みるとみに もとのりふしの
ひしりけり しひのしふりの ともにみとるみ
(観ると身に 素の粒子の 微知りけり 慈悲の仕振りの 共に見取る身)
解説
素(もと)は「原料。材料。たね。」、粒子(りゅうし/りふし)は「物質を構成している微細な粒(つぶ)。特に、素粒子・原子・分子・コロイドなど。」、微は「ごく小さいこと。非常に細かなこと。また、そのさま。」、慈悲は「仏語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。」、仕振り(しぶり)は「ある物事をするしかた。やりかた。」、見取るは「見て知る。よくよく注意して見る。見定める。見きわめる。」「死の床にある人に最後まで付き添う。」の意味です。
余談
この歌は、下記「三宝に帰依するための偈文」を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。
『初期仏教の世界 パーリ語日常読誦経典 三宝に帰依するための偈文』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)
雑感
この前、ヴィパッサナー瞑想を8時間(座る瞑想計5時間、歩く瞑想計2時間、日常の動きの瞑想計1時間)したのだが、どうもそれから感覚的に「無常」を感じられるようになってきた。
瞬間瞬間変化していくということが感覚的に感じられて、スマナサーラ長老がどこかの動画で素粒子がどうとか言っていたことが、何となくわかってきた感じがする。
とにかく一瞬たりとも変化が止まらない感覚で、何だか身体が存在するんだけれども、何か空っぽのような感じもする、という感じ。
そして実態を掴もうとすると、掴もうとした先から流れていって、逆に実態を掴めない、といった感じ。
ちょうど、流れる川の水面の水を掬おうとしたら、流れが速くてタイミングがずれて、掬いたい水はもう既に下流へと流れていっており、その代わりに上流から来た水を計らずも掬ってしまう、といった感じ。
‘私’を認識する時もそんな具合なので、その都度直面する無数の‘私’が現れては消えてゆくことを感じて(観じて)しまう、という感じ。
また観察した時点で‘私’(主体)または‘世界’(客体)が現れる、というのも感じる。
たとえば、ラーメンの大食いの動画を見たら、自分もそれを食べたくなる、といった具合。
それを見るほんの数秒前までは、ラーメンなんて頭の中にこれっぽっちもなかったのに、それを見た途端、ラーメンが食べたくなる、という世界が現れる、といった具合だ。
或いは、ふと昔あった嫌なことを思い出すと、途端に別の嫌な記憶なんかも連鎖的に思い出したりしてしまうのは、要するに思い出した(心の中でその状況を観察した)ことによって、その記憶の世界が現れた、ということかと思う。
ヴィパッサナー瞑想では、これら五蘊(色受想行識)の受から想にいかないように訓練するので、結果、美味しそうなラーメンを見ても、それに引っ張られて「そのラーメンを食べたくなる」ということにはならない、ということになる。
また、何か嫌なことを思い出してしまったとしても、それを「妄想」「妄想」とラベリングして観察することによって、それが消えてゆく、ということになる。
それに加えて、瞬間瞬間に現象が消えて行く「無常」を体感することによって、その都度起こってくる欲や怒りなどが起こらなくなる、ということだ。
下記参照。
『法話と解説 あなたとの対話(Q&A) 「時間」は無常の計算です』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)
https://j-theravada.com/dhamma/q&a/pp200706/
『【ヤバい数式】波動関数が「意識の正体」を示していた!量子力学×ヌーソロジーが暴く意識の謎』(「noosなくらし」より)
『「人間の外面と内面という概念について Part.1」(半田)研究動画シリーズ#035 武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所』(「武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所」より)
『「人間の外面と内面という概念について Part.2」(半田)研究動画シリーズ#036 武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所』(「武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所」より)
『「人間の外面と内面という概念について Part.3」(半田)研究動画シリーズ#037 武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所』(「武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所」より)


