ちのきうに うちうせんてる
  たいへんへ いたるてんせう ちうにうきのち

(地の球に 宇宙船出る 大変へ 至る纏繞 宙に浮き後)

解説

球(きゅう/きう)は「丸いもの。たま。」、大変は「重大な事件。大変事。一大事。」、至るは「ある段階・状態になる。結果が…となる。」、纏繞(てんじょう/てんぜう)は「まといつくこと。からまりつくこと。また、巻きつけること。」、宙(ちゅう/ちう)は「そら。大空。また、地面から離れた所。空中。」の意味です。

『Chaos』(「Sakuzyo Official」より)


雑感

ふと出て来た歌です。

何か突拍子もない歌が出て来てしまったが、出て来たものはしょうがないので、載せることにしました。

イメージとしては、地球のどこかで、小さい町を覆うぐらいのそこそこデカい宇宙船(UFO)が宙に浮いているのを目撃されて、人類史上初の大事件となるのだが、人々が騒ぎ出してパニックに陥る矢先に、気が付けば地球を全て取り囲むようにして、何百万機というUFOが何重にも層をなしながら出現している、というもの。

その状況に直面した人類は、全くもって口をポカンと開けざるを得ない状態で、何もかもお手上げ状態、といった感じ。

なかくつに きつきこたひの
  こかねふね かこのひたこき つきにつくかな

(長く津に 来着き此度の 黄金船 水夫の直漕ぎ 着きに着くかな)

解説

津(つ)は「船が停泊する所。また、渡船場。ふなつき場。港。」、来着く(きつく)は「到着する。」、此度(こたび)は「このたび。今度。今回。こたみ。」、水夫(かこ)は「舟をこぐ人。また、船乗り。船頭。」、直(ひた)は「動詞や動詞の連用形名詞の上に付いて、いちずに、ひたすら、の意を表す。」、には「(動詞・形容詞を重ねて)強意を表す。‘騒ぎに騒ぐ’など。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

下記参照。

『鹿島みろく』(「鹿島デジタル博物館」より)

 

はやみのす すいいかせのり
  かひのまの ひかりのせかい いすすのみやは

(速水の素 推移風乗り 佳美の間の 光の世界 五十鈴の宮は)

解説

速水(はやみ)は「流れの速い水。勢いよく流れる水。はやみず。」、素(す)は「他の要素がつけ加わらない、ありのままのさまをいう。そのままであること。他の語と複合して、‘素肌’‘素手’‘素足’‘素顔’‘素焼’などと用いることもある。」、推移(すいい)は「時が経過してゆくこと。」「時がたつにつれて、物事の状態が変わってゆくこと。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、五十鈴の宮(いすずのみや)は「伊勢の皇大神宮(内宮)の別称。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Forest Funk』(「Sakuzyo Official」より)


雑感

なんかこの歌は「地水火風」の四台元素が織り込まれてる感じがする。

・五十鈴の宮(地)
・速水(水)
・光の世界(火)
・風乗り(風)

昨日、空(そら)を何分(なんぷん)か見ていたら、空と自分が同化しちゃって、自分がさっぱり無くなるような感覚になった。

要は「地水火風」というのは、仏教用語で色(しき)、つまり物質の構成要素のことを指すわけだが、通常はそれによって自分の感覚や思いが動かされているわけである。

たとえば、目の前の美味しそうなお菓子を見ると何気にそのお菓子を食べたくなったり、嫌な虫を見ると何か嫌な気分になったりするなど、何かを見た時に、自分の中でそのような何かしらの意識が湧き上がって来るわけだが、空(そら)をじっと見ているとそれが起こってこなかった、ということ。

そして空(そら)を見た時の、自分と世界とが同化した感覚のまま、自分の部屋とか、外の風景とかの「地水火風」の世界を見ていると、まるで絶えず水が流れて行くような感じとか、どこから現れたかわからない風が吹いたかと思うと、それがどこかに消えて行くといった感じとか、ろうそくの火が揺らめているような感じとか、一切変化していないかのように見える大地も長い時間のベクトルで見ればやっぱり変化していく感じとか、一種の「絶えず流れて行く現象」、つまり仏教的に言うと「諸行無常」を感じたということ。

また日月神示に中今は「ヽ今」という記述があったが、そんな感じ。

日月神示参照。

『中今(ナカイマ)と申すことは、ヽ今と申すこと。ヽは無であるぞ。動きなき動きであるぞ。そのことよくわきまへよ。今迄のこと、やり方かえねばならん。一段も二段も三段も上の広い深い、ゆとりのあるやり方に、神のやり方に、規則のない世に、考へ方、やり方、結構であるぞ。』(秋の巻 第十九帖)

空(そら)と同化した空っぽの意識がヽ(無)それ自体になって、ヽ今の視点から地水火風(森羅万象)の世界が瞬間瞬間現れて来る現象として見ている、といった感じ。

それは自分自身の肉体や自分自身の一挙一動や、自分の心の中から浮かんで来る思考にまで及ぶ。そうやって「私」と「森羅万象」の区切りもなくなって、全てがただの流れ行く「現象」の連続になってしまう。

