みるとみに もとのりふしの
  ひしりけり しひのしふりの ともにみとるみ

(観ると身に 素の粒子の 微知りけり 慈悲の仕振りの 共に見取る身)

解説

素(もと)は「原料。材料。たね。」、粒子(りゅうし/りふし)は「物質を構成している微細な粒(つぶ)。特に、素粒子・原子・分子・コロイドなど。」、微は「ごく小さいこと。非常に細かなこと。また、そのさま。」、慈悲は「仏語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。」、仕振り(しぶり)は「ある物事をするしかた。やりかた。」、見取るは「見て知る。よくよく注意して見る。見定める。見きわめる。」「死の床にある人に最後まで付き添う。」の意味です。

余談

この歌は、下記「三宝に帰依するための偈文」を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『初期仏教の世界 パーリ語日常読誦経典 三宝に帰依するための偈文』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)


雑感

この前、ヴィパッサナー瞑想を8時間(座る瞑想計5時間、歩く瞑想計2時間、日常の動きの瞑想計1時間)したのだが、どうもそれから感覚的に「無常」を感じられるようになってきた。

瞬間瞬間変化していくということが感覚的に感じられて、スマナサーラ長老がどこかの動画で素粒子がどうとか言っていたことが、何となくわかってきた感じがする。

とにかく一瞬たりとも変化が止まらない感覚で、何だか身体が存在するんだけれども、何か空っぽのような感じもする、という感じ。

そして実態を掴もうとすると、掴もうとした先から流れていって、逆に実態を掴めない、といった感じ。

ちょうど、流れる川の水面の水を掬おうとしたら、流れが速くてタイミングがずれて、掬いたい水はもう既に下流へと流れていっており、その代わりに上流から来た水を計らずも掬ってしまう、といった感じ。

‘私’を認識する時もそんな具合なので、その都度直面する無数の‘私’が現れては消えてゆくことを感じて(観じて)しまう、という感じ。

また観察した時点で‘私’(主体)または‘世界’(客体)が現れる、というのも感じる。

たとえば、ラーメンの大食いの動画を見たら、自分もそれを食べたくなる、といった具合。

それを見るほんの数秒前までは、ラーメンなんて頭の中にこれっぽっちもなかったのに、それを見た途端、ラーメンが食べたくなる、という世界が現れる、といった具合だ。

或いは、ふと昔あった嫌なことを思い出すと、途端に別の嫌な記憶なんかも連鎖的に思い出したりしてしまうのは、要するに思い出した(心の中でその状況を観察した)ことによって、その記憶の世界が現れた、ということかと思う。

ヴィパッサナー瞑想では、これら五蘊(色受想行識)の受から想にいかないように訓練するので、結果、美味しそうなラーメンを見ても、それに引っ張られて「そのラーメンを食べたくなる」ということにはならない、ということになる。

また、何か嫌なことを思い出してしまったとしても、それを「妄想」「妄想」とラベリングして観察することによって、それが消えてゆく、ということになる。

それに加えて、瞬間瞬間に現象が消えて行く「無常」を体感することによって、その都度起こってくる欲や怒りなどが起こらなくなる、ということだ。

下記参照。

『法話と解説 あなたとの対話(Q&A) 「時間」は無常の計算です』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)

https://j-theravada.com/dhamma/q&a/pp200706/


『【ヤバい数式】波動関数が「意識の正体」を示していた!量子力学×ヌーソロジーが暴く意識の謎』(「noosなくらし」より)

 

『「人間の外面と内面という概念について Part.1」(半田)研究動画シリーズ#035 武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所』(「武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所」より)


『「人間の外面と内面という概念について Part.2」(半田)研究動画シリーズ#036 武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所』(「武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所」より)


『「人間の外面と内面という概念について Part.3」(半田)研究動画シリーズ#037 武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所』(「武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所」より)

 

みるさうし まいしなかはに
  まいのちの いまにはかなし いましうさるみ

(観る精進 毎次半ばに 真命の 今に儚し 今し失さる身)

解説

精進(そうじ/さうじ)は「‘そうじん(精進)’の撥音の無表記。」、毎次は「事がおこるそのたびごと。毎回。毎度。」、半ばは「ある物事の途中。ある物事をしている最中。」、真(ま)は「(名詞・形容詞・形容動詞などに付いて) 純粋である、まじりけがない、などの意を表す。」、儚しは「束の間であっけないさま。むなしく消えていくさま。」、今し(いまし)は「今という今。たった今。ちょうど今。」、失さる(うさる)は「なくなる。消えうせる。」の意味です。

