マリちゃんがバイクを直結している頃、渋谷の山田のアパートの一室では稲川とユリが2人で過ごしていた。ユリが打合せが終わった後に山田から手渡されたメモには、稲川からのメッセージと携帯のアドレスが書かれていた。「今回の打合せで伝えられなかった重大なことがあるから、渋谷で待っていて欲しい。機密事項なので一人で。」と書かれていた。とりあえず携帯にメールを送って稲川と連絡を取り合い、心配する三間坂を先に帰して、ユリは待ち合わせの時間まで渋谷をうろうろして過ごした。

村一番のお祭り、夏のはっさく祭りをはるかにしのぐ人の多さに圧倒されながら、ふらふら街を歩いていると、ナンパされたりAVのスカウトにつかまったりして、怖くなったので犬の銅像の前で休憩をすることにした。これだけ人が集まるということは、きっとこのわんちゃんはここら辺のご神体的な存在なんだと思った。村の神社のこま犬みたいなものだろう。

ユリは稲川と初めて出会ったときを思い出した。今回と同じく、村への誘致のために企業周りをしていた。1週間の予定で名前のある企業を手当たり次第訪問した。最終日、最後に訪問した会社も冷たく追い返され失意の中でホテルに帰りついた。ホテルは仕事で先に北はっさくに帰った三間坂が気を利かせて高そうなところを予約してくれていた。最後の東京での孤独感と、失望感から、一人で部屋にいるのがつらかったユリはラウンジにお酒を飲みに行った。夜景がきれいに見えるラウンジで、隣には幸せそうなカップルがいちゃいちゃしていて、さらに孤独感が増した。泣きそうになっていると、いきなり隣の女が男に平手打ちをして、席を立ち上がった。男は後を追うことも無く、女を見送る。女の人はモデルみたいにスタイルが良くて、とっても美人。その一連の流れをボーっと見ていると、ふと男と目が合った。なんだかちょっとハンサムでかっこいい。こういう美女とイケメンが普通に恋愛をしてるってのがさすが東京だって思っていると、男が自分に話しかけてきた。聞き上手な男に乗せられて自分の置かれている状況を話し始めると、男は親身になって相談に乗ってくれた。自分の会社で相談に乗れるかも知れないので、もう一度東京に来るようにと言ってくれた。その後はどんどんお酒を飲んで、後のほうはまったく記憶が無い。朝起きたら一人で部屋のベッドにいた。一緒に飲んでいたはずの男はどこにもいなかった。

そして今日、男の名刺をたよりに再び上京した。男の会社で応対してくれた山田という人は、とっても親切で自分たちの話をきちんと聞いてくれて、何とかなりそうな希望が持てる気がした。

そんなことを考えながら、待ち合わせの人であふれるハチ公の前で、ユリは稲川との再会をわくわくしながら待っていた。

渋谷に向かうタクシーの中で、稲川は後悔していた。セレブ合コンで出会ったモデルの卵を落とすために、わざわざ女の誕生日に日比谷のペニンシュラ東京に部屋を予約して、さらにプレゼントまで用意してやったのに、誕生日ケーキに書かれた名前を間違えただけで怒って帰るとは。大体なんであの女はモデルの癖にSETSUKO☆なんだ。そりゃTETSUKO☆と間違えるって。大体、苗字はどうしたんだ。あと名前の最後の☆は何を表現してんだ?

SETSUKO☆に逃げられた後に、たまたま隣の席に見つけた美女と話が弾みだしたときはラッキーと思ったけど、酔ってくるとなんだかわけのわからない方言で熱く語るし、酔わせて何とかしようと思ってさらに酒を飲ませると、突然大暴れしだすし。大体、美人の癖に酒癖が悪いってのはどういうことなんだ。もっとおしとやかに酔っ払ってほしかった。美人が暴れて壊したグラスは全て稲川が会社の経費で落とした。だいぶ経理から目をつけられてるのに。

自分が適当に言ったことを本気にして、会社までやってきたときはびっくりしたけど、同じ失敗は2度しないことがモットーの稲川は、今度こそリベンジすることを決意していた。今日は、あんまり酒を飲ませないで、適当なえさをぶら下げながらあんなことやこんなことをして楽しもうと考えていた。あんまり、頭は切れそうに無いから、稲川の経験と実力ならそんなに難しい相手ではないと判断していた。仕事中にやり取りしたメールを見る限り向こうも結構乗り気だし。今日は楽勝だと考えていた。

ビルに埋まってるテレビと電車と犬と宝くじ売り場が見えると言うキーワードから、ユリがハチ公口で待っていると判断した稲川はタクシーを降りて、ハチ公を目指した。待ち合わせの人であふれる中、ぽつんと一人で座っているユリはすぐに発見できた。服装はぜんぜんダサいけど、素材はそこらへんの頭の悪そうな学生やら、職業不明のギャルたちよりと20馬身くらい飛びぬけている。

「ごめん。仕事がなかなか終わらなくて。まった?」稲川の声に反応して、顔をあげるユリ。やはり可愛い。
「稲川さん。こんばんは。人が多くて疲れちゃいました。」
「ごめんね。ここらへんじゃゆっくり話が出来ないから、まずはどこかに飯食いこう。まだ食べてないでしょ?」
「はい。」
「その後、俺んちでゆっくり打ち合わせをしよう。ここから歩いて10分くらいだから」
「そうなんですか?稲川さんこんな凄いところに住んでるんですか?」
「ちょっと歩いたら静かなんだよ。」
「じゃあ、稲川さんのおうちに行きましょ。私、料理作りますよ。ちょうど、村のPRの為に特産品を持ってきてたんですよ。でも、使うことが無くて。」そういって、ユリは大きな黒い鞄を開く。中で何かががさがさと動いた気がする。
「なんか今動かなかった?わさわさって。」
「ええ。新鮮なのが一番だと思って、生のまま持ってきたんです。」
「生?」
「はい。とってもおいしいから、きっとこれを食べたら、稲川さんも北はっさくをとっても気に入ってくれると思いますよ。行きましょ。」そういって可憐に微笑む。
「じゃ、じゃあ行こうか。」

なんだか怪しい気がしたが、余計なプロセスを省けるなら、それはそれでいいと判断した、稲川は山田のマンションに向かうことにした。じゃあ、料理を食べた後にあの子を食べようかな、というセリフが勝手に頭に思い浮かんでくることに年齢を感じつつ、家への道を歩いた。

マンションまでの道のりでは、ユリが故郷への熱い思いを語っていたが、稲川はこれからのことをシュミレーションするので忙しく、あまり聞いていなかった。山田のマンションの前について、オートロックに暗証番号打ち込む。ちなみに番号は「5963(ゴクローサン)」。松涛の手前の閑静な住宅街。稲川は、こんなところで2LDKの部屋を会社の金で借りられてるんだから、山田は自分にマンションを貸し出す義務があると思っている。ポストの裏側にスペアキーが貼り付けてあり、稲川は何食わぬ顔でキーを取り外す。

「凄いいい部屋ですね」山田に整理整頓を徹底させているので、ここに入った女の子はみんなそう言う。
「コーヒーとか飲む?」
「じゃあ、お願いします。その間に私料理作りますね。フライパン借りて良いですか?」
キッチンでユリにフライパンを渡す。稲川はコーヒーカップを二つ用意する。一緒にキッチンに立つのはなんだか楽しい。ユリは例の鞄の中から黒いビニール袋を取り出す。それをよく見た稲川はびっくりして、後ずさりした。
「な、なにそれ?」
よく見るとそれは黒いビニール袋ではなくて、透明のビニールの中に米粒ほどの黒い物体が一杯につまっていて、しかも米粒はがさがさうごめいている。
「オオグロサンショウモドキです。」
「何それ?」
「東京では食べないんですか?これを炒めて、そのまま食べるんです。北はっさくではほとんど毎日食べられてるんですよ?」
「なんか動いてない?」
「はい。虫ですから。昨日の夜、村を出るときに生け捕りにしてきたの」
「虫!?」
「すぐに出来るからちょっと待っててくださいね。そうだ、出来るまでこれ食べててください。」
ユリはまた鞄の中から棒状の物体を取り出す。稲川は受け取ってまじまじと見つめた。
「これは何?」
「きのこの一種です。カリダカダンコンダケって言うんです。これも北はっさくの名産なんですよ。そのまま食べても大丈夫だからどうぞ。」
ユリが無邪気に微笑みながら、差し出す。稲川の手の中では、φ5cm位の卑猥な形のきのこがそそり立っている。

炊飯器のご飯とユリが作った、オオグロサンショウモドキの炒め物と、カリダカダンコンダケが並んだ食卓を囲んで食事が始まった。稲川は適当にユリの話に相槌を打ちながら次の展開を考えていた。

