月に至る神仕組み、伝え参るが、そが前に、真釣りと魔釣りをタテワケて、今世の魔釣りを統べ魔釣る、悪き響きの自らに、伝え語らせあるが由、じくりと聞きて見なされよ。真釣りも魔釣りも二つ共、元つ仕組みのマ釣りにありて、表裏一体のものにてでござるが、ハタラキは全くの逆様でござるから、よくよく注意申して置くぞ。一つは【タテナオシの真釣り】にてあるぞ。今一つは『タテカエの魔釣り』にてござるのぞ。今今の世のマ釣り申すは九分九厘、魔釣りとなりて居るを先ず先ずに知りて下されよ。スメラの真釣りと、ユダヤの魔釣りのことにてあるぞ。今今に伝え知らす事程にハキリ、タテワケ下されよ。
 魔釣りの負うたタテカエ申すは、汝等の界にありては破壊とは見破られん様に、進歩と見紛う様に仕組まれありたのぞ。元つ真釣りた仕組みを取り違え、自らの神を迎えんがため、醜くケガレしこの地の上を、魔釣る仕組みの力にて、タテカエ払い清めんと、思いなしたが初めであるぞ。彼の者共の心、聞いてみやれよ。そは、『この地にある者共は『我善し』力で欲望を、追いて尽きせぬ者なれば、恥も節度も無きが由、よもや人とは申せまじ。仇醜き獣なれば、この地を汚すは許せまじ。神に選ばれ約せある、ユダヤの民の負うところ、統べる御神の尊きに、無礼がありてはならぬ由、獣の卑しき性情を、煽り使いて喜ばせ、自ら滅ぶ大魔釣り。金銀名誉に性欲を、加えまぶしたエサなれば、獣なる身にては抗ぜまじ。
 心と体を弱めれば、知恵は元々弱き由、扱い易き家畜なり。卑しき家畜の獣なれば、知力申すも底浅く、知恵にてだますはいと易き。薄弱虚弱に致すには、身欲を煽れば自らに、競って群れて来る程に、エサの加減で操りて、『あやま知』どんどん植え付けて、科学の名にて衣与え、科学の名にて食与え、科学の名にて住与え、過つ教えの出す毒で、自ら滅ぶが獣なるぞ。自ら滅ぶ学説を、見通す力の目も持たず、有り難がりてマ釣り上げ、身欲携え進み行く、進むが囲いのその奥へ、出口あらざるその中へ、おだてすかせばいと易く、我先誇りて進むなり。
 神の支えるハタラキを、金の支えるハタラキに、だまし身欲と結ばせて、見える身欲を作らしめ、工業興して物作り、返すカタナで地を壊し、金無き身にては何事も、適わぬ世界と成さしめて、欲を煽りた夢魔釣り、叶うは難きも解からずに、手のへで踊るあさましさ、生くる基になるはずも、何の力も無き金に、まんまと命を預けたが、我が手に命を預けたと、気付けぬ愚かな獣なるぞ。    
 卑しき家畜の獣なれば、神を敬う心なく、ありても選ばれ無くあれば、いずれ我らの邪魔になる。持ちたる敬神壊すため、自由、平等、博愛を、幾年使うてバラマキて、敬う基を迷信と、成して潰すが教育の、我らが仕掛けし裏舞台。功をそうして世界中、上下無き世と成り果てて何から何まで平等と、狙い通りの混乱を、狂いたタワゴト信じ込み、我らが図りし策略に、まんまとはまりし獣なるぞ。
 家畜の生くる基なる、衣食住成る基なる、神の創りしその糸を、勝手にむさぼり費やすは、神の御国を汚し行く、許すは適わぬ事なれば、魔釣りた糸とすげ変えて、生くる基と切り離し、衣食住する物買うに、総てが魔釣りた糸なくば、生くるも適わぬ世と成して、偽の三ロク(六六六)に従わす、魔釣りた企み九分九厘、成就致した今今が、世界を手中に致す時。残る最期の裏芝居、今今今に幕引きて独り立ちたるヒノモトを、餌食に致して世を潰す、我が神統べる時成るぞ。
 ユダヤの身魂の我が民は、神に選ばれ約せある、汚すも尊き民なれば、世界の要所、要所にて、使える獣を操りて、身欲と力を叶えさせ、血縁、血族成さしめて、魔釣る仕組みに働かす、ニセのユダヤを創りたり。我が力を持ちあれば、地位も名誉も即ザマに、与うも奪うも自在なり。自ら望みて入り来たる、身欲固まる獣達も、余す所も無き程に、縦横無尽に配したり。いずれ元々獣なれば、生かすも殺すも獣達の、忠誠次第で決めるなり。心惑わす業持ちて、ケガレ逆巻く悪しき世に、させるが獣の仕事なり。獣を使うて獣潰すケガレを払う仕組みなり』
