かみのりか ひまんてんしの
  まふにはに ふまのしんてん まひかりのみか

(神の理が 瀰漫天使の 舞ふ庭に 不磨の神殿 真光のみが)

解説

理(り)は「物事の筋道。不変の法則。ことわり。道理。また、理屈。」「理性。」、瀰漫(びまん)は「水が満ちあふれること。水原の果てしなくひろいこと。また、そのさま。」「転じて、ひろがり満ちること。ひろくはびこること。また、そのさま。」、天使は「天からの使い。神からの使い。また、そのようにやさしくいたわり深い人や、心が純粋な人。」、舞う(まう/まふ)は「音楽などに合わせて手足を動かし、ゆっくり回ったり、かろやかに移動したりする。」「円形を描くようにして空を飛ぶ。空中をただよい動く。」、庭(にわ/には)は「屋敷内で、ある広さをもって空けてある地面。草木を植えたり、泉水や築山を設けたりする。」「物事の行われる場所。神事・行事などの行われる場所。」、不磨(ふま)は「 摩滅しないこと。すりへらないこと。不朽。」、神殿(しんでん)は「神をまつる建物。」、真(ま)は「(名詞・形容詞・形容動詞などに付いて) 純粋である、まじりけがない、などの意を表す。」の意味です。

余談

この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「悔恨と安らぎの檻にて- Orchestral Version -」 を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

曲の世界観に浸って書いた歌です。

讃美歌っぽい感じなので、そういう聖書的なイメージ。

あまり頭は使わずに、曲から感じる感覚をダイレクトに言葉にしたという感じ。自分の中では、かなり珍しい形で出来上がったタイプ。

ということで、イメージとしては、何かの罪深い(或いは自分は罪深いと思い込んでいる)人が死んだ時に、(自分は本来であれば地獄に行く所なのだが)どうか、そこのところを主の憐みによって、天国に連れていって下さい的なことを懇願しまくっていたら、そこに天使が舞い降りて来て、あっ、と思ったその瞬間、気付いたら天国に居た的な感じ。

ロゴスは辞書によれば「ギリシャ語で、言葉・理性の意。」とあるが、歌の「神の理」は、そういう感じの意味かと思う。

ヨハネ福音書に「はじめに言葉ありき」という有名な文句があるそうだが、そんな感じ。

霊界物語などでは、この「ことば」に「道」という漢字が当てはめられていたりする。

霊界物語参照。

『霊界物語 第73巻 第1篇 紫微天界 第1章 天之峯火夫の神』(「霊界物語.ネット
~出口王仁三郎 大図書館~」より)


三鏡参照。

『三鏡 玉鏡 [519]ヨハネ伝』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


そして次の「瀰漫」は、それが満ち満ちているということなのだが、何気にこの「満ち」は「道」でもある、という感じがする

「天使の 舞ふ庭に」の所は、天使が舞っているのだが、なぜに舞っているのかというと、「神の理」を感じ取って魂の底から喜びが溢れているので舞っている、という表現になっているように感じる。

また、この「天使の 舞ふ」は、従来のイメージで天使が空を飛んでいるというものでも良いだろうが、「舞い上がる」とか「舞い踊る」という表現もあるように、何やら楽しい雰囲気やウキウキした状態で庭を移動する天人と解釈しても良いかもしれない。

ちなみに日月神示では「言」「言葉」を「光透(こと)」「言波(ことは)」と表現している箇所もある。

『目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心(みこころ)のままに弥栄(いやさか)に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。心配りはせなならんぞ。何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となりきれよ。何もかも捨てきらねばならんぞ。天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ。取違ひ致して呉れるなよ。幾ら戦してゐても天国ぞ、天国とは神国ぞ。神国の民となれば戦も有難いぞ。いきの生命いつも光り輝いてゐるぞ。神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな。ここの道理よく判りたであろが。何も云ふ事ないぞ。神称へる辞(コト)が光透(コト)ぞ。あめつち称へる言(コト)が光透(コト)ぞ。草木の心になれと申してあろがな。神風もあるぞ。地獄の風もあるぞ。迷ふでないぞ、神の申すコトはコトであるぞ。コトに生きてくれよ。コトにまつろへよ。』(日月の巻 第十五帖)

『自由も共産も共倒れ、岩戸がひらけたのであるから元の元の元のキの道でなくては、タマ(玉)の道でなくては立ちては行かん、動かん二二(普字、富士)の仕組、ひらけて渦巻く鳴門(ナルト)(七@十、成答)ぢゃ。新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらきて二度とない九十(光透)でひらく仕組。』(星座の巻 第十一帖 @は原文では「渦巻き」の記号)

『国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、天運 正にめぐり来て、千(智)引の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸ひらきの真相であり、誠を知る鍵であるぞ。』(至恩の巻 第十帖)

『神は言波ぞ、言波とはまことぞ、いぶきぞ、道ぞ、まこととはまつり合はした息吹ぞ、言葉で天地にごるぞ、言波で天地澄むぞ、戦なくなるぞ、神国になるぞ、言波ほど結構な恐いものないぞ。』(地つ巻 第三十四帖)

イメージ的には、世界中に「神の理」が充満していて、その「神の理」によって、世界の全部が形作られているイメージ。

「神の理」とすると抽象的だが、イメージ的には澄み切った何かこう……細かい波動というか振動といった感じ。

霊界物語的に言えば、この大宇宙に満ち満ちているアオウエイの音ということになるのだろうし、日月神示的に言えば「光透波(ことは)」ということになるのだろうと思う。

そして、どうして「満ち」が「道」になるのかというと、自分のイメージでは、それらの宇宙に満ち満ちている波動、振動、言葉が土台となって、あらゆる事象が形作られていくから、というイメージ。

下記の日月神示の部分が、この感覚の説明に近いとも思う。

『言葉は生れ出るものぢゃ。先づ言葉され、歌となり、文章となり、又絵画となり、彫刻となり、建築となり、又音楽となり、舞踊となり、あらゆる芸術の元となるのであるぞ。神に通ずればこそ、愛であり、真であり、善であり、美であり、喜びであるぞ、喜びなきものは芸術でないぞ。今の芸術は死の芸術、魔の芸術。』(星座の巻 第二十一帖)

だから「神の理が 瀰漫」しているので、そこから「天使の 舞ふ庭」も「不磨の神殿」も「真光のみ」も出て来る、という寸法。そのようにして、あらゆる物や事が形作られているといった感じ。

ちなみにこの「真光のみ」というのは、目の前の景色を見ても明るいし、心的な意味に取って、明るい気持ちだ、ということでもある。だから「真光のみ」という表現になっている。

そして、この「真光」を「しんこう」と読むと、それは「信仰」に通じ、また同時に「神向(しんこう)」でもある、ということ。つまり、強い信仰がやがて神へと向かわせ、そして終には神と対面できる、ということだ。

つまりそれは、なんというかこう……どこを見ても主の形の現れの一つ、と見てしまうということ。この目の前の世界全てに姿(=スガタ=主形)を見てしまうということ。

何かおじいちゃん的な神様が出て来て「私が主である」というのではなくて、一瞬一瞬移り変わって行くこの世界の中にある、ありとあらゆる事象の中に主(す)の形(かた)を見出してしまう、ということ。