その頃マンションの前には、マリちゃんと山田が到着した。

「いつまでしがみついてんだよ。降りろよ」
「着いたんですか?」
「早く降りろよ。で、鍵あけろよ」
「本当に行くんですか?なんか、やっぱりこういうのは突然行くと向こうも驚いちゃうから、一度電話して連絡だけでも入れたほうが良いと思うんですけど。」
「悠長なこといってんじゃねーよ。お前の家なんだから、いつ帰ってきても良いだろ。だいたいお前自分の家を勝手にホテル代わりに使われていいの?」
「だってそれは、いろいろ事情があってしょうがないんですよ」
「事情なんて関係ないだろ。いいように使われてて、情けなくないの?」
「それは・・・」
「ほんとダメな男だな」
「すいません」
「とにかく行け!」

山田はマリちゃんに言われるがままに、エントランスを抜けて、エレベーターをあがる。隣でマリちゃんが腕をぽきぽき鳴らしている。自分の部屋のドアの前までたどり着いて、マリちゃんの顔を見ると、目でやれという合図をされた。山田は観念してポケットから鍵を取り出して、ドアを開けた。

マリちゃんが、映画に出てくる警察みたいにドアをけって部屋の中に突入する。山田はあわてて、後をつけた。部屋に入っていくマリちゃんの後姿を見て、靴だけは脱いで欲しいと思った。

リビングに続くドアの向こうから、2人の話し声が聞こえてくる。

「怖がらなくて大丈夫だから。ちょっと力を抜いて。」
「なんか怖いです。」
「じゃあ位置を変えよう。ずっと上に乗ってちゃ、ユリちゃんも疲れちゃうでしょ。」

ドアの前で立ち止まって、中の声を聞いているマリちゃんの方がプルプル震えている。山田は怖くて声をかけられなかった。ゆっくりマリちゃんがドアを開いて中に入る。どうにでもなれと思って山田も後に続く。山田の目に飛び込んできたのは、想像もしていなかった光景だった。

 定時後の分室に残っているのは、山田と近藤だけ。城田部長は東京証券取引所がしまる3時を過ぎるとホワイトボードに外出と書いてパチンコ屋に向かっていった。池田課長は、今日は対人恐怖症のグループセラピーの日。ちなみに明日はリストカットをやめられない人たちのグループセラピーの日。課長は毎日なんらかのセラピーに通っている。メイリンは、秘書室からの電話に呼び出されてそそくさと帰っていった。机の上にははっさ君が乗っている。山田があげたら、妙に気に入って早速机に飾っていた。外国人のセンスはよく理解できない。近藤は相変わらず、仕事を手伝わないでパソコンに向かっている。

 如何に長時間サービス残業したかが評価される社内で、時間ぴったりに変えれるのは分室の数少ないメリットだが、みんなの仕事が山田に集中して、山田だけはなかなか帰れない。まだまだ、チェックすべきダンボールは山積みになっている。

「よう」

ダンボールの向こう側から、稲川がひょっこり顔を出した。

「稲川さん。どうしたんですか?」

経営企画室の人間がこのフロアのさらに隅っこの分室までやってくるのは異例だ。

「暇だろ?」
「暇じゃないですよ。」
「暇じゃん。なあ」

稲川はパソコンに夢中の近藤に声をかける。

「ええ、まあ」
「お、お前凄いの見てるな。今度、俺にもそのサイト教えてくれよ」
「あ、まあ、いいっすよ」

稲川は近藤と話し出す。一年間同じ部署にいても、山田はいまいち近藤との接し方を分かってないが、一瞬にして会話を成立させる稲川の力はさすがだと思った。なんだかエロサイトの話で盛り上がって、熱く握手まで交わしている。

「じゃあ、よろしく近藤っち」
「はい。兄さん」

そういって、ようやく山田のほうに振り向く。いつの間にか山田より近藤と仲良くなってる。

「おい。飲みに行くぞ」
「今からですか?」
「うん。行くぞ」
「まだ、仕事あるし。」
「ばかだなお前。そんな仕事やってもやらなくても同じだろ?」
「何いってるんですか。そんなこと無いですよ。」
「そんなもん、適当にこなしときゃいいんだよ。だからお前はいつまでたってもダメなんだって。ほら行くぞ。今日お前の力が必要だから」
「何で?」
「今日は、ちょっと2試合こなすから」
「2試合?」
「そう。受付のマリとユリちゃん」
「え、マリちゃんとのみに行くんですか?あとユリちゃんって誰?新キャラ?」
「ユリちゃん、今日の午前中に会っただろ。田舎の議員」
「あ、あの子ですか」
「そう。今日はユリちゃんと相談という名目でゆっくり飲みにくつもりだったんだけどさ。マリがどうしても今日あいたいって言っててさ。そこで、君の出番だよ」
「僕?また送迎ですか?」
「いや。毎回それはかわいそうだから、マリと一緒に飲んであげて。その後は君の腕次第だから。夜のマリはすごいから。で、俺はユリちゃんと君のアパートで打ち合わせするから。」
「なんですか打ち合わせって。しかも僕のアパートでって?」
「ほらとりあえず行くぞ。マリがもう一時間くらい待ってるから。」

稲川は独身だが、自分のマンションには同棲している彼女がいる。ちなみに彼女は会長一族の娘。家柄は良いけど、残念ながら顔も会長一族の血を濃く受け継いでいる。稲川はいつも彼女が何かに似てるなと思ってるんだけど、この前見ていたドキュメンタリー番組に出てきた河童のミイラにそっくりなことに最近気がついた。河童のミイラを愛せるかどうか葛藤があったけど、悩んだ末何とかなるという結論に達して、大いに彼女を利用することにしている。とはいえ、家の中では完璧に彼女が強く、浮気がばれると命の危険さえあるので、浮気する場合は山田のアパートが使われることになっている。その見返りに、人事に掛け合って、山田には都内の2LDKのアパートを格安で貸すように細工をしていた。

丸ビルの最上階のレストランでマリちゃんは待っているらしい。山田はそこに稲川の代わりとして派遣されることになった。稲川はその間に、山田のアパートでユリと打ち合わせ。山田はあまり気乗りがしないが、高級コース料理が食べられることと、マリちゃんと話が出来ることはちょっと嬉しかった。どうせ、稲川が自分のアパートを使ってるときは、外のコンビニで時間を潰さなきゃいけない。

最上階のレストランについて、入り口で稲川の名前を言う。マリが待っている個室に通された。遠くに東京タワーが、目の前にはライトアップされた皇居が見える。こういう店を知っているところが、稲川の凄いところだと思う。マリは山田の顔を見て、一瞬リアクションに困ったみたいだ。偶然あった知り合いに、気まずいところを見られたような、そんな顔だった。が、すぐに取り繕って笑顔を見せる。

「山田さん、こんばんは。」会社の外でマリちゃんとお話できることに感動しながら、マリちゃんを傷つけるメッセンジャーとして、職務を果たすことにした。
「ごめんなさい。稲川さんはちょっと急用が出来てしまったみたいで・・・」
「そう」あまりショックはなさそうだ。きっと稲川に待たされるのになれてるんだろう。思いのほか平気そうな声で続けた。
「じゃあ、稲川さんが来るまでちょっと食事をしてましょうか?」すばらしい提案。ただ、稲川はいつまでたってもやってこないはず。真実を伝えることにした。
「あの、多分、稲川さんは今日は来れないと思うよ。だから、今日は僕と一緒に・・・」
「んだと?」
「え?」

なんか、マリちゃんの口からマリちゃんとは似つかわしくない言葉が発せられた気がした。若干目が怖い。

「どういうことですか?」また、いつもの上品な笑顔に戻って、少し首をかしげながら聞いてくる。いつものマリちゃんに戻ったみたいだ。ちょっと安心。
「いや、だから、稲川さんは今日はちょっと来れないかもしれないかなって思うんだけど」
ドン!という音がして、机が揺れた。どうやら、誰かが足で机を蹴り上げたようだ。机の下を確認しようと下を向いた山田のネクタイがつかまれて、顔を引き上げられる。目の前にマリちゃんの顔が迫ってくる。体がテーブルに当たって、テーブルの上のグラスや食器が床に落ちる。首が苦しい。

「おい、こら、どういうことだ?カス」
「はい?」
「どういうことだって聞いてんだよ」
「いや、だからあの。マリちゃん?」
「気安く名前呼んでんじゃねーぞ。ゴミ虫」

あの受付で優しく清楚に微笑むマリちゃんからは想像もつかないしゃべり方だ。山田はこれは夢なんじゃないかって思ったけど、ネクタイを締め上げられている、この苦しさは本物みたいだ。

「おい、テメー電話持ってんだろ。電話しろよ。」
「電話って?」
「何度も言わせんな。あいつに電話しろよ」頭をたたかれた。何だこれは。山田はこんなに怒ってる人を見るのは久しぶりだった。
「自分でしたらいいじゃないですか」いつの間にか敬語になってる。
「あたしがしても出ねーんだよ。それぐらい頭使えよ」
「すいません」
「いいから早くしろよ!」

