I think now like this.

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日々、感じたこと、思ったことをただ書いておく場所です。

Amebaでブログを始めよう!

ウィル・スミスの件について思うところを。

巷間、色んな意見が飛び交っているけれど、俺が思うことは、

『どつきたくなった気持ちはわかる。でも、万座の前でやることではなかったね』

である。


渦中のクリス・ロックはアメリカでは有名なステンダップコメディアンだという。俺は知らんかったけど。


かつて読んだある本に書いてあったこと。

『笑いのベースにはあるのは差別的視点である』

とてもきわどい言葉だけれど、あながち間違いではないと思う。

BLACK JOKEという言葉と同じ意味を持つ日本語は?と考えると、的確な熟語を思いつかない。

他人と違う、という事を引き合いに出して人の笑いを誘うというのは『笑い』という世界の根底にある一番安易な手法なのだと思う。笑いを取ることを職業としているならば、マイノリティを引き合いにだして、マジョリティから笑いを取ったほうが効率的である。

確かにそうかもしれないが、この感覚は、実は人間の本質に巣食う悪しき習性の表れなのだと感じる。

今回は、そんなコメディアンの笑いの取りかたがターゲットとなった人の家族を怒らせた。

まぁ当然といえば当然である。


アメリカという国の背景を考えてみる。

白人至上主義がRacismを生み、そこから派生していく様々な視点での差別。

肌色の違いを差別し、その他の身体的特徴を差別し、出自を差別し、貧困を差別し、同じ言語の中でさえそのなまりを差別し、性差を差別し、罹患した病気、その後遺症さえ差別する。

国の経済的発展、受ける教育の充実から人々の道徳心の醸成などの過程を経て、徐々に差別意識が薄まってくると、今度はかつて差別を受けていた側でさえ、別の対象を見出して差別し始める。

日本にあるいじめの構図だって同じ組成だろう。

結局は優越感を感じた人間が、それを発露したくて取る手段、それが差別である。

アメリカにある、根強い差別主義が構造的に今回の件を誘発した、というのはいささか大げさだろうか。


話を戻す。


今回、ウィル・スミスとしては、許しがたいジョークだったのだと思う。


しかし、である。


だとして、わざわざ自分の席を立ってステージに上がり、クリス・ロックの顔面を張り倒す、という行為が受容される訳がない。


大阪ローカルの朝の情報番組でこのニュースに触れ、大阪を中心に活躍するある芸人がコメントを求められた時、その芸人は、

『俺でも同じようにどついたと思う。そら大事な人が傷つけられた訳やから』

としたり顔でのたまった。

この感覚は、メディアで金儲けしている人間が口にするには、とても古めかしいものだと感じた。


世論の反応を見てみると、アメリカではどちらかといえばウィル・スミスの行動に否定的。

日本でも概ねそうだけれど、中には彼に共感する、擁護する意見も多い。前述の芸人もそうであるように。

これは日本にある『仇討ちは認める』というメンタリティからなのだろうか。

あの時、もしウィル・スミスが真っ白なハチマキを巻いて事に及んでいたら日本の世論は一斉に擁護に動いたかもしれないね。


俺の意見は冒頭にも書いたけれど、感情は理解こそすれ、万座の前でやっちゃいかんよね、というもの。


例えば、自分に置き換えて考えたとき、自分の愛する人が万座の前で笑いものにされたとして、その場で掴みかかるか。

いやいや、ちょっとそれは短絡的すぎるだろうと。

俺ならどうしたかなぁ、と考えると、やるならやっぱり全部が終わったあとやろうなぁ、と。

結局自分の気が済むかどうか、だけやからね。


今回、ウィル・スミスは自分の気を済ませるために張り倒しに行ったのだろうと思う。

で、張り倒した。

その映像は何度も何度も、この極東の島国でさえ放映された。

結果、彼は涙ながらに謝罪する、という結果になった。

それなら初めからやめといたらよかったやん、という話。


怒るということと、その感情を直情的に行動に移すということは、実は別の話なんだろうと思うんだな。

怒ることは人間として避けて通れない感情。

そりゃ人と関わってれば腹が立つこともある。

でも、それを相手にぶつけるかどうか、というのは避けられる事なんだと。

そのことを日常的に整理して理解しておかないと、咄嗟の時に動こうとする身体を抑えられない。

結果、脊髄反射の感度を上げてしまうことになる。


俺も若い頃は、直情的なことが多かった。

振り返れば未だに後悔することもある。

激しやすい、と揶揄もされた。

でも、そんな過去があったから、今の俺がいるんだとも思う。


俺は決して出来た人間ではないけれど、そんな俺でさえ今回のウィル・スミスの振舞いには眉をひそめた。


気持ちは痛いほどわかる。

でも、自身の立場と、その時居た環境を全て正しく認識していれば、舞台に上がって相手を張り倒す、という行動に出る前にブレーキが働いたはずだと思えてならない。


いかんせん、今回の件は直接的にも間接的にも目撃者が多すぎた。


この先、この件がどのような顛末に向かうのかよくわからないけれど、当事者同士が話し合ってどんな形にせよ解決できればいいのにな、と思う。

そして、ウィル・スミスも、クリス・ロックも、各々の仕事がこれまで通り、沢山の人達のサポートを受けて続けられればなおいい、とも思った。


I think now, like this.