そのようにして、無限に続いていく事象を通して、瞬間瞬間ごとに主の御姿を垣間見ていくのだ。そして当然、その瞬間瞬間の場において、その場に応じた喜びが湧いて来る、ということ。

日月神示参照。

『はじめの喜びは食物ぞ。次は異性ぞ。何れも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起るのぞ。とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。よろこびは神ぢゃ。和さねば苦となるぞ。かなしみとなるぞ。先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。何故に神示を食べないのか。見るばかりではミにつかんぞ。よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次には神との交わりぞ。交流ぞ。和ぞ。そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となり花むことなるのぢゃ。人民は花よめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。永遠につづく結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。よろこびぞ。花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ。』(月光の巻 第三十八帖)

 

『人民には分別与へてあるから反省できるのであるぞ。反省あるから進展するのであるぞ。ほっておいても、いらんものは無くなり、いるものは栄へるのであるが、人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが。慾、浄化して喜びとせよ。喜び何からでも生れるぞ。広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ。よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。ふところ手でいては出来ん。手出せ、足出せよ。』(春の巻 第九帖)

なかきよの よみのくろみる
  ひはくろく はひるみろくの みよのよきかな

(長き夜の 黄泉退く炉見る 日は黒く 入る弥勒の 神代の良きかな)

解説

黄泉は「死後、その魂が行くとされている地下の世界。冥土(めいど)。泉下(せんか)。よみのくに。よもつくに。」、炉(ろ)は「金属などを加熱・溶解・反応させるための装置。溶鉱炉・原子炉など。」、入る(はいる/はひる)は「外部から、ある場所や環境などに移る。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(ヤマツミ)’‘海神(ワタツミ)’など他の語と複合して用いられる。」の意味です。

雑感

何かふと出て来た歌です。

今日知ったのだが、2026年8月13日に皆既日食が起こる、とある。

『日食一覧』(「国立天文台(NAOJ)」より)


一方、下記トドメノフミにはこのような文章がある。

下記参照。

『トドメノフミ 転記 (元サイト消失)』(「ムムム」さん)


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日(じつ)、月(げつ)、地(ち)、一直線に結ばれん、その日、その時天空に巨大な黒ぞ顕われん。

大神様こと主(す)の神の神聖極まるご正体。

元極体主王大御神(むとふみくらいぬしおおかみ)のご出御座(しゅつぎょ)、黒ぞと申すぞよ。

真っ黒、黒の大太陽、人なる世界の天空に顕われ出たりたその時は畏(かしこ)み慎(つつしみ)拝(おろ)がめよ。

大地も黒ぞと申すぞよ、上下黒の挟み撃ち、逃げ失せる事はできんぞよ、これまで人類汚したる、海、山、大地、空とても、黒なる世界の中に入り大洗霊を仰ぐのぞ。

丁度、これまできた世界、月の守護にて三千年、水と土とをこねくりて細工、彩色整えて、形にいたして九分九厘、できたる世界をこの度の釜入れの時ぞ来たるぞよ。

磁器、でける時期、直(じき)来ると金神直々(じきじき)申すぞよ。

土とは菌のかたまりぞ、何億何兆住む菌で、大地成立しとる事、人の学理も知りた事。

人の肉身も土にして口の中にも菌が住み腹の中にも菌が住む。

菌が人の身支えたる、その事誰とてわかるとて、この菌なるの大変化、この度起きんと申すぞよ。

真っ黒太陽出たならば、真っ黒大地と大変化。

人なる内の仰山(ぎょうさん)の菌もこれにて大変化、これまで人々汚したる海山、大地空に住む仰山の菌も大変化、元の大地に戻さんと、汚濁、汚物を喰いに出る。

発酵するもの、腐るもの、発光するもの、朽ちるもの、上に行くもの、落ちるもの、飛んだり跳ねたりいたすもの、地べたガサゴリいたすもの、二筋できんと申すぞよ。

発酵、腐乱ぞ分れゆく、二筋道ぞと申すぞよ。

人の手足に仰山のプツプツ噴き出てきたなれば、その時なりぞと申すぞよ。

口やら書(ふみ)ではこの程度、ここまでなりぞと申すぞよ。

到底、口やら書にては表わす事とてできんから、口やら書ではこの程度、程度次第にわかるぞよ。

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改心いたすは午の秋、ここまでなりぞと申すぞよ。

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秋にはあちらとこちらでは隔(へだ)ての併(へい)ぞ現われて、隔ての線ぞ現われて、目には見えねど現われて、ヘイ、あきまセンとはこの事ぞ。

ギリギリ午の秋までと申して来たるその日まで、改心いたしてくだしゃんせ。

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今年は8月7日が立秋だったが、暦の上では既に秋になっている、ということになる。

また(太陽と月と地球が一直線になる)皆既日食が北極で観測できる、という所も微妙に気になる。

日月神示では、この世の大神様であるスサナルの大神様を「北に押込めなされた」とあるが、上記トドメノフミと合わせて見てみると、今回の北極で観測できる皆既日食は、その大神様のお出ましの象徴と見ることができるのかもしれない。

日月神示参照。

『~前略~。スサナルの大神様この世の大神様ぞと申してあらうがな。間違ひの神々様、この世の罪けがれを、この神様にきせて、無理やりに北に押込めなされたのざぞ。それでこの地の上を極悪神がわれの好き候(そうろう)に持ちあらしたのざ。それで人皇の世と曇りけがして、つくりかへ、仏の世となりて、さらにまぜこぜにしてしまふて、わからんことになりて、キリストの世にいたして、さらにさらにわからぬことにいたしてしもふて、悪の仕組通りにいたしてゐるのぢゃぞ、わかりたか。釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな。~後略~。』(岩の巻 第一帖)

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。』(碧玉の巻 第十帖)

※この「ネの国に追ひやった」の「ネの国」は、通常であれば「根の国」だが、この「ネ」を「子(ね)」とすると、子は北の方角を指すので、北の国に追いやった、ということになる。

ちなみに主は「ス」と読めるが「子」も「ス」と読める。

下記参照。

『す【主/子】』(「Weblio辞書」より)


また下記霊界物語の部分では「キタ」は「北極」の意味ともある。根の国底の国は「北極」とも。

『霊界物語 第4巻 第9篇 宇宙真相 第48章 神示の宇宙その三』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


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~前略~。

また地球面を大地の北極と云(い)ふ意味は、キタとは、前述の如く、火水垂(いきた)ると云いふことであつて、~後略~。

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『霊界物語 第39巻 後付 附録 大祓祝詞解』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

 

