やみのこる うみにこんさう
  ししまのま ししうさんこの みうるこのみや

(闇残る 海に金蔵 しじまの間 四周珊瑚に 見得る籠の宮)

解説

金蔵(こんぞう/こんざう)は「金属中、最もかたいもの。宝石としての金剛石、または武器としての金剛杵(こんごうしょ)をいう。」「仏語。金の倉を衆生の仏性にたとえたもの。一切の衆生が本来もっている仏となるべき性質。」、しじまは「口を閉じてだまりこくっていること。ものを言わないこと。無言。」「物音一つしないで森閑としていること。静まりかえっていること。静寂。」、四周(ししゅう/ししう)は「四方のまわり。あたり。また、四方をとりかこむこと。四辺。四囲。」、籠(こ)は「竹や植物の蔓(つる)、針金などで編んだ器物の総称。かご。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk3の中にある「龍宮」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

あまり深く意味を考えずに、感覚的に書いた歌です。

イメージとしては、自分の心の中にある、海のように広がる潜在意識の奥底へと潜っていったら、そこには金剛石のような何か透明でキラキラしている、永遠に変わらない不磨の意識状態があり、その驚きと喜びにしばし無言になってしまった、というもの。

そうして改めて周囲を見渡してみるとあら不思議、視界は全部真っ暗闇だったはずなのに、周りは珊瑚に満ちていて、自分は籠(かご=加護)の宮の中にいた、つまり安心立命の絶対的な境地に自分の心が変化していることに気付いた、という感じ。

……なんというか、うまく言葉にできないが、現世的な感覚で表現するならば、竜宮城で楽しく過ごしている浦島太郎みたいな、そういうイメージ。

或いは、死後天国的な霊界に旅立つ様子にも受け取れるような感じもするが……うーん、感覚的に書いた歌なので、中々これというイメージが定まらない。

しきしまの やまとかみくに
  すまりけり ますにくみかと まやのましきし

(敷島の 大和神国 統まりけり 枡に組み下土 真屋の間辞儀し)

解説

敷島の(しきしまの)は「敷島の宮のある大和の意で、国名‘やまと’にかかる枕詞。」、統まる(すまる)は「集まって一つになる。すばる。」、枡(ます)は「液体や穀物などの分量をはかる容器。木製または金属製で、方形や円筒形のものがある。」、下土(かど)は「下界。大地。この国土。」、真屋(まや)は「切妻造りのこと。‘ま’は両方、‘や’は‘屋根’の意とする説と、神社建築がすべて切妻造りであるところからも、仏教建築渡来以前は切妻造りが上等な建物に用いられたため、‘真(ま)’の意とする説とがある。」、辞儀(じぎ)は「挨拶(あいさつ)すること。頭を下げて礼をすること。また、その礼。おじぎ。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「神州平原」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

何となく出て来た歌です。

「桝に組み」は、サザエさんのオープニングに出て来る家のような感じで、△(屋根の部分)の下にある、桝形の□(住居部分)を指している感じがする。

で、それが「下土」にある、即ち大地にあることから、竪穴式住居っぽいイメージが湧く。

調べてみると、天地根元宮造(てんちこんげんのみやづくり)というものがあるそうな。

『天地根元宮造(てんちこんげんのみやづくり)』(「wikipedia」より)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E6%A0%B9%E5%85%83%E5%AE%AE%E9%80%A0


次の「真屋の間辞儀し」は、そのような造りの家が立ち並ぶ間で、人々がのどかに挨拶を交わしながら平穏に暮らしている、というイメージ。

一言でいうと、縄文時代的な世界観ということ。

ちなみに大本神諭では「枡掛け曳きならす」という言葉が出て来る。

『大本神諭 明治43年旧8月7日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『大本神諭 明治37年旧8月10日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

 