山田は身の危険を感じながら、携帯を開いて稲川にダイアルした。体が震えてうまくボタンが押せない。5度目のコールで稲川につながる。

「おう、山田ちゃん。どうした?」携帯の向こうからのんきそうな稲川の声が聞こえる。
「どうしたじゃないですよ。何かマリちゃん怒ってるんですけど」
「だろ。こえーだろマリ。」
「なんなんですかこれは。すごいにらまれてるんですけど。」
「気をつけろ。あいつ元ヤンだから。ちなみにレディース時代のあだ名はブラッディーマリーだから。マリだけに。」
「そんなこと聞いてないっすよ。すごいネクタイ締め上げられて、すごい見られてるんですけど。身の危険を感じるんですけど。」
「ここからが、お前の腕の見せ所だから。がんばれ。」
「がんばれじゃないっすよ」
「ちょよこせよ」マリちゃんが携帯をひったくる。
「テメー、どこにいんだよ!」

携帯に向かってきたいない言葉をののしりまくるマリちゃんを、山田は呆然と見つめていた。昼間の清楚さはかけらもない。電話が一方的に切られたようで、さらに怒ったマリちゃんが投げつけた携帯が山田の顔面を直撃する。なんなんだ今日は。やっぱり稲川さんにかかわるとろくなことが起こらない。意識が遠くなりかけたときに顔面に水を思いっきり掛けられて、現実に引き戻された。

「おちてんじゃねーぞ。どこだよ。稲川どこにいるんだよ!」
「さあ、わかりせん」また殴られる。
「どこだよ!お前の家か?」
「はい」そういえば、マリちゃんと浮気してるときにも家を提供した覚えがある。
「行くぞ」
「行くってどこに?」
「お前の家に決まってんだろ!」
「今から?」
「あたりめーだ。」
「僕も?」
「お前の家なんだから当たり前だろ。とりあえず財布出せ。」

おびえながら財布を差し出す山田。マリちゃんは店員を呼んで、店を出ることをつげる。

「すみませーん。この人、酔っ払っちゃったみたいでー、ちょっと暴れちゃって、これで足りますか?」
昼間の笑顔で、財布から抜き取った一万円札3枚を店員に渡して、店を出る。山田の1か月分の食費に相当する額だ。

ビルを出て、肩をいからせて先を進んでいくマリちゃんの後を、山田はとことこついていく。

「あのー、今日はもう帰ったほうがいいんじゃないですか?」
「口答えしないでついてこい」
「どこまで行くんですか?」
「いいから」

何かを探しながら、国道一号線にたどりつき、道なりに歩き続けるマリちゃん。ふと何かを発見して立ち止まる。マリちゃんの目の前には、駐車中の大型バイクが。

「これもってろ」ルイ・ヴィトンのバックを山田に押し付けて、バイクのハンドルを持ってガタガタ動かしながら、配線をいじくっている。
「あのー。何をなさってるんですか?」
「今忙しいから話しかけるな」
「はい」

しばらくして、エンジンのかかる音がする。

「よし。行くぞ。」
「行くって?これで?」
「他にどうするんだよ?テメーの財布じゃタクシーも乗れねーだろうが」
それは、あなたが勝手に支払いをしたからじゃ、と思ったが、言うのはやめといた。
「あのー。勝手に持って行ったらまずいですよね。持ち主の人、困っちゃいますよね」
「頭使えよ。お前が後で返しに来るんだろ?」
「僕がですか?」
「細かいこと気にしてないで乗れよ。」マリちゃんはバイクにまたがって、あごで後部座席を指す。恐る恐るマリちゃんの後ろに座る山田。

「渋谷だな?」
「はい?」
「お前んち渋谷だな?」
「はい」
「道案内しろよ。あと、変なところ触ったら殺すから。」

そういい終わらないうちに、バイクはものすごい加速で発進する。

数分後、首都高を2人乗りのバイクがすさまじいスピードで走りぬける。ステップがこすれるくらいの角度でハングオンしながらカーブを駆け抜けていく。運転席の女は昔を思い出して、「ひゃっはー!」と叫んでいる。後部座席の男は「落ちちゃう、落ちちゃう」とつぶやきながら女にしがみついている。
 丸の内南口の改札を出て、まだ動き始める前のオフィスビルの群れを見上げる。眠りから覚めたばかりの早朝のオフィス街は、ミルクを飲んだばかりの子供の羊みたいに静かで、これから始まる一日を声を潜めて待っているみたいだ。この一つ一つのフロアに、何人もの人たちがやってきて、それぞれの一日のストーリーを始める。今日、生まれる数え切れない一日に思いを馳せつつ、会社までの道のりを歩いているとズボンのチャックが全開だったことに気がついた。

 しかもYシャツのすそがいい感じにチャックから飛び出している。山手線で目の前に座ってた女の人が、逃げるように席を立って隣の車両に移っていったわけがわかった。危なかった。世の中の人たちの日々を考えている場合じゃない。このまま会社に行ったら、また稲川さんに怒られるところだった。Yシャツをズボンの中にしまって慎重にチャックを閉める。昔稲川さんに指摘されて、あわててチャックを閉めて思いっきりはさんで大惨事になったことがあったので、今回は慎重に収納した。

 次々ビルが生まれる丸の内の中でも一番新しいビルに入って、エレベーターで27階を押す。27階から30階までの3階分が山田トオルの勤める、一ツ橋電機の本社だ。従業員3000人を抱えるかつての総合電機メーカーの一角とは言え、過去3期赤字続きで、今期の業績も絶望的なのに何でこんなビルに移転できたのか不思議でならない。きっと見栄っ張りな会長と社長のご意向なんだろうけど、どこからお金を引っ張ってきてるのかいくら考えても良くわからない。

まだ7時過ぎなので、広いフロアの中にはほとんど人がいない。この広いオフィスの一番隅っこで書類の山に埋もれている一角が山田の所属する経営企画室分室。自分の席について、パソコンを開く。パソコンを使うような仕事はほとんど無いんだけど、一応一人一台ノートパソコンが割り当てられている。赤字でも経費節減という言葉を知らない会社の数少ないメリットだ。

「おはようございます。」書類の山の中から声がする。
「近藤君また泊まってたの?」
「はい。ちょっとむかつく外人がいたから、徹底的に嫌がらせをしてたら、いつの間にか仲良くなっちゃって、一緒に冒険してたんすよ。先輩もどうっすか?」

 近藤は、去年、日暮里国際総合大学なる4流大学を2留して卒業して入社してきた新人。重度のネット依存症で、一日中インターネットをしている。最近は会社に泊まって一晩中オンラインゲームをしている。近藤がアクセスしたエロサイトのせいで、ここ1年ですでに2回全社のメールサーバーがウイルスに感染した。

山田のメールボックスにも一日2回は海外からバイアグラの宣伝メールが入ってくる。それを購入した会長が副作用で2週間入院したが、対外的には過労による体調不良ということになっていた。よほど強いコネがあるみたいで、仕事をしないでも誰からも怒られないし、くびにもならない。近藤はドレスコードからもフリーで、伸ばしっぱなしの天然パーマがいい感じなアフロみたいに仕上がっている。よれよれのTシャツとハーフパンツ以外を身につけているところも見たことがない。

「僕はいいよ。それより暇なら仕事手伝ってよ」
「いや、それは遠慮しときます。そんなことより、会社のサーバーにアクセスしてたら、社長からメイリンちゃんのラブメールを発見したんですよ。見ます?」
「いいよ。そんなの見つかったらまた怒られちゃうよ」
「大丈夫ですって。それにしても、メイリンちゃんがあんなことをしてるとは・・・」

 メイリンは経営企画室唯一の一般職の女の子。多分20歳になったばかり位の年齢。社長が一時期はまってたCP(中国パブ)のホステスで、社長のお気に入りだったって言うのが社内のうわさだ。いつの間にか入社して、経営企画室分室に送り込まれてくるくらいだから、多分間違いない。山田より多く給料が支払われてるのも間違いない。日本語が片言だけど、この部署ではまともな部類に入る。ただ、会社の前でホストっぽい男と歩いてる姿をたびたび目撃されてたりもする。

 ディスプレイを見ながらぶつぶつつぶやいてる近藤を無視して、山田は自分の仕事に取り掛かった。仕事というのは会社に寄せられたクレーム品の山を整理して工場に発送すること。
 一ツ橋電機は創業者で現在の社長の祖父、会長の父親の一ツ橋栄一郎が浅草で始めた、家電修理屋さんから大きくなった会社で、今も細々と家電修理ビジネスを継続している。現在の会長の意向で、創業の事業である家電修理は、社長直轄の経営企画室主管の事業とされているんだけど、とはいえ、売り上げも利益も会社の規模から考えると1%にも満たない社長一族のこだわりだけで続けている事業なので、エリートの集まりの経営企画室から分室へ丸投げされている。しかも栄一郎の、「どんなに会社が大きくなってもお客様から本社に直接ものを送って頂くことで、お客様とのつながりを大事にする」という哲学をかたくなに守っているので、効率が悪くてもいったん本社で受け取ってから、工場にものを送付しなおしている。