そうやって自分が無くなるのだ。

日月神示参照。

『食物は科学的栄養のみに囚われてはならん。霊の栄養大切。 自分と自分と和合せよと申してあるが、肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。更に、又奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ。 高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。 山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。』(月光の巻 第二十五帖)

『そなたは何時もあれもよいらしい、これもよいようだと迷って、迷ひの世界をうみ出し、自分で自分を苦しめて、気の毒よなあ。これと一応信じたらまかせきれよ。梶をはなして鳴門の渦の中にまかせきれよ。まかせきるとひらけてくるのぢゃ。悟れたようでゐて、そなたが悟り切れんのはまかせきらんからぞ。 そなたはいつも孤独、そなたの不運は孤独からぢゃ。友をつくりなさい、友つくることは己をつくることと申してあろうが。友つくることは新しき世界をつくることぞ。一人の世界は知れたものぞ。一人ではマコトの道を生きては行かれんぞ。友と申しても人間ばかりではないぞ。山も友、川も友、動物も植物も皆友ぞ。大地も大空も皆友となるぞ。何も彼も皆友ぢゃ、皆己ぢゃ。皆々己となれば己はなくなるぞ。己なくなれば永遠に生命する無限の己となるのぢゃ。御神前で拝むばかりでは狭いぞ。野菜拝めば野菜が、魚拝めば魚が己となるのぢゃ。拝むことは和すこと。和すことが友つくる秘訣ぞ。友を己とすることは、己を友とすることぢゃ。友にささげることぢゃ。親は子にささげるからこそ、子が親となるのぢゃ。判りたか。赤ん坊のお尻をふいてやることもあるであろうがな。そなたが赤ん坊と同じであったら出来ない芸当ぞ。お尻を出すものがあっても、決して怒ってはならん。子のお尻と思って きれいにふいてやれよと申してあろうが。お尻を持ち込まれるのは、持ち込まれるだけのわけがあるからぞ。利子は後から支払えばよいと、そなたは思ってゐるが、先に支払ふこともあるのであるぞ。先にお尻をふかねばならんことも、世が迫ってくると出てくるのぢゃ。その代り、後では神がそなたのお尻をきれいにふいて下さるぞ。ぶつぶつ申さずに勇んでやって下されよ。 そなたは他にものを与えることに心せねばならんぞ。与えることは頂くことになるのであるから、与えさしてもらう感謝の心がなければならんぞ。強く押すと強く、弱く押すと弱くはねかえってくること、よく知って居ろうがな。自分のものと云ふものは何一つないこと、よく判って居る筈ぢゃ。』(月光の巻 第五十六帖)

『人民には分別与へてあるから反省できるのであるぞ。反省あるから進展するのであるぞ。ほっておいても、いらんものは無くなり、いるものは栄へるのであるが、人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが。慾、浄化して喜びとせよ。喜び何からでも生れるぞ。広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ。よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。ふところ手でいては出来ん。手出せ、足出せよ。』(春の巻 第九帖)

下記参照。

『「4次元としての奥行き——存在論的差異の在処について」 研究動画シリーズ#026(半田)#武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所【字幕付き】』(「武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所」より)


この動画の哲学の話は難しすぎてふんわりとしか解らないが、「純粋過去」という単語は昔感じた感覚に似ているかもしれない。

下記参照。

 

 

とくとほく おきせいかんか
  うくるまる くうかんかいせ きおくほとくと

(疾く遠く 起き静閑が 受くる円 空間皆是 記憶解くと)

解説

疾く(とく)は「時間的経過が早いさま。速やかに。急いで。早速。即刻。とっく。とう。」「時間的にさかのぼった時点で。ずっと以前に。」、静閑(せいかん)は「ひっそりともの静かなこと。また、そのさま。閑静。」、円(まる)は「まるい形。円形。また、球形。」、皆是(かいぜ)は「みな。すべて。全部。」、解く(ほどく)は「結んだもの、結ったもの、縫ったものなどをときわける。ときはなつ。はなつ。とく。」「疑問をとく。理解する。思いほどく。」の意味です。

余談

この歌は、ゲーム「luv wave」の中にある「stream memory」(ブート画面でのBGM)を聴きながら、それをモチーフに描いた歌です。

雑感

ふと感じた何かの微妙な感覚をそのまま言語化してみたので、結局の所、この歌がどういう意味なのか、ちょっとわからない。(汗)

言ってみれば、自分のこれまでの記憶を自分の物とせず、何か集合的な意識の空間に漂っている、いちデータとして見た時の感覚といった感じ。

つまり、何かを思い出す時は、その何かをした時の場面を思い出すと思うのだが、その思い出す‘場面’を自分の記憶として見るのではなくて、空間そのものの記憶として見る、感じる、ということ。

たとえば、子供の頃に自分が初めて行った遊園地を思い出すのだとしたら、その記憶を自分の記憶として見るのではなくて、何か集合的な意識の空間上にある、当時のその空間が記憶している場面を見る、ということ。