「枡掛」は「枡(ます)で穀類などを量るとき、盛り上がった部分を平らにならすのに使う短い棒。ますかき。かいならし。」の意味なので、「枡掛け曳きならす」とは、その棒を引いて均す(平坦にする)ように、全員同じようにして救う、という感じかと思う。

 

ただ、凶悪犯罪者と善良市民を一緒にする、というわけでもない。

今までは、いくら悪いことをしてもそれを隠し通せれば裁かれなかったり、いくら良いことをしても誰にも注目されないがゆえに何の利益もなかったり、という世の中だったが、皆同じようにカルマが厳然と適応される、という意味でもあるように思う。

だから各種神示では、悪も助ける、悪も善に立ち返れ、改心せよ、と幾度となく注意がなされている。

また、一国を救った大善人と一般的な徳がある小善人とでも、自ずと処遇が違ってくるだろう。しかし、どちらも救われることには違いない。

各種神示では大きく三段階(第一天国・第二天国・第三天国)に分かれるともあり、それぞれこれまでの働きによって差異は出て来るものの、皆が救われる、という点では同じになるものと思われる。

またどの天国に行くにせよ、自身のこれまでの働きが寸分違わず反映された形となるので、誰もその処遇に対して文句を言うことはない、ということになる。

霊界物語参照。

『霊界物語 第48巻 第3篇 愛善信真 第10章 天国の富』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


だから日月神示では「お陰取り放題」とも書かれてある。要は、今の時点で大きな働きをすれば、より上の天国にあがれますよ、ということを言っているわけである。

日月神示参照。

『まだまだどえらい事出て来て日本の国は愈々つぶれたと云ふ処へなって来るから、皆が誠の神魂になって来んと誠の神は出ないのざぞ、誠ある処へ誠の神働くと申してあろが、誠ない処へ働く神は悪神ぢゃぞ、よう気付けてくれよ。いくら時節来たとて人民に誠ないと気の毒ばかりぢゃ、気の毒 此の方嫌ひぢゃ。道は神にも曲げられん、竜神は悪神ぢゃと云ふ時来るぞ、心せよ。誠ない者 今に此の方拝む事出来んことになるぞ、此の方に近よれんのは悪の守護神殿。愈々天の御先祖様と地の御先祖様と御一体に成りなされ、王の王の神で末代治める基(もとい)つくるぞ、少しでもまじりけあってはならんのぢゃ、早う洗濯掃除結構ぞ。御用いくらでもあるぞ、お蔭取り徳ぢゃ。出来るだけ大き器持ちて御座れよ、皆々欲がチビイぞ、欲が小さいなあ。話すことは放すことじゃ、放すとつかめるぞ。』(梅の巻 第二十二帖)

『折角 神が与えたおかげも今の人民では荷が重いから途中で倒れん様に神示を杖として下されよ、イキ切れん様になされよ。一つでも半分でも神の御用つとめたらつとめ徳ざぞ、何と申しても神程たよりになるものはないと判らんのか、おかげ取り徳。破れるは内からぞ、外からはビクとも致さんぞ。天では月の大神様、ミ、ヤ、カ、ラ、ス、出て来るぞ、始末よくして下されよ、始末よく出来れば何事も楽になって来るぞ、火のタキ方から水の汲み方まで変るのであるぞ、大切なことであるぞ。うそはちっとも申されん、この神示通りに出て来るのぢゃ、先の先の先まで見通しつかん様な事では、こんなタンカは切れんのざぞ、おかげは其の心通りに与へてあるでないか。下の神が上の神の名をかたりて来ることあるぞ、それが見分けられん様では取違ひとなるぞ、十人位は神示がそらで云へる人をつくっておかねばならんぞ。』(海の巻 第八帖)