 ひょっとして工場に直送してもらうことが出来れば、自分の仕事はいらないんじゃないかと思うこともあるが、無心であて先ラベルを貼っているとそんな恐ろしい考えも頭をよぎらないのを発見した山田は、静かにオフィスの片隅に積み上げられたダンボールの山に向かっていく。

 9時が近くなってきて、オフィスには人が多くなってくる。オフィスの片隅では山田が次々ダンボールの山を片付けている。「オハヨゴザイマス」「あ、おはよう」メイリンが出社してきて、山田はダンボールの山の中から顔を出す。露出の多いキャバ嬢のような服を着ている。どうやら今夜は社長とデートの日みたいだ。

 ふと見ると城田部長が席で日経金融新聞を読んでる。隣の席では池田課長がぶつぶつつぶやきながら書類を読んでいる。二人とも挨拶をしないので、いつの間にやってきたのかよく分からない。

 城田部長は重度のギャンブル依存症で、仕事中は株、仕事後はパチンコ、休日は競馬をして過ごしている。会社で仕事をしている姿は一週間に2回くらいしか見かけない。それ以外は、デイトレードに精を出しているか、ギャンブルの勉強をがんばっている。会長の飲み友達なために、部長の肩書きを貰っているといううわさだ。

 課長は仕事はまじめなんだけど、要領がびっくりするほど悪い。数年前、社長の鶴の一声で突然始まった超成果主義の犠牲者で、がんばりすぎて心がやられてしまいこの分室に送り込まれてきた。この前、女子トイレで大声でポニョの主題歌を熱唱しているところを発見されて、警察に捕まって2日間緊急入院していた。2人ともメイリンの挨拶には答えないで、自分の世界に入っている。分室のいつもの朝が始まった。

 内線がなってメイリンが電話を取る。「ハイ。・・・ハイ。・・・ハイ。」メイリンは電話では「ハイ」しかしゃべれない。ほとんど問題ないんだけど、離席中に折り返しの依頼を受けても、勝手に電話を切ってしまうので、折り返し電話を出来ずに怒られることが良くある。

「ブチョさん。デンワだよ」ちなみにメイリンはいつもタメ口。CP時代の癖だろう。
「はい。城田です。ハイ!」

 城田部長は声を裏返らせて、いきなり席を立ち上がった。

「ハイ、今すぐそちらに向かわせます。はい!」

 見えない相手にお辞儀をしながら、受話器を置くと城田部長はまた声を裏返らせて叫ぶ。

「山田君!」
「はい」ダンボールの山の中から山田が顔をあげる。

「山田くん。ちょっとこっちに来て。」山田はダンボールから這い出して部長の机の前に立った。

「山田君。なんか上の稲川課長が君を呼んでるんだけど」
「稲川さんがですか?何だろう?」
「何か心当たりある?」
「さあ。」

 昔から稲川に呼び出されるとろくなことが無い。この前は、役員用のクラウンでセフレ3号の送り迎えをさせられた。

「僕の株の話とかしてないよね?何か聞かれても黙っといてね。」

城田部長はハンカチで汗を拭きながら、雨の中の捨て猫のような目で山田を見つめる。汗のせいではげ頭がテカりにテカって来ている。

「大丈夫だと思いますよ。」
「くれぐれも頼んだよ。」

仕事では見せない必死さが伝わってきた。山田は、分室の部長が株をやってようが、マンションの販売をやってようが、会社はなんの関心も払ってないから安心してください、とアドバイスしてあげようかどうしようか迷って、結局やめた。一応部長だし、何も気づいてないならそのほうが幸せかもしれないと思った。

 経営企画室は役員室のある30階にある。山田は階段で経営企画室へ向かった。稲川は山田の2歳年上の30歳。既に課長の肩書きを持っていて、会社設立以来のスピードで出世しているエリート。山田の高校の先輩で、昔から要領が抜群によかった。大学時代、持ち前の押しの弱さと気の弱さでどこも受かった会社が無かった山田を拾ってくれたのが稲川だった。当時既に頭角を現し始めていた稲川が人事部に根回しをして、推薦してくれたと後から聞かされた。

 入社してからは稲川に子分のように使われたが、それでも内気な自分の実力だけじゃ入れないような大きな会社に入社できたことは稲川のおかげだと感謝している。

 30階は他の階とはつくりが違う。役員受付があり、きれいな受付嬢が2人座っていたりする。そのうちの一人は山田のお気に入りのマリちゃん。マリちゃんは目が合うとやさしく微笑んでくれる。山田は稲川に呼び出されるたびに、受付の前を通るので、顔を覚えてもらっている。照れながら会釈して通り過ぎようとすると

「山田さん。稲川さんが第2応接でお待ちです」とマリちゃんが天使のような声で教えてくれる。
「応接ですか?」
「はい」
「ありがとうございます」

 応接を取っているというのは、オフィスで話せないことなんだろうか、どうせまたろくなことじゃないんだろうな、と恐れつつも、マリちゃんとお話できたことが嬉しくて、そんな思いも一瞬で無くなった。

「失礼します」ドアを開ける。応接は赤字企業とは思えないほど豪華だ。とくに窓から見渡せる東京の街並みの景色が素晴らしい。高級ブランドのスーツを着こなした稲川が、ガラス窓から東京の街並みを見下ろしている。

 稲川は若いのにこういう姿がとてもよく似合う。社内営業力が最重視される超成果主義のおかげで、稲川の年収は山田の年収の軽く3倍はあったりする。ドアのほうを振り向いて稲川が口を開く。

「山田君ちょっと頼みがあるんだけど」
「何ですか、今度は?」
「隣に田舎の議員が来てるんだよ。君ちょっと適当に応対してくれない?」
「僕がですか?」
「おう。山田なら出来るからさ」
「自分でやったら良いじゃないですか」
「それがさ、いろんな事情があって顔を合わせらんないんだよね。話し聞いたら納得して帰るからさ、頼むよ。」
「話って何の話ですか?」
「なんかさ、その議員の地元にうちの会社の工場を誘致したいらしくてさ、そのお願いとPRに来たんだって。前に飲んだときに調子のいいこと言っちゃってさ。まさか本当に東京まで来るとは思ってなかったんだけどさ。暇な奴らだよな。」
「何でそうやって出来ないことを言っちゃうんですか?」
「しょうがねーだろ。そういうのが必要なときもあるんだよ。大人には。とりあえず話聞くだけで良いから。俺は今、他の会議で席を外せないことになってるから。で、終わったらそいつにこれを渡してくれ」

 そういって稲川は折りたたんだメモ用紙を山田に手渡した。今までも、3股かけてたのがばれたときに、それぞれの女の子への説明員として派遣されたり、使い切った接待費を補充する為に、飲み屋に呼び出されて領収書を切らされたり、何かと便利に使われてきたけど、議員の応対は初めてだった。

 稲川の押しの強さと、山田の押しの弱さが絶妙に絡み合って、いつも山田は稲川の言うことを聞いてしまう。

「じゃあ、よろしく頼んだ。こんどマリを紹介してやるから」

 そういって稲川は会議室を出ていった。山田の憧れの受付のマリちゃんも稲川と付き合ってる。あんな可憐な子がこんないい加減な男とどうやって付き合ってるのか不思議でならないけど、頭が切れて仕事も遊びも上手にこなす稲川に惹かれる女の子の気持ちはちょっと分かる気がする。

 待たせっぱなしにするわけにも行かないので、山田は隣の応接室に向かうことにした。まあ、話を聞くだけで丁寧に対応して言質をとられるようなミスを犯さなければ、なんの問題もなく終わる仕事だ。

 ドアのノックして、応接室に入ると、50過ぎの上品な男と、自分と年の変わらないような秘書のような女の子が席を立って待っていた。どんな田舎ものかと思ってたけど、男はきちんとスーツを着こなして、年相応に落ち着いている印象だ。

女の子のほうは、秘書と言うには若すぎるし、なんだかか弱そうで頼りないが、一目で釘付けになるほど可愛い顔をしていた。きっと街を歩いてて、すれ違ったら振り向いて見てしまうくらいの美人だ。

「どうもお待たせしました」そういって山田は挨拶をする為に名刺を取り出した。「一ツ橋電機の山田です。よろしくお願いします。」そういって男に名刺を差し出すが、男は困った顔を見せた。

「先生、どうぞ」と言って男が女の子を促すと、女の子はおずおずと名刺を差し出した。よくわけが分からないまま、山田は名刺を受け取った。名刺には、「北はっさく市市会議員 佐藤友里」と書いてある。

「え?こっちが議員?」山田は思わず尋ねてしまう。
「はい」ユリが恥ずかしそうに答える。
「じゃあ、こっちは?」
「私は秘書の三間坂です。」
「ああそうですか。どうも。あ、どうぞ座ってください」
「はい」