余談

この歌は、下記「三宝に帰依するための偈文」を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『初期仏教の世界 パーリ語日常読誦経典 三宝に帰依するための偈文』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)


雑感

下記参照。

『輝きながら消えてゆく・かなしみとときめきの文化人類学18』(「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」さん)


『やまとことばという日本語・動詞が先にあった』(「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」さん)


『「たまきはる」・枕詞の起源 15』(「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」さん)


存在性として自分や物や人や空間を見るのではなくて、流動性として自分や物や人や空間を見るのが、いわゆる悟りと呼ばれる状態なのかもしれない。

目の前の白い雲を見て「これは白い雲だ」と見る(認識する)と、目の前にある、毎次微妙に形が変わっていく白い雲ではなくて、「白い雲」という概念を見ている、ということになるのだろう。

概念としての「白い雲」を見ると、それは概念だから、永遠に変わらない固定された「白い雲」として見てしまう、ということ。

赤ん坊の頃の‘私’と大人になった‘私’は、その肉体も心も全く違う存在のはずなのに、同じ‘私’だ、同じ「〇〇 △△(自分の本名)という者だ」と思ってしまうのは、‘私’というものを永遠に変わらない存在性として、概念として見ているからに他ならない。

つまり、これからも変わらずに永遠に続くもの(概念)として見ているので、そこに‘私(自我)’というものが生まれるのだとも思う。

これに対して仏教では無常や無我が説かれる。

これは要するに、存在性として見るのではなくて流動性として見る、ということだろう。

ヴィパッサナー瞑想では、動詞のみを実況中継するわけだが、これをしていると、瞬間瞬間物事が変化していることを実感させられる。

このように、永遠に続くもの(概念)として物事を見るのではなく、瞬間瞬間物事は移り変わって行く、という視点で見てみると、今までの固定された概念が無くなっていく、ということなのだと思う。

たとえば、毎日7時に起床している人がいたとして、その人は今日の7時に起きた時には「あぁ、朝だ」と思うだろう。

その人は当然、昨日の7時に起きた時にも「あぁ、朝だ」と思っただろうし、明日の7時に起きる時にも「あぁ、朝だ」と思うだろう。

昨日の朝、今日の朝、明日の朝、全部違う現象なのに、その人は概念としての「朝」として認識しているがために、毎日同じような繰り返しの「朝」と誤認してしまうのだ。

そのようにして、何か永遠に変わらない‘私’が居て、昨日、今日、明日と、その概念化された「朝」が、永遠に繰り返しているかのように錯覚してしまう。

しかし、このように物事を永遠性の立場から見るのではなく、今この瞬間の立場から見てみると、全てが流動的である世界ばかりが見えて、永遠に続くもの(概念)としての‘私’が消える、ということなのだ。

そしてそれはちょうど、生まれ赤子が初めて、この世界を目撃したときの感覚でもあるようにも思う。

てうほんさ むなもときよし
  まいのちの いましよきとも なむさんほうて

(超凡さ 胸元清し 真命の 今し善き友 南無三宝で)

解説

超凡さ(ちょうぼんさ/てうぼんさ)は「形容動詞‘超凡だ’が、接尾語‘さ’により体言化した形。」、(ちなみに超凡は「普通よりはるかにすぐれていること。また、そのさま。非凡。」)、真(ま)は「(名詞・形容詞・形容動詞などに付いて) 純粋である、まじりけがない、などの意を表す。」、今し(いまし)は「今という今。たった今。ちょうど今。」、南無三宝(なむさんぼう)は「( ‘三宝’は仏・法・僧の三つをさす ) 仏語。三宝に帰依し奉るの意で、三宝に呼びかけて仏の救いを求めることば。」の意味です。

余談

この歌は、下記「三宝に帰依するための偈文」を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。

『初期仏教の世界 パーリ語日常読誦経典 三宝に帰依するための偈文』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)

 

ひかるなか すかてりあまつ
  かなきまき なかつまありて かすかなるかひ

(光る中 素が照り天津 金木巻き 中つ間在りて 幽かなる黴)