『御神示通りにすれば、神の云ふ事聞けば、神が守るから人民の目からは危ない様に見へるなれど、やがては結構になるのざぞ、疑ふから途中からガラリと変るのざぞ。折角 縁ありて来た人民ぢゃ、神はおかげやりたくてうづうづざぞ、手を出せばすぐとれるのに何故手を出さんのぢゃ、大き器持ちて来んのぢゃ。神示聞きて居ると身魂太るぞ、身魂磨けるぞ。下に居て働けよ、下で土台となれよ。此処は始めて来た人には見当とれん様になってゐるのぢゃ、人の悪口 此の方 聞きとうないぞ、まして神の悪口。』(青葉の巻 第十二帖)

『一升桝には一升しか入らぬと臣民思ふてゐるが、豆一升入れて粟(あわ)入れる事出来るのざぞ。その上に水ならばまだはいるのざぞ。神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが。江戸の仕組 世の終わりぞ。天おろがめよ。つちおろがめよ。まつはれよ。秋の空グレンと申してあろがな。冬も春も夏も気つけてくれよ。』(日月の巻 第二十三帖)

『この方 悪神、祟神(たたりがみ)と人民に云はれてトコトン落されてゐた神であるぞ、云はれるには云はれるだけの事もあるのぢゃ、此の方さへ改心いたしたのであるぞ、改心のおかげで此の度の御用の立役者となったのぢゃぞ、誰によらん改心致されよ。改心とは まつろふ事ぞ、中行くことぞ、判りたか。今度は十人並のおかげ位では誠の信心とは申されんぞ、千人万人のおかげを取りて下されよ、千人力与へると申してあろが、大事な御先祖様の血統を皆世に落して了ふて無きものにして了ふて、途中からの代へ身魂を、渡りて来た身魂を、まぜこぜの世と致して、今の有様は何事ぞ、まだ判らんのかなあ、人民もぐれんぞ。』(海の巻 第十帖)

また気候も平均化してくる、ともある。

下記参照。

『三鏡 水鏡 [214]ラヂオは気候を調節する』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示参照。

『石物いふ時来るぞ、草物いふ時来るぞ。北おがめよ、北光るぞ、北よくなるぞ、夕方よくなるぞ、暑さ寒さ、やはらかくなるぞ、五六七(みろく)の世となるぞ。慌てずに急いで呉れよ。神々様みなの産土(うぶすな)様 総活動でござるぞ、神々様まつりて呉れよ、人々様まつりて呉れよ、御礼申して呉れよ。』(天つ巻 第二十七帖)

なので「枡に組み」をそのように解釈すると、「枡に組み下土」は平坦化された地上世界になる、ということになるが、しかしこれは当然共産主義的な画一的な世界ではなく、身魂の色によってそれぞれの小天国があり、その小天国が一つにまとまって大天国が形成されている、という姿になるということだ。

日月神示参照。

『神第一とすれば神となり、悪魔第一とすれば悪魔となるぞ。何事も神第一結構。カイの言霊(かへし)キざぞ。キが元ぞと知らしてあろが、カイの御用にかかりてくれよ。何と云ふ結構なことであったかと、始めは苦しいなれど、皆が喜ぶ様になって来るのざぞ。先楽しみに苦しめよ。ぎゅうぎゅうと、しめつけて目の玉がとび出る事あるのざぞ、そこまでに曇りて居るのざぞ、はげしく洗濯するぞ。可愛い子、谷底に突き落さなならんかも知れんぞ、いよいよ神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、神国光り輝くぞ。日本にはまだまだ何事あるか判らんぞ。早く一人でも多く知らしてやれよ。タマ磨けば磨いただけ先が見えすくぞ。先見える神徳与へるぞ。いくらえらい役人頑張りても今迄の事は何も役に立たんぞ。新しき光の世となるのぞ。古きもの脱ぎすてよ、と申してあろがな。まこと心になりたならば自分でも判らん程の結構出て来るぞ。手柄立てさすぞ。いくら我張りても我では通らんぞ。我折りて素直になりて下されよ、これでよいと云ふことないぞ。いくらつとめても、これでよいと云ふことはないのざぞ。神の一厘のしぐみわかりたら世界一列一平になるぞ。ますかけひいて、世界の臣民、人民 勇みに勇むぞ。勇む事 此の方 嬉しきぞ。富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心 我れよしぞ。何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。悪き待つキは悪魔のキざぞ。結構が結構生むのざぞ。』(水の巻 第十一帖)