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△根の国底の国  地球表面に於ては北極である。神諭に『今迄は世の元の神を、北へ北へ押籠めて置いて、北を悪いと世界の人民が申て居りたが、北は根の根、元の国であるから、北が一番善く成るぞよ………。人民は北が光ると申して不思議がりて、いろいろと学や智慧で考へて居りたが、誠の神が一処に集りて、神力の光を現はして居る事を知らなんだぞよ』とあるが、真に人間の智慧や学問では解釈の出来ない神秘は北に隠されて居る。北光、磁力は申すに及ばず、気流や、気象なども北極とは密接の関係がある。即ち地球の罪穢邪気は、悉く一旦北極に吹き放たれ、爰で遠大なる神力により処分されるのである。序に一言して置くが、罪を犯した者が根の国、底の国に落ちるのは、詰まり神罰で、これも一つの修祓法執行の意義である。別に根の国底の国といふ地獄めきたる国土が存在するのではない。何処に居ても神罰執行中は其処が根の国底の国である。

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※本文冒頭らへんにある「神諭に『今迄は~~」の部分の「神諭」は、当然大本神諭のことなのは言うまでもない。

また大本神諭には、天の岩戸開き(立替え立て直し)は八月九月という記述もあることから、今年のお盆で全ての決着が着く、ということも、無きにしも非ずだとは思う。

『大本神諭 大正元年旧7月30日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『大本神諭 大正5年旧7月23日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『大本神諭 大正6年旧8月22日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

 

逆にこのまま何も起きずにいると、ジリ貧になって、これまでの苦しみがさらに続いていくのは目に見えているので、何とかここらへんで決着を付けて欲しい、という思いもある。

これからホルムズ海峡閉鎖の影響が、いよいよ表に噴出して来るだろうし、また、アメリカがイランに対して戦術核を使う、という可能性も捨てきれない。もしそうなれば、当然ロシアもウクライナに対して核を使うようになるだろうし、ゆくゆくは日本にも核を落とすとも限らない。

そうなれば、この地球上は阿鼻叫喚の場となってしまい、助かる者も助からなくなってしまうので、そうなる前に何とかここで決着をつけてほしいとも思う。

 

日月神示参照。

『肉体がこの世では大切であるから肉体を傷つけたら苦しめたら、その守護神は、それだけのめぐり負ふのざぞ、霊々と申して肉体苦しめてはならんぞ、今の人民とっておきの誠の智ないから、持ってゐる智を皆出して了ふから、上面許り飾りて立派に見せようとしてゐるから、いざと云ふ時には間に合はんのぢゃ、上面しか見えんから、誠の事判らんから、神の云ふ事判らんのも道理ぢゃなあ。建直しの仕組 立派に出来てゐるから心配いたすでないぞ、建替延ばしに延ばしてゐる神の心判らんから、余り延ばしては丸つぶれに、悪のわなに落ちるから艮(とど)めの一厘のふたあけるから、目開けておれん事になるぞ、早う知らせる人民には知らしてやれよ、先づ七人に知らせと申してあろがな。』(梅の巻 第九帖)

 

『霊はものにつくと申してあろう。払ひするときはモノにつけて、モノと共にせよ。共に祓へよ。これほどマコト申しても、残る一厘はいよいよのギリギリでないと申さんから、うたがふのも無理ないなれど、見て御座れよ。神の仕組 見事成就いたすぞ。一厘のことは知らされんぞと申してあろう。申すと仕組成就せんなり。知らさんので、改心おくれるなり、心の心で取りて下されよ。肉体は霊の衣と申してあらう。衣が霊を自由にしてはならんぞ。衣には衣の約束あるぞ。衣ぢゃと申して粗末してはならん。何れも神の現れであるぞ。内には内の内があり、外には外の外があるぞ。人ほめよ。人ほめることは己ほめることぞ。この巻、秋の巻。』(秋の巻 第二十八帖)

 

『よき神にはよき御用、悪き神には悪き御用、自分で自分がつとめあげるのぢゃ、人になんと云はれても腹の立つ様では御用六ヶ敷いぞ、腹立つのは慢心ぢゃと申してあろがな。仕組途中でグレンと変り、カラリと変る仕組してあるのぢゃ、其処に一厘の仕組、火水の仕組、富士と鳴門の仕組、結構々々大切致してあるのぢゃ。仕組変り変りて人民には判らんなり、よき世と致すのぢゃ、いくら智あっても人間心では出来ん仕組ぞ、智捨てて神にすがりて来ねば分らん仕組ぢゃ、と云ふて人間世界は人間の智いるのぢゃ、智でない智を神が与へるぞ、神人共にと申してあろがな、つとめ上げたら他にない結構な御用。』(青葉の巻 第十帖)

かみのひの かちときとすた
  みちからか ちみたすときと ちかのひのみか

(神の日の 勝鬨と数多 神力が 地満たす秋と 直の日のみが)

解説

勝鬨(かちどき)は「戦いに勝ったときあげる鬨(とき)の声。凱歌(がいか)。」、数多(すた)は「数の多いこと。たくさん。あまた。多数。すうた。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(ヤマツミ)’‘海神(ワタツミ)’など他の語と複合して用いられる。」、秋(とき)は「重要な時期。」、直(じか/ぢか)は「間に他のものを入れないこと。直接。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第61巻 第4篇 風山雅洋 第18章 神人』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

霊界物語参照。

『霊界物語 第10巻 第2篇 禊身の段 第29章 言霊解三』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示参照。

『言はれる間はよいぞ。読まれる間はよいぞ。綱切れたら沖の舟、神信じつつ迷信に落ちて御座るぞ。日本の国のミタマ曇ってゐることひどいぞ。外国、同様ながら筋通ってゐるぞ。型にはめると動きないことになるぞ。型外せと申してあらうが。自分で自分を監視せよ。顕斎のみでも迷信、幽斎のみでも迷信、二つ行っても迷信ぞ。二つ融け合って生れた一つの正斎を中として顕幽、両斎を外としてまつるのが大祭りであるぞ。荒、和、幸、奇、ミタマ統べるのが直日のみたま。みすまるのたまぞ。今度は直日のみでなくてはならん。直日弥栄えて直日月※の能(ハタラキ)となるのぞ。食物 気つけよ。信仰は感情ぞ。飢えた人には食物。神よ勝て。人間 勝ってはならんぞ。』(黄金の巻 第二十一帖 ※は原文では「〇に十」の記号)

 

『出口王仁三郎全集 第一巻 皇道編 第五篇 皇道と国体 第二章 皇国の道』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示参照。

『地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かすのである。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ない如く、地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白となり、己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを知らねばならぬ。来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。』(地震の巻 第七帖)

きしのたと なみきゆらかは
  くかねふね かくはからゆき みなとたのしき

(岸野田と 並木由良川 黄金船 各場から行き 港楽しき)

解説

野田(のだ)は「野の中にある田。」、並木は「並んで立っている樹木。また、寺社の参道、街路などに沿って植え並べられた樹木の列。」、由良川(ゆらがわ/ゆらがは)は「京都府中央部を西流し、のち北流して宮津市由良で栗田(くんだ)湾に注ぐ川。三国岳に発し、上流は大野川と呼ばれる。江戸時代は福知山まで舟運が通じ、京都への水運に利用された。全長一四六キロメートル。」、黄金(くがね)は「おうごん。きん。こがね。」、各(かく)は「漢語の名詞の上に付けて、それらの多くのものの、一つ一つの意を表わす。おのおの。それぞれ。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第61巻 第4篇 風山雅洋 第16章 神英』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