 彼の者共の心底解かりたか。見通す力の目いうは、何でも見通す目の事ぞ。第三の目の事じゃ。しかあれ、そは知恵の目なり、真釣り無く開かれるは魔眼と成るなり。蛇の登り切りた姿なり。蛇の精一杯の姿にござるよ。しかあれこれにて寸止まりでござる、真釣り無き知恵は枝なり葉なり。カミカエラねば自ら持ち行けぬサダメであるよ。
 魔釣りの経綸申すものは、自らの神を迎えて千年王国を創ろうと、神に仇成す汝等に、身欲のエサをちらつかせ、汝等の心を曇り曇らせ、獣の心と鳴り成らせ、生くる総ての神の糸を彼の者共が支配して、逆らう事の出来ぬ様に致しておいて一挙に汝等の首根っこを押さえる仕組みが、魔釣りの経綸の表の意味でござるのぞ。こがイシヤの仕組みでござるよ。大き仕組みをいと易く、知らせ伝え申したなれど、魔釣る仕組みは汝等の、日々生くる事どもに裏に表に綾なして、魔釣りた糸を引かせある、知らぬは汝ばかりでござるのぞ。何でもかんでも楽なミチには気を付けなされよ。心が獣に成りて来るぞよ。苦を避けむ甘き心が危ういぞ。しかあれ、この世に悪生ぜねば、発動致さぬ仕組みでありたを忘れて下さるなよ。」

「 三千年に渡り仕組み参りた、『魔釣り』の表を操る蛇の者共は、《身欲》を餌に金で釣りて思想を煽り、継ぎ接ぐ学にて仕組み説き、真釣り外せし枝だの葉の形を基の科学にて、思うが御代を造らんと成し来たりたのぞ。末代マコトに至れぬ、善を偽る『あやま知』で、『ウソ』を基の策謀で、この世を支配し参りたのであるよ。なればこれにて幾生も、育たれありた汝等の、ハラの真中に据え立つモノは、汝等が気付き無くありたなら、そは仇恐ろしき『ウソ』にござるが道理であろうが。身欲のためなら節度なく、何でも信じる『ウソ』にござるよ。知らぬは汝等ばかりなり。真中が総ての御座を統べ居るなれば、汝等の総ては、身欲のご都合に魔釣り副う、『ウソ』に依り立ち居るを今今に、ス直に知りて取らるが善かろうぞ。我のハラは大丈夫じゃ等と申して居るのでないぞ。天をも含む地を創り、神をも含む汝等を創りせしこの方の申す事にてある。一言半句の否やも言わせはせぬぞ。今のままでは汝等が危ういから言うて居る。黙して聞くのじゃ。素性卑しき《身欲》の響きを、永きに渡りて忘れる程に、汝等のハラに住まわせ居るから『ウソ』が入りても気付かんのじゃ。ご自身でミタマの検め成しくれよ。
 人民様の曇り様は救い難きに至りた由、多くを伝うも詮無きことなれど、汝等は少しでも曇りたマナコを明なに致すが大事にてござるから、今少し申し置くぞ。汝等は人の生き死の長短を神の無慈悲と嘆ずるが、そも《身欲》が基と知り居るか。短き命は医学の遅れた悲しき事にてござろうか。不慮の事故死は神の無きが証にてござろうか。なれば長く生きるは、医学の進みた嬉しき事にてござろうか。神の座し座す証にてござろうか。人の生き死の長短は、真釣るマコトのコトワリの、大事な情けの仕組みにて、大悲大愛の事にてあるは汝等も、深きところで知り居るなれど、《身欲》な思いが段々と、強きに響きて鳴り来ると、《身欲》を果たす基なる、この身、この時大切と、生くる基のマコトなる、生かされあるを忘れ去り、長きを得るに自らが、《我善し》力と『あやま知』で、長寿を図りた成し様は、真釣り外したそがために、多くのケガレを結び行く、囚われ曇りをカタチ成す、メグリ深める末期道。生かされある申すは、真釣るコトワリに鑑みて、生かす者はどうありても生かし行き、引き上ぐる者はどうありても引き上ぐるが神のオキテなれば、こに身欲人知を持ち込みて、情けの仕組みに仇成すは、カタチばかりのその内に、更なる情けを創り行く、げに恐ろしき魔釣り業。末期の酷きを知りぬるか。
 この方がこう申せば、医学は悪き業じゃ。医者は魔釣りの使い魔じゃ。なぞ取り違え致す底の浅き人民様も居られようから、ちいとご注意申し置くぞ。    