このブログを始めたきっかけは、自分がある瞬間、何かに対して何を思ったか、ということを書き溜めた結果、遠い将来にそれを振り返った時、自分の心の変遷やら、文字を認める能力の軌跡やら、そんな自分が歩いてみて感じた事への思いだったり、自身の歴史が見えるのではないか、と若い時に思ったのがきっかけ。

実は25歳の時にそれを始めたのだけれど、当時はブログなんてものは無く、単純にパソコンにテキストを書き溜めるだけだった。

ハードディスクが壊れてデータがなくなったり、東京からこっちに戻ってくるときに一旦リセットしたくていくつか消したりしながら、   今ここにある思いの山が『老後の楽しみ』という訳だ。

 

前置きが長くなったが、前回のエントリーはべんてんや、だった。

今回もべんてんやである。


11/12、11/13の2日間、べんてんやは尾張名古屋を留守にして東京に乗り込んだ。

疲弊したエンターテインメント業界の中にあって、大変な2年間だったであろう事は想像に難くない。人前で生演奏を聴かせてなんぼのちんどん屋がその機会を奪われ、それでもへこたれずに力強い足どりで舞台の上に帰ってきた。

そんなコロナ禍を雌伏の時と位置づけ、この日のためにひっそりと、そして厳しく、自らのこれからを『練った』のであろうと思う。

本当は俺も仕事を休んで高円寺まで観に行きたかったのだけれど、今回は諸般の事情で見送った。

引き換えに、配信でその勇姿をしかと見ようと2日ともパソコンの前に座った。

便利な時代になったものである。


この2daysはコラボレーション公演ということで、高円寺にある和楽器Bar『龍宮』と手を携えた。

11/12はその和楽器Bar龍宮で、和太鼓師広純との共演、そして11/13は場所をライブハウス高円寺Highに移し、その広純率いる『龍宮伝』とのコラボレーションだった。

この龍宮伝、組み合わせは無限とのことで、この日の組合せは、和太鼓、津軽三味線、筝。


2日間、合わせて約4時間の公演を画面越しに見たわけだが、率直に素晴らしかった、と思う。


実際の模様がどうであったかについては、配信のアーカイブを見ていただくとして、ここでは率直な感想を書こう。


べんてんやは、6月に大須演芸場で観た自主公演の時より、明らかに練られた内容で、べんてんや自慢の演奏力もさることながら、ひとりひとりのパーソナリティが粒だっていた。

この5ヶ月間、週に一度だという『お稽古』と、一人ずつが自らに課す自主練習、その両方にまっすぐ向き合って来たのだな、というのが画面越しにはっきりとわかった。


特筆すべきは『龍宮伝』である。

和楽器という、自国の楽器でありながら我々には馴染みの薄い楽器が目の前でものの見事に操られる。


筝、津軽三味線、そして和太鼓。


元来、我々の中にある和楽器の印象。

どこか壮厳な印象のある楽器たちだか、それがこうも印象を変えるかというほど、彼らが奏でる音の重なりは斬新で、そして先鋭的に感じた。

12日は広純ソロの出演。

彼が和太鼓を叩く姿を見た時、俺の目にはプリンスの後ろでパーカッションを奏でていた、シーラEが重なった。リズムだけで人を魅了するには、そこに技術がないと立ち行かない。

和太鼓師としてひとたび和太鼓を操つれば、唯一無二のリズムを刻む。

その姿は紛れもなく一流のパーカッショニストのそれである。


13日の公演では、それに津軽三味線と筝が加わる。

三味線はピエール小野。

世界をまたにかける津軽三味線パフォーマーである。サーフロックの名曲『パイプライン』そして、ディープパープルのスモーク・オン・ザ・ウォーターのフレーズを次々に三味線で奏でる。

リッチー・ブラックモアが、高崎晃がこれを観たらどんな感嘆の声をあげるだろうか。

俺の目には、リッチーのレスポールより、高崎のランダムスターよりかっこよく映った。


筝を操るのは、かとうのあやね。

琴と筝、その違いを俺に初めて見せてくれた。琴と筝、同じように思われがちだが、これは違う楽器なんだそうだ。現に俺自身も何が違うのだろうか?と思っていた。

筝は柱(じ、と読むそうだ)を動かして弦の音程を調整するのに対し、琴にはその柱がなく、あくまで弦を押さえる場所で音程を決める。

現に公演中、彼女が手際よくその柱を動かしてチューニングをする場面が見えた。

ステージが進むに連れ、2曲目、3曲目と、その美しい音色が際立つ。

『琴線に触れる』とはよく言ったもの。

紛れもなくその音色は俺の琴線に触れた。


俺はこの二日間で、和楽器の可能性というものを見誤っていた自分を恥じた。

こんなにも可能性を感じるとは自身でも思わなかったが、演じ手次第で無限に音楽は生まれるのだ、ということを思い知らされた気がする。


公演のラストではべんてんやと龍宮伝とが共演。べんてんやの十八番、さくらさくらを演じる。いつにもまして、すずこのクラリネットは伸びやかに歌っていた。6月より伸び伸びとした晴れやかな音色だった。