そのように感じることで、その‘記憶’が、自分の物という枠組みから解かれるわけだが、その枠組みを解くことによって、自分という存在が、その思い出した過去の空間上に溶けてゆき、その延長線上として、今ここに存在している自分の意識も、目の前の静閑なる空間上に溶けていくような、そんな感じ。

ゲームの内容と絡めて言えば、世界中のネットワークが全て切れた時……ゲーム内の言葉で言えば「XINN現象」が発生した時に、その世界中のネットワークに接続していたアンドロイドであるアリスが、その時感じた感覚を表現しているのだと思う。

下記参照。

『Luv wave ラブ・ウェーヴ [C's Ware] playthrough Part 8 Sending Yuri away』(「kivandopulus」さん) ※動画17:15~

 

ちうのかの ほしのきおくと
  いたりけり たいとくおきの しほのかのうち

(宙の彼の 星の記憶と 至りけり 体得沖の 潮の香の内)

解説

宙(ちゅう/ちう)は「そら。大空。また、地面から離れた所。空中。」、彼(か)は「遠称の指示代名詞。話し手や聞き手からともに離れた物や人をさし示す。かれ。あれ。」、体得(たいとく)は「体験を通して知ること。理解して自分のものにすること。」、潮(しお/しほ)は「海水。また、潮流。海流。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画音楽を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『Fancy Fancy (feat. Katali)』(「Sakuzyo Official」より)


雑感

なんか、ふと出て来た歌です。

雰囲気の歌だけど、星の記憶と至って、潮の香とあるので、何となく生命の根源に帰ったっぽい感じがする。

地球の生命の起源は地球外から来たとする「パンスペルミア説」も何となく連想させられる。

仏教的に言うと、もはや‘私’として感覚するのではなくて、ただの‘素粒子’として感覚するような、そんな感じ。

なので、自分の記憶もまた宇宙の中の一粒の記憶に過ぎず、自分の体験はまた永遠に変化しながら続いていく神の体験の刹那でもあるような、そんな感じがするが、うまく言葉にできん。

だから、流れて行く時間に伴って持続していく‘私’がここに存在しているのではなくて、たとえば、ふとした場面で潮の香りを嗅いだ時の、その刹那の体験こそが‘神の体験’そのものであり、そしてその体験が次の瞬間‘宇宙の記憶’として流れて行き、この永遠に変化していく大宇宙の中で結晶化されていくような、そんな感じ。

 

簡潔に言うならば、宇宙の記憶と神としての体験で「宇憶神験(うおくしんけん)」と表現したいところ。

下記参照。

『D語録 〜6.感謝、笑顔、良かった良かった〜』(「旦那の部屋」さん)

 

むねさえわたり ひのみやを
よろつうふこゑ もれおちぬ
ゆにはなほあけ まゐるそと
すへてきらめく しんせかい

胸冴え渡り 日の宮を
万産声 漏れ落ちぬ
斎庭尚明け 参る外
全て煌めく 新世界

解説

胸は「こころ。思い。心の中。」、冴え渡るは「光や音などが一面に澄みきる。隅々まで澄みとおる。」「頭の働きやからだの調子などがひときわはっきりする。」、日の宮は「天上にあって、天照大神のいます宮。また、その子孫である天皇がお住みになっている御殿。」、万(よろず/よろづ)は「すべてのこと。万事。副詞的にも用いる。」、産声(うぶごえ/うぶごゑ)は「赤ん坊が生まれたとき、最初にあげる泣き声。」「事が新しく現れること。」、斎庭(ゆにわ/ゆには)は「神をまつるためにはらい清めた所。祭の庭。斎場。」、尚(なお/なほ)は「ある状態や他のものに比べていっそう程度が増すさまを表わす。ますます。いちだんと。もっと。ずっと。さらに。」、明けるは「夜が終わって朝になる。明るくなる。」、参る(まいる/まゐる)は「(神社・寺院などに)お参りに行く。お参りする。参詣(さんけい)する。」「参ります。▽‘行く’‘来(く)’の丁寧語。」、煌めくは「きらきらと光り輝く。美しく光り輝く。」、新世界は「新しく生活したり活動したりする場所。新天地。」の意味です。

余談

この歌は、下記記事(序章・言葉とは?~編集後記まで)を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『神言会の記事』(「神言会」より)

 

雑感

大本神諭参照。

『大本神諭 明治36年旧6月4日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示参照。

『神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になるのぞ。悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ、ばくち、しょうぎは無く致すぞ。雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきやうに吹かしてやるぞ、神をたたえる声が天地にみちみちて うれしうれしの世となるのざぞ。』(天つ巻 第二十帖)