 この方は、痛き辛きを治すが『あやま知』申して居るのでないぞ。こを取り違え致しては、片ハタラキの神々や狐や狸の戯言になりてしもうから、ハキリ申し置くぞ。善きか。汝等、真釣り外せば、情けが出くるは申し伝えあろうがな。なればこの世が『欲』と【情け】の両輪で動き参りたは解かりあるな。真釣りを外す度毎に情けをかけて参りた申しあろうがな。大神様は総てを知られ居りて、至誠至愛で汝等に情けをお渡しなされ居るのぞ。汝等の今がか弱き心身で、堪え得る情けをかけるのじゃ。痛き辛きを顕すが情けの表にてござるのぞ。病みたる表の顕れを水を基の医術にて〔治す〕が花の表にござるよ。堪ゆる辛抱が情けの裏じゃ。大神様も共に堪えてござるのぞ。汝一人の痛みで無いぞ。顕幽双方の世界に苦しむ総てのミタマの苦しみを、御身ご一人に移され堪えてござるのじゃ。この世に在りて有るものは総ての総て神なるが由ぞ。解かるでござろうが。堪ゆる辛抱が情けの裏じゃ申したが、こで汝等が、身欲にありて何かの真釣りを外しありた事に気が付きて、自らを生かし支えある元つ天地の深きご恩に、お詫びと感謝の響きが鳴り鳴り出くれば、真釣るマコトがハラに咲くのじゃ。ハラに咲かせた花一輪、こが花の裏にてござるのぞ。こが咲けば顕幽ただちに【直る】を知りて下されよ。外した真釣りのメグル響きも、真釣ろうた申すことにてあるぞ。
 なれど汝等皆々は、何時いつにありても気付けぬままに、水を基の医術のみで【直り】た積もりで〔治り〕て居りて、正味のメグル情けはそのままに、新たに酷きメグリを育み行くのじゃ。外した真釣りは気が付きて、真釣ろう響き出るまでは、万古末代鳴り鳴り響きて消えはせぬ、申したであろうがな。新たな酷きメグリ申すが、難しき病と鳴り行くは解かるであろうが。こが身欲を基の種となす医学の魔化けを促すのじゃ申して居るのぞ。誰ぞが医学の『あやま知』を押し進め参り来たか、これでハキリ解かりたでござろうが。医者の治すが魔釣りで無いぞ。汝の身欲が魔釣りでござる。人を責めむも業を責めむも恥ずかしき限りにてあるよ。汝の身欲が基じゃ。良う目を見開かれて、スミキリてあれよ。
 これで少しは解かりたか。医学に限らず総ての『学』や『業』呼ばれるものは、九分九厘、人民様の《欲》を基と成し居るが由、末のこ度は総て解くぞ。解く申すは新ら魂をお入れ致す申す事にてもあるぞ。何もかも綺麗サッパリ無うなる言うて居るので無いぞ。取り違え致すなよ。『商』の響きは末代無いぞ。そばかりか政治も経済も律法も総て無う成るぞ。タテナオシよりミロク代へ至る暫しの間、三つが一つになりた様なハタラキが在るだけぞ。マコト、ミロク代へ至りなば、農鳴る響き、漁鳴る響き、林鳴る響き、鉱鳴る響き、医鳴る響き、身欲を外したる総ての響き、新ら魂もお入りに鳴られて、一如に鳴り鳴り真釣ろう響きになりて、在りて有るのぞ。真釣りあるだけの、歓喜弥栄の御代と鳴るのじゃ。
 ざから『商』や『業』が無う成る申したは、そを支える初発の基が保身なる、身欲に発し在るからじゃとくどう言うて居ろうが。生かされあるものに保身の必要無きも申したな。逆に真釣るマコトのお邪魔に成るも解かりたであろうがな。今今の『学』や『商』や『業』の発展申すも、『魔釣り』に囚われた申すも、汝等お一人お一人の《身欲》強きが因でありたと、よくよく真ス直に取りて解かりて下されよ。【真中】に《身欲》の『魔釣るあやま知』を据え置くが、いかに気枯れケガレし世と成せしあるか、八御座総てが曇る申したも解かりたであろうがな。なれば、そを基と成したる力持て、力ある。国力ある。申すはマコト恥ずかしき事にてあろうが。ざから恥力じゃ申して居るのじゃ。解かりたか。」

「 大事なことを申して置くぞ。汝等を至誠至楽に導く、三真釣り鳴り成すに外すは適わぬ基の事であるぞ。外すは適わぬ基申すは元つ天地のご恩の事じゃ。マコト大事な事にてござるのぞ。汝等の思いも及ばぬ、真釣るに外せぬ、大き要のおイノチにござるから、簡単な言魂思いて軽く聞き流し居りては、すべての総てが水の泡と成りてしもうから、一度で取りて真ス直に行じて下されよ。汝等皆々忘れて居りた元つ天地のご恩を今今にハキリ気付きて、汝は知らず冒したとは申せ、汝が産みなされし初発より今今の今に至る迄の、汝の成せしご無礼の数々を、これよりは産な心に立ち戻りて深きお詫びを結ばねば、こ度の後は無きが世と知りて解かりて下されよ。マコト、マコト外せぬ大事なことにてあるを知りて下され。
