よのくろみ こかねのよへと
  きあふけふ あきとへよのね かこみろくのよ

(世の黒み 黄金の世へと 来合ふ今日 秋訪へ世の根 加護弥勒の世)

解説

来合ふ(きあふ)は「ちょうどやって来て、たまたま出会う。」の意味です。

雑感

ロシアが金本位制に梶を切ったという。近年ロシア・中国が大量の金(きん)を購入していることは周知の事実だが、まじで流れが速すぎる。

日月神示では、金(きん)の世にして世界を潰すのが悪神の仕組みだ、ということが書かれているが、正真正銘のいよいよが来たと思う。

下記参照。


一部では、プーチン大統領をトランプ元大統領と共に救世主のように扱っている人も居るようだが、プーチンもまたイルミナティの主要メンバーであり、今目の前で繰り広げられていることといえば、NWO(新世界秩序)成立後の、それぞれの権力の地位の上下を争っているだけに過ぎず、どちらの陣営も、世界の人々の真の幸せのためにやっているのではない、ということは明白だ。

「戦争反対」と叫ぶ自国の国民を、平気で弾圧しているロシアのプーチン大統領が、普通に考えても正義なわけがない。

またトランプ元大統領がつかっていたトレードマークが「ペペ」というカエル人間だが、エジプト神話では、蛇神と蛙神は夫婦として生まれて来ている。

WHOのマークが棒に蛇が巻き付いているように、このシンボルはフリーメーソンによく出て来るが、まさに下記の解説する形そのものであって、危険極まりない。

『みろくの夜明け前-7 蛇霊の【改心】から知る心棒。誰も【心の棒】に気づかなかった』


トランプ元大統領が救世主的存在なのか、そうでないのかは、私に判るはずもないが、だが、そこから出て来るNESARA・GESARAなどの政策を見ていると、これでは到底だめだ、と言わざるを得ない。

NESARA・GESARAでは、金(きん)に裏打ちされた価値、というが、その金(きん)にのみ価値を見出すならば、今の「お金(かね)」と同様に、その「金(きん)」が一番価値あるもの、となり、そうなると当然、それらが奪い合いになるのは必至であって、さらなる大きな争いに繋がるのは、火を見るより明らかではないか。

では真に公正で公平な「価値」とは何なのか?

それは一人一人の実質的で、地道な、世の中の根となって汗水たらして労働している人々がその「価値」を生み出しているのであって、お金ではないし、ましてや金(きん)でもない。

たとえば、りんご100円、梨100円で売っているとして、これは「同じ価値」と言えるだろうか?

私は言えないと思う。なぜなら、りんごを食べると「りんごの味」がして、梨を食べると「梨の味」がするからだ。

同じ「100円」だから、同じ価値と思ってしまいがちになるが、100円で買ったりんごは「梨の味はしない」し、100円で買った梨は「りんごの味がしない」ので、当然同じではないわけである。

だから「りんご」と「梨」は違う価値を持っており、相容れないわけである。ただそれでは経済上不便だから、ということで「100円」という貨幣を介して、同じ価値だとみなしているだけである。

もっというと、この「100円」は誰に支払われているのかというと、生産者や運搬業者、スーパーなどに支払っているのであって、「りんご」や「梨」そのものには支払われていない。

ソーラーパネルを付けるとすれば、本来ならソーラーパネルを作った会社だけでなく、無尽蔵のエネルギーを出している「太陽」に対して、真っ先に代金を支払うべきではないか。

 

しかし、そんな話は聞いたことも見たこともない。

日月神示に、野見よ森見よ、とあるが、まさにその通りで、宇宙の原理はそんなものでは動いてないわけである。

『瓜(うり)の蔓(つる)に茄子(なす)ならすでないぞ。茄子には茄子と申してあろがな。味噌も糞も一つにするでないぞ。皆がそれぞれに息する道あろがな。野見よ森見よ。神の経済よく見よ。神の政治よく見て、まことの政治つかへて呉れよ。すべてにまつろう事と申してあろがな。上に立つ番頭殿 目開いて下されよ。間に合はん事出来ても神は知らんぞ。神急(せ)けるぞ。役員も気配れよ。』(日月の巻 第八帖)

では、どういう原理かというと「日の光」を筆頭に、全てタダの「与えっぱなし」で提供されているわけである。

それに倣って、人間社会も全員が「与えっぱなし」にして、何も彼もタダにして税金無くして、皆がタダ働きすれば、全てうまく行くわけである。

下記参照。

 