解説

中(なか)は「中央。まんなか。」、つは「名詞、形容詞の語幹に付く。連体修飾語であることを示し、所有・所属などの意を表す格助詞。~の。~にある。」、黴(かび)は「《‘牙(かび)’と同語源》有機物の上に生じる菌類またはその菌糸の集まり。糸状菌など、キノコを生じないものをさしていい、適当な温度と水分があれば無制限に成長を続け、至るところに発生する。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画を見て、それをモチーフに書いた歌です。

『古事記に見る形態とは何か?ー「ウツシキ アヲヒトクサ 黒宮菜菜」展を巡ってー』(「吉本興業チャンネル」より)


雑感

なんで吉本興業のチャンネルに「天津金木」の解説動画あるのかようわからんけど、なんかとにかくすごい。

そんで動画の中に出て来る天津金木を組み合わせて◇□が合わさった形(動画だとこれをフトマニと言ってる)って、これ、神言会さんの所にあったやつやん。

下記参照。

『霊学№84 みろくの世とは第8の世で、蜂(8)で永遠(∞)に巣別れ(分離)。一死七世?』(「人に内在する良心神(神言会)」より)


ただ上記ブログによると、今後右回りと左回りが分離する、とのこと。

下記ブログの「大峠」の描写も参考になるかもしれない。

『大峠(重要神示)~皇道赤心会★神様からの警告』(「moto MEMO BOX」さん)


何だか日月神示の内容と似てる。

日月神示参照。

『今に大き呼吸(いき)も出来んことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、岩戸がひらけると言ふことは【半分のところは天界となることぢゃ、天界の半分は地となることぢゃ】、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。』(五葉の巻 第十五帖)

『豊栄に 栄り出でます 大地(くに)(九二)の太神。 大掃除はげしくなると世界の人民皆、仮四の状態となるのぢゃ、掃除終ってから因縁のミタマのみを神がつまみあげて息吹きかへしてミロクの世の人民と致すのぢゃ、因縁のミタマには◎(カミ)のしるしがつけてあるぞ、仏教によるもののみ救はれると思ってはならんぞ、キリストによるもののみ救はれると思ってはならん、神道によるもののみ救はれると思ってはならん、アラーの神によるもののみ救はれるのでないぞ、その他諸々の神、それぞれの神によるもののみ救はれるのではないぞ、何も彼も皆救はれるのぢゃ、生かすことが救ふこととなる場合と、小呂すことが救ふことになる場合はあるなれど。』(紫金の巻 第四帖 ◎は原文では「〇の中にヽ」の記号)

『万物の長とは神の臣民の事であるぞ、世界の人民も皆万物の長であるが、この世の神は臣民ぢゃぞ、神に次いでの良き身魂(みたま)ぞ、臣民は地(くに)の日月の神様ざぞ。火の粉でやけどするなよ、気付けおくぞ。世に出てゐる守護神のする事知れてゐるぞ。元の生神様 御一方(おんひとかた)御力出しなされたら手も足も出んことになるのぢゃ、神力と学力とのいよいよの力くらべぢゃ、元の生神様の御息吹きどんなにお力あるものか、今度は目にもの見せねばならんことになったぞ、肉体ばかりか、魂までのうにならふやも知れんぞ、震へ上がるぞ。理が神ぞ。理が神の御用ざと申してあろがな。』(梅の巻 第十二帖)

『元の神代に返すといふのは、たとへでないぞ。穴の中に住まなならんこと出来るぞ、生(なま)の物食うて暮らさなならんし、臣民 取り違ひばかりしてゐるぞ、何もかも一旦は天地へお引き上げぞ、われの慾ばかり言ってゐると大変が出来るぞ。』(上つ巻 第三十六帖)

『神世のひみつと知らしてあるが、いよいよとなりたら地震かみなりばかりでないぞ、臣民アフンとして、これは何とした事ぞと、口あいたまま何うすることも出来んことになるのぞ、四ツン這ひになりて着る物もなく、獣となりて、這ひ廻る人と、空飛ぶやうな人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ、獣は獣の性来いよいよ出すのぞ、火と水の災難が何んなに恐ろしいか、今度は大なり小なり知らさなならんことになりたぞ。一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、それが済んでから、身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて弥勒(みろく)の世の臣民とするのぞ、どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、高い所から水流れるやうに時に従ひて居れよ、いざといふときには神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ。人間の戦や獣の喧嘩位では何も出来んぞ、くどう気附けておくぞ、何よりも改心が第一ぞ。』(富士の巻 第十九帖)