 汝は知らず、親のご苦労を土台に致して、踏みつけに致して、なお解からず身欲に走りて不平不満を言うて居りたのぞ。子が親を殺すも今世の型示しにござるのじゃ。今世の人民様の有りザマ申すは、皆々九分九厘取り違え致し居りて、身欲を基の生きザマに逆転致して居るが由、天地に仇成すお子と成り果て居るのじゃ。今のままにありては天地の御祖を殺すがオチぞ。御祖を殺してご自身が在ると思いてか。身欲の所行申しても程があろうぞ。神が無くれば何も無い申して居ろうがな。親にお子を殺させる様な惨き真似、させんで下されよ。神、頼むぞ。
 今生の我の身には覚え無き事じゃ、我は清く正しく生きて居る。なぞ恥ずかしき申しザマするで無いぞ。神、恥ずかしいぞ。神の民が恥ずかしきザマに在れば、この方も恥ずかしい申したであろうがな。数うも適わぬ永き幾転生再生におきて、汝が元つ天地のご苦労を感謝も無しに、当然の事と致して、無断で盗み生きた事どもは消せぬ事実にござるのぞ。無から有を創り出せぬ者どもが何故に生きて居られるか、生かされあることに気付きて下されよ。この世に在りて有るものは、木の葉一枚、髪の毛一本、砂利粒一つ、神のものにてあらざるものは何一つあるは適わぬ事なれば、人民様のものは何一つ有りはせんのぞ。無から有を産み出す適わぬ人民様でござるから、元つ資源の【有】持ちて、有なる物々作りておるのでござろうが。汝等支える【元つ有】このまま一挙に引き上げられて、汝等いかで生き行く申すのぞ。そ程大事な元つ天地のご苦労を、身欲利便の好き放題、勝手に持ち荒らしたを泥棒と、申すも尽きせぬ悪き業でござろうが。そを、こは我のものじゃ。こも我のものじゃ等申して、神に無断で勝手に所有致した挙げ句、売り買い致して、相い争うて息も出来ぬ程の我利我利の世と成さしめしもうたではござらぬか。いかで天地を売り買い出くるのぞ。この方、誰ぞに売りた覚えも無くれば、誰ぞから買うた覚えもござらんぞ。無から創りたのじゃ。元つ火の響き鳴り鳴りお出ましなされてお鳴りに成られたのであるぞ。大神様の清き尊き響きを汚すも好い加減にしなされよ。世も持てぬ《我善し》力の天下の大泥棒を魔釣り上げ、『魔釣る経綸』の仕組みある、仕立てし使い魔なる金に、たぶらかされて踊らされ、身も心も腐り切り、挙げて天地を持ち荒らす。身欲に使われるお金も哀れであるが、お金の要るのも今暫しじゃ。マコトは金では買えぬが由じゃ。
 よう聞きあれよ、この天と地に、売り買い出くるものは何一つありはせんのぞ。なれば汝等の有りザマはオカシキ事にてあるを知りて下されよ。そんな事は解かりて居る申すその口、その先で、一筋のマコトもなさず、楽な道ばかりを探し居るはトコトン性根の腐りた証と取りて異存はなかろうな。そんな積もりは無かりた、申し訳無くありた思える鳴れば、産な心に立ち戻り身欲が成せし悪き業、今、今、今に、気付きあるが大事にてあるのじゃ。成せし来た事どもは消せぬ響きにござるから、元つ天地の大神様に、心底からの深きお詫びと感謝の響きを日々に鳴し出されて、これよりは天地の理法に違わぬ、強きス直な性根を磨き出される様、意乗り行じて下されよ。三真釣り持ちてなさるがマコトぞ。解かりたでござろうな。それ無くば、汝の成し来たケガレし響き、一挙に一度で渡すその他に、ケガレ真釣ろうミチは無いのぞ。今今ここに至りて尚、困らせねで下されよ。
 元つ天地のご恩の事をくどくど申し参りたは、汝の【口・心・行】を違えず一如と鳴し行く三真釣りを、護持ご守護致すは改心の、深き浅きで決まりて来るからくどう申して居るのじゃ。改心出くるそれだけで、真釣るを外すが無うなりて来るのぞ。マコトの改心が強き支えと成り鳴りて下さるを、ゆめお忘れ下さるなよ。天地の総ては真釣りあるだけなれば、真釣りが真釣りを助けてくれるのじゃ。