大団円とはこういうことを言うのだな、という雰囲気にあふれた華やかな舞台だった。


俺が初めてべんてんやに出会ったのはTHE YELLOWMONKEYとの共演。ROCKとの共演だった。

そして今回、和楽器との共演を果たした。

来週にはクロワッサンサーカス。サーカス楽団との共演が控えるという。


彼女たちは、何と共演しても、誰と共演しても違和感なくそこに馴染む。

しかしそこでも彼女たちの色はしっかりと輝くのだ。

七色髪のちんどんやは、相手を選ばない。場所を選ばない。

彼女たちが楽器を持ってすっくと立ったその場所が、その瞬間からステージなのである。


2年間の雌伏の時を経て、いよいよべんてんやの出番がくる。この2年、彼女たちが如何に自らの将来を練ってきたか。ちんどんの可能性を練り上げてきたか。

1stアルバム『千客万来』を引っさげて、これからが、そのお披露目の時。


さぁ、変えよう。

新しいちんどん屋を見せて歩こうじゃないか。

日本全国津々浦々、くまなく、その千客のもとへ赴こう。


イエローモンキーだって30周年をべんてんやにお祝いしてもらえて嬉しかったはず。

今回の龍宮の皆さんだって嬉しそうだった。

街で姿を見かけた人々だけじゃなく、舞台を同じくした共演者だって笑顔にする。

べんてんやとはそういう人たちなのである。


(文中敬称略)

先月の末から出張している今のサイトでの仕事が6月末まで続く事もあって、今回の公演は見に行けないものと諦めていた。

とはいえ、ひょっとしたらうまく調整がついて行けるかも、との思いもあってチケットはひっそりと購入してあった。そのことが功を奏して、昨日、ここに来て神風が吹く。

現地の工程が大幅に変更になり、急遽ぽっかり6月19日がオフになった。

ならば、と勇躍名古屋へ向かう。

仕事柄、旅には慣れている。

たった2時間足らずの移動なんて造作も無いこと。

 

たどり着いた大須演芸場。

あいにくの雨。そりゃ梅雨だもの。

晴れ男が自慢の俺でさえ、今日、名古屋の雨はあげられなかった。

 

出会いは2019年12月28日。

ナゴヤドーム(現:バンテリンドームナゴヤ)でのTHE YELLOWMONKEY 30th Anniversary DOME TOURの初日。

DAN DANが演奏される前に、ちんどん屋の大群がナゴヤドームのステージを占拠した。

その数30名。

その先頭を切って歩いてきた駒子の、透き通るような明るい笑顔に出会ったあの日から、早いものでもう1年半経った。

 

べんてんや。

 

名古屋を拠点に活動する、女性ばかりのプロフェッショナルなちんどん屋である。

親方のスージーを筆頭に、個性的でチャーミングなメンバーが7人。サポートメンバーも含めると10名以上にもなるという。

カラフルなおかっぱ頭の彼女たちが、この程CDをリリースする。

『千客万来』

と名付けられたそのフルアルバムは、アメリカのIndependent Labelからのリリース。

日米同時発売だという。

やることなすこと、全て規格外である。

 

その発売を記念する自主公演が、昨年屈したコロナ禍を乗り越えて、2年ぶりにホームグラウンドとも言うべき大須演芸場で行われた。

俺が観に行ったのは昼の部。

今頃、夜の部の幕が盛大に開いた頃だろうか。

 

約2時間の公演を観て思ったこと。

率直に言って、恐れ入った、の一言である。

 

ちんどん太鼓とゴロスのリズム隊。

アルトサックスとクラリネット、そしてトランペットの管楽器。

アコーディオンと篠笛。

この7つの楽器で奏でる音楽は、『ちんどん』と安易に表現するのが憚られる程の完成度である。

 

ステージセットがある訳でない、シンプルな板の上で繰り広げられたショーは、その構成力もさることながら、個々のパーソナリティが存分に発揮された見事なものだった。

 

俺も、この歳までにそれなりに音楽は観聴きしてきたつもり。

様々な種類のもの、即ち、いいと思うもの、不愉快に思うものを含めて、様々なジャンルのものに相当数触れてきた。

 

そんな俺の感覚が『素晴らしい』と叫んで止まないのである。

 

まず、全員が全員、音楽家として一流である、ということ。

確かな演奏力は特筆に値する。

そしてその確かな演奏力は、それが前面にしゃしゃり出て主張する訳でなく、あくまでべんてんや全体のパフォーマンスを各々がひっそりと支える。

そのさり気なさが彼女たちの真髄であり、べんてんやの醍醐味でもあるのだろう。

加えて、揃いも揃って、皆、朗らかで楽しい。

こと、演奏に限って言えば危なっかしいところなど皆無で、あるとすればちゃめっ気たっぷりなおしゃべりにだったり、自らの着物の裾を踏んで転びそうになる瞬間にだったり、だけ。

 

その『危なっかしさ』さえ、べんてんやの魅力なのだ。

 

今回、彼女たちの練り込まれたステージを観て俺が感じたものは、紛れもなく『音楽の力』だった。

 

音の力。

 

物質的な音圧や音量の話ではない。

彼女たちが奏でる音楽には、はっきりと、しっかりと、人をつかまえる力がある。

柔らかなその音色に宿るのは、音楽の温かさ、そして力強さ。

その両方が絶妙なバランスで投げかけられる。

 

ちんどん屋。

 

