かみのりか ひまんてんしの
まふにはに ふまのしんてん まひかりのみか
(神の理が 瀰漫天使の 舞ふ庭に 不磨の神殿 真光のみが)
解説
理(り)は「物事の筋道。不変の法則。ことわり。道理。また、理屈。」「理性。」、瀰漫(びまん)は「水が満ちあふれること。水原の果てしなくひろいこと。また、そのさま。」「転じて、ひろがり満ちること。ひろくはびこること。また、そのさま。」、天使は「天からの使い。神からの使い。また、そのようにやさしくいたわり深い人や、心が純粋な人。」、舞う(まう/まふ)は「音楽などに合わせて手足を動かし、ゆっくり回ったり、かろやかに移動したりする。」「円形を描くようにして空を飛ぶ。空中をただよい動く。」、庭(にわ/には)は「屋敷内で、ある広さをもって空けてある地面。草木を植えたり、泉水や築山を設けたりする。」「物事の行われる場所。神事・行事などの行われる場所。」、不磨(ふま)は「 摩滅しないこと。すりへらないこと。不朽。」、神殿(しんでん)は「神をまつる建物。」、真(ま)は「(名詞・形容詞・形容動詞などに付いて) 純粋である、まじりけがない、などの意を表す。」の意味です。
余談
この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「悔恨と安らぎの檻にて- Orchestral Version -」 を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
曲の世界観に浸って書いた歌です。
讃美歌っぽい感じなので、そういう聖書的なイメージ。
あまり頭は使わずに、曲から感じる感覚をダイレクトに言葉にしたという感じ。自分の中では、かなり珍しい形で出来上がったタイプ。
ということで、イメージとしては、何かの罪深い(或いは自分は罪深いと思い込んでいる)人が死んだ時に、(自分は本来であれば地獄に行く所なのだが)どうか、そこのところを主の憐みによって、天国に連れていって下さい的なことを懇願しまくっていたら、そこに天使が舞い降りて来て、あっ、と思ったその瞬間、気付いたら天国に居た的な感じ。
ロゴスは辞書によれば「ギリシャ語で、言葉・理性の意。」とあるが、歌の「神の理」は、そういう感じの意味かと思う。
ヨハネ福音書に「はじめに言葉ありき」という有名な文句があるそうだが、そんな感じ。
霊界物語などでは、この「ことば」に「道」という漢字が当てはめられていたりする。
霊界物語参照。
『霊界物語 第73巻 第1篇 紫微天界 第1章 天之峯火夫の神』(「霊界物語.ネット
~出口王仁三郎 大図書館~」より)
三鏡参照。
『三鏡 玉鏡 [519]ヨハネ伝』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)
そして次の「瀰漫」は、それが満ち満ちているということなのだが、何気にこの「満ち」は「道」でもある、という感じがする
「天使の 舞ふ庭に」の所は、天使が舞っているのだが、なぜに舞っているのかというと、「神の理」を感じ取って魂の底から喜びが溢れているので舞っている、という表現になっているように感じる。
また、この「天使の 舞ふ」は、従来のイメージで天使が空を飛んでいるというものでも良いだろうが、「舞い上がる」とか「舞い踊る」という表現もあるように、何やら楽しい雰囲気やウキウキした状態で庭を移動する天人と解釈しても良いかもしれない。
ちなみに日月神示では「言」「言葉」を「光透(こと)」「言波(ことは)」と表現している箇所もある。
『目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心(みこころ)のままに弥栄(いやさか)に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。心配りはせなならんぞ。何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となりきれよ。何もかも捨てきらねばならんぞ。天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ。取違ひ致して呉れるなよ。幾ら戦してゐても天国ぞ、天国とは神国ぞ。神国の民となれば戦も有難いぞ。いきの生命いつも光り輝いてゐるぞ。神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな。ここの道理よく判りたであろが。何も云ふ事ないぞ。神称へる辞(コト)が光透(コト)ぞ。あめつち称へる言(コト)が光透(コト)ぞ。草木の心になれと申してあろがな。神風もあるぞ。地獄の風もあるぞ。迷ふでないぞ、神の申すコトはコトであるぞ。コトに生きてくれよ。コトにまつろへよ。』(日月の巻 第十五帖)
『自由も共産も共倒れ、岩戸がひらけたのであるから元の元の元のキの道でなくては、タマ(玉)の道でなくては立ちては行かん、動かん二二(普字、富士)の仕組、ひらけて渦巻く鳴門(ナルト)(七@十、成答)ぢゃ。新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらきて二度とない九十(光透)でひらく仕組。』(星座の巻 第十一帖 @は原文では「渦巻き」の記号)