 マコト真釣ろうてあれば、たとえ汝が暑き地にあろうが、寒き地にあろうが、汝に暑き寒きは無いのぞ。そは汝が暑き思わば涼けさが寄りて参るからぞ。汝が寒き思わば暖かきが添いて来るのじゃ。今ザマの汝等に、こを解かれ申すはご無理ご難題なるを知りては居るなれど、こが如きがウソにてあらば、この世に神は座しまさん。真釣り申すは歓喜弥栄じゃ申して居ろうがな。不都合はどこにも無いのじゃ。今ザマの如くに、汝ご自身が暑きを避け寒きを避けむ必要はどこにも無いのじゃ。なれど身欲に囚われあれば話は別じゃ。
 人民様はこに囚われあるから、我知らずとんでもないことを平気で成し参り来たのであるよ。在りて有る総ての響きは大神様の授けものじゃ。そが由、総てに感謝致し一如に真釣ろうが、生かされある汝等の初発のミチにありたものを、汝等は真先に身欲に走りたのじゃ。身欲と感謝は裏表にござれば、感謝あれば身欲生ぜず。身欲あれば感謝生じぬのじゃ。こは解かるでござろうが。感謝は一如に真釣ろう響きにて、身欲はどっちが損か得か、どっちが苦か楽かに分かれ進む分裂の響きにてあるぞ。こが汝等の使い居る知恵の基にござるぞ。こを『分かつ知』申すなり。末代一如に真釣ろえぬ響きでござるよ。こが『あやま知』産み成す母体にてござるのじゃ。汝等が《身欲》囚われ居るから、せっかくのアタマが『あやま知』に走るのじゃ。もったい無い事をなさらいで下されよ。
 善いか、汝等はどっちが苦か、どっちが楽かの快欲に囚われて居る由、総てを二つに分け進み行くのであるよ。神々も汝等も、自らにご苦労致して産まれ出られた訳ではござらぬから、初めから真釣るマコトを知り得ぬも無理なくありたなれど、ちいとはご苦労なされてみれば、感謝の響きも鳴り出して、真釣ろう響きに入るも出くたでござろうに、汝等は楽ばかりを追い求める様になりたが由、苦を知る事になりたのじゃ。感謝の一如に真釣ろう響きにあれば、苦楽一如にあるだけなれば、苦も楽も知る事は無かりたのであるぞ。苦楽に分裂する事は無かりた申して居るのぞ。至楽あるのみでござりたのじゃ。なれど汝等は身欲の分裂する響きに入りて居りた由、どっちが楽かと比ぶるから、楽を知るのに苦も知る事になりてしもうたのじゃ。既にこに感謝の響きは無かろうまい。『分かつ知』で知る言うは、一如に真釣ろうハタラキを二つに分けて知る申す事にてあるのぞ。どっちが早きか比ぶるから、遅きも知る事になるのじゃ。どっちが善きかと比ぶるから、悪きも知る事になるのであろうがな。こも既に感謝の響きは無かろうぞ。心が曇りたが由でござるよ。苦ある悪ある申すなれば、そは『一如に真釣ろう響きを分け知りた』そが事にてごぎろうが。そが真釣りを外した証にてもあるのざぞ。そが汝等の知恵の正体にてもござるのじゃ。なれば『苦』申すは、そが知恵で汝等ご自身が創り出した『苦』なるを知りて下されよ。元つマコトの神真釣りには『苦』は影さえ無いからであるぞ。なれば初発の『苦』より今今に至る総ての『苦』申すものは、そこそ総て汝等の創り出せし『苦』にてあろうがな。こはゆめ忘れて下さるなよ。今に至りては『苦』あるを当たり前ざ思いてござらぬか。『苦』を『楽』に変え行くが人生ざ思いてござらぬか。よう曇りなされたなぁ。
 汝等は『苦』を自らの力にて、『楽』に変え来た如く思い成して居られようが、そうでは無いぞ。逆さじゃ。『楽』に変えた思いて『苦』を創りて居るのじゃぞ。善いか、よう聞きやれよ。自らが創り出せし『苦』を、そも元々無きが『苦』を、『楽』に変え行く申すは、いかなる事にてござろうか。自らが創り出せし『苦』申すは、真釣りを外したが由に現れたのでござるから、汝等のどちらが楽じゃ、どちらが得じゃと比ぶる『あやま知』分かつやり方で、いかで『楽』に変え行く申すのぞ。真釣りを外すやり方では、なさり様が逆様でござろうが。そは『苦』を『楽』に変え行きたにあらざるぞ。現れなされた『苦』を更に、新たな『苦・楽』に分けしめて、新たな『楽』を選び作りたに過ぎぬのじゃ。