一言で言うなら、確かに『ちんどん屋』である。

しかし、元来この国の記憶に佇む『ちんどん屋』とは明らかに異なる『似て非なるもの』ではないか、と思うのだ。

単なる街頭宣伝のツールとして、ではない。

道行く人たちに音楽を聴かせる力がある。

聞かせる、でなく、聴かせるのだ。

確実にそこにある。

耳だけにでなく、聴く側の心に聴かせる力が。

そしてべんてんやには、この国にあるちんどん屋の概念をRebuildする力がある、と感じる。

 

今日、大須演芸場で彼女たちが魅せたものは、この時代にあるべき、新しいちんどんのスタイルだったのではないか、と思う。

明らかに、確実に、彼女たちはちんどん屋の在り方をアップデートさせた。

従来のちんどんを否定するのでは決してなく、それをRespectしながら、新しい形に繋げてみせた。その功績は大きい。

 

2020年12月28日。彼女たちと初めて出会ってから丁度1年が経ったこの日、日本武道館でのTHE YELLOWMONKEY 30th Anniversary LIVE -BUDOKAN SPECIAL- のオープニングSEには、音源こそ違えど今回リリースされた「千客万来」の一曲目にある『竹に雀』が使われた。

バンドの公式も、べんてんやとしてもそのことを明らかにしていないが、俺にははっきりとわかった。あれは紛れもなくべんてんやの音色だ。

俺のように、あのSEを奏でていたのが彼女たちだったという事実に気づいていた観客が一体どれほど居ただろう。

彼女たちの奏でた旋律に乗って、THE YELLOWMONKEYがステージに現れた。

そんなちんどん屋、見たことも聞いたこともない。

 

益々、これからの『べんてんやぁをお楽しみ』にである。

素晴らしいステージだった。

 

(文中敬称略)

昨日、シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇を見てきた。

俺は、エヴァンゲリオンは迷走していると感じていた。前作のQの終わり方のやっつけ感が気に入らなくて、『スパンの長いサザエさん』だと例えた。
それは、どれほど長い時間を経て一見違ったストーリーにしても、結局『〇〇インパクトが発生しておしまい』っていう同じ展開に帰結するしか選択肢がないような感じを受けたから。
『あーあ、エヴァンゲリオンももう手詰まりかなぁ』
って思ってたんだけど、今回のは見終わって、『あーいい映画だっあなぁ』
って素直に思えた。

初めて、TVアニメとして、『新世紀エヴァンゲリオン』がテレビ東京系でオンエアされてから26年。この26年の間に、沢山の人がこのアニメーションを様々な形で目にし、それぞれの心の中に、それぞれぞれのエヴァンゲリオンがあったように思う。
難解だと揶揄する者、それでも面白いと心酔する者、自らの人生に登場人物の生き様を投影する者、そしてそれに憧れる者。
それぞれの人の中に、その人なりのエヴァンゲリオンがあっただろう。
それは、機動戦士ガンダムに代表されるようなリアルロボットの系譜とはまた一味違う、このアニメーション独特の壮大な世界観がそうさせていたんだろうけれど。

俺ははっきり言ってあまり期待していなかった。あったのは『あのエヴァンゲリオンの最期なのだから、それはきちんと見届けなければならんだろう』
という思い。その思いに立脚して映画館に向かった。だから150分という上映時間は少しハードルが高いと思っていたのだけれど、エンドロールの最後まで、すべて見終わって客電が灯るその瞬間まで、一度として時間を気にする暇がなかった。

それほど、よく練り込まれた内容だったように思う。

この26年の間に、それぞれの人の心の中に育ったそれぞれのエヴァンゲリオン。
そのすべて引受けて、しっかり両足で着地させた、そんな気がした。

庵野秀明というクリエイターの中にしっかりとある、これまで自身を形造ってきた様々なものへの感謝と尊敬。
死の街と化したパリを甦らせる冒頭のシーンから、宇多田ヒカルの歌声と共に流れた長い長いエンドロールの最後の最後までに溢れていた。

この映画単体で、どうだったこうだったと評価するのは難しいだろう。

でも、映像作品としての『新世紀エヴァンゲリオン』すべてをここに帰結させた、その事実は絶対的に尊い。
よくぞここまでまとめきったな、という素直な喜び、歓び、悦びに包まれた作品だった。

初めてのルーブルは何てことなかったわ
私だけのモナリザ
もうとっくに出会っていたから
初めてあなたを見た
あの日動き出した歯車
止められない喪失の予感

たったこの6行に触れただけで、新世紀エヴァンゲリオンにシンクロした。

この曲が、冒頭ではなく最後に流れた事。

バンザイ!

すべてのエヴァンゲリオンに。
ありがとう。
楽しくて幸せな26年でした。

 

遂にこの二人が組んだか、と喜び勇んで聴いてみた。

なんていうの・・・・

かつて、Dancing In The Streetという曲で、ミックジャガーとデイビットボウイが組んだけれど、その時に匹敵するような高揚感とでもいおうか。俺はこの曲の素性をよく知らないのだけれど、イントロから聞こえてくるギターの旋律は、疑う余地もなく布袋寅泰のそれだし、歌う声、歌詞、そしてメロディラインは紛れもなく吉井和哉のそれ。

どこを切っても各々がしっかりと感じられて、立錐の余地がないほどに二人のRock Starがぎっしり詰まっている感じ。

 

90年代を感じる、という意見も見かけたけれど、いやいや、ここにあるのは80年代半ばのあの混沌とした日本のロックシーンから這い出た二人のルーツであるような気がして。

それまでにリリースした3枚のアルバムで日本のシーンを揺り動かし始めていた当時のBOØWYが4枚目に放ったJUST A HEROを初めて聴いた時のあの衝撃に近かったかもしれない。

いや、Beat EmotionでB・BLUEのイントロを聴いた時の衝撃に近いか?