歌のイメージが中々しずらいのだが、一応書いておくことにする。

イメージとしては、岸辺や野中の田んぼや並木道、そういう風景が垣間見える由良川の各渡し場から黄金船が人々を乗せて、由良港へと運んでいく、というようなイメージ。

由良港の先には冠島・沓島があるので、そこに向かっているようなイメージもある。

下記参照。

『由良川』(「オニペディア」より)


『ヨルダン河 (曖昧さ回避)』(「オニペディア」より)


『冠島沓島 (おしまめしま)』(「オニペディア」より)


また、上記の記事から由良川の別名はヨルダン河で、ヨルダン河の別名は「三途の川」ともある。

イメージ的には、その三途の川を黄金の船に乗って最後は大海に出る、というようなもの。

従来のイメージだと此岸から彼岸へと川を渡るというものだが、今回輪廻転生が終わるということで、各渡し場から港へと行き、そこから大海に出るイメージ。

下記参照。

『神も時節には敵わない。国常立尊三十五万年前に御引退の数字に謎が!』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『聖なる天の火と地の火。天の岩窟の中の天照太御神とは?』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

 

なかきよし いはとあくおと
  かしらから しかとおくあと はいしよきかな

(中清し 岩戸開く音 頭から 確と置く後 拝芝良きかな)

解説

頭(かしら)は「人間や動物の首から上の部分。あたま。こうべ。」、確と(しかと)は「かたく、しっかりと。また、十分に。完全に。しっかと。」、拝芝(はいし)は「面会することの謙譲語。拝顔。拝眉。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第61巻 第3篇 白梅の花 第15章 神前』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

イメージとしては、岩戸が開く音がして(その音がした後は、岩戸の中から当然高貴な神様がお出ましになるので)反射的に頭をしっかりと地面につくようにして置いて、そのまま平伏土下座しながら待っていると、やがてその中から高貴な神様が出て来て、「面(=おもて=顔のこと)を上げられよ」というようなことを言われるので、ようやく岩戸の中から出て来た天照大神様のお顔を拝むことが出来る、というような感じ。

「中清し」は当然、岩戸の中に天照大神様がいらっしゃるので、その岩戸の中は清い光で満たされている、という意味。

そして岩戸が開かれて、その清い光が外に出て来るのだが、その光が清すぎて、出て来るだけで、三千世界の全ての罪穢れを焼き尽くして、全部祓うほどの清さだということ。

それほどの高貴な神様の光が出て来ることがあらかじめわかっているので、岩戸が開かれる音が聞こえたその瞬間に、反射的に平伏土下座せざるを得なくなる、というようなイメージ。

つまり、あまりに清い光なので、顔を上げて真面(まとも)に見ると、自分の命そのものがその光の中に溶けていってしまって、次の瞬間、この身魂そのものが消滅してしまっている恐れがあるので、平伏土下座している、という意味もあるように感じる。

それで天照大神様側は、その平伏土下座の姿を見て、その人がこの清い光で死なないようにと、光を調整された後に「面(おもて)を上げられよ」とおっしゃってくれるので、そこでようやく顔を上げることが出来るようになり、その御姿を拝することが出来る、というようなイメージ。

なかきよの ゆつりとみつの
  みたまいま たみのつみとり つゆのよきかな

(長き世の 移りと瑞の 御霊今 民の罪取り 露の良きかな)

解説

移る(ゆつる)は「うつる。多く、時間が経過する意に用いられる。」、瑞(みず/みづ)は「みずみずしく美しいこと。若々しくうるわしいこと。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第61巻 第3篇 白梅の花 第14章 神服』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

『長き世の 移り』は、大本的に解釈すれば、三千年余りの時間のことと思われる。

大本神諭では艮の金神こと国常立尊が三千年と五十年丑寅へ閉じ込められていたが、表に出て来た、とある。

『大本神諭 明治33年旧4月7日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


ただ伊都能売神諭では、この「三千年」は百を三十重ねた意味ではなく、数十万年ともある。

『伊都能売神諭 大正8年2月18日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


下記霊界物語にいたっては、この「三千年」は五十六億七千万年ともあり、現界と神界は時間の進み方が違う、ともある。

『霊界物語 第40巻 第3篇 霊魂の遊行 第14章 空川』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


ちなみに下記部分では霊界の一日は現界の一年に当たる、ともある。

『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第12章 天界行』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


大本の基本宣伝歌に「月日と地(つち)の恩を知れ」という文言もあるが、どちらにせよ長い時間が経過した末での、今回の立て替え立て直しに変わりはないとも思う。

『霊界物語 第1巻 前付 基本宣伝歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示でも、三千年に一度の結構な時がめぐり来ている、とある。

『称言(たたえごと) 太祝詞(ふとのりと)こと 今ぞ高らに。 木でも草でも皆、中から大きくなるのざと申してあろう、つけ焼刃や膏薬はりで大きくなるのでないぞ、三千年に一度と言ふ、又とない結構な時がめぐりて来てゐるのであるぞ、為せば成るぞ、六ヶ敷いこと申してゐるのではない、自分の中の自分を掃除して自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのぞ、みがけば神と同列のミタマぞ、釈迦ぞ、キリストぞと申してあろう。内にあるものを磨けば外からひびくものも磨かれた、けがれのないものとなるのぢゃ、中の自分を掃除しないで居るといつ迄たっても、岩戸がひらけてゐても岩戸はひらけん。』(扶桑の巻 第十三帖)

『上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ。悪神は如何様にでも変化(へんげ)るから、悪に玩具にされてゐる臣民人民 可哀想なから、此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ。未だ未だ忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざから くどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民 沢山出て来るから気付けておくのざ。まだまだ人民には見当取れん妙な事が次から次にと湧いて来るから、妙な事 此の方がさしてゐるのざから、神の臣民 心配ないなれど、さうなった神の臣民 未だ未だであろがな、掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ。天の様子も変りて来るぞ。何事にもキリと云ふ事あるぞ、臣民 可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気付けて下され、人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んから やりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ、まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され、神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ。人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるのざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民 自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな。』(雨の巻 第十二帖)

『上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ。悪神は如何様にでも変化(へんげ)るから、悪に玩具にされてゐる臣民人民 可哀想なから、此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ。未だ未だ忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざから くどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民 沢山出て来るから気付けておくのざ。まだまだ人民には見当取れん妙な事が次から次にと湧いて来るから、妙な事 此の方がさしてゐるのざから、神の臣民 心配ないなれど、さうなった神の臣民 未だ未だであろがな、掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ。天の様子も変りて来るぞ。何事にもキリと云ふ事あるぞ、臣民 可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気付けて下され、人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んから やりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ、まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され、神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ。人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるのざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民 自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな。』(雨の巻 第十二帖)