それにしても、霊界物語の神言(≒大祓詞)に「天津金木」とか、日月神示に「フトマニ」とかあって、いまいちようわからんかったけど、これのことやったんか。

下記参照。

『霊界物語 第60巻 第4篇 善言美詞 第14章 神言』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示参照。

『氷と水と水蒸気ぢゃと申してあろうがな、同じであって違ふのぞと知らしてあろう、地には地の、天には天の、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、植物には植物の、それぞれの法則があり、秩序があるのであるぞ、霊界に起ったことが現界にうつると申しても其のままでうつるのではないぞ、また物質界が霊界に反影すると申しても其のままに反影するのではないぞ、総てが太神の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太神の歓喜から生れたものであるが、太神もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、如何ようにも変化して誤らない、マニ(摩邇)の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ。』(碧玉の巻 第十八帖)

『フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、〇九十(マコト)の誠であるぞ、合せて二十二、富士(普字、不二)(フジ)であるぞ。神示の始めに示してあろう。二二(富士)は晴れたり日本晴れぞ。』(至恩の巻 第二帖)

とは言え下記三鏡では、もう(おそらく占い的な意味での)天津金木は必要ない、とも書かれある。

『三鏡 月鏡 [321]易』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


あと「黴」というと何だか嫌なイメージだが、下記ウィキペディアでは味噌や醤油などの発酵食品に欠かせない菌でもある、ということで、微生物的なイメージです。

下記参照。

『カビ』(wikipediaより)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%93

くろみとる みちとせのとき
  ふいのまの いふきとのせと ちみるとみろく

(黒み取る 三千年の秋 不意の間の 気吹所の瀬戸 地見ると弥勒)

解説

黒みは「黒いこと。黒い色。」「黒い部分。また、暗い所。」、取るは「ついているものを除き去る。」、三千年(みちとせ)は「三千年。きわめて長い年月。」、秋(とき)は「重要な時期。」、不意は「思いがけないこと。意外であること。また、そのさま。突然。だしぬけ。」、気吹所(いぶきど)は「神が罪やけがれを吹きはらうという場所。」、瀬戸(せと)は「狭い海峡。両方から陸地がせまっている小さな海峡。また、川の瀬の幅が狭くなった所。」「‘瀬戸際’の略。」の意味です。

雑感

 

何かふと出て来た歌です。

日月神示参照。

『頭を下げて見なされ、流れて来るぞ。頭も下げず低くならんでゐては流れては来ないぞ。神のめぐみは淡々とした水のようなものぞ。そなたは頭が高いぞ。天狗ぞ。その鼻まげて自分のにほひをかいで見るがよい。そなたは左に傾いてゐるぞ。左を見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ。そなたは右を歩き乍ら、それを中道と思って御座るぞ。そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。立体の道を早うさとりなされよ。【正中の大道】あるのであるぞ。左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。原因の世界に入らねばならん。平面より見れば相対あるなれど、立体に入り更に複立体、複々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。相対では争ひぢゃ。いくさぢゃ。真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。三千世界和平から出発せねばならんぞ。そなたは神示をよくよんでゐるが、それだけでは足らん。神示を肚に入れねばならん。つけ焼刃ではならん。神示を血とし生活とすれば、何事も思ふ通りスラリスラリと面白い程 栄えて来るぞ。思ふように運ばなかったら省みよ。己が己にだまされて、己のためのみに為してゐることに気づかんのか。それが善であっても、己のためのみならば死し、善のための善ならば弥栄えるぞ。善にも外道の善あるぞ。心せよ。神示見て居らぬとびっくりが出てくるぞ。この世始まってないことが出てくるのぢゃ、世界の片はし八まべからぞ。判りたか。そなたは神体を偶像と申して御座るが、それはそなた自身が偶像なるが故であるぞ。礼拝を忘れ、祈りをわすれることは神をわすれることぢゃ。そなたの住む段階では、祈り畏こみ謹んで実践しなければならんぞ。拝まんでも拝んでゐる境地はなかなかぢゃなあ。そなたはわれが助かろうとするから助からんのぢゃ。世界はこの世ばかりではないことを、よく得心して下されよ。我をすてて素直になされよ。三千年の秋が来てゐるのであるぞ。』(月光の巻 第五十四帖)