ただ今の段階でそれをすると、財産権などの権利問題になって、口舌が絶えないから、一旦「てんし様」(=天皇陛下)に全てを捧げるという形にして、そこから改めて与えてもらえば、何も問題がないわけである。

天皇陛下はただ、下から捧げられたものを、また別の下の所へ回って行くのを「良し」とするだけだ。

これは道徳的な観点からだけではなく、利害の観点からも大変優れていて、誰もが損をしない、誰も貧しくならない、と同時に、誰もが得をする、誰もが今の大金持ちと同じようになれる、最高のやり方だと思う。
 

天皇陛下、或いは天皇制が好きとか嫌いとかいう問題以前に、このシステムは優れたシステムなのではないかと思う。

だから今更「金本位制」にして「金(きん)で全ての価値を統一する」という、それ自体が、馬鹿げており、そんなことで世界が統一されるわけがないのである。

日月神示では、悪神もそれは十分に判っており、「金本位制」によって世界が一つにまとまって平和になる、とは露(つゆ)とも思っておらず、自分が一番となるためにそれを進めるのであり、そのために日本国を奪い取る必要があり、そして日本人を餌食とするために進めている、とある。

当然「金本位制」に賛成する人が増えれば増えるほど、金(きん)を大量に持っているロシア・中国の力が増すのであり、日本や世界の首を締めることにつながるわけだが、これも悪神の仕組みの中にあって、賛同する人が自発的に大量に出て来るように、仕向けられている感がある。


世界中の人全員が同時に何億か貰える、とかいう「サンジェルマンの豊穣資金」の話も同じで、もし本当に実施されれば、最初は有り難がるだろうが、世界中でハイパーインフレになって、今度は「物」や「労働」が奪い合いになるのは必至ではないか。

結局「本当の価値」とは、名もない人々が生み出す、地道な労働から生まれるのであって、決してお金や金(きん)ではないわけである。

何も彼もタダにして税金無くして、皆がタダ働きするという「与える政治」が始まれば、人々は本当の価値というものを知ることができるだろうと思う。

今は経済が困窮しているので、安い給料で一生懸命働く人、とか、普段は手が届きにくい高級スイーツが特価で買える、とか、べらぼうに安いのに耐久力のある家電とか、そういうものが重宝されているが、「与える政治」になれば、それ以前に、人や動植物が本来持っている「価値」というものに気付くはずである。

それはつまり「あなたが此処に居てくれて本当に良かった」という感覚である。

・無料で、こんなに素晴らしいお家を建ててくれるあなたは、なんて素晴らしいんだ!!
・無料で、こんな見たこともない美味しい料理を提供してくれるあなたは、なんて素晴らしいんだ!!
・無料で、こんな聞いたこともない興奮する歌を聞かせてくれるあなたは、なんて素晴らしいんだ!!
・無料で、こんなオシャレなデザインの服を考案したあなたは、なんて素晴らしいんだ!!

等々になって、果ては

・無料で、こんなに味わい深い景色を見せてくれる山林は、なんて素晴らしいんだ!!
・無料で、こんなに心うるわせる波の音を聞かせてくれる海洋は、なんて素晴らしいんだ!!
・無料で、こんなに心おどらせる香りを放つ花々は、なんて素晴らしいんだ!!
・無料で、こんなに心癒される鳴き声を聞かせてくれる動物達は、なんて素晴らしいんだ!!

等々にもなって、この宇宙の、この地球世界の本当の価値というものを、人類は知ることになるだろう。

一日も早くこのような世界を実現させたい所だが、しかし神示では三月三日から五月五日を経て、秋になると様子が一変する、と書かれてある。

 

中々、一筋縄ではいかないようだ。

『三月三日から更に厳しくなるから用意しておけよ、五月五日から更に更に厳しくなるから更に用意して何んな事起ってもビクともせん様に心しておいてくれよ、心違ふてゐるから臣民の思ふことの逆さ許りが出てくるのざぞ、九月八日の仕組 近ふなったぞ、この道はむすび、ひふみとひらき、みなむすび、神々地に成り悉く弥栄へ 戦争(いくさ)つきはつ大道ぞ。一時はこの中も火の消えた様に淋しくなってくるぞ、その時になっておかげ落さん様にして呉れよ、神の仕組 愈々世に出るぞ、三千年の仕組晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、桜花一二三(ひふみ)と咲くぞ。』(キの巻 第十四帖)

