よせかきて みよまたくおに
ひとくおく とひにおくたま よみてきかせよ
(寄せが来て 三世跨ぐ鬼 秘匿奥 肚皮に置く玉 読みて聞かせよ)
解説
寄せ(よせ)は「迫り近づくこと。押しよせること。」「気持をそちらに傾けること。頼ったり、信任したり、後援したりすること。」「うしろだてとなって世話をする人。後見。」「縁。ゆかり。ちなみ。」「子細。わけ。いわれ。」、三世(みよ)は「仏語。前世・現世・来世。さんぜ。」、秘匿(ひとく)は「秘密にして隠しておくこと。」、肚皮(とひ)は「腹の中。心の中。」、読むは「文字で書かれたものを一字一字声に出して言う。」「文字や文章、図などを見て、その意味・内容を理解する。」「外面を見て、その隠された意味や将来などを推察する。」の意味です。
雑感
この歌は、下記記事を読んで、それをモチーフに書いた歌です。
『出口王仁三郎と大本』(「ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符号」より)
雑感
「寄せが来て」は、何か迫りくるものが来て、という意味の他、その迫りくるものを見て、何かに頼りたくなって、お任せしたい気持ちが出て来て、という意味になるかと思う。
それで何に頼ればいいのか、何にお任せすればいいのか、ということになるが、それが「三世跨ぐ鬼 秘匿奥 肚皮に置く玉」の部分ではないかと思う。
要するに、三千世界を跨ぐ鬼神、即ち国常立尊が秘密にして隠し置かれた玉、各人の心の奥の奥底に安置された玉(魂)、それに頼れよ、ということかと思う。
で、普通の感覚だと、いやそんなこと言われてもさっぱりわからん、となるかもしれないが、それがゆえに「読みて聞かせよ」ということかと思う。
「玉(魂)を読む」というのも意味不明かもしれないが、日月神示ではミタマの命令に従って、という表現が出て来る。
日月神示参照。
『世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。』(磐戸の巻 第十六帖)
なんていうかこう、何かを判断する時に、何かこっちのほうがよさそう、とか、そういう心の奥底から浮かんで来る感覚に従ってみる、ということ。
ただ、このような言葉で説明すると、自我は巧妙なので、必ず「直観に従っていればいい」とかいう単純思考になって無意識の内に楽な方へ行きがちなので、そこは自分の心をサニワしながら、ということにはなってくるかと思う。
日月神示参照。
『言はれる間はよいぞ。読まれる間はよいぞ。綱切れたら沖の舟、神信じつつ迷信に落ちて御座るぞ。日本の国のミタマ曇ってゐることひどいぞ。外国、同様ながら筋通ってゐるぞ。型にはめると動きないことになるぞ。型外せと申してあらうが。自分で自分を監視せよ。~後略~。』(黄金の巻 第二十一帖)
『見へる幸福には限りがあり、見へぬ幸福は永遠であるぞ。理(ミチ)にいそしめ。理(ミチ)にとけ入れよ。モノは無くなるぞ。霊は永遠に弥栄えるぞ。毎日々々掃除してもホコリはたまる。絶えず心の掃除よいか。洗濯よいか。目に見へず、上、下、左、右、前、後から何となくせまってくるものをサニワせよ。サニワして受けいれねばならん。自分の魂をはぐくみ、生長さしてくれる大切なものは目に見へんところから流れてくるぞ。和せよ。調和せよ。調和とは、上から、より清い所から流れて来るものに従ふことぞ。いよいよが一四一四となるぞ。雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、大地震の神。』(春の巻 第五十四帖)
『幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊かかりの殆どは この幽界からの感応によることを忘れるでないぞ。霊かかりの動作をよく見極めればすぐ判る。高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは必ず下級霊であるぞ、インチキ霊であるぞ、インチキ霊にかかるなよ、たとへ神の言葉でも尚サニワせよと申してあろう。迷信であってもそれを信ずる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界の一部をつくり出すことがあるから気付けておくぞ。無き筈(はず)のものを生み出し それが又地上界に反影してくるのであるから心して下されよ。今の人民 九分九厘は幽界とのつながりをもつ、胸に手をあててよくよく自分をサニワせよ。』(竜音の巻 第五帖)
だから、何でも自分の心に従うんだ、といって、朝仕事に行かなくちゃならないのに、今日は特段眠いからといって、あまり行く気が起きないからといって、そのまま寝て仕事を休んだとしたら、それはただの怠惰ですよ、ということ。
ただ一方で、もしかするとその眠気が大病のサインかもしれないので、よくよく見極めが必要ですよ、ということ。