山田はユリと向かい合って座る。よく見ると本当に可愛い。受付のマリちゃんもきれいだけど、目の前の先生はきれいなだけじゃなくてどことなく清楚で守ってあげたいかわいらしさがある。こんな子と友達になって、デートとかして、だんだん仲良くなって、ひょっとして僕は彼女のことが好きなんじゃないかって気がついて、この気持ちを伝えずにはいられないと思うようになって、何回目かのデートで丸の内でおしゃれディナーをした後に、夜の日比谷公園とかに呼び出して、ダメと分かっていながらも好きですって告白したら、ちょっと間があって彼女が静かにうなづいて、実は彼女も自分のことを前から好きになってて、両思いだったってことが発覚して、笑いながら、両思いになれた感動からちょっと涙ぐみながら、ベンチに座ってキスをして、その後、多少些細なけんかとかもしながら、幸せな日々を過ごして、30歳くらいでプロポーズして、仲間から祝福されつつ幸せな結婚をして、品川のリバーサイドのマンションなんかを買ってしまって、可愛い子供が出来て、子供が立派な大人になるのを見届けて、二人で余生を十分に楽しく過ごして、彼女に見取られながら死ぬ間際に、ありがとう、楽しかったって言って死にたいなって妄想をしてると、

「あのー」というユリの声で山田はふとわれに帰った。
「あ、すいません。あの、せっかく稲川にアポイントとって来てもらったみたいなんですけど、あいにく稲川はどうしても外せない会議が入ってしまって。」
「そうなんですか」ユリは少し悲しそうな顔でつぶやいた。
「というわけで、僕がお話を伺います。」
「そうですか。ではよろしくお願いします。稲川さんから大体のことは聞いてると思うんですけど・・・」ぜんぜん聞いてない。
「あの、話を整理する為にも出来るだけ最初のほうからお願いします」「そうですね。実は私たちの市は東北の小さな村が6つ合併して新しく出来た市なんですけど、特別重要な産業がなくて、ここ数年都市部への人口の流出が激しくなっており、私たちは地域振興のために町おこしをしようと思ってるんです。北はっさく市って知ってますか?」
「なんとなくなら・・・」
「本当ですか!」

ユリの表情がぱっと明るくなる。本当はぜんぜん知らないけど、なんとなくって言ってみてよかった。

「最近は、町おこしのために、地元出身の作曲家のケロッグ堺先生にイメージソングを作ってもらったり、マスコットを作ったりしてるんですよ!マスコットは私がデザインしたの。これ。」

そういってユリは大きな黒かばんの中から奇妙なオレンジ色の人形と最近見かけない、シングルサイズのCDを取り出した。CDは『スターダストはっさく』というタイトルで、驚くほどあか抜けないメタボのおじさんがジャケットを飾っている。どうやらこれがケロッグらしいが、聞いたことも見たことも無い人だ。新橋の飲み屋とかでよく見かけそうな顔でもある。

マスコット人形は、わら人形の頭にジャガイモを突き刺したみたいなシルエットに、結構リアルな目と鼻と口がついている。まったくかわいくない。

「北はっさく市は、わらとはっさくが名産なんですよ。だからその二つを組み合わせてがんばって考えてみました。名前ははっさ君です。」「はあ、なかなか良くできてますねえ。」

ユリの勢いに圧倒されて、山田はなんとなく答える。顔はかわいいのにセンスはなんだか違う方向に伸びていったみたいだ。

「あと、星がきれいに見えるのでも有名なんですよ。スターダストはっさくも、北はっさく市の星空について熱く歌ってるんです。振り付けもあって、これも私が考えたんです。はっさく~、はっさく~」

うなるように歌いながらユリは立ち上がって、非常に奇妙な踊りを始めた。雨乞いをする山姥みたいだ。山田は何も言えず唖然としてユリを見つめていた。凍りつく山田に気がついたユリが隣の三間坂に小声で話す。

「アレ、この人ドン引きしてんでねかころぼっくる?」
「はい。多分、東京の人のセンスにはあわねんだておもいますぼっくる。」
「だば、あだじは、おどりぞんでねべかころぼっくり?」

ひそひそ話しているが、山田には良く聞き取れない。

「あの、ころぼっくるって何?」
「すみません。北はっさく地方の方言なんです。ちょっと興奮しすぎてすみません。とにかく北はっさく市のいいところをわかって欲しいと思ったんです。」
「ええ、なんだか情熱は伝わってきました。」

顔はかわいいがこの人たちはやばいと山田の直感が告げていた。山田は話を早めに切り上げることにした。

「で、本題は町おこしのために弊社の工場を誘致したいということですよね?」
「はい。空気も水も空もきれいな町で、はっさくもおいしいのに私たちの町には何かかけてるんです。それは、活気のある産業だと思うんです。工場用に広大な土地を格安で提供できる用意をしてますし、補助金もがんばっていっぱい出そうと思っているんです。だから、ぜひともお願いします。」
「わかりました。あの、それでは検討しますので、何か市の規模やメリットがわかる資料を頂いてもいいですか?」
「はい。もちろんです。」

ユリはまた大きな黒いかばんから広辞苑ほどの分厚さの資料を出してくる。そして、ユリは資料の1ページ目から熱く説明を始める。

「北はっさく地方のルーツは紀元前2世紀までさかのぼります。18世紀に発見された、紀元前2世紀前半のものと思われる、はっさく型の土器から、その時期にはすでにはっさくを食料として栽培していたことが推測されます。昔の人もはっさくを食べてたんですって。すごいですよね!」

これは、プレゼンの資料というよりは、北はっさく市の歴史の資料だ。それも紀元前2世紀から現代に至るまでの詳細な資料だ。2時間弱かかって資料を熱く説明し終えたユリに、山田は「では、検討してまたご連絡いたします」と言って席を立ち、会議室のドアを開けた。これで、出て行かないなら、自分が先に出るつもりだった。

「あの、はっさ君はいらないですか?」

ユリがはっさ君を差し出しながらいう。山田は断るのも面倒なのでおとなしく貰うことにした。

「本当に今日はありがとうございました。稲川さんにもお礼を言っておいてください。山田さんはいい人ですね。他の会社はすぐに追い出されて、どこもまともに話を聞いてくれませんでした。」

そりゃそうだろう、自分はいい人なんじゃなくて、うまくNOと言えないだけなんだけど、山田はそう思ったけど口にするのはやめた。知らなくていいことは知らなくていい。それに、ちょっとひいたけど一生懸命なユリの姿には多少好感が持てたりした。もっと違う形で会いたかったと残念な気がした。

 2人をエレベーターホールまで見送る。エレベーターを待つ間、2人は何度も頭を下げてお礼を言っている。

「じゃあ、本当にありがとうございました。また、連絡お待ちしてます。」とエレベーターに乗り込んだユリが頭を下げる。

きっともう連絡することは無いだろうと思いながらも「では、また連絡いたします」といって2人を見送ろうとしたときに、ふと稲川から渡された紙切れのことを思い出して、しまりかけのエレベーターのドアを手で押さえる。

「斉藤先生、これ稲川から渡すようにいわれてました。」そう言って、メモをユリに渡す。ユリは不思議そうな顔をしてメモを少し見た後、また笑顔で「ありがとうございます」といって微笑む。笑顔を見ながらエレベーターがしまっていく。

山田はその笑顔を見ながら、もう少しまともならかわいいのにと残念に思った。とりあえずこれで、稲川からの依頼は終わった。稲川のオフィスによって報告をして、またダンボールの仕分けの仕事に戻ることにした。受付の前を通るときにマリちゃんがいつもの笑顔で微笑んでいた。
部署を異動しても私のヨワシへの興味は消えていなかった。ヨワシ本人への興味もあったが、ヨワシを作っている世界観にも興味が出てきた私は昔連れて行ってもらったジャズバーへ一人で行くことにした。
仕事をすべて終わらせて、いつもより早めに会社を出て新宿に向かった。

ヨワシの後ろをついて歩いた新宿二丁目を怯えながら一人で歩く。目当てのバーには迷わずにたどりつけた。

ピアノとサックス、ベース、ギターが演奏をしている。私はカウンターでウィスキーの水割りを頼んで席に着く。席は7割くらい埋まっている。一人出来て、素人だと思われてばかにされないか不安だったけど、みんな話をしたり、音楽に聞き入ってたりして私のことは誰も気にしていない。一安心してお酒を一口飲んでステージを見るとびっくりしてお酒を吹き出しそうになった。目の前でヨワシがウッドベースを弾いている。いつもぼさぼさで顔を隠している少し長めの髪の毛をオールバックにして、会社では絶対に見せない生き生きした笑顔を見せているけど、間違いなくヨワシだった。

なんだかヨワシに私がここにいることがばれたら気まずい気がして帰ろうかと思ったけど、ウィスキーもまだ飲んでないし、ヨワシは私のことなんて気づいてないし、そのまま演奏を聴き続けた。

ジャズのことはよくわからないけど、ヨワシの演奏が見事だってことはよくわかった。曲が終わって客先からは拍手が起こった。ヨワシはウッドベースをケースにしまって客先におりてくる。