そは更に『あやま知』病みた申す事にてござろうが。真釣りを更に外し行きた事にてござろうが。真釣り外せば、情けのメグリが『苦』となりて、真釣り外したる事どもを、知らせ参るがお仕組みなれば、そは、新たな『苦』を自ら呼び入れた申すに同じ事にてござろうが。汝等は生くるに現る『苦』を更に、身欲を基の『苦』と『楽』の二つに新に分け進みて参りたのじゃ。ちいとも初発の『苦』は真釣ろい戻れぬばかりか、汝等が『分かつ知』で進めば進む程、新な『苦』を創り続けて参りた申すも解かるでござろうが。逆に分け進みた事どもを、一つに集めなおせば良い等と情け無きことを申して下さるなよ。同じ事じゃ。分け知る世界が見え来るだけで、『苦』はちいとも減りもさん。増えるだけぞ。末代真釣る一如には、至れぬ愚かな浅知恵じゃ。人民様、時が無いのじゃ。好い加減に目を覚まして下されよ。メグル苦楽の輪廻に入りてしもうて居るぞ。
 ついて参りて居るか。人民様の囚われ居る『あやま知』申すは、マコト、オカシキ事にてあるから、無理に解かる必要は無いのじゃが、アタマで着て。アタマで食べて。アタマで住み居る。救い難き者共にハキリ『あやま知』の正体を伝えねばならぬ由、今暫しくどう申すも許して下されよ。ス直に元つ天地の大恩に感謝を致し、今までの有り様を心底より、詫びて改心出くる程の者なれば、こが事は解かり取れねでも善いぞ。難しく思いたら、解かるとこだけ取れば善いのじゃ。心配致すで無いぞ。この方の申したきは、マコトの改心を持ちて三真釣りなされて欲しくあるだけにござるから、【口と心と行い】を違えず一如に真釣ろうご苦労を致して下されば、それで善い。そが一番ぞ。この方もそが一等嬉しいのじゃ。ここまで良く良くついて参りた。もう後少しじゃ。ゆっくり、ゆっくりついて参られよ。この方がお手を引いて居る由、手を離すで無いぞ。解かりたな。
 何でもそうであるぞ。神の真釣りに外れるものは、人、物、事にかかわらず万象万物に渡りて不都合出くるが神法にてあるのぞ。そは真釣り外した情けの知らせあるに、人民様は真釣りを忘れ身欲にどぷり囚われあるが由、身欲勝手に物事を進め成し、次なる不都合現れい出来たるを、あたかも未開な不調和を見るが如く思い為し、自らこそが真釣りを外れたる不調和なるに全く気付けず、更なる欲膨れの手前勝手な思いにて、自らこの世に出せしある、真釣り外した不調和をまたまた身欲で外し行く。こが今ザマの人民様の真姿にてござるぞ。
 善いか、今少し汝等の《身欲》を基の『分かつ知』が、今世の酷きを作り成す、過つ先の狂いザマ、寒暖一つ取り上げて、例えて伝うる事ほどに、自ら辿りて見なされよ。汝等が身欲を基の『分かつ知』で一如の響きの寒暖を、二つに分け知りなされたが、寒いと申せば厚着なし、暑いと申せば薄着なす、『過つカタチ』の産み初めじゃ。このヒノモトは薄布一枚にて、心地良く過ごせる結構な国にてあるのぞ。汝等が一如に真釣ろい生きあらば、その如きカタチにては現れ来ぬものにてあるのじゃ。思いも見て下されよ。どの様な暑きところ、寒きところにありても、生かされあるものは在りて有るのぞ。なれど寒暖に合わせ、自ら真釣ろい授かりたマコトの衣以外なる、『過つカタチ』の肌衣、着替え着捨つる生きものはどこにも無いぞ。この方がその様に創りて有るからじゃ。その地その地の自然と真釣れる様、創りてあるのぞ。まして汝等皆々は、尊き神の鎮まれる尊きお宮と成して創りありたのじゃ。その地その地の気候風土に真釣りて創りしお宮なるぞ。五色人種見てござれ、世界のぐるりを見てござれよ。暑き寒きに真釣れる様、外見も中身も違えて創りてあろうがな。日月の響きも違えば、お土の響きも違うによりて、育む響きも違うて居るのぞ。そのお土より創りた汝等、そのお土より取れしマコトの響きと真釣りて居れば、苦はどこからも産まれはせんのじゃ。
 この方は、寒暖を我慢致せ申して居るので無いぞ。取り違え致すなよ。この方が申すは『苦』から逃れん思うその前に、神と真釣ろう感謝の響く心に在りせば自然と真釣りた善き手立て、顕れ産まれ成り鳴るを、くどう申して居るのじゃぞ。    