なので一つの判断としては、一旦仕事に行ってみて、それでもどうしてもその眠気が収まらない、或いは通勤途中だけど、どうしても会社に行く気が起きない、などという場合には、その事についてもう一度考えてみる、という判断もあるかと思う。
それで考えてみて、やはり何か引っかかるものがあれば、その日は休んでみる、という判断も有り得るかと思う。ただ、あくまでそれは自分で決断したことなので、当然休んだ後の責任は全部自分にありますよ、ということ。
このように自分の奥底の心と相談しながら、自分で判断せよ、ということかと思う。
日月神示参照。
『流れ出たものは又元にかえると申しても、そのままでは帰られんのであるぞ。天から降った雨が又天に昇るには、形をかえるであろうが、この道理をわきまえんと、悪かみかかりとなるぞ。 それはそなたの自己慾から出てゐるぞ。自己慾もなくてはならんが、段々浄化して行かねばならん。浄化して大き自己の慾とせよ。自分のみの慾となるから弥栄えんのぢゃ。弥栄えんもの神の御心に逆行。 自分で判断出来ることを何故にきくのぢゃ。神にきけば神に責任をきせるのと同様ぞ。人間の悪いくせぞ。出直せよ。』(月光の巻 第十四帖)
『食物は科学的栄養のみに囚われてはならん。霊の栄養大切。 自分と自分と和合せよと申してあるが、肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。更に、又奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ。 高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。 山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。』(月光の巻 第二十五帖)
で、結局それでは玉(たま)を頼りにせよ、と言いながら、全部自己責任じゃないか、と思うかもしれないが、日月神示では頼りないのが頼りになる、神の守護は人にはわからん、とあるので、人事尽くして天命を待つ、の態度がよさそうである。
日月神示参照。
『神は人民には見へん、たよりないものであるが、たよりないのが、たよりになるのであるぞ。外国行きとは幽界行きの事ぞ。時節来て居れど人民心でせくでないぞ、せくとしくじるぞ。あちらに一人、こちらに一人、と云ふ風に残る位むごい事にせなならん様になってゐるのざから、一人でも多く助けたい親心汲みとりて、早う云ふこと聞くものぢゃ。ここ迄神示通りに出てゐても、まだ判らんのか、疑ふのにも余りであるぞ。地に高天原(たかあまはら)が出来るのざぞ、天の神 地に降りなされ、地(くに)の神と御一体と成りなされ大日月の神と現はれなさる日となった、結構であるぞ、肉体の事は何とか分るであろが、タマは判るまい、永遠(とわ)にタマは生き通しであるから、タマの因縁の判る所は九九(ここ)の二(ふ)でより他にはいくらさがしてもないのざぞ。』(海の巻 第十二帖)
『此の世と申しても臣民の世ばかりでないぞ、神の世界も引くるめて申してゐるのぢゃぞ、勇んでやって下されよ、勇む所 此の方 力添え致すぞ。心配顔 此の方 嫌ひぞ、歌唄ひ下されよ、笑ひて下されよ、笑へば岩戸開けるぞ。今の人民キリキリ舞しながら まだキリキリ舞する様もがいて御座るぞ。つ千に返ると申してあろがな、早う気付いた臣民人民 楽になるぞ。神の守護と申すものは人民からはちっとも判らんのであるぞ、判る様な守護は低い神の守護ざぞ、悪神の守護ざぞ、悪神の守護でも大将の守護ともなれば人民には判らんのざぞ、心せよ、何んな事あっても不足申すでないぞ、不足悪ざぞ、皆 人民の気からぞと くどう申してあろがな、人民キから起って来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むより方法(ほか)ないぞ、人民の心さへ定まったら、此の方 自ら出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ。此の世の物 一切 神の物と云ふ事まだ判らんのか、一切取り上げられてから成程なァと判ったのではおそいから嫌がられても、くどう同じ様な事申してゐるのざぞ、人民の苦しみ此の方の苦しみざぞ、人民も此の方も同じものざぞ、此の道理判りたか、此の方 人民の中に居るのざぞ、別辞(ことわけ)て申してゐるのざぞ。まだまだ大き戦激しきぞ、是で世よくなると思ってゐると大間違ひとなるのざぞ、是からが褌(ふんどし)ざぞ、よき世となれば褌要らんのざぞ、フラリフラリと風に吹かれるヘチマぢゃ、ヘチマ愉快で嬉しひなあ、風の間に間に雨の間に間にユタリユタリと嬉しかろがな、何も彼も嬉し真から楽しき世ざぞよ。誠が神であるぞ、コトが神であるぞ、元であるぞ、道であるぞ、日であるぞ月であるぞ。始めコトありと申してあろがな、キであるぞ、まつりであるぞ。』(雨の巻 第十六帖)