『みろくの世となれば世界の国々がそれぞれ独立の、独自のものとなるのであるぞ。ぢゃが皆それぞれの国は一つのへそで、大き一つのへそにつながってゐるのであるぞ。地上天国は一国であり、一家であるが、それぞれの、又自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、人間のあさはかな考へ方ぞ。考へ違ひぞ。この根本を直さねばならん。霊界の通りになるのぢゃ。』(秋の巻 第九帖)

『統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。それぞれのものは皆それぞれであって一点のヽでくくる所に統一あるぞ。くくると申してしばるのでないぞ。磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。悪平等は悪平等。一色であってはならんのう。下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。幾度も幾度も上下にひっくりかへり、又ひっくりかへりビックリぢゃ。ビックリこねまわしぢゃ。』(秋の巻 第十六帖)

『判らんことは神示にきくがよいぞ。遠慮いらん。そなたは一足飛びに二階に上がりたい気持がぬけない。何事も一段ずつ、一歩づつ進まねばならん。それより他に進み方はないのぢゃぞ。先づそなたの中にゐるけだものを言向け合さねばならんぞ。よく話し、教へ、導かねばならん。けものを人間と同じにしようとしてはならん。けものはけものとして導かねばならん。金は金。鉛は鉛ぞ。鉛を金にしようとしてはならん。鉛は鉛として磨かねばならんぞ。浄化とはそのこと。世は七度の大変り、いよいよの段階に入ったら、何が何だか、われよしの人民にはいよいよ判らなくなり、あせればあせる程ふかみに落ち込むぞ。心の窓を大きくひらいて、小さい我の慾をすてると、遠くが見えてくるのぢゃ。見えたら先づ自分の周囲に知らせねばならん。知らすことによって次の道がひらけてくるのぢゃ。自分だけではうれしうれしとならん。うれしくないものは弥栄しないぞ。冬になったら冬ごもりぞ。死ぬ時には死ぬのが弥栄ぞ。遊ぶ時は遊ぶがよいぞ。コト=言(光透)と、時と、その順序さへ心得て御座れば、何をしても、何を話しても、何を考へてもよいのぢゃ。』(月光の巻 第四十帖)

『天(あま)さかり地(くに)さかります御代となるぞ、臣民の心の中にいけおいた花火 愈々ひらくとききたぞ、赤い花火もあるぞ、青いのもあるぞ、黄なのもあるぞ、それぞれのミタマによりて、その色ちがふのざぞ、ミタマ通りの色出るのざぞ。金は金ぞ、鉄は鉄ぞ、鉛は鉛として磨いてくれよ、金のまねするでないぞ。地つちの軸 動くぞ、フニャフニャ腰がコンニャク腰になりて どうにもこうにもならんことになるぞ、其の時この神示、心棒に入れてくれよ、百人に一人位は何とか役に立つぞ、あとはコンニャクのお化けざぞ。』(磐戸の巻 第五帖)

『世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ。天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ。道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ、終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ、その光によりて その御役、位、分るのざから、みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ。』(地つ巻 第十一帖)

ししかくこ いあてしほちの
  みかふるふ かみのちほして あいこくかしし

(時々覚悟 射当てし発霊の 身が震ふ 神の地歩して 愛国が志士)

解説

時々(じじ)は「その時その時。」「折にふれて。しばしば。」、射当てるは「矢を射て命中させる。」「ねらったものを自分のものにする。」、歩す(ほす)は「あるく。あゆむ。」、愛国は「自分の国を愛すること。」、志士は「高い志を持った人。国家・社会のために献身しようとする人。」の意味です。