 真釣りを我慢思うは違うて居るぞ。ヤセ我慢致せ申し居るので無いぞ。汝等が我慢思うは、魔釣る手立ての『分かつ知』で考え居るからじゃ。真釣りに我慢はありもさん。魔釣りから真釣りに変える一時に、鳴りて顕る響き成る『苦』鳴る響きに惑わされては鳴らぬ由、特に注意致し置くぞ。真釣ろう響きでお産まれなされた真コトのカタチと、魔釣ろう響きでお産まれなされた魔コトの『過つカタチ』ハキリ、タテワケ出くる様になりて下され。
 厚着、薄着の事ぐらい、さしたる事では無かろうと、思うが初発の終末の真釣れぬ響きと鳴るのざぞ。この方とて厚着、薄着に目くじら立てて居るので無いぞ。真釣り外すに気が付かず、『過つカタチ』で冒し行く、『あやま知』招く酷き世を知りて解かりて欲しいから、か程くどう申して居るのじゃ。軽く思いた初発から、その先いよいよ見てござれ。身欲で引いた糸先を、曇りたマナコを見開いて、いよいよハキリ見てござれよ。『あやま知』病みたる汝等の、暑き寒きを癒すため衣変え、食変え、住変えて防寒防暑に精を出し、カタチに冷暖魔釣ろわせ、真釣ろう基の自らは、真釣れぬ響きと成りたのじゃ。《身欲》を基に汝等が、寒暖分けたがそのために、防寒防暑の『あやま知』の、科学と呼ばしむ魔釣り業、魔釣るカタチを維持するに、元つ天地の資源から、石掘り燃やして水止めて、都合の好い様使い成し、神の真釣りを外し行き、油汲み上げ好き放題、燃やし化かして真釣ろえぬ、『過つカタチ』に奉仕させ、膨れる身欲を支えんと、魔釣るが求めた原子力、真釣る基はそのままに、カタチばかりに魔釣ろわせ、魔釣るカタチがあり無くば、生くるも難くなる程に、真釣れぬ響きと鳴りた成り。解かりたか。
 汝等皆々、『過つカタチ』で楽を得んと致したのじゃ。苦を避けむと致したのじゃ。そが汝等を破滅に導く、ウソを基の『魔釣りの経綸』とは気付きも出来ず、世を挙げて、専ら身欲を基の『あやま知』で、真釣りを外し続けて参りたのじゃ。一体何をやっているのざ。魔釣りと一如に魔釣ろうてどうするお積もりじゃ。
 寒暖だけにては無いのぞ。汝等は総てに渡りて一如の響きを分け分け進み参りたのじゃ。そ度、科学と技術は押し進み、『過つカタチ』を作り続けて参りたのじゃ。今今は枝葉ばかりの世となりて、真釣るも難き有り様と鳴りて居るのぞ。
 今世の科学言うも技術言うも九分九厘、こが『あやま知』に奉仕する業にてござるのぞ。奉仕する度毎に、真釣りを外して世を荒らす、響きと鳴りたが解からんか。そのままにありては、末代マコト真釣りに奉仕は出来ぬ悪き業ぞ。マコト『分かつ知』の申し子にてござるのぞ。何故こが解からんのじゃ。ス直大切ぞ。
 この方は知恵は使いものにならん申して居るのでないぞ。アタマも大事な御ハタラキじゃ。この方が申し居るは、アタマを使うに《身欲》を基になされては汝が滅ぶ申して居るのじゃ。【真釣り】を基にお使いになられるのであれば、そは【智】であるによりて、真釣ろうた立派な御ハタラキを顕じなさるのじゃが、マコトの【智】に戻るには、三真釣り開くより他ミチ無きを知りて下されよ。今のままではミロクへ至る出口潰れるぞ。『あやま知』言うは出口無しの虚妄に滅ぶ世を作るから、きれいサッパリ捨つるが花ぞ。アタマを早う切り替えて、見事立派な【智】となさしめ下されよ。真釣り深くあれ申すはこがためにてもあるのぞ。
 どうじゃ、寒暖一つ取りてもこのザマぞ。《身欲》を基の『分かつ知』を、何でも一つ取り上げて、引いた糸先見てみれば、誰でも解かる欲の糸、魔釣りを織り成す欲糸じゃ。自ら辿りて見なされて、少しは解かりて参りたか。汝等が真釣りを外す度毎に、万象万物『過つカタチ』となりて参りたのじゃ。汝等が『あやま知』によりて作り参りた事どもは、九分九厘【メグル情け】の型示しであるぞ。汝等曇りて居る由、気付けず解からず。【メグル情け】の型示す『過つカタチ』を文明と、心底思いて誇りて居るのじゃぞ。涙も枯るる情け無さぞ。進歩、発展、文明なる言の葉は、病みたる響きの中にある、病の酷さを申すのじゃ。マコトは無きが戯言ぞ。宇宙は歓喜弥栄の、響きの波鳴る息吹あるのみぞ。元々全き光の響き鳴る、全き者の汝等に、進歩も文明も無かろうまい。そが事に生くる基を置いてござるから、汝等の身魂がいかに酷き有りザマとなりて居るか解かるまい。知りてる居られる大神様は、余りの惨きに目も当てれん程のお苦しみでござるよ。