いずれにしても、あの青春時代の入り口にあった日本人がやるRockの息吹が今蘇ったような既視感と、二人のミュージシャンの練り切られた感性がぶつかった瞬間に放たれる眩しさ、新しさ、そんないろいろな思いがないまぜになって全力で襲いかかってくるような感覚ね。

 

この曲をこのアレンジでミックスダウンした、その瞬間の達成感は想像するに難くない。

イントロからファーストバースの入りは、あのImage Downを思わせるかのような音符の並び。

聴く側の好奇心を弄ぶかのようなAメロから始まって、Bメロのラインは吉井和哉にしか歌えないかのような旋律。

ファーストバースはブリッジまで。あえてサビは歌わない。

吉井和哉の口から放たれる言葉のひとつひとつが、THE YELLOWMONKEYを感じさせる。

セカンドバースのBメロにある「アスピリンを噛む」という言葉に触れたとたん、一瞬にしてHonky Tonky Crazyの世界観にタイムスリップする。

布袋得意のブレイクから満を持して吐き出したサビは、じらされていた分、聴き手の高揚感をいいように弄ぶ。

ギターソロはもう何もいえない。布袋寅泰が弾くなら文句ない。

いつも吉井が歌うような、最後の大サビはないけれど、それでも太鼓を抜いて歌うサビの旋律は強烈なアクセントになって大団円へ。

 

Fallin' love 目覚めたら 恋が始まってた

もうないと思ってた

いいじゃない 好きならば いいじゃない 

そのために生まれてきた

Fallin' love 深まった愛が 歌のように始まって終わる

Dangerous そこからは

Dangerous Que Sera, Sera....

後戻りできないのさ

 

大人の恋は、それまでの時間の中でついた沢山の古傷を、「ちちんぷいぷい、痛くないよ」っておまじないで忘れさせてから、知らない間に始まるものなのかもしれない。

円熟した二人のミュージシャンには、様々な力が宿っているんだなと改めて感じた。

 

この二人が組んだ事実こそ、日本のRockがまたひとつステージを上げた、その証左なんだろうと思う。

年明け早々に「謎のはやり病、中国で発生」という趣で、半ばカルト的に報道され始めたこの問題。

約1か月を過ぎて、今や毎日のように報道番組のTOPを飾る。

今年は、春節が一月下旬だった事もあってか、中国人の大移動と共に世界のそこかしこで感染者が顕在化し始めたから、みなの中で「大陸の問題」で片付いていたこの問題が、一気に「自分の身近な問題」にランクアップして、その当事者にならざるを得なくなった。

うちの会社でも、「中国への出張は当面社長決裁とする」という通達が出た。

もう他人事ではなくなりつつある。

 

このウィルスの原因はなんなのか。

 

報道で知る範囲では、コウモリだの、蛇だの、鼠だの、ミンク、ハクビシンなど食用動物を扱う市場が発生源だという。

その動物らから人へ、という経路だというが、それがいよいよ人から人へ、というフェーズにシフトしたようだ。

大阪で見つかった感染者は、3次感染かともいわれる。

 

ならば、やはり食生活の衛生管理に起因している、と言わざるを得ない。

 

この国でもかつて牛のレバーを生で食に供し、死者が出たという事故があったことは記憶に新しい。

「腸管出血性大腸菌」である。

今、「レバ刺し」を出す店はないはずだ。何故ならば、国が法で縛ったから、である。

 

食生活、というのは、その国に根差した文化である。

日本人が好んで食べないものが、よその国では普通に食べられているし、その逆も然り。

タコ刺しをおいしそうに食べる日本人を顔をしかめて遠巻きに眺める外国人はいるし、自分も、ある国の街角で紙コップ一杯に入った芋虫を爪楊枝でつついて食べる姿を同じくしかめっ面で眺めた経験がある。

ただ、だからと言って異国の食文化そのものを批判したり、否定する、というのは、するべきことではない、と思う。

 

しかし、である。


もしそこにリスクがあるのなら、そのリスクを排除する営みは当然行われるべきである、と思う。

 

食文化の中に存在するリスクに気づく、という事がその国に住む人々の知識や経験に立脚して醸成される「スキル」なのだとしたら、やはりそれは、その国の発展度合、成熟度合いに比例するものなのだろうし、それが一般的なものの見方なのだと思う。

我々が子供の時うまそうに飲んでいた、「水で溶くジュースの素」は既にもう見かけないし、「見知らぬ誰かが素手で握ったおにぎり」でさえ潜在的なリスクを口にする世の中になった。

その事が良いとか悪いとかは別にして、当然、その国が成熟するにつれて入る情報の質も量も上がる。その情報を精査すること自体が日常となり、その精査された情報を各々が練ってそれが根拠となって規範ができ、人々の考え方は洗練される。


このプロセスの中で、中国、という国に潜在的な問題があるとすれば、それはやはり情報の部分なのだろう。食を欲望の一端だと捉えるならば、得る情報の質と、各々が抱く欲望のバランスの支点がどこにあるか、である。