一番前の席に座っていた女の人が両手を広げてヨワシを抱きしめていた。ヨワシは笑顔で女の人に答えていた。

「なんだ彼女いるのか」と思って少しショックだった。でも今日のヨワシなら当然だろうなという気がして、潔く負けを認める気持ちもあった。

どうせなら彼女の顔を見てやろうと思って、二人の姿をずっと見ていた。彼女が少し横を向いてまたびっくりした。篠原さんだった。まったく気づかなかったけど、よく考えるとお似合いの二人だ。私はもう十分だと思って店を出た。

一人で歩く夜の新宿はなんだかとても静かな気がした。キャッチのホストが声をかけてくる。「ひとり?もう一軒どう?」「もう十分」私の顔をみたホストは不審そうな顔で逃げていった。歩いているときには気づかなかったけど、私はわらいながら泣いていた。

おしまい。

ヨワシとの関係はその後まったく進展せず、たまに昼休みの観察を続ける日々が続いていた。春が近づいて来て外でお弁当を食べながら日光浴するのが楽しくなってきた。
そんなある日、課長から会議室に呼ばれた。

「仕事はどう?」
「まあ、ぼちぼちです」
「そう。時間がないから本題に入るけど、新しいプロジェクトが進んでて、まあ簡単に言うと一人暮らしの女性向けの家電全般をネットワークでつなぐシステムを開発して売り出すってプロジェクトだな。
で、各部署の女性を集めてプロジェクトチームを作ることになってるんだけど、うちからは君が選ばれたからよろしく。ちなみにプロジェクトリーダーは篠原だから。篠原は知ってるよね?」
「はい」
「うん、彼女は優秀で部下の扱いもうまいから問題は無いと思うよ。来週からそっちのチームに行ってもらうんでよろしく」

一方的にしゃべられて打ち合わせは終わった。青天の霹靂だったが、誰にでも出来そうな今の仕事に別に未練はないし、篠原さんの下で働けるのは魅力的だった。ただヨワシと違う部署になるのは少し寂しい気がした。
まあ、どちらにしても私に人事異動を拒否する権利はなさそうだし、前向きにとらえることにした。

新プロジェクトチームは役員室のあるフロアに部屋を与えられた。偉い人たちがどう考えているかは不明だけど、このプロジェクトに対する会社の力の入れ具合がわかった気がする。

私はばたばたと後任の新入社員の女の子に仕事の引き継ぎをして、送別会などもしてもらって、異動の日を迎えた。ちなみに、会社の飲み会に参加しないヨワシは私の送別会も欠席した。

私の仕事はマーケティングの補佐と企画の補佐ともといたチームとの連絡係り。幸いヨワシが元のチームでの窓口となっていたので、顔を見る回数は減ったけど電話で話す機会が増えた。メインの仕事は補佐ばかりでやりがいがあるんだかないんだかわからないけど、メチャクチャ忙しくなるよりは気楽だ。

 プロジェクトリーダーの篠原さんは思った通り仕事もできて、頭も良くて、話も面白くて、おまけに美人。才色兼備って言うのはこういう人のことを言うんだってのが良くわかった。女だけの職場って人間関係が面倒だってイメージがあったけど、このチームはみんな篠原さんのリーダーシップのもとでうまくまとまっている。意志のあるチームは強い。

仕事のやりがいも感じるようになってヨワシ観察もますます力が入ってきた。

昼休み前にヨワシに連れて行ってもらったジャズバーをネットで検索してみた。目的は一人で行ってみるため。篠原さんを見てると、そういうバーで一人でお酒を飲んでる姿が超似合ってて、私もそんな女になりたいと思ったので、冒険しにいくことにした。

HPにはライブのスケジュールが掲載されてて、何気なく予定を見ていると次の週末のライブに山田ツヨシの名前があることを発見した。楽器はウッドベースと書いてあった。あのヨワシがウッドベースを弾いてる姿なんて想像できないから別人なんじゃないかとも思ったけど、音楽好きのヨワシならあり得なくもない。私は週末の合コンの予定をキャンセルして、一人でジャズバーに行くことにした。

スケジュール帳に予定を書き込んでいると、後ろから声をかけられた、なんだかヨワシをストーキングしているのがばれたんじゃないかって気がしてびっくりして振り返ったら篠原さんがいた。

そういえば篠原さんは部下を一人一人ランチに一対一で話をしているって聞いた気がする。周りの人はみんなキャリアで入社して仕事もできる人たちばかりなので一般職で何の取り柄も無い私が選ばれるのは何かの間違いだと思った。ましてや篠原さんと食事に行くことなんて夢にも思っていなかった。今その瞬間が来てるんだと思うとうれしさと、何を話していいのかわからないって困惑と、失望させちゃったらやだなって恐れが一緒になってやってきた。でも断るわけにもいかないので、私はハイってうなづいた。

 篠原さんがつれてってくれたのは有楽町のガード下にある小汚い中華料理屋だった。丸の内のおしゃれなお店に行くのかと思ってたので意外だった。「この見せにくるとみんながそんな顔をするんだけど、私がこういう店に来るのへん?」

「いえ。ちょっと予想外でしたけど、面白いです」
「そう。好きなもの食べていいよ」

篠原さんにメニューを手渡されて私はエビチリ定食を頼んで、篠原さんはホイコーロー定食を頼んだ。

篠原さんは思ったより話やすい人だった。少し年上の友達と話をしている気分になれた。料理が来るまでは仕事の話をしないで世間話をしていた。プライベートで何をやっているのかとかそういう質問をされて私はそれに答えていた。

食事が終わってお茶を飲んでいるときに仕事の話が始まった。この部署の役割とか私にして欲しい仕事についてって内容だった。最後に質問は?と聞かれて私は思い切って疑問に思ってることを聞いてみた。

「あの。どうして私だったんですか?ほかに優秀な人はいっぱいいると思うんですけど・・・。それに篠原さんと話すのは今日が初めてだし。」
「あなたはなかなか見所があるって聞いたの。普通の人とはちょっと違うって。私が欲しいのはなんかよくわかんないんだけどちょっと違うって感性なんだよね。
私も言葉ではよく言えないんだけど。会社で成功するための方法ってのはある程度決まってるんだけど、それとは別の価値観で生きてる人が好きなの」

篠原さんの話はよくわからなかったけど、どこかの誰かが私を推薦してくれたんだってことはわかった。部長か課長だろうか?あの人たちが私を知ってるとは思えないけど。まあ少しうれしかった。
少ししてヨワシがビールを両手に持って戻ってきた。
「食いたいものあったらここから選んで」そういってメニューを差し出してきた。

その後ヨワシは音楽に集中しだし、私は見事に放置プレーされてしまった。
ヨワシは私なんていないんじゃないかってくらい私を気にしないで音楽を聞き込んでいる。
私は手持ち無沙汰で、演奏が終わるまでメニューを読み続けた。

バンドの演奏が終わって、あちこちから拍手が聞こえる。
「おなかすいてた?」
急にヨワシに声をかけられてびっくりしてメニューから顔を上げた。
「メニュー、超見てるから」
「山田さんが話しかけてくれないから」私は抗議のニュアンスを込めて言ってみた。

ステージでは演奏を終えたバンドが撤収の準備を初め、次のバンドが楽器のセッティングに入った。

「ごめん。知り合いが出てたんだ」ヨワシが苦笑いしながら言った。会社では見たことが無い表情。

「へー、どの人ですか?」ヨワシにジャズをやってる知り合いがいるってのが意外だった。

「ピアノ」
「へー、山田さんよくくるんですか?」
「うん」
「なんか意外」
「まあね」
「音楽好きなんですね。あ、だからうちの会社に入ったとか?」
「そう」

またヨワシの意外な一面を発見。そういえば、ヨワシは通勤中はいつもヘッドフォンをつけて音楽を聴いているってのは
入念なストーキングの結果突き止めている。ヨワシの仕事感に興味が出て、さらに突っ込んだ質問をしてみた。

「オーディオ売るの楽しいですか?」
「うん」
「どこがですか?」
「いい音楽がある生活は幸せじゃない」

ヨワシは少し考えてから笑いながらそう言った。

「川本さんはどうしてうちの会社に入ったの?」

ヨワシに急に質問されて少し考えてしまう。

「そこそこ名前が知れてて、そこそこ給料と福利厚生が良いからかな」

自分で話しながらつまらない答えだなって思った。

次のバンドの演奏が始まったのでヨワシはまた音楽に集中してしまった。それからはバンドの演奏が終わる旅にヨワシと話をした。
ほとんどが私の仕事に対する愚痴だったけど、ヨワシはよく話を聞いてくれた。最後のバンドが終わって、ヨワシは私を駅まで送ってくれた。

今日の収穫は2つ。ヨワシが本当に音楽を好きなんだってことと、結構人の話を聞くのが上手だってこと。
新しい発見をしたっていう充実感と会社の人が知らないヨワシを知ったっていう優越感を持って、気分よく家まで帰ることができた。

