みるさうし まいしなかはに
まいのちの いまにはかなし いましうさるみ
(観る精進 毎次半ばに 真命の 今に儚し 今し失さる身)
解説
精進(そうじ/さうじ)は「‘そうじん(精進)’の撥音の無表記。」、毎次は「事がおこるそのたびごと。毎回。毎度。」、半ばは「ある物事の途中。ある物事をしている最中。」、真(ま)は「(名詞・形容詞・形容動詞などに付いて) 純粋である、まじりけがない、などの意を表す。」、儚しは「束の間であっけないさま。むなしく消えていくさま。」、今し(いまし)は「今という今。たった今。ちょうど今。」、失さる(うさる)は「なくなる。消えうせる。」の意味です。
余談
この歌は、下記「三宝に帰依するための偈文」を聴いて、それをモチーフに書いた歌です。
『初期仏教の世界 パーリ語日常読誦経典 三宝に帰依するための偈文』(「日本テーラワーダ仏教協会」より)
雑感
下記参照。
『輝きながら消えてゆく・かなしみとときめきの文化人類学18』(「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」さん)
『やまとことばという日本語・動詞が先にあった』(「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」さん)
『「たまきはる」・枕詞の起源 15』(「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」さん)
存在性として自分や物や人や空間を見るのではなくて、流動性として自分や物や人や空間を見るのが、いわゆる悟りと呼ばれる状態なのかもしれない。
目の前の白い雲を見て「これは白い雲だ」と見る(認識する)と、目の前にある、毎次微妙に形が変わっていく白い雲ではなくて、「白い雲」という概念を見ている、ということになるのだろう。
概念としての「白い雲」を見ると、それは概念だから、永遠に変わらない固定された「白い雲」として見てしまう、ということ。
赤ん坊の頃の‘私’と大人になった‘私’は、その肉体も心も全く違う存在のはずなのに、同じ‘私’だ、同じ「〇〇 △△(自分の本名)という者だ」と思ってしまうのは、‘私’というものを永遠に変わらない存在性として、概念として見ているからに他ならない。
つまり、これからも変わらずに永遠に続くもの(概念)として見ているので、そこに‘私(自我)’というものが生まれるのだとも思う。
これに対して仏教では無常や無我が説かれる。
これは要するに、存在性として見るのではなくて流動性として見る、ということだろう。
ヴィパッサナー瞑想では、動詞のみを実況中継するわけだが、これをしていると、瞬間瞬間物事が変化していることを実感させられる。
このように、永遠に続くもの(概念)として物事を見るのではなく、瞬間瞬間物事は移り変わって行く、という視点で見てみると、今までの固定された概念が無くなっていく、ということなのだと思う。
たとえば、毎日7時に起床している人がいたとして、その人は今日の7時に起きた時には「あぁ、朝だ」と思うだろう。
その人は当然、昨日の7時に起きた時にも「あぁ、朝だ」と思っただろうし、明日の7時に起きる時にも「あぁ、朝だ」と思うだろう。
昨日の朝、今日の朝、明日の朝、全部違う現象なのに、その人は概念としての「朝」として認識しているがために、毎日同じような繰り返しの「朝」と誤認してしまうのだ。
そのようにして、何か永遠に変わらない‘私’が居て、昨日、今日、明日と、その概念化された「朝」が、永遠に繰り返しているかのように錯覚してしまう。
しかし、このように物事を永遠性の立場から見るのではなく、今この瞬間の立場から見てみると、全てが流動的である世界ばかりが見えて、永遠に続くもの(概念)としての‘私’が消える、ということなのだ。
そしてそれはちょうど、生まれ赤子が初めて、この世界を目撃したときの感覚でもあるようにも思う。