『世が変りたら天地光り人も光り草も光り、石も物ごころに歌ふぞ、雨もほしい時に降り、風もほしい時に吹くと雨の神、風の神 申して居られるぞ。今の世では雨風を臣民がワヤにしているぞ、降っても降れず、吹いても吹かん様になりてゐるのが分らんか。盲つんぼの世の中ぞ。神のゐる場所塞いで居りて お蔭ないと不足申すが、分らんと申しても余りであるぞ。神ばかりでもならず、臣民ばかりではなおならず、臣民は神の入れものと申してあろが、あめのひつくの民と申すのは、世界治めるみたまの入れもののことぞ、民草とは一人をまもる入れものぞ、ひつくの臣民は神がとことん試しに試すのざから、可哀そうなれど我慢して呉れよ、その代り御用つとめて呉れたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ。何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな、今に上、下になるぞ、逆立ちがおん返りて、元のよき楽の姿になるのが近づいたぞ、逆立ち苦しかろがな、改心した者から楽にしてやるぞ、御用に使ふぞ。』(下つ巻 第三十七帖)

『学出すから、我出すから行き詰るのぞ。生れ赤児と申すのは学も我も出さん水晶のことぞ。ねり直して澄んだ水晶結構。親の心判ったら手伝ひせねばならん。云はれんさきにするものぢゃと申してあらうが。いつ迄も小便かけてゐてはならんぞ。人間は罪の子でないぞ。喜びの子ぞ。神の子ぞ。神の子なればこそ悔い改めねばならんぞ。真なき愛の道、悲しみの喜びからも生れることあるぞ。それは罪の子と申すのであるぞ。』(黒鉄の巻 第十一帖)

『天地ひっくり返ると云ふことはミタマがひっくり返ると云ふことぞ。神示読みて聞かせよ、目も鼻も開けておられん事が、建替への真最中になると出て来るぞ、信仰の人と、無信仰の人と、愈々立分けの時ぢゃぞ、マコト一つで生神に仕へ奉(まつ)れよ。』(海の巻 第十七帖)

『日の出の神様お出ましぞ、日の出はイであるぞ、イの出であるぞ、キの出であるぞ、判りたか。めんめめんめに心改めよと申してあろがな、人民と云ふ者は人に云はれては腹の立つ事あるものぢゃ、腹立つと邪気起るから めんめめんめに改めよと、くどう申すのぢゃぞ、智や学ではどうにもならんと云ふ事よく判りておりながら、未だ智や学でやる積り、神の国の事する積りでゐるのか。判らんと申して余りでないか、何事も判った臣民 口に出さずに肚に鎮めておけよ、言ふてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのざ、神が申さすから心配ないぞ、それまでは気(ケ)も出すなよ。二十二日の夜に実地が見せてあろうがな、一所だけ清いけがれん所残しておかな足場なく、こうなってはならんぞ、カタ出さねばならんぞ、神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代の止(とど)めの建替であるから、よう腰抜かさん様 見て御座れ、長くかかりては一もとらず二もとらさず、国は潰れ、道は滅びてしもうから早う早うと気もない時から気つけてゐるのぢゃが、神の申すこと聞く臣民人民まだまだぞ。此の道 難しい道でないから その儘に説いて聞かしてやれよ、難し説くと判らん様になるのぞ。平とう説いてやれよ、難しいのは理屈入るのざぞ、難しい事も臣民にはあるなれど理屈となるなよ、理屈悪ざぞ。霊術も言霊(ことだま)もよいなれど程々に、三分位でよいぞ、中行かな行かれんのざぞ、銭儲けて口さへすごして行けばよい様に今の臣民まだ思ってゐるが、それは四つ足の四つの悪の守護である位 判りておろがな。悪とは他を退ける事であるぞ、まつりまつりとくどう申してあること未だ判らんのか、今 外国よいと申してゐる臣民は外国へ行っても嫌はれるぞ、外国にも住むところ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、外国とは我よしの国の事ぞ、神国は大丈夫ざが、外国や日本の国 大丈夫とは申されんぞ、と事分けて申してあろがな、日月の集団作り、境界作ってもならんがヽ入れた集団作らなならんぞ、〇も作らずヽも入らずに力出ない位 判りておろがな、馬鹿正直ならんと申してあること忘れたのか、集団のつくり方知らしてあろが、盲(めくら)には困る困る。人の苦労あてにして我が進んで苦労せん様な人民では神の気感(きかん)に適はんから、今度は苦労のかたまりの花咲くのざ、苦の花咲くのざぞ、二二に 九(コ)の花咲耶姫の神 祀りて呉れと申してあろがな、永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ。』(雨の巻 第十一帖)