『人民もの言へんことになると申してありたこと近うなったぞ、手も足も出んこと近づいたぞ、神が致すのでない、人民自身で致すこと判りてくるぞ。人民の学や智では何とも判断出来んことになるぞ。右往左往しても、世界中かけ廻っても何もならんぞ、判らんでも判りた顔せねばならん時が来たぞ、ウソの上ぬり御苦労ぞ、人民がいよいよお手上げと言うことに、世界が行き詰りて神のハタラキが現れるのであるぞ、日本人びっくりぢゃ、日本人はいくらでも生み出されるが日本の国は出来まいがな、身体中、黄金(こがね)に光ってゐるのが国常立大神の、ある活動の時の御姿ぞ、白金(しろがね)は豊雲野大神であるぞ、今の科学では判らん。一万年や三万年の人間の地上的学では判らんこと、国常立大神のこの世の肉体の影が日本列島であるぞ、判らんことがいよいよ判らんことになったであろうが、元の元の元の神の申すことよく聞きわけなされよ、神の学でなければ今度の岩戸はひらけんぞ。』(星座の巻 第四帖)

『天地引くるめて大建替いたすのぢゃ。天地のビックリ箱とはそのことざぞ。間違ひ出来んうちに、間違はん様 気つけて下されよ。出来てからは、いくら泣いても詫びしても後へは返せん。この方でもどうにもならん元のキの道ぢゃぞ。くどう気付けておくぞ。これまでは道はいくらもあったのぢゃが、これからの道は善一筋ざぞ。インチキ神の前には通らんのざぞ、心せよと知らしてあらうがな。三千年で世一キリといたすのぢゃぞ。まことの集まりが神徳ぢゃ、神徳つむと、世界中 見えすくのざぞ。神だけではこの世の事は成就せんと申してあらうがな。神がうつりて成就さすと申してあろうがな。こんなこと これまでにはなかりたぞ。』(岩の巻 第三帖)

『八のつく日に気つけてあろうが、八とはひらくことぞ。今が八から九に入る時ぞ、天も地も大岩戸ひらき、人民の岩戸ひらきに最も都合のよい時ぞ、天地の波にのればよいのぢゃ、楽し楽しで大峠越せるぞ、神は無理申さん、やればやれる時ぞ、ヘタをすると世界は泥の海、神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、新しき太陽は昇ってゐるでないか。』(五葉の巻 第十二帖)

『これまでの改造は膏薬(こうやく)張りざから、すぐ元にかへるのぞ。今度は今までにない、文(ふみ)にも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな、富や金(きん)を返したばかりでは、今度は役に立たんぞ、戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも分りては居らんのざぞ、星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐるが、星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。』(天つ巻 第二帖)

きみのくに いれはみのりと
  みさかえか さみとりのみは れいにくのみき

(岐美の国 入れば実りと 御栄えが 早緑の見場 霊肉の見き)

解説

入る(いる)は「はいる。はいってゆく。」、ばは「接続助詞。已然形に付く場合、順接の確定条件、偶然の条件を表す。~と。~たところ。」、実りは「穀物や草木が実を結ぶこと。結実。」「努力などが報いられること。努力の成果。」、栄え(さかえ)は「さかえること。繁栄。栄華。」「希望をもたらす輝かしい光。」、早緑(さみどり)は「若草や木の若葉の緑色。」、見場(みば)は「外から見た様子。外見。外観。みかけ。」、霊肉(れいにく)は「霊魂と肉体。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第61巻 第3篇 白梅の花 第12章 神徳』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

この「早緑の見場 霊肉の見き」の部分は、一つの解釈としては、早緑(若草や若葉)のように霊肉(霊魂と肉体)が若い、という意味かと思われる。

よく「青春」とか言うように、人生の春(青年期)、夏(成人期)、秋(壮年期)、冬(老年期)のうちの一番の盛り時期である「春~夏」の若々しい姿になる、ということかと思う。

ちなみに霊界物語の下記部分では、天国では男は30歳位、女は20歳位で不老不死、とある。

下記参照。

『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第18章 一心同体』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『(80)天国は想念と情動の世界―四十七巻に学ぶー』(「霊界物語勉強室」より)


また「岐美の国」でもあるので、陰陽一致して心(霊的な事柄)も身体(肉体的な事柄)もどちらも若々しいというニュアンスを感じる。

もちろん通常通りの天国のイメージで、一年中に渡ってそこら中に木の実が実っていたり、様々な花が咲いていたり、若葉が生い茂っていたり、と、主の神の栄光が永遠に続く楽園のイメージでもよいかと思う。

きみしんし くせのしんせん
  きしきつき しきんせんしの せくしんしみき

(貴美仁慈 救世の神船 岸来着き 紫金全姿の 急く神姿見き)

解説

仁慈(じんじ)は「思いやりがあって情け深いこと。仁愛。仁恵。」、救世(くせ)は「(‘くぜ’‘ぐせ’‘ぐぜ’とも)世の人々を苦しみの中から救うこと。」「観世音菩薩のこと。」、来着く(きつく)は「到着する。」、紫金(しきん)は「‘しこん(紫金)’に同じ。‘しまごん(紫磨金)’の略。」、全姿(ぜんし)は「全体のすがた。全容。」、急く(せく)は「いそぐ。あわてる。あせる。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第61巻 第3篇 白梅の花 第11章 神浪』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

この「きみ(貴美)」は「黄身(きみ)」に通じて、紫磨黄金の肌(はだ)を持つ弥勒菩薩を連想させられる。

下記参照。

『(55)入蒙を考える(その二)―キリストの聖痕―』(「霊界物語勉強室」より)


また「救世(くせ)」は「観世音菩薩」のことでもあるが、下記記事では「木花姫=木花咲耶姫=観世音菩薩=五六七大神」ともある。

『㊼身に添う神々さま ―木花姫(このはなひめ)に学ぶ―』(「霊界物語勉強室」より)


それにしても、霊界物語の下記の部分では、神代が近づくと無数の「天の鳥船」が出て来る、とある。

『霊界物語 第7巻 余白歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


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久方の 天の鳥船 かずの限り 舞ひつ狂ひつ 神代は到らむ

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常識的に解釈すると「天の鳥船=飛行機」なのだが、「舞ひつ狂ひつ」なので「天の鳥船=UFO」とも解釈できる。

もしかしたら、これから無数のUFOが降りてくるかもしれないのだ。

下記参照。

『大本神業とUFO』(「瑞霊に倣いて」より)


『霊学№85 そもそも神は言葉の【言】は何を意味しているのか?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『霊学№11 世の立替論と【ユダヤの悪鬼がこの世を泥海にする仕組】とに関係があるのか?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『何故に大本教は予言の数々を出して、的中させて来たのか?。予言を的中させて創造神の存在証明』(「人に内在する良心神(神言会)」より)

 

うはたまの くらきよさあけ
  かひのその ひかけあさよき らくのまたはう

(烏羽玉の 暗き夜さ明け 佳美の苑 日影朝良き 楽の間多忙)