『片輪車でトンテントンテン、骨折損の草臥(くたびれ)儲けばかり、いつまでしてゐるのぞ、神にまつろへと申してあろうがな、臣民の智恵で何出来たか、早う改心せよ。三月三日、五月五日は結構な日ぞ。』(地つ巻 第五帖)

『口と心と行と三つ揃ふたら今度は次にヽ入れて下されよ、ヽは神ぢゃ、神示ぢゃ、神示元ぢゃ、と申してあろが、三つ揃ふても肝腎の神示肚に入って居らんと何にもならん事になるぞ。九分九分九厘となってゐる事も判るであろが、御用 勇んで仕へまつれよ。目覚めたら其の日の生命頂いたのぢゃと申してあろ、新しき生命 弥栄に生れるのぢゃ。今日一日 神に仕へまつれよ、与へられた仕事 御用ざぞ、生命ざぞ、取違ひ致すでないぞ。七月になると上の人民番頭殿、顔の色 悪うなって来るぞ、八九月となれば愈々変って来るぞ、秋の紅葉の色変るぞ。いくら因縁ありてもミタマ曇ってゐると今度は気の毒出来るから、今度 引寄せられた人民ぢゃとて役員ぢゃと云ふて、ちっとも気ゆるし出来ん。澄んだ言霊(ことだま)で神示よみ上げてくれよ、三千世界に聞かすのぢゃ、そんな事で世がよくなるかと人民申すであらうなれど神の申す通り、判らいでも神の申す通りにやって下されよ、三千世界に響き渡って神々様も臣民人民様も心の中から改心する様になるのざぞ、世が迫って居ることは、どの神々様人民にもよく判ってゐて、誠求めて御座るのぢゃ、誠知らしてやれよ。何も彼も一度に出て来るぞ、日増しにはげしくなって来るぞ、どうすることも出来ん様に、悪神、悪の人民、手も足も出せん事に、何から何まで、何が何だか判らん事に折り重なって来るぞ、キリキリ舞せなならん事になって来るぞ、キリキリ舞にも良きと悪しきとあるぞ、良きは結構ぢゃなあ、中々ぢゃ。』(梅の巻 第八帖)

『今迄は闇の世であったから、どんな悪い事しても闇に逃れる事出来てきたが闇の世はもうすみたぞ。思ひ違ふ臣民 沢山あるぞ。何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ。早ふさっぱり心入れ換へて下されよ。神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへて呉れよ。日本の国の臣民 皆兵隊さんになった時、一度にどっと大変が起るぞ。皆思ひ違ふぞ。カイの御用はキの御用ぞ。それが済みたら、まだまだ御用あるぞ。行けども行けども、草ぼうぼう、どこから何が飛び出すか、秋の空グレンと変るぞ。この方 化(ば)けに化けて残らずの身魂調べてあるから、身魂の改心なかなかにむつかしいから、今度と云ふ今度は、天の規則通り、びしびしとらちつけるぞ。御三体の大神様 三日此の世をかまひなさらぬと この世はクニャクニャとなるのざぞ。結構近づいて居るのざぞ。大層が近づいて居るのざぞ。この神示読みて神々様にも守護神殿にも聞かせて呉れよ。いよいよあめの日津久の神様おんかかりなされるぞ。』(水の巻 第十四帖)

『一升桝には一升しか入らぬと臣民思ふてゐるが、豆一升入れて粟(あわ)入れる事出来るのざぞ。その上に水ならばまだはいるのざぞ。神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが。江戸の仕組 世の終わりぞ。天おろがめよ。つちおろがめよ。まつはれよ。秋の空グレンと申してあろがな。冬も春も夏も気つけてくれよ。』(日月の巻 第二十三帖)

『天(あめ)は天の神、国は国の神が治(し)らすのであるぞ、お手伝ひはあるなれど。秋の空のすがすがしさが、グレンと変るぞ、地獄に住むもの地獄がよいのぞ、天国ざぞ、逆様はもう長うはつづかんぞ、無理通らぬ時世(ときよ)が来たぞ、いざとなりたら残らずの活神(いきがみ)様、御総出ざぞ。』(天つ巻 第六帖)