『今度は世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬのであるぞ、臣民も其の通りざぞ、神の申す通りにすれば何事も思ふ通りにすらすらと進むと申してあろがな。此れからは神に逆らふものは一つも埓あかんぞ、やりてみよれ、九分九厘でぐれんざぞ。神の国は何うしても助けなならんから、神が一日一日と延ばしてゐること会得らんか。皆の者がかみを軽くしてゐるからお蔭なくなってゐるのざぞ、世の元の神でも御魂となってゐたのではまことの力出ないのざぞ。今度の経綸(しぐみ)は世の元の生き通しの神でないと間に合はんのざぞ。何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしてゐるのぞ、今の様(さま)は何事ぞ。此の方は力あり過ぎて失敗(しくじ)った神ざぞ、此の世かもう神でも我出すと失敗るのざぞ、何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ。世界かもう此の方さへ我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ。改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変るぞ。今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ。今迄は神が世に落ちて人が神になりておりたのぞ、これでは世は治まらんぞ。神が上(かみ)で、臣民、人民 下におらねばならんぞ。吾が苦労して人救ふ心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならんのざ。 十年先は、五六七(みろく)の世ざぞ、今の人間 鬼より蛇より邪見ざぞ、蛇の方が早う改心するぞ、早う改心せねば泥海にせなならんから、神は日夜の苦労ぞ。道は一つと申してあろがな、二つ三つ四つあると思ふてはならんぞ、足元から鳥立つと申してあろが、臣民 火がついてもまだ気付かずにゐるが、今に体に火ついてチリチリ舞ひせなならんことになるから、神、執念気つけておくのざぞ。三四気つけて呉れよ、神の国は神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐるのに、学や智に邪魔されてゐる臣民ばかり、早う気付かぬと今度と云ふ今度は取返しつかんぞ。見事なこと神がして見せるぞ、見事なことざぞ、人間には恐しいことざぞ、大掃除する時は棚のもの下に置く事あるのざぞ、下にあったとて見下げてはならんぞ、この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ、同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ。今度の御用外(はず)したら何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れよ、遣り損なひ出来ないことになりてゐるのざぞ。天に一柱 地に一柱 火にも焼けず水にも溺れぬ元の種隠しておいての今度の大建替ぞ、何んなことあっても人間心で心配するでないぞ、細工は隆々仕上げ見て呉れよ、此の神はめったに間違いないぞ。三千年 地に潜りての経綸で、悪の根まで調べてからの経綸であるから、人間殿 心配せずに神の申す様 素直に致して下されよ。末法の世とは地の上に大将の器(うつわ)無くなりてゐることざぞ。オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神であるぞ。北に気つけて呉れよ、神の国は結構な国で世界の真中の国であるから、悪の神が日本を取りて末代の住家とする計画でトコトンの智恵出して何んなことしても取る積りで愈々を始めてゐるのざから余程褌締めて下されよ、日本の上に立ちて居る守護神に分りかけたら ばたばたに埓あくぞ。早う改心して呉れよ。』(日の出の巻 第二十帖)

『世が引繰り返って元の神世に返るといふことは、神々様には分って居れど、世界ところどころにその事知らし告げる神柱あるなれど、最後のことは 九(こ)の神でないと分らんぞ。この方は天地をキレイに掃除して天の大神様にお目にかけねば済まぬ御役であるから、神の国の臣民は神の申す様にして、天地を掃除して てんし様に奉らなならん御役ぞ。江戸に神早う祀りて呉れよ、仕組通りにさすのであるから、臣民 我を去りて呉れよ。この方祀るのは天(あめ)のひつくの家ぞ、祀りて秋立ちたら、神いよいよ烈しく、臣民の性来(しょうらい)によって、臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ、神急けるぞ。』(下つ巻 第二十三帖)

『今度の御用は結構な御用ぞ、いくら金積んでも、因縁ない臣民にはさせんぞ。今に御用させて呉れと金持って来るが、一一神に聞いて始末せよ。汚れた金 御用にならんから、一厘も受取ることならんぞ。汚れた金 邪魔になるから、まことのもの集めるから、何も心配するなよ。心配 気の毒ぞよ。何も神がするから慾出すなよ、あと暫くぞよ、日々に分かりて来るから、素直な臣民うれしうれしで暮さすから。』(上つ巻 第三十一帖)

『世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ。天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ。道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ、終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ、その光によりて その御役、位、分るのざから、みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ。』(地つ巻 第十一帖)

『今迄は闇の世であったから、どんな悪い事しても闇に逃れる事出来てきたが闇の世はもうすみたぞ。思ひ違ふ臣民 沢山あるぞ。何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ。早ふさっぱり心入れ換へて下されよ。神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへて呉れよ。日本の国の臣民 皆兵隊さんになった時、一度にどっと大変が起るぞ。皆思ひ違ふぞ。カイの御用はキの御用ぞ。それが済みたら、まだまだ御用あるぞ。行けども行けども、草ぼうぼう、どこから何が飛び出すか、秋の空グレンと変るぞ。この方 化(ば)けに化けて残らずの身魂調べてあるから、身魂の改心なかなかにむつかしいから、今度と云ふ今度は、天の規則通り、びしびしとらちつけるぞ。御三体の大神様 三日此の世をかまひなさらぬと この世はクニャクニャとなるのざぞ。結構近づいて居るのざぞ。大層が近づいて居るのざぞ。この神示読みて神々様にも守護神殿にも聞かせて呉れよ。いよいよあめの日津久の神様おんかかりなされるぞ。』(水の巻 第十四帖)