『御光(みひかり)の輝く御代となりにけり、嬉し嬉しの言答(一八十)明けたり。あなさやけ、三千年の夜は明けて、人、神、となる秋(とき)は来にけり。日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ、二二晴れるぞ、一八十開けるぞ。御神名書かすぞ、ひかり教会のりとは、ひかりの大神、弥栄ましませ弥栄ましませ、ひかりの大神守り給へ、幸へ給へと、申せよ。弥栄弥栄(やさかいやさか)。』(空の巻 第十四帖)

『一日のひのまにも天地引繰り返ると申してあろがな、ビックリ箱が近づいたぞ、九、十に気附けと、くどう申してあろがな、神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ、同じことばかり繰り返すと臣民申して居るが、この方の申すこと みなちがってゐることばかりぞ、同じこと申していると思ふのは、身魂曇りてゐる証拠ぞ。改心第一ぞ。』(天つ巻 第三帖)

『天(あめ)は天の神、国は国の神が治(し)らすのであるぞ、お手伝ひはあるなれど。秋の空のすがすがしさが、グレンと変るぞ、地獄に住むもの地獄がよいのぞ、天国ざぞ、逆様はもう長うはつづかんぞ、無理通らぬ時世(ときよ)が来たぞ、いざとなりたら残らずの活神(いきがみ)様、御総出ざぞ。』(天つ巻 第六帖)

この九月末、世界中に散らばる米軍の幹部が一か所に招集されるそうだ。

『米国防長官、軍幹部大量召集の「謎の会合」開催へ』(「yahooニュース」より)


またトランプ大統領が米政府閉鎖の可能性について言及している。

『米政府閉鎖「可能性ある」 与野党交渉こう着 トランプ氏』(「yahooニュース」より)


この予算問題は毎年の恒例となっていて、いつも土壇場で解決されているが、昨今のトランプ大統領は非常に強権的であるため、米政府閉鎖が現実のものとなるかもしれない。

そして、これがきっかけで「内戦」に突入していくということも、場合によっては有り得ると思う。

きりあまた とこやみにほち
  かたするす たかちほにみや ことたまありき

(霧数多 常闇に発霊 型する主 高地秀に宮 言霊在りき)

解説

数多は「数量の多いさま。たくさん。多く。名詞的にも用いる。」、常闇は「永久に暗闇であること。永遠の闇。」の意味です。

雑感

 

何かふと出て来た歌です。

下記参照。

『霊界物語 第73巻 第1篇 紫微天界 第1章 天之峯火夫の神』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『霊界物語 第73巻 第1篇 紫微天界 第8章 国生み神生みの段』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『伊都能売神諭 大正8年2月18日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)

 

またくいう ししんてるない
  たしけきけ したいなるてん ししういくたま

(全く幽 至神照る内 確けき気 至大なる天 四周行く球)

解説

全く(またく)は「すっかり。まったく。」、幽(ゆう/いう)は「奥深くもの静かなこと。遠く深く、はかりしれないこと。また、そのさま。」、至神は「この上なく神聖であること。」、内(ない)は「うち。なか。内部。内側。奥。」、確けし(たしけし)は「しっかりと十分である。大丈夫である。」、気(け)は「人や物の状態から受ける感じ。けはい。また、人のけはい。」、至大は「この上もなく程度が大きいこと。また、そのさま。」、四周(ししゅう/ししう)は「四方のまわり。あたり。また、四方をとりかこむこと。四辺。四囲。」、球(たま)は「球形をなすもの。」の意味です。

雑感

下記参照。

『霊界物語 天祥地瑞 第81巻 総説』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


『出口王仁三郎全集 第一巻 皇道編 第三篇 国教論 第三章 皇国伝来の神法』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


日月神示参照。

『お太陽(ひ)様円いのでないぞ、お月様も円いのではないぞ、地球も円いのではないぞ、人も円いのが良いのではないぞ、息してゐるから円く見えるのざぞ、活(はたら)いてゐるから円く見えるのざぞ、皆形無いものいふぞ、息してゐるもの皆円いのざぞ。神の経済この事から生み出せよ、大きくなったり小さくなったり、神の御心通りに活(はたら)くものは円いのざぞ、円い中にも心(しん)あるぞ、神の政治、この事から割り出せよ、神は政事(まつりごと)の姿であるぞ、神の政治生きてゐるぞ、人の政治死んでゐるぞ。』(日の出の巻 第十四帖)

