練る、ということ | I think now like this.

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日々、感じたこと、思ったことをただ書いておく場所です。

このブログを始めたきっかけは、自分がある瞬間、何かに対して何を思ったか、ということを書き溜めた結果、遠い将来にそれを振り返った時、自分の心の変遷やら、文字を認める能力の軌跡やら、そんな自分が歩いてみて感じた事への思いだったり、自身の歴史が見えるのではないか、と若い時に思ったのがきっかけ。

実は25歳の時にそれを始めたのだけれど、当時はブログなんてものは無く、単純にパソコンにテキストを書き溜めるだけだった。

ハードディスクが壊れてデータがなくなったり、東京からこっちに戻ってくるときに一旦リセットしたくていくつか消したりしながら、   今ここにある思いの山が『老後の楽しみ』という訳だ。

 

前置きが長くなったが、前回のエントリーはべんてんや、だった。

今回もべんてんやである。


11/12、11/13の2日間、べんてんやは尾張名古屋を留守にして東京に乗り込んだ。

疲弊したエンターテインメント業界の中にあって、大変な2年間だったであろう事は想像に難くない。人前で生演奏を聴かせてなんぼのちんどん屋がその機会を奪われ、それでもへこたれずに力強い足どりで舞台の上に帰ってきた。

そんなコロナ禍を雌伏の時と位置づけ、この日のためにひっそりと、そして厳しく、自らのこれからを『練った』のであろうと思う。

本当は俺も仕事を休んで高円寺まで観に行きたかったのだけれど、今回は諸般の事情で見送った。

引き換えに、配信でその勇姿をしかと見ようと2日ともパソコンの前に座った。

便利な時代になったものである。


この2daysはコラボレーション公演ということで、高円寺にある和楽器Bar『龍宮』と手を携えた。

11/12はその和楽器Bar龍宮で、和太鼓師広純との共演、そして11/13は場所をライブハウス高円寺Highに移し、その広純率いる『龍宮伝』とのコラボレーションだった。

この龍宮伝、組み合わせは無限とのことで、この日の組合せは、和太鼓、津軽三味線、筝。


2日間、合わせて約4時間の公演を画面越しに見たわけだが、率直に素晴らしかった、と思う。


実際の模様がどうであったかについては、配信のアーカイブを見ていただくとして、ここでは率直な感想を書こう。


べんてんやは、6月に大須演芸場で観た自主公演の時より、明らかに練られた内容で、べんてんや自慢の演奏力もさることながら、ひとりひとりのパーソナリティが粒だっていた。

この5ヶ月間、週に一度だという『お稽古』と、一人ずつが自らに課す自主練習、その両方にまっすぐ向き合って来たのだな、というのが画面越しにはっきりとわかった。


特筆すべきは『龍宮伝』である。

和楽器という、自国の楽器でありながら我々には馴染みの薄い楽器が目の前でものの見事に操られる。


筝、津軽三味線、そして和太鼓。


元来、我々の中にある和楽器の印象。

どこか壮厳な印象のある楽器たちだか、それがこうも印象を変えるかというほど、彼らが奏でる音の重なりは斬新で、そして先鋭的に感じた。

12日は広純ソロの出演。

彼が和太鼓を叩く姿を見た時、俺の目にはプリンスの後ろでパーカッションを奏でていた、シーラEが重なった。リズムだけで人を魅了するには、そこに技術がないと立ち行かない。

和太鼓師としてひとたび和太鼓を操つれば、唯一無二のリズムを刻む。

その姿は紛れもなく一流のパーカッショニストのそれである。


13日の公演では、それに津軽三味線と筝が加わる。

三味線はピエール小野。

世界をまたにかける津軽三味線パフォーマーである。サーフロックの名曲『パイプライン』そして、ディープパープルのスモーク・オン・ザ・ウォーターのフレーズを次々に三味線で奏でる。

リッチー・ブラックモアが、高崎晃がこれを観たらどんな感嘆の声をあげるだろうか。

俺の目には、リッチーのレスポールより、高崎のランダムスターよりかっこよく映った。


筝を操るのは、かとうのあやね。

琴と筝、その違いを俺に初めて見せてくれた。琴と筝、同じように思われがちだが、これは違う楽器なんだそうだ。現に俺自身も何が違うのだろうか?と思っていた。

筝は柱(じ、と読むそうだ)を動かして弦の音程を調整するのに対し、琴にはその柱がなく、あくまで弦を押さえる場所で音程を決める。

現に公演中、彼女が手際よくその柱を動かしてチューニングをする場面が見えた。

ステージが進むに連れ、2曲目、3曲目と、その美しい音色が際立つ。

『琴線に触れる』とはよく言ったもの。

紛れもなくその音色は俺の琴線に触れた。


俺はこの二日間で、和楽器の可能性というものを見誤っていた自分を恥じた。

こんなにも可能性を感じるとは自身でも思わなかったが、演じ手次第で無限に音楽は生まれるのだ、ということを思い知らされた気がする。


公演のラストではべんてんやと龍宮伝とが共演。べんてんやの十八番、さくらさくらを演じる。いつにもまして、すずこのクラリネットは伸びやかに歌っていた。6月より伸び伸びとした晴れやかな音色だった。


大団円とはこういうことを言うのだな、という雰囲気にあふれた華やかな舞台だった。


俺が初めてべんてんやに出会ったのはTHE YELLOWMONKEYとの共演。ROCKとの共演だった。

そして今回、和楽器との共演を果たした。

来週にはクロワッサンサーカス。サーカス楽団との共演が控えるという。


彼女たちは、何と共演しても、誰と共演しても違和感なくそこに馴染む。

しかしそこでも彼女たちの色はしっかりと輝くのだ。

七色髪のちんどんやは、相手を選ばない。場所を選ばない。

彼女たちが楽器を持ってすっくと立ったその場所が、その瞬間からステージなのである。


2年間の雌伏の時を経て、いよいよべんてんやの出番がくる。この2年、彼女たちが如何に自らの将来を練ってきたか。ちんどんの可能性を練り上げてきたか。

1stアルバム『千客万来』を引っさげて、これからが、そのお披露目の時。


さぁ、変えよう。

新しいちんどん屋を見せて歩こうじゃないか。

日本全国津々浦々、くまなく、その千客のもとへ赴こう。


イエローモンキーだって30周年をべんてんやにお祝いしてもらえて嬉しかったはず。

今回の龍宮の皆さんだって嬉しそうだった。

街で姿を見かけた人々だけじゃなく、舞台を同じくした共演者だって笑顔にする。

べんてんやとはそういう人たちなのである。


(文中敬称略)