『悪の世であるから、悪の臣民 世に出てござるぞ、善の世にグレンと引繰り返ると申すのは善の臣民の世になることぞ。今は悪が栄えてゐるのざが、この世では人間の世界が一番おくれてゐるのざぞ、草木はそれぞれに神のみことのまにまになってゐるぞ。一本の大根でも一粒の米でも何でも貴くなったであろが、一筋の糸でも光出て来たであろがな、臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、神が御礼申すほどに尊い仕事出来る身魂ぞ、殊に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ。結構な血筋に生まれてゐながら、今の姿は何事ぞ、神はいつまでも待てんから、いつ気の毒出来るか知れんぞ。戦恐れてゐるが臣民の戦位、何が恐いのぞ、それより己の心に巣くうてる悪のみたまが恐いぞ。』(富士の巻 第七帖)

こくあめつちを へんゐさせ
そろふかむたね えりわけぬ
おみやにほゆる はなひらき
すゑのよまても いとうれし

極天地を 変位させ
揃ふ神胤 選り分けぬ
御宮匂ゆる 花開き
末の代までも いと嬉し

解説

極(ごく)は「普通の程度をはるかに越えているさま。きわめて。非常に。」、天地(あめつち)は「天と地。乾坤(けんこん)。宇宙、世界の全体。」「天の神と地の神。天地の神。天神地祇。」、変位(へんい/へんゐ)は「位置を変えること。また、その変えた位置。」、神(かむ)は「‘かみ(神)’が複合語を構成するときに現れる語形。中世以降‘かん’とも発音。‘神風’‘神さぶ’など)」、胤(たね)は「血統。血すじ。また、それを伝えるものとしての子。子孫。系統。」、選る(える)は「選び取る。選ぶ。よる。」、御宮(おみや)は「神社の敬称。」、匂ゆ(におゆ/にほゆ)は「鮮やかに色づく。特に、赤く色づく。また、色が美しく輝く。照り映える。におう。」、末の代(すえのよ/すゑのよ)は「後の世。後の時代。」、いとは「非常に。たいへん。きわめて。」の意味です。

雑感

下記ブログによると、今までの天地は消えて、新しい天地になるそうな。

『みろく世に行くと予言された人の数は三分とは3%?。それとも30%?。』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)


『終わりの事象。今の世はにっちもさっちも行かない。神は火(か)水(み)とも呼ばれ、火責め。水責め。』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)


『予言が当たる神と予言そのものが出来ない神?。神からの予言とは、自作自演なのか?。』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)


日月神示でも似たようなことが書かれてある。

『今に大き呼吸(いき)も出来んことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、岩戸がひらけると言ふことは【半分のところは天界となることぢゃ、天界の半分は地となることぢゃ】、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。』(五葉の巻 第十五帖)

『天地ひっくり返ると云ふことはミタマがひっくり返ると云ふことぞ。神示読みて聞かせよ、目も鼻も開けておられん事が、建替への真最中になると出て来るぞ、信仰の人と、無信仰の人と、愈々立分けの時ぢゃぞ、マコト一つで生神に仕へ奉(まつ)れよ。』(海の巻 第十七帖)

『マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組。』(五葉の巻 第十六帖)

『生前の世界に、霊人が生活している。山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなすヽが歓喜していた、そのヽが生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界につづき、死後の世界の様相はヽの原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、そのヽを幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的ヽに向って弥栄する面と、外的、地上的に進むヽと、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄するヽと、その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。また、生命の大歓喜として湧き出ている。故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々により生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れもヽの形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。新天新地新人はかくして、生れ、呼吸し、弥栄える。しかし、新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失わない。只その位置を転換されるのみである。地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思える程である。蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。歓喜は行為となる。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。只考えたり意志するのみでは萌え出でない。生命しない。只意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。地上人にありては物質によりて物質の中に、その意志を行為することによって始めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのである。生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、その段階に於て、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。若しその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。例えば、愛の歓喜に住む霊人は、その愛の内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度 物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。』(地震の巻 第八帖)

一方、大本神諭では「新(さら)つの世」という言葉が出て来るが、どうも上記ブログなどの話を総合的に考えてみると、戦前にあった日本中が焦土化するとか、そういうレベルの話ではなくて、この大宇宙自体が新しくなる、ということのようである。

下記参照。

『大本神諭 明治43年旧9月10日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


また日月神示などでは、悪は影さえ残さない、三段に分けてとあるので、永遠に渡って善と悪に分けられて、その善もまた三段に分けられて、物事が丸く収まると思われる。

下記参照。

『前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ。それで今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯するのぞ、神々様、守護神様、今度は悪は影も残さんぞ。早よう改心なされよ。建替の事 学や智では判らんぞ。』(松の巻 第十二帖)

『世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。』(磐戸の巻 第十六帖)

『虹は七色?。今は神世七代。世に創造神の姿は見当たらないが痕跡は【艮】で、艮の演技で神世七代から八代に』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)

 

きつきへと なみのりはしり
  くかねふね かくりしはりの みなとへきつき

(杵築へと 波乗り走り 黄金船 隠りし玻璃の 港へ来着き)