情報が潤沢で、各々にそれらを精査する能力が備わってくれば、自らの欲望とのバランスをうまく取ろうとするのが人間の営みなのだと思う。しかし、与えられた情報が操作されたり、偏ったりすれば、人々は正しい経験を積めない。


今回の新型コロナウィルス。


これが中国という国の食文化に於ける衛生管理に起因しているのだとすれば、中共が国際社会に与えた被害は甚大である、と思う。


食文化は守られてよい。

むしろ守るべき性質のもの。

しかし、その文化に潜むリスクを削ぐ感性が磨かれなかった時、自国が世界に与える影響は大きいのだ、という事に中国が気づけないなら、それは共産主義の限界なのだ、と言わざるを得ない。


情報統制はいい。

好きにすればいい。

しかし、その事で自国民を裸の王様に至らしめている事実を感じ取ったなら、その施策で自らの限界を越えてみよ。


『中華人民共和国が世界に君臨する姿』を夢見ているのなら、早急に、的確な手を打て。

それが中国が負うべき責任である、と俺は思う。

初めての休みの時、やはりリオデジャネイロに行かねば、ということで、リオ見物に。

目的はコルコバードの丘だったんだけど、この日はあいにくの天気で、コルコバードは諦め、コパカバーナだけにした。
ボルタレドンダから高速バスで2時間。
 
 
でもその日は平日で、朝の通勤の時間帯にあたったこともあってか3時間かかった。
リオの街に入るまでは、さすがの農業大国ブラジル。景色は緑だらけで、農場、牧場、そんな景色ばかり。
 
とにかくね、日本と違うのは道の舗装よ。
やっぱり我が国は素晴らしい。
あれほどしっかりとアスファルトで舗装された道路を細部にまで行き渡らせる国は、ほんとに日本くらいじゃないかな、と思う。
ブラジルは道ガタガタww
バスが死ぬほど揺れるし、しんどいねん!w
首がしなる回数を数えようかと思ったけど、あまりに多いからやめましたw
リオの街に入って、何気なく外を見ていると一人のライダーが。
ヘルメットに日本語が書いてある。
『ライダ=』w
一個となりやん、キーボードの位置ww
おしいねんけど、誰も教えてくれへんもんね。
ブラジルでの日本人気は凄いです。
アニメの影響もあるみたいだけど、みな日本語書きたがるのよね。
 
そしてリオに到着。
やっぱりこの国、貧富の差は激しい。
路上で寝る人々と、その横で普通に仕事をする人。ちょっとしんみりしてもうた。
 
そしてコパカバーナへ。
リオのバスターミナルからタクシーで20分くらいだったろうか。
ブラジルはタクシーが安いから、移動には便利。初乗り5レアルくらいだから、150円くらいからスタート。でもメーターは結構細かく上がるんやけどね。
リオデジャネイロなんかは悪徳タクシーもいるので、細心の注意と情報収集が大切なんよね。
何も知らずに乗ったらボラれて、文句言ったら怖い思いをした、という話も聞くし。
 
バリー・マニロウが歌った『コパカバーナ』
俺の記憶が確かなら、小学校高学年くらいで一度バリー・マニロウブーム、みたいのが来た記憶がある。4年生のときからビートルズを聴いていた俺としては、外タレの情報にはアンテナを張っていたし、実家がパーマ屋だったから週刊誌の類には絶えず触れていた。
子供のくせに深夜のラジオ放送を聴きながら眠るという、ませたクソガキだったから、それなりに情報は得ていた、そんな中の記憶。
 
多分、来日したタイミングだったんだろうけど、確か『ヒアカムズザナイト』という邦題のアルバムを引っさげて、あの甘いマスクで日本人女性を虜にしたんじゃなかったろうか。
 
その『コパカバーナ』に、まさか自分が降り立つ日が来ようとは。
あのきめ細やかな砂を踏みしめる日が来ようとは。
この日は曇天で波がびびるほど高かったけど、まだ春先だとはいえ、赤道に近い常夏の国ブラジル。
やっぱり海を楽しむ人はたくさんいた。
砂が細かくて歩きづらかったけど、でも、
『あー、俺今コパカバーナにおるんや!』
と思いながら眺める景色はなんか格別だった。
 
その日は時折雨が降るような天気だったから、コパカバーナ近くのショッピングセンター
Rio sulへ行って中をぶらぶら。
昼食では中のフードコートでハンバーガーを。
 
この肉とチーズしか挟まっていない『デブの素』をはらいっぱい食べた。
 
リオの街は、思ってたほど都会ではなくて、ここがかつてブラジルの首都だった、という感じは受けなかった。なんか程よく都会で程よく田舎。観光客はいっぱいいたけど、日本人には全く会わず。
3年前、ここでオリンピックがあった時はどんなだったのかなぁと思いながら、1度目のリオを後にした。
次回コルコバード編があるのかないのかわからないけれど、気が向いたら書きますwwww
もう来てから20日が経つのか。
長く、そして終わりが見えない。
これもお国柄、ということなのだろうか。

この20日間、ブラジルで過ごしてみて感じたところを書き留めておこうと書き始めた。
何回続くのかわからないけど、まぁ気が向けば書いてみよう。
内容は思った事を断片的に書くだけだから、中身はちょっとメタメタかもしれないけど、溜まったらアップする。
何年か後に読み返して、口元が緩んだら嬉しいのだけれど。