解説

烏羽玉の(うばたまの)は「烏羽玉が黒いところから‘黒’‘闇(やみ)’‘夜’‘夢’などにかかる。ぬばたまの。むばたまの。」、夜さ(よさ)は「夜。晩。夜さり。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、苑は「草花・果樹・野菜などを栽培するための一区画の土地。」「 ある物事の行なわれる場所。また、ある特定の世界。」、日影(ひかげ)は「日の光。日光。ひざし。ひなた。」、楽(らく)は「心身に苦しみや苦労がなく、齷齪(あくせく)せず安らかでたのしいこと。快いこと。また、そのさま。安楽。」「( ‘千秋楽(せんしゅうらく)’の略) 芝居などの千秋楽のこと。転じて、物事の終わり。」、多忙(たぼう/たばう)は「非常に忙しいこと。また、そのさま。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第61巻 第2篇 神国の春 第10章 神厳』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

日月神示では「夜明けの御用」という言葉が出て来る。

『天も地も一つにまぜし大嵐、攻め来る敵は駿河灘(するがなだ)、富士を境に真二つ。先づ切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組なり。されど日本は神の国。最後の仕組神力に、寄せ来る敵は魂まで、一人残らずのうにする。夜明けの御用つとめかし。晴れたる富士のすがすがし。』(松の巻 第二十七帖)

『与へよ、与へよ、与へよ、与へる政治と申してあろうが。戦争か平和かと人民申してゐるなれど、道はその二つでないぞ、三が道と、くどう申してあろう。水の外道の武器と火の外道の武器の他に、新しき武器気づかんのか。神示よく読めば示してあるのであるぞ。ほかに道ないと きめてかかるから判らんのざ。生れ赤児になれば判るぞ。知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん。自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。つけ焼刃は危ない、危ない。気狂ひに刃物ぞ。平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。神人共にとけ合ふことぞ。外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。夜明けの御用大切と申してあろうが。外道の悪 殺すでないぞ。抱き参らすから消えるのであるぞ。』(春の巻 第四十三帖)

『今は闇の世であるから夜の明けたこと申しても、誰にも分らんなれど、夜が明けたらなる程さうでありたかとビックリするなれど、それでは間に合はんのざぞ、それまでに心改めておいて下されよ、この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ、道に外れたものは誰れ彼れはないのざぞ、これまでのやり方スックリと変へねば世は治まらんぞと申してあるが、上の人 苦しくなるぞ、途中の人も苦しくなるぞ、お〇(かみ)のいふこときかん世になるぞ。』(地つ巻 第二帖)

『イワトの巻かき知らすぞよ、イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ。ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな。ヤミの中で踊るのざぞ、唄ふのざぞ、皆のものウズメとなりて下されよ、暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ、カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな。』(磐戸の巻 第一帖)

『天(あめ)の岩戸ばかりでないぞ、地(くに)の岩戸 臣民の手で開かなならんぞ、誠一つで開くのぢゃ、誠のタチカラオの神、誠のウズメの命殿、御用結構ぞ。ダマシタ岩戸開きではダマシタ神様お出ましざぞ、この道理判らんか、取違ひ禁物ぞ、生れ赤子の心になれば分るのぢゃぞ。今の臣民お日様明るいと思ふてゐるが、お日様、マコトの代のマコトのお日様どんなに明るいか見当とれまいがな。見て御座れ、見事な世と致してお目にかけるぞ、神示読みて聞かせてやれよ、嫌な顔する人民 後廻しぢゃ、飛び付く人民 縁あるのぢゃ、早う読み聞かす神示より分けておいて下されよ、間に合はんぞ、御無礼ない様に致し下されよ。』(梅の巻 第十三帖)

※上記に、マコトのお日様どんなに明るいか、とあるが、下記霊界物語では地上の太陽の七倍の光、とかいう記述がある。

『霊界物語 第48巻 第3篇 愛善信真 第13章 月照山』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


ちなみに聖書のイザヤ書第30章26節やエノク書の第91章16節にも、同様のことが書かれてある。

『イザヤ書 第30章』(「WordProject」より)


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26 さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

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『エノク書の啓示:天使、巨人、終末の審判と救済の物語 The Book of Enoch』(「slideshare」より)


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15. そしてその後、第七部の第十週に、永遠の大審判が行われ、その中で神は天使たちの間で復讐を執行するであろう。

16. そして最初の天は去って消え去り、新しい天が現れ、天のすべての力が七倍の光を与えるであろう。 

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話を戻すと、要するに夜の世界から朝の世界になる、ということなのだが、日月神示では、闇の世とは善も悪もわからんムチャな世の中のことだと書いてある。

『この方の道、悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやるぞ。何事も得心させねば、根本からの掃除は出来んのざぞ、役員 気つけて呉れよ。皆和合して呉れよ。わるき言葉、息吹が此の方一番邪魔になるぞ、苦労なしにはマコト判らんぞ、慾はいらぬぞ、慾出したら曇るぞ。めくらになるぞ、おわびすればゆるしてやるぞ、天地に御無礼ない臣民一人もないのざぞ。病治してやるぞ、神息吹つくりてやれよ、神いぶきとは一二三書いた紙、神前に供へてから分けてやるもののことざぞ。腹立つのは慢心からぞ、守護神よくなれば肉体よくなるぞ、善も悪も分からん世、闇の世と申すぞ。天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから、開いた神々様に大きなメグリあるのざぞ、今度はメグリだけのことはせなならんぞ、神にはわけへだて無いのざぞ、今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ。まぢりありたら、にごり少しでもありたら、またやり直しせなならんから くどうきつけてゐるのざぞ。何時迄もかわらんマコトでひらくのざぞ。』(磐戸の巻 第十五帖)

『学も神力ぞ。神ざぞ。学が人間の智恵と思ってゐると飛んでもない事になるぞ。肝腎の真中なくなりてゐると申してあろが。真中動いてはならんのざぞ。神国の政治は魂のまつりことぞ。苦しき御用が喜んで出来る様になりたら、神の仕組判りかけるぞ。何事も喜んで致して呉れと申してあろがな。臣民の頭では見当取れん無茶な四(よ)になる時来たのざぞ。それを闇の世と申すのぞ。神はヽ、臣民は〇、外国は〇、神の国はヽと申してあろが、神国から見れば、まわりみな外国、外国から見れば神国真中。人の真中には神あらうがな。悪神の仕組は此の方には判りてゐるから一度に潰す事は易いなれど、それでは天の大神様にすまんなり、悪殺して終(しま)ふのではなく、悪改心さして、五六七(みろく)のうれしうれしの世にするのが神の願ひざから、この道理忘れるでないぞ。今の臣民 幾ら立派な口きいても、文字ならべても、誠がないから力ないぞ。黙ってゐても力ある人いよいよ世に出る時近づいたぞ。力は神から流れ来るのぞ。磨けた人から神がうつって今度の二度とない世界の、世直しの手柄立てさすぞ。みたま磨きが何より大切ぞ。』(日月の巻 第十一帖)