解説

杵築(きづき)は「島根県中北部、出雲(いずも)市の一地区。旧杵築町。古くから出雲大社の門前町、また市場町として栄えてきた。明治以前は、出雲大社は杵築大社といわれていた。国道431号、一畑(いちばた)電車大社線が通じる。」、黄金(くがね)は「こがね。」、隠る(かくる)は「隠れる。」、玻璃(はり)は「仏教で、七宝の一。水晶のこと。」、来着く(きつく)は「到着する。」の意味です。

雑感

何かふと出て来た歌です。

ちなみに、この「隠りし」の「隠り(かくり)」は、(下二段活用ではなくて)四段活用としての「隠る(かくる)」の連用形です。

きるつみの ひかりのみすら
  このときと のこらすみのり かひのみつるき

(切る罪の 光のミスラ 此の秋と 残らず御法 可否の神剣)

解説

秋(とき)は「重要な時期。」、御法(みのり)は「上位の者からの命令、おきて、法令を尊んでいう語。」、可否は「いいことと悪いこと。よしあし。善悪。かふ。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(ヤマツミ)’‘海神(ワタツミ)’など他の語と複合して用いられる。」の意味です。

雑感

 

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

下記参照。

『ミスラ』(「wikipedia」より)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%A9


『霊界物語 第25巻 第4篇 神花霊実 第13章 握手の涙』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『お釈迦様の死後五十六億七千万後に現れる【みろく菩薩】を仕組んだ存在がある。だが誰もそれが仕組まれた物だとは思わなかった。』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)


ミスラはペルシャの神ということだが、霊界物語的にはフサの国ということになる。

霊界物語では神素盞嗚大神の本拠地「斎苑の館」がある場所だ。

そのスサノオの魂を持つとされる出口王仁三郎聖師は、自分は平和をもたらしに来たのではなく、剣を持って裁きに来た、と言われたそうだ。

『これからの戦争』(「瑞霊に倣いて」さん)


そして霊界物語は最後の審判書とも呼ばれている。

『三鏡 水鏡 霊界物語は最後の審判書なり』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


霊界物語は81巻もあってずいぶんと長いが、それだけにいろいろな登場人物が出て来る。

いろんな善人や悪人が出て来て、さらに善人だと思って居た人が過去に重い罪を犯していたり、今までは悪人だったが大改心して並みの善人では到底行けない高い天界に昇ったりとか、そういうことが書かれてある。

そして、それら登場人物達も、なんというか、象徴的な人物像の雛形として描かれている場合もあるようにも思える。

たとえば物語には「高姫」という、ものすごい曲者(くせもの)が出て来るのだが、場所によっては「鼻高姫」などと呼ばれていたりして、要するに「高姫」という一個人を表しつつも同時に、天狗(鼻高)になった人々の雛形、というような意味合いもあるものと思われる。

三千世界を救うといって、本人は色々とやるのだが、その実、自分の野望を達せんと奔走していたりしている。

 

下記参照。

『霊界物語 第56巻 第2篇 宿縁妄執 第8章 愛米』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


つまり、物語の中の「高姫」を見ていると、天狗になった人がどういう立ち振る舞いをするのか、とか、どうやって人を欺いたりするのか、ということが見えて来る、ということなのだ。

高姫は他の人には改心しろ改心しろと迫ったり、自分こそが救世主だから周りは全部自分の言うことを聞くべきだ、というような旨のことを言ったりして周りを困らせたりするのだが、いざ自分が突っ込まれたり、他人から諫められると、いろいろと理屈をいって煙に巻いたりて、自分の非を認めなかったりする。

高姫は途中改心したりするのだが、また元に戻って悪さをして、とある場面で人事不省に陥り、今度は中有界(天国と地獄の中間に位置する霊界)に身を置くのだが、そこでも同じようなことを繰り返していたりする。

下記参照。

『霊界物語 第56巻 第2篇 宿縁妄執 第6章 高圧』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


要は、高姫のように、自分を省みずに他人に改心を迫ってばかりいたり、自分は結構な血筋だから偉い人だと勘違いしたり、自分には高貴な神様がついているから他人を救えるのだと慢心したりしていると、最後は地獄的な世界に行って、そこで生前と同じことを繰り返してしまいますよ、という教訓があるように思う。

一方、初稚姫(はつわかひめ)という登場人物は、大神の化身でもあり又分身ともある。

『霊界物語 第52巻 第1篇 鶴首専念 第1章 真と偽』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


なので、物語の中で初稚姫がどういう立ち振る舞いをしているか、或いは他の登場人物に対して教訓する場面を読んで、それを参考にして自分に生かしていけば、より高い天国に進める素地が出来上がってくる、ということでもある。

霊界物語では他にも、現世で大金持ちで権力を欲しいままにしている実業家や政治家が、死後、その生前の事柄を審判され、地獄に落ちて行く様が描かれていたり、逆に、とある国の王妃が国民の母として最善を尽くした結果、霊国と呼ばれる天界に行ったりすることなどが書かれてある。

下記参照。

『霊界』(「オニペディア」より)


また天界には三段階あると示されているが、第一天国に行く人はどういう傾向の人か、第二天国に行く人はどういう傾向の人か、なども書かれていたりするので、読んだ人は、どうすればより高い天国に行けるかが分かったりする。