『神示に書かしたら日月の神(一二◎)が天明に書かすのであるから其の通りになるのであるぞ、皆仲よう相談して悪き事は気付け合ってやりて下され、それがまつりであるぞ、王(おー)の世が※(さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻すのであるから、その事 早う判っておらんと一寸の地の上にもおれん事になるぞ、今度の戦(いくさ)すみたら世界一平一列一体になると知らしてあるが、一列一平 其の上に神が居ますのざぞ、神なき一平一列は秋の空ぞ、魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ、神は臣民人民に手柄致さして万劫末代、名残して世界唸らすのざぞ、これ迄の事は一切用ひられん事になるのざと申してあろ、論より実地見て早う改心結構、何事も苦労なしには成就せんのざぞ、苦労なしに誠ないぞ、三十年一切(ひときり)ぞ、ひふみ肚に入れよ、イロハ肚に入れよ、アイウエオ早ようたためよ、皆えらい取違ひして御座るぞ、宮の跡は草ボウボウとなるぞ、祭典(まつり)の仕方スクリと変へさすぞ、誠の神の道に返さすのざから、今度は誠の生神でないと人民やらうとて出来はせんぞ。』(雨の巻 第五帖 ◎は原文では「○にヽ」の形 ※は原文では「‘王’の文字を180度逆さまにした文字」の形)

一方で神示では、「九月八日」が一つの重要な日付として記されている。

ご存知の方はご存知だろうが、「九月八日」について一応説明をしておくことにする。

日月神示を降ろした岡本天明氏も在籍していた戦前の大本は「型の大本」と呼ばれ、大本が起こったことが日本に起こり、やがて世界に起こる、とされ、実際そのようになった。

たとえば「九月八日」という日は、大本においては、それまで邪教集団と見なされていた大本が大審院にて無罪となった日であり、日本においては、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、太平洋戦争が終結した日でもある。

詳しくは下記参照。

『大本と日本の対比』(「日之本研究ホームページ」さん)


つまりこの「九月八日」の日付でもって、ミロクの世への道筋が明確出て来る可能性がある、ということ。

 

我々は何としてでも、ここに至るまでの道をつけなければならない。でないと、今回は日本が滅びるどころか、世界が終わるどころか、この三千世界そのものが悪神の手に落ちて、我々は今とは全く違う異世界で、永遠に苦しみ続けなければならなくなるからだ。

下記参照。

『辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ。この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。恐ろしい日ざぞ。今は型であるぞ。改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。猫に気付けよ、犬来るぞ。臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。◎と神との戦でもあると申してあろがな。戦のまねであるぞ。神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。手も足も動かすこと出来んぞ。たとへではないのざぞ。くどう気付けておくぞ。これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦ばかりでないぞ。その日その日の戦烈しくなるぞ、褌締めて呉れよ。』(日月の巻 第十帖 ◎は原文では「〇にヽ」の形)

『富士は晴れたり日本晴れ、いよいよ岩戸開けるぞ。お山開きまこと結構。松の国 松の御代となるぞ。旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三(ひふみ)のりとコト」入れてのれよ。忘れずにのれよ。その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ。江戸道場やめるでないぞ、お山へ移してよいぞ、役員一度やめてよいぞ。またつとめてよいぞ。めぐりあるから心配あるのぞ。めぐり無くなれば心配なくなるぞ。心配ないのが富士は晴れたりぞ、富士晴れ結構ぞ。日津久の御民 何時も富士晴れ心でおりて下されよ。肉体ちっとの間であるが、魂は限りなく栄へるのざぞ。金に難渋して負けぬ様にして下されよ。金 馬鹿にしてはならんぞ。あせるでないぞ。あせると心配事出来るぞ。神が仕組みてあること、臣民がしようとて出来はせんぞ。細工はりうりう滅多に間違ひないのざぞ。見物して御座れ、見事して見せるぞ。不和の家、不調和(ふわ)の国のささげもの神は要らんぞ。喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。神はうれしいぞ。旧九月八日とどめぞ。』(水の巻 第九帖)

『神烈しく、人民静かにせよ。云ふた事 必ず行はねばならんぞ。天から声あるぞ、地から声あるぞ。身魂磨けばよくわかるのざぞ。旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ。残る心 獣ぞ。神とならば、食ふ事も着る事も住む家も心配なくなるぞ。日本晴れとはその事ざぞ。』(松の巻 第三帖)