伊丹空港を出てから30時間もの移動を経て、辿り着いたサンパウロからまだ車で4時間走る。
本当はリオデジャネイロから車で2時間くらいの所にある街なんだけれど、リオはやっぱり治安の問題もあってサンパウロ経由、ということらしい。会社は、可能な限り我々をリオから遠ざけたいようだ。

サンパウロを出て、走る車の窓から見える景色は、牧草ばかりのくそ田舎。


牛が草を食むような光景が続く。
たまに見える開けた町並みも、近代化された街、という印象はなく、雑踏、というか清潔感からは程遠い雰囲気だ。東南アジアの方がまだ近代化は進んでいるように見える。
BRICSの一角を占めても、まだこんなに古ぼけた錆だらけの町並みなんだなと感じながら、車は結局5時間走った。
ようやく目的地に辿り着くと、さほど大きくない田舎街。
名をVolta Redondaという。
ここにあるのは、
Companhia Sideruraica Nacional
ナシオナル製鉄。今回の仕事場だ。


設立は1969年というから50年前。同級生である。
俺はここまで古くはないつもりだけれど、確かに古い製鉄所。
というかね、設備に手を入れてない。
使いっぱなし?
傷みっぱなし?
そんな感じ。

ブラジルはとにかく人と人の距離が近い気がする。それは、決して物理的な距離ではなく、精神的な距離、というべきかな。
初対面でも気さくに握手をするし、その時に空いた手でポンポンと肩を叩かれたり、すれ違う人みな笑顔で親指を立てて挨拶してくれる。
これを日本人に求めるのは無理なんだろうけど、かつての日本もこれくらい人の距離は近かったように思う。
俗にいう『メンチを切る』行為はあまりブラジルでは成立しないように思うんだな。
日本なら『こっちみんな』とでも言われそうだけれど、ブラジルで人の顔を見つめていると、相手は結構笑顔になる。
それくらい、人と人の距離が近い。

ブラジルで日本人は人気者。
みなジャポネーゼを歓迎してくれる。
理由はよくわからないのだけれど、みんな、おージャポネーゼっ!と話しかけてくる。
それほど、日系移民の人たちがこの国で良い働きをし続けたのだろうと思う。
感謝せねばね。

驚いたのは、ホテルの朝食でのむコーヒーのなんと美味しいこと!


ブラジルの人たちは残念ながら結構砂糖を入れるんだけと、俺は何も入れない。それは日本でも同じ。カップに入れてひとくちすすった時に目を見開いた。
苦味も酸味もちょうどよくて、これぞコーヒーやっ!って感じ。
なんでコーヒーの国の人らなのに、砂糖入れてまうねんやろか。
そのまま飲まんかい!て思う。

肉がうまいのには驚いた。


ブラジル人とは肉を食べる人のこと、と言うのかどうか知らないけれど、ホテルのレストランで毎晩のように肉を食べる。
お気に入りはピッカーニャ。
ボウイの発音を聞くと『ピカンヤ』と言っているように聞こえるのだけど、これは部位のことなんだと。ピッカーニャとは『イチボ』のことらしい。お尻の肉ね。希少部位だと言われているところ。


んまーい!
塩コショウだけで充分で、安いの!
これで日本円で1500円くらいよ?
あとこれにパンとフレンチフライドポテトがついて。
食べるものがどうかなぁと思ったけれど、マレーシアの時よりは苦労していない。
イタリアもスペインも食は日本人の口に合うというから、南米もそうなのかもね。
ただお米に関しては日本の右に出る国はないね。

観光にも行った。
その時の話はまた改めて。
リオデジャネイロに行ったのだけれど、なかなか貴重な経験にも見舞われてね。
ちょっと怖い体験でした。

さて、今回はこれくらいで。
また、書こうと思う。

いよいよ令和が始まろうとしている。

今となっては新元号が発表された日がなんか懐かしい。

それだけ、この1か月の間の密度が濃かったという事なんだろうか。

 

4月1日。

今上天皇から新天皇に譲位される5月1日から使用される元号が発表された。

もう1か月近く経って熱も冷めただろうから、冷静に書いておこうと思う。

このことを文字にしておくことが大切だと思うから。

 

「令和」

 

聞いた瞬間は「ん?」と思った。

「和」はいい。

俺が生まれた昭和にもついてる。

小学校3年の時に担任だった先生の名は「和子」だったし、クラスで一番の秀才だった女の子の苗字は「和田」だった。

 

問題は令。

令という漢字を見てまず浮かんだのは「命令」だったし「指令」だった。

でも、本当はそういうことではないらしい。

 

典拠は「万葉集」巻五「梅花謌卅二首并序」からだとのこと。

于時、初春月、氣淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。

-時は初春の令(よい)月であり、空気は美しく、風は和やかで、梅は鏡の前の美人が白粉で装うように花咲き、蘭は身を飾る衣に纏う香のように薫らせる-

ここでいう「令」とは「物事のつやがあるように美しい」という事なんだそうだ。

 

即ち、「物事の艶があるように美しく風和やかな時代」ということなんだろう。

 

素晴らしいではないか。

現代に用いられる元号らしさもあり、厳かな風合いも感じる。

 

しかし、だ。

 

この元号の意味は、国民一人一人が自分なりに考えてもいいのではないか、と思う。

各々が自由に解釈し、この「令和」の生き方を決めればいいのである。

 