余談

この歌は、下記大本文献を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『出口王仁三郎全集 第一巻 皇道編 第四篇 日本精神の真髄 第七章 至聖殿落成所感』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

 

下記参照。

『憂国の志士と愛国の志士』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


大本神諭参照。

『大本神諭 大正4年旧7月12日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示参照。

『今は善の神が善の力弱いから善の臣民苦しんでゐるが、今しばらくの辛抱ぞ、悪神総がかりで善の肉体に取りかからうとしてゐるから よほどフンドシしめてかからんと負けるぞ。親や子に悪の神かかりて苦しい立場にして悪の思ふ通りにする仕組立ててゐるから気をつけて呉れよ。神の、も一つ上の神の世の、も一つ上の神の世の、も一つ上の神の世は戦済んでゐるぞ、三四五(みよいづ)から五六七(みろく)の世になれば天地光りて何もかも見えすくぞ。八月のこと、八月の世界のこと、よく気つけて置いて呉れよ、いよいよ世が迫りて来ると、やり直し出来んと申してあろがな。いつも剣の下にゐる気持で心ひき締めて居りて呉れよ、臣民 口でたべる物ばかりで生きてゐるのではないぞ。』(富士の巻 第六帖)

ひとつみの ししのとものひ
  すめかみか めすひのもとの ししのみつとひ

(一つ身の 自死の友の美 皇神が 召す日の本の 志士のみ集ひ)

解説

自死(じし)は「自分で自分の生命を絶つこと。自害。自殺。」、皇神(すめがみ)は「神を敬っていう語。すべかみ。」「皇室の祖先である神。皇祖の神。すべかみ。」、召すは「‘統治する’の尊敬語。お治めになる。」、日の本(ひのもと)は「‘日の本の国’の略。日本。」、志士(しし)は「高い志を持った人。また、国家、社会のため自分の身を犠牲にして力をつくそうとする人。国士。」、集う(つどう/つどふ)は「ある目的をもって集まる。会合などのために集まる。寄り合う。集合する。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画を拝見して、それをモチーフに書いた歌です。

『【三島由紀夫生誕百年のつどいの裏側】~三島由紀夫の遺した自決55年後の予言とは』(「執行草舟チャンネル【公式】」より)

 

なかきしみ そのはきみのり
  かひなはな ひかりのみきは のそみしきかな

(永き滋味 園は木実り 佳美な花 光の水際 望み至貴かな)

解説

滋味(じみ)は「うまい味わい。また、栄養になる、うまい食べ物。」「(比喩的に) 物事に感じられる豊かな深い味わいなど。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、水際(みぎわ/みぎは)は「海・湖などの水の、陸地と接している所。みずぎわ。なぎさ。」、望みは「ながめ。眺望。」、至貴(しき)は「この上もなく尊いこと。ひじょうに高貴であること。」の意味です。

余談

この歌は、下記音楽動画を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『J.S. バッハ: 管弦楽組曲第3番 BWV 1068 - G線上のアリア/J.S. Bach: Overture (Suite) No. 3 in D Major, BWV 1068 - Air』(「naxos japan」より)


雑感

イメージとしては、聖書にあるエデンの園とか新天新地みたいな感じです。

下記参照。

『ヨハネの黙示録 第21章』(「WordProject」より)


『ヨハネの黙示録 第22章』(「WordProject」より)

 

『新天新地』(「wikipedia」より)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%A4%A9%E6%96%B0%E5%9C%B0

 

『新しいエルサレム』(「wikipedia」より)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0

 

かむなから かたなはのこし
  まいのちの いましこのはな たからかなむか

(惟神 刀は残し 真命の 今し木の花 高らかな無我)