『旧九月八日からの祝詞は初めに、ひとふたみ唱え、終りに百千卍(ももちよろず)宣(の)れよ。お神山(やま)作る時は、何方(どちら)からでも拝める様にしておけよ。一方から拝むだけの宮は我れよしの宮ぞ。何もかも変へて仕舞ふと申してあろうが。神徳貰へば何事も判りて来るのざぞ。要らんもの灰にするのざぞ。息乱れん様にせよ。』(松の巻 第二十一帖)

『天の異変 気付けと申してあろが、冬の次が春とは限らんと申してあろが。夏 雪降ることもあるのざぞ。神が降らすのでないぞ、人民 降らすのざぞ。人民の邪気が凝りて、天にも地にも、わけの判らん虫わくぞ。訳の判らん病ひどくなって来るのざから、書かしてある御神名 分けて取らせよ。旧九月八日までに何もかも始末しておけよ。心引かれる事 残しておくと、詰らん事で詰らん事になるぞ。もう待たれんことにギリギリになってゐる事 判るであろがな。』(夜明けの巻 第三帖)

『旧九月八日で一切りぢゃ、これで一(はじめ)の御用は済みたぞ、八分通りは落第ぢゃぞ、次の御用 改めて致さすから、今度は落第せん様 心得なされよ。何も彼も神は見通しざぞ、神の仕組 人民でおくれん様 気付けて結構致し下されよ、二(つぎ)の仕組、御用は集団(まどい)作りてよいぞ。大奥山はそのままにしておかなならんぞ、天明まだまだ神示の御用結構ぞ、アホ結構ぞ、リコウ出るとこわれるぞ。天明ばかりでないぞ、皆同様ぞ、皆リコウになったものぢゃナア、クドウ神にもの申さすでないぞ。』(マツリの巻 第八帖)

『旧九月八日から、まつり、礼拝、すっくり変へさすぞ、神代までにはまだまだ変るのぢゃぞ。祓は祓清めの神様にお願いして北、東、南、西、の順に柏手四つづつ打ちて祓ひ下されよ。神国の乱れ、こえキから。世界の戦争、天災、皆人民の心からなり。人民一人に一柱づつの守護神つけあるぞ、日本真中、ボタン一つで世界動くぞ。』(マツリの巻 第十四帖)

『何(ど)の身魂も我(が)の強い身魂ばかり、よく集まったものぢゃと思ふであろが、その我の強い者がお互に我を折りて、解け合って物事成就するのぢゃぞ。旧九月八日迄にすっくりとまつりかへてくれよ。真中に御三体の大神様、御三体の大神様、天之日月の大神々様、地の日月の大神々様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、弥栄祀り結構ぞ、其の左に仏、基、マホメットの神様、世の元からの生神様、百々の神様、産土様、よきにまつり結構致し呉れよ、その右に地の日月の神々様、霊(たま)の諸々(もろもろ)の神様 厚く祀り呉れよ。』(マツリの巻 第十八帖)

『己の心見よ、いくさまだまだであろが、違ふ心があるから違ふものが生れて違ふことになる道理分らんのかなあ。世界の愈々のメグリが出て来るのはこれからであるぞ、九月八日の九の仕組 近付いたぞ。人民は早合点、我よしで神示よむから皆心が出て了ふて、誠知らしたこと毒とならん様 気つけておくぞ。薬のんで毒死せん様に気付けよ。今は世間では何事も分らんから、疑ふのも無理ないなれど、神の仕組は何事もキチリキチリと間違ひないのざぞ。宗教連合会も世界連合も破れて了ふと申してあらうがな、つくった神や神の許しなきものは皆メチャメチャぢゃ、三千世界に手握る時と知らずに、T(た)の世界、も十の世界を知らんからさうなるのぢゃ、火火の世界、火火の人、水水の世界、水水の人、と交通出来るのぢゃ、人と云っても人間ではないぞ、ヒトカミざぞ、手握って三千世界に天晴れぢゃ、この道 神の道ぢゃ、光の道ぢゃ、教ぢゃ、悪と悪と、善と善と、悪と善と、善と悪と握る手持ちて御座れよ、心持ちて御座れよ、びっくり嬉し箱あくぞ。』(青葉の巻 第二十帖)