要するに、今までは和光同塵的な闇の世であったが、夜が明けて日の出の守護となっているので、物事のごまかしが効かなくなってきた、ということだ。

『今迄は闇の世であったから、どんな悪い事しても闇に逃れる事出来てきたが闇の世はもうすみたぞ。思ひ違ふ臣民 沢山あるぞ。何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ。早ふさっぱり心入れ換へて下されよ。神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへて呉れよ。日本の国の臣民 皆兵隊さんになった時、一度にどっと大変が起るぞ。皆思ひ違ふぞ。カイの御用はキの御用ぞ。それが済みたら、まだまだ御用あるぞ。行けども行けども、草ぼうぼう、どこから何が飛び出すか、秋の空グレンと変るぞ。この方 化(ば)けに化けて残らずの身魂調べてあるから、身魂の改心なかなかにむつかしいから、今度と云ふ今度は、天の規則通り、びしびしとらちつけるぞ。御三体の大神様 三日此の世をかまひなさらぬと この世はクニャクニャとなるのざぞ。結構近づいて居るのざぞ。大層が近づいて居るのざぞ。この神示読みて神々様にも守護神殿にも聞かせて呉れよ。いよいよあめの日津久の神様おんかかりなされるぞ。』(水の巻 第十四帖)

『上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ。悪神は如何様にでも変化(へんげ)るから、悪に玩具にされてゐる臣民人民 可哀想なから、此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ。未だ未だ忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざから くどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民 沢山出て来るから気付けておくのざ。まだまだ人民には見当取れん妙な事が次から次にと湧いて来るから、妙な事 此の方がさしてゐるのざから、神の臣民 心配ないなれど、さうなった神の臣民 未だ未だであろがな、掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ。天の様子も変りて来るぞ。何事にもキリと云ふ事あるぞ、臣民 可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気付けて下され、人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んから やりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ、まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され、神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ。人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるのざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民 自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな。』(雨の巻 第十二帖)

国内で見れば政治献金・裏金問題とか旧統一教会の問題とか、国外で見ればエスプタイン問題とか米国大統領の市場操作問題とか、一昔前なら表に出て来なかった悪事が全部バレて、白日のもとにさらされる世の中になった、ということ。

下記参照。

『日曜日の夜…先物市場が開く10分前…』(「HAL Turner Radio Show」より)


日月神示参照。

『悪いこと待つは悪魔ぞ、何時 建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ。この神示 世界中に知らすのざ、今迄は大目に見てゐたが、もう待たれんから見直し聞き直しないぞ、神の規則通りにビシビシと出て来るぞ、世界一平に泥の海であったのを、つくりかためたのは国常立尊であるぞ、親様を泥の海にお住まひ申さすはもったいないぞ、それで天におのぼりなされたのぞ。岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神殿、この神々様、御手伝ひでこの世のかため致したのであるぞ、元からの竜体持たれた荒神様でないと今度の御用は出来んのざぞ、世界つくり固めてから臣民つくりたのであるぞ、何も知らずに上に登りて、神を見おろしてゐる様で、何でこの世が治まるものぞ。天と地の御恩といふことが神の国の守護神に判りて居らんから難儀なことが、愈々どうにもならん事になるのぞ、バタバタとなるのぞ。臣民 生れおちたらウブの御水を火で暖めてウブ湯をあびせてもらふであろが、其の御水はお土から頂くのざぞ、たき火ともしは皆 日の大神様から頂くのざぞ、御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐるのざぞ、そんなこと位 誰でも知ってゐると申すであろが、其の御恩と云ふ事知るまいがな、一厘の所 分かるまいがな。守護神も曇りてゐるから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ、世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれんぞ、桜に花咲かせよ。せわしくさしてゐるのざぞ、せわしいのは神の恵みざぞ、今の世にせわしくなかったら臣民くさって了ふぞ、せわしく働けよ。』(キの巻 第九帖)

『山の谷まで曇りてゐるぞ、曇りた所へ火の雨降るぞ、曇りた所には神は住めんぞ、神なき所 愈々ざぞ。ひどい事あるぞ、神がするのでないぞ、臣民 自分でするのざぞ。一日一日のばして改心さすやうに致したなれど、一日延ばせば千日練り直さなならんから、神は愈々鬼となって規則通りにビシビシと埒(らち)あけるぞ、もう待たれんぞ、何処から何が出て来るか知れんぞと申してあろがな。花火に火つけよ、日本の国の乱れて来たのは来られんものを来らしたからぞ。三千年の昔に返すぞ、三万年の昔に返すぞ、三十万年の昔に返さなならんかも知れんぞ。家内和合出来ん様では、この道の取次とは申されんぞ、和が元ざと申してあろが、和合出来ぬのはトラとシシぞ、どちらにもメグリあるからざぞ、昼も夜もないのざぞ、坊主 坊主くさくてはならんぞ。』(キの巻 第十帖)

また同じ意味合いで、いまでも仏の世と思うてゐるとびっくりがでるともあり、「仏の顔も三度まで」というような、今まで大目に見ていた部分がなくなる、ということでもある。

『何事も方便と申して自分勝手なことばかり申してゐるが、方便と申すもの神の国には無いのざぞ。まことがことぞ、まの事ぞ、ことだまぞ。これまでは方便と申して逃げられたが、も早 逃げること出来ないぞ、方便の人々早う心洗ひて呉れよ、方便の世は済みたのざぞ、いまでも仏の世と思うてゐるとびっくりがでるぞ、神の国、元の神がスッカリ現はれて富士の高嶺から天地(あめつち)へのりとするぞ、岩戸しめる御役になるなよ。』(地つ巻 第十帖)

『洋服ぬいで和服着て又洋服着るのぢゃ。仏の力と神の力と同じでないぞ。同じ所までは同じであるが、もう此処まで来たら、この先は神の道(ミチ)でなくては動きとれん。神の大理(オオミチ)は上の上であるぞ。神の理を明らかにすれば、神はその人を明らかにする。天使は天と地の和合者、仁人は地と天の和合者。』(黄金の巻 第六十二帖)

『太祝詞(ふとのりと) のりのり祈らば 岩戸ひらけん。 神は一時は仏とも現れたと申してありたが、仏ではもう治まらん、岩戸が開けたのであるから、蓮華ではならん。人民も改心しなければ、地の下に沈むことになるぞ、神が沈めるのではない、人民が自分で沈むのであるぞ、人民の心によって明るい天国への道が暗く見へ、暗い地の中への道が明るく見えるのであるぞ、珍しきこと珍しき人が現れてくるぞ、ビックリ、ひっくり返らんように気つけてくれよ、目の玉 飛び出すぞ、たとへでないぞ。』(紫金の巻 第七帖)

『口で云ふことよくきけよ。肉体で云ふこと、神の申すこと、よく聞きわけ下されよ。霊媒通じてこの世に呼びかける霊の九分九分九厘は邪霊であるぞ。はげしくなるぞ。世界一平まだまだ出来さうで出来ない相談。奥の奥、見通して下され。うごきは必要であれど、皮むくぞ。次も駄目、次も駄目、その次の次がまことの一家ぢゃ。寒い所 暖かく、暑い所 涼しくなるぞ。仏には仏の世界はあれど、三千年でチョンぞと申してあらう。神示しめすに、順乱して来るぞ。慾出して下さるなよ。順乱れる所に神のはたらきないぞ。人民 自由にせよと申して、悪自由してならん。』(黄金の巻 第五十帖)

日月神示ではさらに、大将は皆思い違う、という部分があるが、この部分は米国やロシアの大統領が戦争を始めて、すぐに終わって勝利を収めると思っていたけれど、その思惑が外れた、という事実と一致する。