『国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、天運 正にめぐり来て、千(智)引の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸ひらきの真相であり、誠を知る鍵であるぞ。』(至恩の巻 第十帖)
『神は言波ぞ、言波とはまことぞ、いぶきぞ、道ぞ、まこととはまつり合はした息吹ぞ、言葉で天地にごるぞ、言波で天地澄むぞ、戦なくなるぞ、神国になるぞ、言波ほど結構な恐いものないぞ。』(地つ巻 第三十四帖)
イメージ的には、世界中に「神の理」が充満していて、その「神の理」によって、世界の全部が形作られているイメージ。
「神の理」とすると抽象的だが、イメージ的には澄み切った何かこう……細かい波動というか振動といった感じ。
霊界物語的に言えば、この大宇宙に満ち満ちているアオウエイの音ということになるのだろうし、日月神示的に言えば「光透波(ことは)」ということになるのだろうと思う。
そして、どうして「満ち」が「道」になるのかというと、自分のイメージでは、それらの宇宙に満ち満ちている波動、振動、言葉が土台となって、あらゆる事象が形作られていくから、というイメージ。
下記の日月神示の部分が、この感覚の説明に近いとも思う。
『言葉は生れ出るものぢゃ。先づ言葉され、歌となり、文章となり、又絵画となり、彫刻となり、建築となり、又音楽となり、舞踊となり、あらゆる芸術の元となるのであるぞ。神に通ずればこそ、愛であり、真であり、善であり、美であり、喜びであるぞ、喜びなきものは芸術でないぞ。今の芸術は死の芸術、魔の芸術。』(星座の巻 第二十一帖)
だから「神の理が 瀰漫」しているので、そこから「天使の 舞ふ庭」も「不磨の神殿」も「真光のみ」も出て来る、という寸法。そのようにして、あらゆる物や事が形作られているといった感じ。
ちなみにこの「真光のみ」というのは、目の前の景色を見ても明るいし、心的な意味に取って、明るい気持ちだ、ということでもある。だから「真光のみ」という表現になっている。
そして、この「真光」を「しんこう」と読むと、それは「信仰」に通じ、また同時に「神向(しんこう)」でもある、ということ。つまり、強い信仰がやがて神へと向かわせ、そして終には神と対面できる、ということだ。
つまりそれは、なんというかこう……どこを見ても主の形の現れの一つ、と見てしまうということ。この目の前の世界全てに姿(=スガタ=主形)を見てしまうということ。
何かおじいちゃん的な神様が出て来て「私が主である」というのではなくて、一瞬一瞬移り変わって行くこの世界の中にある、ありとあらゆる事象の中に主(す)の形(かた)を見出してしまう、ということ。
そのようにして、無限に続いていく事象を通して、瞬間瞬間ごとに主の御姿を垣間見ていくのだ。そして当然、その瞬間瞬間の場において、その場に応じた喜びが湧いて来る、ということ。
日月神示参照。
『はじめの喜びは食物ぞ。次は異性ぞ。何れも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起るのぞ。とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。よろこびは神ぢゃ。和さねば苦となるぞ。かなしみとなるぞ。先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。何故に神示を食べないのか。見るばかりではミにつかんぞ。よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次には神との交わりぞ。交流ぞ。和ぞ。そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となり花むことなるのぢゃ。人民は花よめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。永遠につづく結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。よろこびぞ。花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ。』(月光の巻 第三十八帖)
『人民には分別与へてあるから反省できるのであるぞ。反省あるから進展するのであるぞ。ほっておいても、いらんものは無くなり、いるものは栄へるのであるが、人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが。慾、浄化して喜びとせよ。喜び何からでも生れるぞ。広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ。よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。ふところ手でいては出来ん。手出せ、足出せよ。』(春の巻 第九帖)