また地獄の様子も描かれており、ある場面では、壊れかけた汚い家で牛糞を食ったりしていたりする。

当人達は身魂相応で、その状態を心の底から喜んでいるのだが、読者からすれば、あんなところに行きたくない、ということになって、今の内に改心したい、という気持ちが芽生えて来たりするのだ。

このように、いろんな考え方(思想)やいろんな性格の登場人物が出て来て、正神界邪神界に相当する、或いは所属する登場人物達が、それぞれ崇高な教えを述べたり、権謀術数を張り巡らしたり、改心したり、間違いを犯したりなど、物語の場面場面に出て来る様子を読むことによって善悪の基準がわかり、読者はより高い天の世界へと導かれる、という風な構造になっているのだ。

霊界物語では、そういう場面が随所に散りばめられており、だからこそ音読することによってお陰を頂ける、ということになっているのだろうとも思う。

全部音読するだけで第三天国が約束されており、第二天国、第一天国も夢じゃない、というのは、まさに霊界物語が「福音」であることの、何よりの証になっているのではないかとも思う。

下記参照。

『「霊界物語」による死者の霊魂の救済』(「瑞霊に倣いて」さん)


『霊界物語 第55巻 序文』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

 

みるとみに もとのりふしの
  ひしりけり しひのしふりの ともにみとるみ

(観ると身に 素の粒子の 微知りけり 慈悲の仕振りの 共に見取る身)

解説

素(もと)は「原料。材料。たね。」、粒子(りゅうし/りふし)は「物質を構成している微細な粒(つぶ)。特に、素粒子・原子・分子・コロイドなど。」、微は「ごく小さいこと。非常に細かなこと。また、そのさま。」、慈悲は「仏語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。」、仕振り(しぶり)は「ある物事をするしかた。やりかた。」、見取るは「見て知る。よくよく注意して見る。見定める。見きわめる。」「死の床にある人に最後まで付き添う。」の意味です。

余談

この歌は、下記「三宝に帰依するための偈文」を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『初期仏教の世界 パーリ語日常読誦経典 三宝に帰依するための偈文』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)


雑感

この前、ヴィパッサナー瞑想を8時間(座る瞑想計5時間、歩く瞑想計2時間、日常の動きの瞑想計1時間)したのだが、どうもそれから感覚的に「無常」を感じられるようになってきた。

瞬間瞬間変化していくということが感覚的に感じられて、スマナサーラ長老がどこかの動画で素粒子がどうとか言っていたことが、何となくわかってきた感じがする。

とにかく一瞬たりとも変化が止まらない感覚で、何だか身体が存在するんだけれども、何か空っぽのような感じもする、という感じ。

そして実態を掴もうとすると、掴もうとした先から流れていって、逆に実態を掴めない、といった感じ。

ちょうど、流れる川の水面の水を掬おうとしたら、流れが速くてタイミングがずれて、掬いたい水はもう既に下流へと流れていっており、その代わりに上流から来た水を計らずも掬ってしまう、といった感じ。

‘私’を認識する時もそんな具合なので、その都度直面する無数の‘私’が現れては消えてゆくことを感じて(観じて)しまう、という感じ。

また観察した時点で‘私’(主体)または‘世界’(客体)が現れる、というのも感じる。

たとえば、ラーメンの大食いの動画を見たら、自分もそれを食べたくなる、といった具合。

それを見るほんの数秒前までは、ラーメンなんて頭の中にこれっぽっちもなかったのに、それを見た途端、ラーメンが食べたくなる、という世界が現れる、といった具合だ。

或いは、ふと昔あった嫌なことを思い出すと、途端に別の嫌な記憶なんかも連鎖的に思い出したりしてしまうのは、要するに思い出した(心の中でその状況を観察した)ことによって、その記憶の世界が現れた、ということかと思う。

ヴィパッサナー瞑想では、これら五蘊(色受想行識)の受から想にいかないように訓練するので、結果、美味しそうなラーメンを見ても、それに引っ張られて「そのラーメンを食べたくなる」ということにはならない、ということになる。

また、何か嫌なことを思い出してしまったとしても、それを「妄想」「妄想」とラベリングして観察することによって、それが消えてゆく、ということになる。

それに加えて、瞬間瞬間に現象が消えて行く「無常」を体感することによって、その都度起こってくる欲や怒りなどが起こらなくなる、ということだ。

下記参照。

『法話と解説 あなたとの対話(Q&A) 「時間」は無常の計算です』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)

https://j-theravada.com/dhamma/q&a/pp200706/


『【ヤバい数式】波動関数が「意識の正体」を示していた!量子力学×ヌーソロジーが暴く意識の謎』(「noosなくらし」より)

 

『「人間の外面と内面という概念について Part.1」(半田)研究動画シリーズ#035 武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所』(「武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所」より)


『「人間の外面と内面という概念について Part.2」(半田)研究動画シリーズ#036 武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所』(「武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所」より)


『「人間の外面と内面という概念について Part.3」(半田)研究動画シリーズ#037 武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所』(「武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所」より)