 これで解かりて下されたら、身欲を基の台と成す知恵にて解決致したことなど唯の一つも無かりたのであるから、一つの解決思われたは、必ず新たな不都合を産みて居るを知りて下されて、文明の進歩なり等と恥ずかしき事をほざき、ご大層に奉りて居る暇が有るなれば、汝等のマハタラキ思い出しくれよ。汝等の本来のハタラキ申すは不調和を調和へ和する、真釣るハタキ鳴るを伝え知らせあろうがな。ここそ総ての鍵なるも初発に申し伝えござろうが。こはマコト大事な事にてあるのぞ。汝等のマハタラキ、マコト鳴り鳴れば、必ず不調和を調和へ和する申す事にてござるのぞ。不調和、不都合、に結ぶとは一言も申して居らんぞ。汝等の日々にもこの世にも、毛程の不都合なりと有るなれば、そは汝等のハタラキ、間違いてあるを知らせある事にてござるから、学や知で真釣りは取れぬが解かりたら、ここ一番、謙虚になられて、汝等の『あやま知』ス直に認め知られて下されて、いよいよ行鳴る響きにて【三真釣る】ミチを渡られて、真釣るマコトに至りて下されよ。こがご苦労が、汝等をミロクへ誘う基と鳴り成さるのじゃ。
 ご苦労申しても、汝等に辛い思いをさせるが仕組みにては無いぞ。逆ぞ。汝等真釣り深くあれば、ある程、ご心配もご苦労も少のうなりて行くが【行】にてあるを知りて下されよ。汝生かされある言うは心底解かりて参りたか。そは大神のマコト、マコトの神真釣りありてあるが由じゃ。生かされある申すは、汝自らが自らを生かすがご苦労の、必要無きは解かるか。こを元つ天地の大恩、お陰申すのであるぞ。真釣り深く鳴りあれば、こがお陰だけで嬉し楽しで生き得るが解かりて来るのぞ。そは汝等の正味の基は唯一つ、真釣るマコトの神真釣り、成り鳴り響く力徳の、至楽至善の弥栄の、真釣る真中の響きそのものにてあるからじゃ。
 なれば真釣るご苦労申すは、無限に続くご苦業の事にて無いは解かるな。汝等の知り居るご苦労申すは、魔釣りのご苦業の事にありて、さんざんご苦業を積みた末には、ご苦業を積みた分のメグリを抱いて、滅び解くしか無い惨き業じゃよ。真釣るご苦労申すは、唯ただ生かされある元つ天地のご恩に、ス直に感謝の響き鳴り成して、【三真釣り】持ち行くが事にてござるよ。そが苦に感ぜらるるは心が曇りて居るからであるぞ。心スミキリあれば【三真釣り】持ち行くに、何のご苦労もありはせんのじゃ。苦を感じたるその時に、心スミキラセルが真釣りに向かうミチにてあるを、真釣り外した事に気が付かず、身欲を基に苦から逃れんと致すから、『あやま知』を操る魔釣りに囚われ、利便に走るが苦から逃れる正しきミチの如くにだまされて、勇んで真釣りを外す事ばかりに現をぬかしたその挙げ句、次から次に訪れる、真釣り外したお知らせの【メグル情け】の苦を取りて、又々身欲な利便に変え行くが、人としての生くミチじゃ等とほざく程に曇りてしもうのじゃ。真釣りを外すは唯一つ。元つ天地のご恩が、全然解かりて無いからであるぞ。マコト、マコトに解かりて居れば、真釣り外したその時に、訪れ来たる苦を取りて、真先に身欲に走るは無かろうまい。情けに気付きてお詫びして、感謝を鳴り持ち三真釣るが、真釣り深い申すのじゃ。今今の人民様にありては、真釣りを外し続け参りたのであるから、何の真釣りを外したのか、何が何だか解からぬままに、メグル情けの厳しさに、右往左往するばかりでござろうが。そのままにありてマコトの改心申すものがどういう事か、いつまでも解かりて無くれば、危ういと、くどう申して居ろうがな。大事なこと由、忘れて下さるなよ。」