『人間の死後、自分の命(イノチ)の最も相応(フサワ)しい状態におかれるのであるそ。悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。皆々、極楽行きぢゃ。極楽にもピンからキリまであるぞ。神の旨に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢゃ。心の世界を整理せよ。そこには無限のものが、無限にあるのであるぞ。神の理(ミチ)が判れば、判っただけ自分がわかる。 めでたさの九月八日の九のしぐみ、とけて流れて世界一つぢゃ。』(黒鉄の巻 第三十八帖)

『世界中を泥の海にせねばならんところまで、それより他に道のない所まで押しせまって来たのであるが、尚一厘のてだてはあるのぢゃ。大神様におわび申してすっかり心を改めて下されよ。神々さまも人民さまも心得ちがひ多いぞ。泥の海となる直前にグレンとひっくりかえし、びっくりの道あるぞ。』(月光の巻 第四十八帖)

ちなみに歌にある「世の黒み 黄金の世」は、世界中が不穏な空気になって金本位制が来る、ということと、世の中の全てのカルマが消化されて一人一人が内在する神と直接繋がる黄金時代が来る、という二つの意味があるように感じる。

また「世の根」は米(よね)に通じて、この秋に、まるで黄金色の稲穂が付けるように、今まで世の根として地道に誠を貫いて来た人には、弥勒の世になるについて、自然と厚い厚いご加護が得られるよ、という意味でもあるように思う。

『喰うものがないと申して臣民不足申してゐるが、まだまだ少なくなりて、一時は喰う物も飲む物もなくなるのぞ、何事も行(ぎょう)であるから喜んで行して下されよ。滝に打たれ、蕎麦粉(そばこ)喰うて行者は行してゐるが、断食する行者もゐるが、今度の行は世界の臣民みな二度とない行であるから、厳しいのぞ、この行 出来る人と、よう我慢出来ない人とあるぞ、この行 出来ねば灰にするより他ないのぞ、今度の御用に使ふ臣民はげしき行さして神うつるのぞ。今の神の力は何も出ては居らぬのぞ。この世のことは神と臣民と一つになりて出来ると申してあろがな、早く身魂みがいて下されよ。外国は〇、神の国はヽと申してあるが、ヽは神ざ、〇は臣民ぞ、〇ばかりでも何も出来ぬ、ヽばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、それで神かかれるやうに早う大洗濯して呉れと申してゐるのぞ、神急(せ)けるぞ、この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。今度の行は〇を綺麗にする行ぞ、掃除出来た臣民から楽になるのぞ。どこに居りても掃除出来た臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。神の臣民、掃除洗濯出来たらこの戦は勝つのぞ、今は一分もないぞ、一厘もないぞ、これで神国の民と申して威張ってゐるが、足許からビックリ箱があいて、四ツん這ひになっても助からぬことになるぞ、穴掘りて逃げても、土もぐってゐても灰になる身魂は灰ぞ、どこにゐても助ける臣民 行って助けるぞ、神が助けるのでないぞ、神助かるのぞ、臣民も神も一緒に助かるのぞ、この道理よく腹に入れて呉れよ、この道理分りたら神の仕組はだんだん分りて来て、何といふ有難い事かと心がいつも春になるぞ。』(富士の巻 第五帖)

『此処まで来れば大丈夫ざぞ。心大きく持ちて焦らずに御用せよ、饌(け)にひもじくない様、身も魂も磨いておけよ。もう何事も申さんでも、天と地にして見せてあるから、それよく見て、改心第一ぞ。悪は霊力が利かん様になったから最後のあがきしてゐるのざぞ。人助けておけば、その人は神助けるぞ。神界と現界の事この神示よく分けて読みて下されよ。これから愈々の御用あるぞ。皆の者も同様ぞ。』(松の巻 第二十帖)

『へんな人が表に出るぞ、出たら気付けよ。この道開くには誠ぢゃ、誠とは嘉事(よごと)ぢゃ、仕事ぢゃ、まつりぢゃ、あなないぢゃ、〆松ぢゃ、むすびぢゃ。わけへだては人間心、何が何だか判らん内に時節めぐりて元に返るぞ、神に分けへだてなし、皆一様にするぞ、お蔭やるぞ、病治してやるぞ、小さい事、大きい事、皆それぞれに御役勇んで仕へまつれよ、分け隔てと云ふ事なく一致和合して神に仕へまつれよ、和合せねば誠のおかげないぞ。先づ自分と自分と和合せよ、それが和合の第一歩、アメツチ心ぢゃぞ、すべてはそこから生れ来るものなのぞ。』(青葉の巻 第六帖)