ウィル・スミスの件について思うところを。
巷間、色んな意見が飛び交っているけれど、俺が思うことは、
『どつきたくなった気持ちはわかる。でも、万座の前でやることではなかったね』
である。
渦中のクリス・ロックはアメリカでは有名なステンダップコメディアンだという。俺は知らんかったけど。
かつて読んだある本に書いてあったこと。
『笑いのベースにはあるのは差別的視点である』
とてもきわどい言葉だけれど、あながち間違いではないと思う。
BLACK JOKEという言葉と同じ意味を持つ日本語は?と考えると、的確な熟語を思いつかない。
他人と違う、という事を引き合いに出して人の笑いを誘うというのは『笑い』という世界の根底にある一番安易な手法なのだと思う。笑いを取ることを職業としているならば、マイノリティを引き合いにだして、マジョリティから笑いを取ったほうが効率的である。
確かにそうかもしれないが、この感覚は、実は人間の本質に巣食う悪しき習性の表れなのだと感じる。
今回は、そんなコメディアンの笑いの取りかたがターゲットとなった人の家族を怒らせた。
まぁ当然といえば当然である。
アメリカという国の背景を考えてみる。
白人至上主義がRacismを生み、そこから派生していく様々な視点での差別。
肌色の違いを差別し、その他の身体的特徴を差別し、出自を差別し、貧困を差別し、同じ言語の中でさえそのなまりを差別し、性差を差別し、罹患した病気、その後遺症さえ差別する。
国の経済的発展、受ける教育の充実から人々の道徳心の醸成などの過程を経て、徐々に差別意識が薄まってくると、今度はかつて差別を受けていた側でさえ、別の対象を見出して差別し始める。
日本にあるいじめの構図だって同じ組成だろう。
結局は優越感を感じた人間が、それを発露したくて取る手段、それが差別である。
アメリカにある、根強い差別主義が構造的に今回の件を誘発した、というのはいささか大げさだろうか。
話を戻す。
今回、ウィル・スミスとしては、許しがたいジョークだったのだと思う。
しかし、である。
だとして、わざわざ自分の席を立ってステージに上がり、クリス・ロックの顔面を張り倒す、という行為が受容される訳がない。
大阪ローカルの朝の情報番組でこのニュースに触れ、大阪を中心に活躍するある芸人がコメントを求められた時、その芸人は、
『俺でも同じようにどついたと思う。そら大事な人が傷つけられた訳やから』
としたり顔でのたまった。
この感覚は、メディアで金儲けしている人間が口にするには、とても古めかしいものだと感じた。
世論の反応を見てみると、アメリカではどちらかといえばウィル・スミスの行動に否定的。
日本でも概ねそうだけれど、中には彼に共感する、擁護する意見も多い。前述の芸人もそうであるように。
これは日本にある『仇討ちは認める』というメンタリティからなのだろうか。
あの時、もしウィル・スミスが真っ白なハチマキを巻いて事に及んでいたら日本の世論は一斉に擁護に動いたかもしれないね。
俺の意見は冒頭にも書いたけれど、感情は理解こそすれ、万座の前でやっちゃいかんよね、というもの。
例えば、自分に置き換えて考えたとき、自分の愛する人が万座の前で笑いものにされたとして、その場で掴みかかるか。
いやいや、ちょっとそれは短絡的すぎるだろうと。
俺ならどうしたかなぁ、と考えると、やるならやっぱり全部が終わったあとやろうなぁ、と。
結局自分の気が済むかどうか、だけやからね。
今回、ウィル・スミスは自分の気を済ませるために張り倒しに行ったのだろうと思う。
で、張り倒した。
その映像は何度も何度も、この極東の島国でさえ放映された。
結果、彼は涙ながらに謝罪する、という結果になった。
それなら初めからやめといたらよかったやん、という話。
怒るということと、その感情を直情的に行動に移すということは、実は別の話なんだろうと思うんだな。
怒ることは人間として避けて通れない感情。
そりゃ人と関わってれば腹が立つこともある。
でも、それを相手にぶつけるかどうか、というのは避けられる事なんだと。
そのことを日常的に整理して理解しておかないと、咄嗟の時に動こうとする身体を抑えられない。
結果、脊髄反射の感度を上げてしまうことになる。
俺も若い頃は、直情的なことが多かった。
振り返れば未だに後悔することもある。
激しやすい、と揶揄もされた。
でも、そんな過去があったから、今の俺がいるんだとも思う。
俺は決して出来た人間ではないけれど、そんな俺でさえ今回のウィル・スミスの振舞いには眉をひそめた。
気持ちは痛いほどわかる。
でも、自身の立場と、その時居た環境を全て正しく認識していれば、舞台に上がって相手を張り倒す、という行動に出る前にブレーキが働いたはずだと思えてならない。
いかんせん、今回の件は直接的にも間接的にも目撃者が多すぎた。
この先、この件がどのような顛末に向かうのかよくわからないけれど、当事者同士が話し合ってどんな形にせよ解決できればいいのにな、と思う。
そして、ウィル・スミスも、クリス・ロックも、各々の仕事がこれまで通り、沢山の人達のサポートを受けて続けられればなおいい、とも思った。
I think now, like this.