解説

惟神(かむながら)は「神そのものとして。」「神のお心のままに。」、真(ま)は「(名詞・形容詞・形容動詞などに付いて) 純粋である、まじりけがない、などの意を表す。」、今し(いまし)は「今という今。たった今。ちょうど今。」、木の花(このはな)は「木に咲く花。特に、桜の花や梅の花。」、高らかは「いかにも高いさま。高々としたさま。」、無我は「我欲・私心のないこと。無心であること。また、そのさま。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画を拝見して、それをモチーフに書いた歌です。

『【『葉隠入門』誕生の裏側】』(「執行草舟チャンネル【公式】」より)

 

しらゆきに きとうせこきし
  さひしきし ひさしきこせう ときにきゆらし

(白雪に きと失せこきし 寂しき死 久しき湖沼 時に消ゆらし)

解説

きとは「特に意図せずにある動作をするさま。思わず。ふと。」、こきしは「数量の多いさま。たくさん。」、久しいは「時が長くたっている。また、行く末長い。永遠である。」、湖沼(こしょう/こせう)は「みずうみとぬま。陸地に囲まれたくぼ地にできる静止した水塊。湖沼学では、深くて沿岸植物の侵入しないものを湖、浅くて沈水植物の生育するものを沼という。」、らしは「推定を表す助動詞。~らしい。きっと~しているだろう。~にちがいない。▽現在の事態について、根拠に基づいて推定する。」の意味です。

余談

この歌は、下記音楽動画を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『ラフマニノフ: ヴォカリーズ(管弦楽編)[ナクソス・クラシック・キュレーション #切ない]』(「naxos japan」より)

 

いかりのひ のそみかのすゑ
  つかひよひ かつゑすのかみ そのひのりかい

(怒りの日 臨み彼の末 使ひ呼び 飢ゑ主の神 其の火の理解)

解説

臨むは「ある事態が起こるようなところに身を置く。そういう時に当たる。出あう。直面する。」、彼の(かの)は「話し手と聞き手双方の既知の事物をさす。あの。例の。」「前に述べた事物をさす。あの。その。」、末(すえ/すゑ)は「ある期間の終わり。おわり。末期。」、使い(つかい/つかひ)は「神仏に仕え、その命令などを伝えるという動物。つかわしめ。また、天使。」、飢える(かつえる/かつゑる)は「食べ物が無くて苦しむ。腹がひどく減ってひもじくなる。」の意味です。

余談

この歌は、「EVANGELION:DEATH」の中にある「Dies irae[REQUIEM]」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「怒りの日(Dies irae)」は、いわゆる聖書における「最後の審判」を指す。

下記参照。

『怒りの日』(「wikipedia」より)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%92%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%97%A5


歌の内容としては、期せずして最後の審判に臨んでしまい、これがあの長らく言われていた最後の審判か、と畏怖すると同時に、その事態に直面した末には、どうか私をお救い下さいお救い下さい、と天使の名や主の名を呼びながら天国に入ることを渇望するのだが、主の神が起こす最後の審判、火の審判は完全に厳格であることを否応なしに理解させられ、自身の身勝手な甘えは許されないことを悟ってしまう、というもの。

下記参照。

『マタイによる福音書 第24章』(「WordProject」より)


『ヨハネの黙示録 第20章』(「WordProject」より)

 

にきはさる うみくかあまた
  のひてきて ひのたまあかく みうるさはきに

(二儀は去る 海陸数多 伸びて来て 火の球明かく 見得る裁きに)

解説

二儀(にぎ)は「天地間の万物をつくり出す、陰と陽の二気。天と地。」「転じて、日と月を指す。」、陸(くが)は「陸地。りく。くぬが。」、数多(あまた)は「数量の多いさま。たくさん。多く。名詞的にも用いる。」「程度のはなはだしいさま。非常に。はなはだしく。」、球(たま)は「球形をなすもの。」、明かし(あかし)は「光などが強くはっきりしている状態である。明るい。」の意味です。

余談

この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「最先(いやさき)と最後(いやはて) -Orchestra Version-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

