いよいよ令和が始まろうとしている。
今となっては新元号が発表された日がなんか懐かしい。
それだけ、この1か月の間の密度が濃かったという事なんだろうか。
4月1日。
今上天皇から新天皇に譲位される5月1日から使用される元号が発表された。
もう1か月近く経って熱も冷めただろうから、冷静に書いておこうと思う。
このことを文字にしておくことが大切だと思うから。
「令和」
聞いた瞬間は「ん?」と思った。
「和」はいい。
俺が生まれた昭和にもついてる。
小学校3年の時に担任だった先生の名は「和子」だったし、クラスで一番の秀才だった女の子の苗字は「和田」だった。
問題は令。
令という漢字を見てまず浮かんだのは「命令」だったし「指令」だった。
でも、本当はそういうことではないらしい。
典拠は「万葉集」巻五「梅花謌卅二首并序」からだとのこと。
于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。
-時は初春の令(よい)月であり、空気は美しく、風は和やかで、梅は鏡の前の美人が白粉で装うように花咲き、蘭は身を飾る衣に纏う香のように薫らせる-
ここでいう「令」とは「物事のつやがあるように美しい」という事なんだそうだ。
即ち、「物事の艶があるように美しく風和やかな時代」ということなんだろう。
素晴らしいではないか。
現代に用いられる元号らしさもあり、厳かな風合いも感じる。
しかし、だ。
この元号の意味は、国民一人一人が自分なりに考えてもいいのではないか、と思う。
各々が自由に解釈し、この「令和」の生き方を決めればいいのである。
俺なりにこの「令和」をどう捉えるか。
やはり俺にとってこの「令」という字は厳しさを感じる。
だがそれがいい。
この厳しさと和という字が持つ柔らかさのバランスがいい。
平成という時代はどんな時代ったかと振り返ると、やはり厳しい時代だったと思う。
そして、その厳しさが人々の心を動かしていった時代ではなかったかな、と思う。
時代の厳しさから逃げるように、価値観の多様化が一気に広がった。
当然、インターネットの爆発的な普及もその一因にある。
世の中が厳しいのだから、個人くらい好きにさせてよ、ということなのか。
人々の価値観が多様化した事で、物事を「良し悪し」で考える風潮が支配的となり、「善悪」で物事を考えなくなった。
何故なら「善」の定義が多様化し始めたからである。
俺はこの事をあまり快く思っていない。
善は普遍的な基準に立脚するべきであり、「ママがいいと言ったから」と自分の行動を決める子供が増えるのはどうかと思う。
「先生はだめだというけど、ママがいいっていうから先生の言うことは関係ない」
こんな価値観で子供を育ててはだめなんだ。
来るべき令和はどうなってほしいか。
令とはこれ即ち掟なり。
今一度、かつてあった掟を思い出すべき。
昭和は良くも悪くも掟ありきの時代だったように思う。
全てそうしろというのではなく、その掟の存在をもう一度意識しなおすこと。
平成は、その掟を壊した時代。
掟を排斥して、多様化した価値観を尊重した時代だった。
令和は、平成の時代に多様化した価値観を見直して、今より少しだけその価値観を収束させる。
「掟の下で和す尊さを志す」
そんな時代になればいいな、と思う。
平成はみな自由にやりすぎたでしょう。
個々の部分最適を目指しすぎた。
みんなが今より少し我慢して、全体最適を意識すること。
自由と不自由のバランスをとる、その支点を探す時代である。
それが叶えば、日本という国はまだまだ伸びる。
日本は、昭和で価値観収束のデメリットを思い知った。
平成では価値観分散のデメリットを感じた。
アメリカの衰退、中国の躍進。
このふたつの事象から今の日本が学ぶべきことは、「価値観分散のデメリットと収束のメリット」である。
令和。
ある意味で初めての国産元号である。
大和民族の人間的ポテンシャルは、掟の下で花開き、団結によって発露する。
令を以て和す。
俺の「令和」はそうありたい。
平成の終わりにそう綴っておく。
I think now like this.