俺なりにこの「令和」をどう捉えるか。

 

やはり俺にとってこの「令」という字は厳しさを感じる。

だがそれがいい。

この厳しさと和という字が持つ柔らかさのバランスがいい。

 

平成という時代はどんな時代ったかと振り返ると、やはり厳しい時代だったと思う。

そして、その厳しさが人々の心を動かしていった時代ではなかったかな、と思う。

時代の厳しさから逃げるように、価値観の多様化が一気に広がった。

当然、インターネットの爆発的な普及もその一因にある。

世の中が厳しいのだから、個人くらい好きにさせてよ、ということなのか。

人々の価値観が多様化した事で、物事を「良し悪し」で考える風潮が支配的となり、「善悪」で物事を考えなくなった。

何故なら「善」の定義が多様化し始めたからである。

 

俺はこの事をあまり快く思っていない。

善は普遍的な基準に立脚するべきであり、「ママがいいと言ったから」と自分の行動を決める子供が増えるのはどうかと思う。

「先生はだめだというけど、ママがいいっていうから先生の言うことは関係ない」

こんな価値観で子供を育ててはだめなんだ。

 

来るべき令和はどうなってほしいか。

 

令とはこれ即ち掟なり。

今一度、かつてあった掟を思い出すべき。

昭和は良くも悪くも掟ありきの時代だったように思う。

全てそうしろというのではなく、その掟の存在をもう一度意識しなおすこと。

平成は、その掟を壊した時代。

掟を排斥して、多様化した価値観を尊重した時代だった。

 

令和は、平成の時代に多様化した価値観を見直して、今より少しだけその価値観を収束させる。

「掟の下で和す尊さを志す」

そんな時代になればいいな、と思う。

 

平成はみな自由にやりすぎたでしょう。

個々の部分最適を目指しすぎた。

みんなが今より少し我慢して、全体最適を意識すること。

自由と不自由のバランスをとる、その支点を探す時代である。

それが叶えば、日本という国はまだまだ伸びる。

日本は、昭和で価値観収束のデメリットを思い知った。

平成では価値観分散のデメリットを感じた。

 

アメリカの衰退、中国の躍進。

 

このふたつの事象から今の日本が学ぶべきことは、「価値観分散のデメリットと収束のメリット」である。

 

令和。

 

ある意味で初めての国産元号である。

大和民族の人間的ポテンシャルは、掟の下で花開き、団結によって発露する。

 

令を以て和す。

 

俺の「令和」はそうありたい。

平成の終わりにそう綴っておく。

 

I think now like this.

以前、「英雄の哲学」という番組を見た。

当時メジャー6年目というから、2006年。

今から13年前のイチローと当時56歳の矢沢永吉の対談である。

 

その中でイチローは「50歳まで現役というのが夢」だと明言している。

矢沢永吉は、「50まで現役でやりたい」と思って実際に達成した後の立場。

今、齢60を超えて尚、現役を張り続けている。

 

3/21、イチローは45歳で現役を終えた。

あと5年。

この時に吐露した夢は叶わなかった。

プロ野球選手になる夢を叶え、メジャーリーガーになる夢を叶え、そして一流の選手になる夢を、その努力を礎にして叶えたイチローが、最後の夢を叶えられなかったこと。

人間臭くていいじゃないか、と思った。

 

深夜行われた記者会見。

そこで滔々と語るイチローの姿を画面越しに普通に眺めていたけれど、よくよく考えると、これは普通の事じゃないな、と思った。

MLBの選手が、現役をその母国日本で終えた、ということ。

このことが彼自身が並みでないことを端的に表している気がするし、何故、一流メジャーリーガーの引退を、日本のメディアが最優先で報じる権利を得ることが出来ているのか。

アメリカという国の社会が如何に成熟しているのか、ということを痛感した。

日本という国がビジネスになるという背景があるにせよ、でも、外国人選手の引退をその母国で迎えさせてやろう、というその大きさ。

日本に置き換えたとして、想像ができるか。

出来ない。

自分には想像できなかった。

 

野球選手としての功績は、いちいちあげつらう必要がないほどのもの。

そこで彼を評価するのが普通の観方なんだろうと思うんだけれど、今回の一連の「引退興行」が成立した、ということそのものが、野球選手イチローの凄まじさのような気がする。

 

彼は会見の中で「外国人になったことで得たことがある」と言った。

今回のこの機会は大きなギフトだと言った。

そして、その外国人に最大の敬意を表したのは、どこあろう、アメリカという国そのものだったし、イチローがもらった「ギフト」は本当に意味のある、アメリカの気持ちがたくさん詰まった贈り物だったのだろう。

我々がどの国よりも早く、イチローが現役を終えた瞬間に触れることが出来たのは、アメリカとイチローの関係性によってもたらされたものだったし、その選手が日本人であったということ、そしてイチロー自身が本当の英雄だったということだろう。

 

イチローの凄さは、野球選手という枠の中だけで語ることはできない。

イチローを組成するすべてのもの。それが凄いのだろうと思う。

それは人が作ってきたものじゃない。

イチロー自身が自らの手で作り上げたものなんだと思う。

 

英雄の哲学。

 

正解なんてないはずの哲学に、ひとつの正解を叩きだした男。

凄まじい野球選手だったと思う。