何か出て来た歌です。

天から火が降って来るというビジョンがどうも頭から離れず、しょうがないのでそのビジョンをもとにして作ったものです。

歌の内容としては、天から無数の火球がすさまじい勢いで降って来るという、最後の審判的な光景を描いている。

はっきり言って、開いた口がふさがらずにポカンとするしかない状況。

天から無数の火球が降って来るというのはある意味そこに、この世のものとは思えない美しさとダイナミックさを感じられるものであるが、しかしそれを目撃した瞬間、本能的に自分の死を悟って、思わず「ああぁ、神様!!」と叫ばざるを得なくなって、究極の恐怖心と自身の懺悔(ざんげ)の心が瞬時にして湧き上がって来る、という感じになるかと思う。

このように、およそ現実的とは思えないその光景を見てポカンとなりつつも、一方でこれまでの経験則から、こうなってはもはや時すでに遅しの状況であることも同時に自覚していて、それらの狭間で揺れ動く心は、少しでもストレスにならないようにと、その光景に対しては妙に浮いた世界観を感じつつ、あくまで非現実的な事象と捉えるようにして、実際には何もできないでいる、といった感じになるかと思う。

長い尾を伸ばした無数の火球が空から落ちて来る様は、ある意味圧巻としか言いようのない光景であり、その余りの壮大さに神の裁きとも捉えられるぐらいかと思う。

……というか実際にそうなったら、そのあまりのスケールのでかさに、気絶してるかもしれん。(汗)

てるますみ きよきしんこん
  ほにしめし にほんこんしき よきみすまるて

(照る真澄 清き神魂 穂に示し 日本金色 良き御統で)

解説

真澄は「よく澄んで明らかなこと。澄みきっていること。また、そのさま。まそい。まそみ。」、神魂(しんこん)は「心と魂。精神。こころ。たましい。」、穂(ほ)は「稲・麦やススキなどの花序。長い茎の先に花や実が群がりついたもの。特に、稲のものをいう。」、金色(こんじき)は「黄金の色。きんいろ。」、御統(みすまる)は「多くの玉を一本の糸に貫いて環状にしたもの。上代、首または腕にまいて飾りとした。みすまろ。」の意味です。

余談

何か、ふと出て来た歌です。

雑感

霊界物語に「真澄の珠(ますみのたま)」というのが出て来るが、下記箇所によると、国常立尊が沓島に渡って永遠に収めた、とある。

『霊界物語 第1巻 第4篇 竜宮占領戦 第35章 一輪の秘密』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


ちなみに大本では、沓島は国祖である国常立尊が隠退された場所とされている。

『冠島沓島 (おしまめしま)』(「オニペディア」より)


一方日月神示では、黄金色に光った姿は、国常立大神のある活動の時の御姿、とあり、別の箇所では、日本の国土はこの方(国常立大神)の肉体、ともある。

日月神示参照。

『人民もの言へんことになると申してありたこと近うなったぞ、手も足も出んこと近づいたぞ、神が致すのでない、人民自身で致すこと判りてくるぞ。人民の学や智では何とも判断出来んことになるぞ。右往左往しても、世界中かけ廻っても何もならんぞ、判らんでも判りた顔せねばならん時が来たぞ、ウソの上ぬり御苦労ぞ、人民がいよいよお手上げと言うことに、世界が行き詰りて神のハタラキが現れるのであるぞ、日本人びっくりぢゃ、日本人はいくらでも生み出されるが日本の国は出来まいがな、身体中、黄金(こがね)に光ってゐるのが国常立大神の、ある活動の時の御姿ぞ、白金(しろがね)は豊雲野大神であるぞ、今の科学では判らん。一万年や三万年の人間の地上的学では判らんこと、国常立大神のこの世の肉体の影が日本列島であるぞ、判らんことがいよいよ判らんことになったであろうが、元の元の元の神の申すことよく聞きわけなされよ、神の学でなければ今度の岩戸はひらけんぞ。』(星座の巻 第四帖)