翌朝ヨワシの席まで行って「昨日はありがとうございました」と一応お礼を言った。「ああ、うん」ヨワシはそう答えただけでPCに視線を戻して、
仕事を再開した。その後もヨワシとの会話はまったくなく、もう少し距離が近くなると思っていた私の予想を見事に裏切ってくれた。

ただあの日聴いたヨワシの話は私の中でだいぶ重大な影響を与えた。たまに連れて行かれる会社の飲み会で仕事の愚痴を肴に酒を飲んでいるおじさんたちからは
絶対に出てこない話だった。
 その日、私はいつものようにヨワシを遠くから見ながらサンドウィッチを食べて一足先に会社に帰ろうとしていた。
「川本さん」

急に自分の名前を呼ばれてびっくりして振り返ると、そこにヨワシがいた。私は今までのストーキングが全てばれてるんじゃないかって気がして、一瞬固まってしまった。

「どうしたの?そんな驚かないでよ」ヨワシが困ったような顔で私を見ている。そのしぐさから、どうやら私のストーキングはばれていないようだってことが分かった。

「ちょっとお昼を食べてました」
「こんなところまで来てるの?」
「たまに遠くまで行ってるんです。山田さんは何してたんですか?」
さっきまで観察してたから、聞くまでも無いんだけど、一応聞いてみた。

「俺も昼飯」ヨワシは簡単に返事をする。

ふとヨワシが右手に文庫本を持っていることに気がついた。
「それなんですか?」思わず聞いてみる。
「小説。昼は本を読みながら食べてるんだ。」
知ってるけど、へーって感心して見せた。
「山田さんって結構面白いですよね?」
「俺が?面白い?」
「うん。読書しながらランチする人なんてうちの会社にはいないですよ。面白いです。」
「そうかな。つまんないやつだって思われてると思うけど」

その通り。周りの人のヨワシへの評価は「つまんない奴」の一言に尽きる。調べてみるとなかなか面白いのに、私は最近そのことがもったいないって思うようになってきた。
自分の話をあまりしないヨワシにも問題があると思うけど。とにかく、ヨワシは自分の評判を分かってるらい言ってのをひとつ発見した。

その後は会話が途切れてしまい、しばらく無言で歩いた。会社のビルに入る前に「今度飲みに行きませんか?」と勇気を出して聞いてみた。
もっとよく知るためには、もっと踏み込む必要があると判断した結果だ。

ヨワシは少し驚いたような顔で私を見返してきた。
まずい、こんな事言ったら私、なんか超ヨワシのこと好きそうじゃん、勘違いされたらどうしよう?、なんて考えが即座に頭をよぎって言い訳をしようと思った矢先、
「音楽は好き?」とヨワシが質問をしてきた。

私は、「まあ、よく聞きます」と答えながら、なんだか自分の声が急に素っ気なくなったのを感じた。

続けてヨワシから、「今日の夜はあいてる?」って聞かれたので、

思いっきりあいてるんだけど、ここであいてるって素直に言うと暇な奴だと思われちゃうかもしれないし、そもそも、今日はイトーヨーカ堂で上下セットで1,980円で購入した
イケてない下着を装着してるし、でもそこまで関係ないか、私ってば何考えちゃってるのよ、なんてことを考えている間に「いいですよ」と答えていた。

私たちは仕事が終わった後、東京駅の丸の内南口の改札で待ち合わせをすることにして、それぞれの席に戻った。

18時になって、課長からこれやっといてって手渡された資料をいつになく毅然とお断りして、会社を出た。ヨワシの席を見ると既に仕事を終わらせて会社を出ているようだった。みんなに気づかれないように別々に会社を出て、駅で待ち合わせするなんて、なんだか社内恋愛してるみたい、きゃ、とか考えてしまうけど、相手はヨワシだということを思い出して、これは調査なんだと自分を戒めた。

化粧を直して待ち合わせの時間に3分遅刻して到着する。ヨワシは改札の前の壁に寄りかかって手に持ったiPodを見つめている。頭にはうちの会社製のヘッドフォンをしている。家路につくサラリーマンの流れの向こう側にすっと立っている細くて背が高いハリガネみたいなヨワシの姿は、なんだかかっこいい気がしてしまった。

近づいていくと私に気がついてヨワシがヘッドフォンを外した。「ごめんね。急に誘って。新宿に行こうと思うんだけどいい?」「はい」行き先も決まってるなんて実は行動力あるじゃんと見直した。あと、秋葉原に行こうとか言われなくてほっとした。私たちは中央線で新宿に向かった。

「どこに行くんですか?」
電車に乗りながら私は聞いてみる。
「俺がよく行く店で今日イベントがやってて、ちょうどいいタイミングだったからどうかなと思って」そこで会話が途切れてしまった。よく行く店って何?とかイベントって何?とか、いろんな疑問が浮かんだけど、なんだか質問できなかった。

新宿駅で下車して、東口方面へ向かって、ヨワシはすいすいと人の波をかき分け、こういうところで女の歩くペースにあわせられない奴は最悪だなとか思いつつ、駅が遠ざかってどんどんまわりに人が少なくなってきて、道も細くなってきた。

周りにはバーみたいな店が増えてきて、店の前にはガチムチなお兄さんの写真が飾られてたりして、ここがあの有名な新宿二丁目なんじゃないだろうかって気がしてきた。どんどん先に進むヨワシがなんだか怖くなってきた。ひょっとして変な場所に連れて行かれて拉致られてシャブ漬けにされて東南アジアに売られるんじゃないかって気がしてきた。用事が出来ましたって言って帰ろうかなって真剣に考えだしたとき、ヨワシが一つの店の前で立ち止まった。「ここ」そう言って地下に続く階段を指差して、先に階段を下りていく。こんな場所でひとりぼっちになるのも怖かったので、ヨワシについて階段を下りた。

 ドアを開けると大きな音で音楽が聞こえてきた。薄暗い店にはいくつかの丸テーブルがあり、7割くらいが人で埋まっている。真ん中にはステージが会ってピアノとサックスとドラムとウッドベースでジャズを演奏している人たちがいた。
「あそこに座ろう」
私たちは真ん中のテーブルに座った。ヨワシがカウンターに言って中のバーテンみたいな人と何やら親しげに会話をしている。会社では絶対見せない顔だと思った。
 午後の仕事を終えて昼休みに入った。昼休みの過ごし方はみんなそれぞれだけど、私の分析によれば、数パターンに分類される。まず連れだって外の店に食べに行く集団。これは男女とも大多数を占める。 私もいつもはその中の一人。後は自分の机で家から持ってきたお弁当を食べる人。これはお小遣い制が導入されているおじさんたちに多い。わが部署の男子たちは、営業に出ていて社内にいないことが多いけど、会社にいる人はみんなで連れだって食堂に行くのが日課となっている。ヨワシをのぞいて。

ヨワシは昼休みになるといつの間にかどこかにいなくなって、午後の仕事が始まる前にいつの間にか自分の席に帰ってくる。私が配属される前からこの行動パターンを続けているらしく、もう誰もヨワシが昼休みにどこで何をしてるのか、なんてことを気にする人はいなくなっていた。ヨワシ観察初日として、まずは後をつけてみることにした。

 PCのディスプレーから顔を上げたヨワシが少し伸びをして、その後、椅子の背に掛けていたジャケットを羽織って席を立つ。私も少し時間をおいてヨワシの後を追った。

エレベーターホールの手前でヨワシがエレベーターに乗るのを見届けて、次のエレベーターに乗る。1階で降りると外に出ようとするヨワシの姿を捕捉した。10メートルの距離を保ってヨワシの後を追った。ヨワシは近くのコンビニに入ってパンと牛乳を買った。コンビニから出たヨワシはコンビニの袋をぶらさげ、どんどんと歩いて行く。丸の内仲通りを越えて、皇居の方に向かって歩いて行ったヨワシの後を追いながら、実は自分の会社から皇居が近い事を思い出した。普段行く機会が全くないので、イメージが無いが、私たちの会社は5分もあるけば皇居のお堀にたどりつく位置にあった。

先を歩くヨワシを尾行しつつ、初めて足を踏み入れた皇居周辺にワクワクしてきた。日比谷通りをわたり、皇居のお堀をわたると大きな広場が現れた。ヨワシは広場の中に入って行って、中にあるベンチに座った。広場にはサラリーマンや犬の散歩をしているセレブっぽい女の人や、日向ぼっこをしている外国人たちが、それぞれのランチタイムをのんびりと過ごしている。

ヨワシはそのゆったりした時間の流れに見事に溶け込んでいる気がした。ヨワシはコンビニの袋からパンを取り出して、ジャケットからは文庫本を取りだした。ベンチに座って、本を読みながら、パンをかじるヨワシは、なんだかちょっと良い感じがした。私は気付かれない程度の距離から、ヨワシの姿を携帯のカメラで撮影して、そのまま丸の内のオフィス街に戻った。お昼休みの1時間は、半分ほど過ぎてしまっていた。