かなのよき しくみかたすへ
  かみのなの みかへすたかみ くしきよのなか

(仮名の良き 仕組み型統べ 神の名の 見返す高み 奇しき世の中)

解説

統ぶ(すぶ)は「全体をまとめて支配する。統轄する。」「多くの物を一つにまとめる。」、見返す(みかえす/みかへす)は「一度見たものをもう一度見る。見直す。」、高みは「高い所。高い場所。」、奇し(くし)は「奇異である。霊妙である。不思議である。」「たぐいまれである。珍しい。」の意味です。

雑感

日月神示参照。

『仮名ばかりの神示と申して馬鹿にする臣民も出て来るが、仕まひにはその仮名に頭下げて来ねばならんぞ、かなとは◎(カミ)の七(ナ)ぞ、神の言葉ぞ。』(下つ巻 第二十八帖 ◎は原文では「〇の中にヽ」の記号です)

下記参照。

『自由では育たない。“秩序”なき教育と宗教の誤解  やましたひでこ/さえぐさ誠/天道仁聞』(「日本方舟ちゃんねる」さん)

 

みなきより ふねはかのきし
  いさきよき さいしきのかは ねふりよきなみ

(皆来寄り 船は彼の岸 潔き 彩色きの川 眠り良き波)

解説

来寄る(きよる)は「寄って来る。寄せて来る。」、彼の岸(かのきし)は「‘彼岸(ひがん)’を訓読みにした語。涅槃(ねはん)。」、潔し(いさぎよし)は「自然の事物、風景などがひじょうに清らかである。よごれていない。清浄だ。また、清らかですがすがしい。」、彩色く(さいしく)は「《‘彩色(さいしき)’の動詞化》彩色を施す。美しくいろどる。」、眠る(ねぶる)は「‘ねむる’に同じ。」、波は「押し寄せるように揺れ動くものの動き。」「はかないもの、消えやすいものをたとえていう語。」の意味です。

余談

この歌は、地獄少女オリジナルサウンドトラックの中にある「朱に染まる」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「彩色き(さいしき)」は動詞「彩色く(さいしく)」の連用形です。名詞としての「彩色(さいしき)」ではない。

ニュアンスとしては「彩色く(さいしく)」という動詞の途中という意味での「彩色き(さいしき)」というもの。

彩色された川、ではなくて、彩色されている途中の川、という感じ。まだまだ彩色された川の状態が変化しながら続いていく、というニュアンス。

たとえば「夕闇に染まっている空」と「川べりに咲いている彼岸花」と「常に水が流れている川」という風景を思い描いた時に、その川の流れの面には(逆さまの)「夕闇の空」と「川べりに咲いている彼岸花」が映っていると想像できると思う。

しかし、その夕闇空の光景や風にゆれる彼岸花、また川の流れは、瞬間瞬間移りかわっていくのであって、何か固定された「彩色された川」「彩色の川」ではない、ということ。

その光景は、常に彩色されながらも瞬間瞬間移り変わって、塗り替えられていくのであって、常に「彩色き(さいしき)」の状態の川だ、ということ。

また「眠り」は、安らかな眠りとか永眠のニュアンスで、平たく言うと(この世に未練を残さないで)成仏した状態、ということ。

むかひちみ きさのそくなり
  このはなは のこりなくその さきみちひかむ

(向かひ魑魅 気障覗くなり 木の花は 残り無く苑 咲き導かむ)

解説

向かう(むかう/むかふ)は「他の正面に対して自分の正面を向ける。相対する。」「その方向に面を向けて進む。おもむく。出むく。」、魑魅(ちみ)は「(‘魑’はばけものの類、あ‘魅’はもののけの類) 山林の気から生じるというばけものの類。山や沢の怪物やもののけ。すだま。」、気障(きざ)は「不快な感じを起こさせること。また、そのものやそのさま。」「気にかかること。心配なこと。また、そのものやそのさま。」、木の花(このはな)は「梅の花の雅称。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第52巻 第1篇 鶴首専念 第1章 真と偽』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」より)


雑感

三千世界一度に開く梅の花

ということで、ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。