『日本の国はこの方の肉体であるぞ。国土おろがめと申してあらうがな、日本は国が小さいから一握りに握りつぶして喰ふ積りで攻めて来てゐるなれど、この小さい国が、のどにつかえて何うにも苦しくて勘忍して呉れといふやうに、とことんの時になりたら改心せねばならんことになるのぞ。外国人もみな神の子ざから、一人残らずに助けたいのがこの方の願ひと申してあらうがな、今に日本の国の光出るぞ、その時になりて改心出来て居らぬと臣民は苦しくて日本のお土の上に居れんやうになるのぞ、南の島に埋めてある宝を御用に使ふ時近づいたぞ。お土の上り下りある時近づいたぞ。人の手柄で栄耀してゐる臣民、もはや借銭済(な)しの時となりたのぞ、改心第一ぞ。世界に変りたことは皆この方の仕組のふしぶしざから、身魂みがいたら分るから、早う身魂みがいて下されよ。身魂みがくにはまつりせねばならんぞ、まつりはまつらふことぞと申して説いてきかすと、神祭りはしないでゐる臣民居るが、神祭り元ぞ、神迎えねばならんぞ、とりちがへと天狗が一番恐いのざぞ、千匁(せんじん)の谷へポンと落ちるぞ。神の規則は恐いぞ、隠し立ては出来んぞ、何もかも帳面にしるしてあるのざぞ、神の国に借銭ある臣民はどんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ、家は家の、国は国の借銭済(な)しがはじまってゐるのぞ、済(す)ましたら気楽な世になるのぞ、世界の大晦日(おおみそか)ぞ、みそかは闇ときまってゐるであらうがな。借銭(かり)返すときつらいなれど、返したあとの晴れた気持よいであらうが、昔からの借銭ざから、素直に苦しみこらへて神の申すこと、さすことに従って、日本は日本のやり方に返して呉れよ、番頭どの、下にゐる臣民どの、国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いて呉れよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな、九十に気つけて用意して呉れよ。』(地つ巻 第三十五帖)

また「穂」はちょっとよくわからないが、稲成り(いねなり)の転訛とされる稲荷(いなり)を連想させられる。

そういえば「稲荷大神秘文(いなりおおかみひもん)」というのがあるらしいが、そこにも国常立尊の名前が出て来る。

また下記ブログでは、米や麦の刈り入れの話が出て来る。また記事には、聖書で有名な「毒麦のたとえ」に関連した話も出て来る。

下記参照。

『霊学№62 天国は金銀財宝で輝いている?。天国住人の心が宝石の如く輝いているのが【分かちの国】』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


『毒麦のたとえ』(「wikipedia」より)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%92%E9%BA%A6%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88


わかりやすくいうと、収穫(世界の終末/最後の審判)の時期が来て、それぞれ「米」「麦」「芋」に準(なぞら)えられた、「第一天国(米)」「第二天国(麦)」「第三天国(芋)」に入る人々が確定される、ということ。

下記参照。

『みろく神の「芋」の教え。最後の審判【火の雨】が降り注ぐ時、どこに逃げるか?。』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


ということで色々と話は脱線してしまったが、この歌は国常立尊様が表に出て来る歌のように感じる。

 

最後に補足しておくと、正真正銘の国常立尊様が表に出て来れば、当然今の世は瞬時に終わって、表に出て来たその時点でミロクの世になっているであろうことは言うまでもない。

 

ちなみに下記ブログでは、大本に現れた国常立尊様は七合目とも書かれている。つまり(正真正銘の100%の力を発揮する)十合目の国常立尊様はまだ出て来ていない、ということになる。

『霊学№57 何故に創造神は悪を許して来たのか?。悪から改心した者は善人の行いを上回る』(「人に内在する良心神(神言会)」より)