『セッション』 | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『セッション』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

2014年/アメリカ映画/107分
監督:デイミアン・チャゼル
出演:マイルズ・テラー/J・K・シモンズ/ポール・ライザー/メリッサ・ブノワ/オースティン・ストウェル/ネイト・ラング/クリス・マルケイ/デイモン・ガプトン/スアンヌ・スポーク/マックス・カッシュ/チャーリー・イアン/ジェイソン・ブレア/カヴィタ・パティル

2015年 第31回 やりすぎ限界映画祭
2015年 ベスト10 第17位:『セッション』
やりすぎ限界女優賞/やりすぎ限界男優賞/やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『セッション』


[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界男優賞:J・K・シモンズ


やりすぎ限界男優賞:マイルズ・テラー


やりすぎ限界女優賞:メリッサ・ブノワ


[「完全」「悪人」か?]






あまりに恐るべき極限のくそリアリズムで「実話」にしか見えない。だが高校生の時「ジャズバンド部」のドラマーだった「デイミアン・チャゼル監督」自身が、「スパルタ顧問」、「鬼顧問」にやられた「しごき」を基にした「創作」だった。






「極端に行きすぎた指導」。学生が鬱病となり「自殺者」まで出た。「鬼教師フレッチャー」(J・K・シモンズ)は「絶対糾弾」されて当然の「完全」「悪人」か? 『セッション』こそが「嫌なら辞めればいい」「だけ」の、「芸能界」の恐るべき極限のくそリアリズムに見える。






「芸能界」で成功してる人間全員が、崇高な「信念」「価値観」「倫理観」を持ってる訳じゃない。「宝くじが当たっただけ」レベルの人間も実は多い。だが「宝くじが当たっただけ」になれなかった人間が、芸能人として大成功する方法は、『セッション』しかない。

[「極端に行きすぎた指導」しか「できない」]






「天は二物を与えず」。「鬼教師フレッチャー」が、「鬱病」「自殺」まで追い込む「極端に行きすぎた指導」が「できる」のは、“本物” の「賞賛」「評価」「栄光」「能力」「信頼」の経歴を持つ「できる」人間だから。





“本物” の「できる」人間が、「自分がしてきたこと」「自分が解かること」を言ってるだけでしかないのだろう。だが “本物” の「賞賛」「評価」「栄光」「能力」「信頼」の経歴を持つ「できる」人間は、「鬱病」「自殺」まで追い込む「言い方」、「極端に行きすぎた指導」しか「できない」。






だが「極端に行きすぎた指導」で「血」が出るまで、あそこまでやらなきゃアンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)は、あの「速さ」で叩けるようになれなかった。その「真実」から目を背けることはできない。




そもそも人間が生きてくための「職業」って「芸能界」だけじゃない。職業は「星の数」ほどある。「芸能界」で成功することが「数万人に一人」しかできない「真実」は、「鬼教師フレッチャー」やアンドリューぐらいできなきゃ「普通の人」でしかないから。「嫌なら辞めればいい」「だけ」。

[「完全」「善人」か?]






では「鬼教師フレッチャー」は「完全」「善人」なのか? 「そうとも言えない」。「他の指導方法」はなかったのか? 「鬼教師フレッチャー」以外の指導方法で成功した人間も絶対大勢いる。「極端に行きすぎた指導」しか「できない」のは、「困った人間」な「部分」なのだと思う。




人間は「多面的」。「鬼教師フレッチャー」が「完全」「悪人」じゃないのは、映画には映らないが、「極端に行きすぎた指導」で「大成功」した人間も「大勢」いたはず。だからアンドリューは「離れない」。




■「英語で最も危険な言葉は
  この2語だ
  “上出来だ” 」
 「でも一線がある
  あなたは やり過ぎて-
  次のチャーリーを
  挫折させたのでは?」
 「いいや 次のチャーリーは
  何があろうと挫折しない」
 「きっとね」
 「正直に言えば-
  育てられなかったんだ
  努力はした
  それこそ必死に
  なみの教師には できないほど
  それを謝罪する気はない
  必死の努力を」





「嘘」「猿芝居」でも、「人間の心を癒す言葉」を「知ってる」「一面」を見せたことを見逃してはならない。だが本当に「嘘」「猿芝居」かもしれない。






だが「完全」「悪人」だと「断言」するには、「最期」「JVCフェス」に、「代わりのドラマー」がいなければならない。事実「代わりのドラマー」はいなかった。アンドリューが「もしも」「退場」したら、「JVCフェス」に「穴が開いた」。それは「鬼教師フレッチャー」の “本物” の「賞賛」「評価」「栄光」「能力」「信頼」の経歴に「汚点」を生む事件となったはず。僕には “上出来だ” と「絶対言わない」ことでしか、「愛」を表現できない、「困った人間」に見えた。だが「もしも」「僕がアンドリューだったら」、僕は「潰れてた」かもしれない。

[「自分が他人にしたことは、いずれ全部自分に返ってくる」]




「最期」「JVCフェス」、あれが師匠の「極端に行きすぎた指導」の「教え」に、生徒が出した「答え」だろう。「自分が他人にしたことは、いずれ全部自分に返ってくる」。「極端に行きすぎた指導」の「教え」から学んだ「答え」の「怖さ」に、ビビッて震え上がり「泣きながら」「大きい方垂れ流し」。「鬼教師フレッチャー」はとうとう「育てられた」ように「見えた」。

[「ニコル」の「せい」にする恐るべき「バカさ加減」]



■「偉大な音楽家に」
 「それを私が邪魔すると?」
 「ああ」
 「確信してるわけ?
  私が邪魔するって?」
 「そうだ」







恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「ニコル」(メリッサ・ブノワ)の「せい」にする恐るべき「バカさ加減」を見て「また」、「鶏」時代を思い出した。もはや「彼氏」作られて「当然」。「勝手な想像」で「邪魔するって」、証拠もないのに「決めつける」「思い込む」。僕はアンドリューのような「能力」なんかなかったが「バカさ加減」「だけ」あった。だから僕から「女が全員逃げた」。




画像 2021年 5月