翌日からヨワシが会社にいる時は必ずヨワシ観察を続けた。ヨワシは必ずコンビニでパンを買って、その後、いくつかのお気に入りスポットを訪れ、本を読みながらパンを食べることがわかった。訪れる場所は、日比谷公園、丸ビルの中のソファ、丸の内パークビルの中庭、東京国際フォーラムの中庭、丸の内仲通りのベンチをローテーションの柱としており、たまに新規開拓を実施しているようだった。私もヨワシに合わせて、出勤途中にコンビニでサンドウィッチを買って、ヨワシの姿を遠くから観察しながらご飯を食べるようになった。一人で外で食べるのはなんだかいじめられっ子のようで、恥ずかしくて、さびしかったけど、だんだん慣れて来て、逆に一人で仕事からも会社の人間関係からも自由になれる貴重な時間だって感じるようになってきた。

朝目が覚めると薄暗い照明の中見知らぬ天井が広がっていた。効きすぎた冷房と、隣で口を半開きにして寝ている男。私はまたやってしまったと激しく後悔した。そういえば昨日は金曜日の夜で、ユキ子から「勉強会のお誘い」という件名で、商社との合コンのお誘いメールが来ていて、まんまと参加してしまったのだった。自分の年収が世間と比較していかに高いか、とか、自分がいかに大きな仕事をしているかってのを延々と聞かされながら、話にまるで興味のわかない私は、ひとりでいいちこをロックで飲み続けていた。だいたい高学歴・高収入の男たちがなんでいいちこのボトルしか入れないんだ?いいちこのボトル3本目を開けたところから、記憶があいまいだが、どうやらその中の一人にお持ち帰りされたらしい。

隣の男が起きると気まずいので、静かにベッドを出て床に脱ぎ捨ててあった服を拾って袖を通した。

朝のホテル街を抜けて、駅を目指す。ホストがお客の乗ったタクシーを見送っている。その横では、朝まで飲んでましたって感じの若いサラリーマンがフラフラしながら歩いている。

駅までの道を歩きながら、世の中にはいろんな人がいるなって妙に冷めた頭で考えた。いろんな人ってことではヨワシは相当へんな部類に入る。無口だし、何を冠気ているかわからないし、群れないでいつも一人だし、私の周りにいる、空気を読んで誰とでもうまくやっていける、大量生産されたみたいな男たちとは少し違う。なんだかわからないうちにヨワシのことばかり考えながら駅にたどり着いた。

 日曜日は掃除と洗濯をして、テレビとDVDを観た。DVDは海外のドラマ。男女6人が友情とセックスに明け暮れるって内容のドラマ。お前らほかに大事なものがないのかって思いながら観ていたら、金曜日の男から何回もメールが来てうんざりした。メールはすべて無視したけど、妙に慣れなれしい文面が、妙に軽く見られている気がしてむかついた。実際軽いんだけど。

 月曜日の朝、机の上の書類を整理しているとユキ子が隣にやって来た。


「先週はお持ち帰られたらしいじゃない?」びっくりしてユキ子の顔を見ると、全てを知ってるのよって顔でうなづいていた。

「メール返してないらしいじゃない?」
「誰に聞いたのよ?」
「細川君」細川ってのは男側の幹事だった人だ。ユキ子の友達らしい。まあ、合コンで出会って何回か会ったことがあるくらいの関係なんだろうけど。と言うか、金曜日の男はそんなことを細川に話してるんだってことに気がついて、自分のうかつさをさらに反省した。

「金曜の夜は若気の至りだから。もう私の中ではなかったことになってるから」
「何でよ?高学歴、高収入、顔もカッコイイってほどじゃないけど、まあまあじゃない?」
ユキ子が詰め寄ってくる。

「そういう単語で説明出来ちゃう男にはあんまり興味が出なくなったの」と言いかけで踏みとどまった。この発言をユキ子に聞かれると、じゃあどういう男に興味が出てきたのよって切り返されるはずで、そうなると面倒だ。

「ちょっとね」と言ってごまかした。

「ふーん。もったいないと思うけど。向こうは真琴のこと相当気に入ってるらしいよ」
「まあ、考えとく」

そう言ってる間に朝9時を知らせるチャイムが鳴った。

「今日の昼御飯だけど、私ちょっと用事があるから」自分の席に帰ろうとするユキ子の背中に言った。ユキ子は私を見て、何か聞きたそうだったけど、そのまま席に戻った。
ランチタイムが終わって私たちは会社に戻った。駅の改札のようなセキュリティゲートにIDカードをタッチして、エレベーターホールに向かう。午後一時前のエレベーターは昼食から戻ってきた人たちでいつも混雑する。エレベーターを待っている間、隣のユキ子が私の肩をつついてきた。「何よ?」ユキ子に聞いてみる。「ほら、列の前の方にいるのヨワシじゃない?チャンスじゃん、声かけてきなよ」

「嫌よ。心の準備が」
「なに恋する中二みたいなこと言ってるのよ。これも仕事だと思いなさい」

ユキ子に押し出されるようにヨワシの横に立つことになってしまった。私の少し上にヨワシの顔が見える。

私の視線に気がついたヨワシがこちらに視線を向けたが、私はとっさに視線を外してしまった。

なんだか本気でヨワシのことが好きな中学生みたいな気分がして来て、納得が行かないが、
普段ヨワシと仕事以外で話をすることは無いので、こういう場合どういう会話をすればいいのか分からなくて困ってしまう。

エレベーターがやってきて人が次々と乗り込んでいく。22階にたどりつくまでの1分近く、私はこのチャンスを生かすことにした。

「あの、外に行ってたんですか?」

俺に話しかけてるの?って感じのビックリした顔をして、ヨワシが私を見返してきた。私は軽くうなづく。

「うん、いつも外で食うんだ」「へー」

毎日どこに行ってるんですか?って聞こうとして、質問を飲みこんだ。何だかまだそんな質問をしちゃいけない気がした。

「河本さんは?」ヨワシが私に聞き返してくる。この人ちゃんと会話できるじゃんと思った。まあ、営業だから会社の外ではしゃべってるんだろうな。

「私はユキ子・・・、小山田さんと一緒に・・・」「ふーん」

無口でコミュニケーション能力が皆無の人だと思ったけど、ちゃんと会話ができるんだってことが分かって、ちょっと他の人が秘密を発見した気分だった。

22階について、エレベーターの扉が開く。私たちは自分のフロアに向かった。もっと話をしようと思ったけど、こんなときに、どんな話をすればよくわからなくなってしまった。

合コンならどんな男とでも適当に話をつなげられるのに。

午後の仕事が始まる。定時まで仕事をすれば後4時間半で仕事がおわる。退社するまでの時間をカウントするのが私の日課だった。一般職の私の仕事は注文書の処理と納期の管理。大手家電メーカーの一角にカウントされる会社なんだけど、重電部門が花形で私達コンシューマー向けの部署はかなり本流から外れていて、最近の不況で部署の存続が怪しくなってきており、今後の業績で運命が左右されるため、部の空気は殺伐としている。

「値下げすりゃバカでも売れるんだよ!」今日も課長のどなり声が聞こえる。怒られているのは山本さん。たしか年次はヨワシのひとつ上。
わが社では何年入社の何大卒かって肩書きが名前とセットでくっついてくる。その人の趣味や家族構成なんかを知らなくても、学歴はたいていみんなが知っている。

地方国立大出身のヨワシは学歴的には中の上って感じだ。

部下にどなりちらしていた課長のもとに広報課課長の篠原さんがやってきた。私はちらちらのぞき見しながら2人の会話に聞き耳を立てた。篠原さんは女性専門職第一号で、一世紀近い会社の歴史で最初の女性管理職。出世する条件として大事なものとして、学歴、派閥、仕事、何より男であること、という社風の中で男性社員と対等以上に仕事ができる篠原さんは女性社員のあこがれの的だった。一般職としてのほほんとOLをやっている私にとっても実はあこがれの先輩だ。

「どうした?」

山本さんに怒鳴り散らしていた課長がやりにくそうな声で篠原さんに話しかける。この2人は同期だけど、管理職に上がったのは篠原さんが先で、仲が悪いという噂だ。

「ちょっと話があるんだけどいい?」
「ああ」

篠原さんの後を課長がついて歩く。いつもは威張り散らしている課長が、従順に従う姿がおかしかった。

課長は弱いものには強くて、強いものには従順に従う癖がある。みんなは小心者だと馬鹿にしているが、本人はまったく気付いていないようだ。大人しいヨワシも目の敵にされて、よく怒られている。

怒られているときのヨワシは、課長の机の前でじっと立って、何も反論せず、話を聞いて、また自分の席に戻っていく。他の社員はみんな陰で理不尽な課長の怒りに文句を言ったり、弁明したり、悪口を言ったりするが、ヨワシは決して陰口をたたくことは無かった。寡黙で何を考えているかわからないという人もいるけど、それはヨワシの持ち味なんじゃないかと、私は好意的に受け止めている。

もう少しヨワシについて知りたい、課長のことをどう思ってるか聞き出したい、そんな好奇心が私の心の中で膨らんでいった。