『今迄は闇の世であったから、どんな悪い事しても闇に逃れる事出来てきたが闇の世はもうすみたぞ。思ひ違ふ臣民 沢山あるぞ。何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ。早ふさっぱり心入れ換へて下されよ。神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへて呉れよ。日本の国の臣民 皆兵隊さんになった時、一度にどっと大変が起るぞ。皆思ひ違ふぞ。カイの御用はキの御用ぞ。それが済みたら、まだまだ御用あるぞ。行けども行けども、草ぼうぼう、どこから何が飛び出すか、秋の空グレンと変るぞ。この方 化(ば)けに化けて残らずの身魂調べてあるから、身魂の改心なかなかにむつかしいから、今度と云ふ今度は、天の規則通り、びしびしとらちつけるぞ。御三体の大神様 三日此の世をかまひなさらぬと この世はクニャクニャとなるのざぞ。結構近づいて居るのざぞ。大層が近づいて居るのざぞ。この神示読みて神々様にも守護神殿にも聞かせて呉れよ。いよいよあめの日津久の神様おんかかりなされるぞ。』(水の巻 第十四帖)

別の記述では、我の口で我が白状するともあり、トランプ大統領のイランに対する支離滅裂な言動が思い出される。

『今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴(あっぱれ)世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな、外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになるのざぞ、覚悟はよいか、改心次第で其の時からよき方に廻してやるぞ。改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ。この仕組判りたら上の臣民、逆立ちしておわびに来るなれど、其の時ではもう間に合はんから くどう気付けてゐるのざぞ。臣民、かわいから嫌がられても、此の方申すのざ。悪と思ふことに善あり、善と思ふ事も悪多いと知らしてあろがな、このことよく心得ておけよ、悪の世になってゐるのざから、マコトの神さへ悪に巻込まれて御座る程、知らず知らずに悪になりてゐるのざから、今度の世の乱れと申すものは、五度の岩戸しめざから見当とれん、臣民に判らんのは無理ないなれど、それ判りて貰はんと結構な御用つとまらんのざぞ、時が来たら、われがわれの口でわれが白状する様になりて来るぞ、神の臣民はづかしない様にして呉れよ、臣民はづかしことは、神はづかしのざぞ。愈々善と悪のかわりめであるから、悪神暴れるから巻込まれぬ様に褌しめて、この神示よんで、神の心くみとって御用大切になされよ。』(磐戸の巻 第十八帖)

最後の「良き 楽の間多忙」の部分は、これは千秋楽(物事の最後。終わり。)の間が多忙だ、という意味と、それら「夜明けの御用」「おはり(終わり、尾張)の御用」が楽に務めることが出来る、ということでもあるように思う。

また嬉し楽しのミロクの世となって、苦しみで多忙になるのではなくて、嬉しさで多忙になる、という意味もあるように感じる。

日月神示参照。

『この神の許へ来て信心さへして居たらよい事ある様に思ふてゐるが、大間違ひざぞ。この方の許へ参りて先づ借銭なしに借銭払ひして下されよ。苦しいこと出来て来るのが御神徳ぞ。この方の許へ来て悪くなったと云ふ人民 遠慮いらん、帰りて呉れよ。そんな軽い信心は信心ではないぞ。結構な苦しみがわからん臣民一人も要らんのぞ。しかと褌締めてついて御座れよ。此の方 悪神とも見えると申してあらうがな。わかりてもわからん、出来ん事致さすぞ、神が使ふのざから楽でもあるのざぞ。静かに神示よく肚に入れて御用して下されよ。神の道 光るぞ。』(岩の巻 第七帖)

『出てきてから又同じ様なこと繰り返すぞ、今度は魂抜けてゐるからグニャグニャぞ、グニャグニャ細工しか出来んぞ、それに迷ふでないぞ。神示が肚に入って血になると、何が起って来ても結構であるが、始の内は、ちょっとの事で迷いの雲が出て悪のとりことなって苦しむぞ、悪はないのであるが、無い悪を人民の心から生むのざぞ、悪のとりことなって苦しむが見へてゐるから、苦も結構なれど いらん苦はいらんぞ、神示よく読んで苦を楽とせよ、楽は喜びぞ、苦のハタラキが楽ぞ、楽は喜びぞ、光ぞ、神人共のまつりぞ、楽で岩戸開けるぞ、苦しんで開く岩戸は誠の岩戸でないぞ。』(海の巻 第四帖)

『直会(なをらひ)も祭典(まつり)の中ぞ。朝の、夕の、日々の人民の食事 皆 直会ぞ。日々の仕事 皆まつりぞ。息すること此の世の初めのまつりぞ。まつれまつれと申してあろが。おはりの御用は はじめの御用ぞ。まつりの御用ぞ。オワリノ十ノヤマにまつり呉れよ。世につげて呉れよ。役員 皆 宮つくれよ。宮とは人民の申す宮でなくてもよいのざぞ。一の宮、二の宮、三の宮と次々につくり呉れよ。道場も幾らつくってもよいぞ。神の申した事、なさば成るのざぞ。宮と道場つくり神示読んでまつれまつれ、まつり結構ぞ。奥山にはオホカムツミの神様もまつり呉れよ。守りは供へてから皆に下げて取らせよ。五柱、七柱、八柱、十柱、十六柱、二十五柱、三十三柱、三十六柱、四十七柱、四十八柱、四十九柱、五十柱、五十八柱、五十九柱、世の元ぞ。』(夜明けの巻 第八帖)

一方大本神諭でも、気楽に神界の御用ができる、とある。

『大本神諭 大正4年旧12月2日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

 

なかきえに ひつくかあはれ
   いみにはに みいれはあかく つひにえきかな

(永き縁 日月が天晴れ 斎庭に 身入れば明かく 終に良きかな)

解説

縁(えに)は「ゆかり。縁故。ちなみ。」、月(つく)は「‘つき’の上代東国方言。」、斎(いみ)は「他の語の上に付いて複合語をつくり、汚れを清めた、神聖な、の意を表す。」、庭(にわ/には)は「物事の行われる場所。神事・行事などの行われる場所。」、入る(いる)は「はいる。はいってゆく。」、ばは「接続助詞。已然形に付く場合、順接の確定条件、偶然の条件を表す。~と。~たところ。」、明かし(あかし)は「光などが強くはっきりしている状態である。明るい。」、終に(ついに/つひに)は「一つの行為や状態が、ずっと最後まで持続するさまを示す。どこまでも。いつまでも。最後まで。」「行為や状態が、最終的に実現するさまを示す。最後に。とうとう。結局。いよいよ。」、良し(えし)は「よい。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第61巻 第2篇 神国の春 第9章 神行』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

ちなみに霊界物語の下記部分では、主神は天国では太陽(日)、霊国では月として現れる、ともある。

『霊界物語 第37巻 後付 霊の礎(九)』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『霊界物語 第47巻 第3篇 天国巡覧 第13章 下層天国』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


また大本神諭の下記部分では「天照大神月読神」に「みろくさま」のルビが振られている。

『大本神諭 大正5年旧5月14日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)