定時後の分室に残っているのは、山田と近藤だけ。城田部長は東京証券取引所がしまる3時を過ぎるとホワイトボードに外出と書いてパチンコ屋に向かっていった。池田課長は、今日は対人恐怖症のグループセラピーの日。ちなみに明日はリストカットをやめられない人たちのグループセラピーの日。課長は毎日なんらかのセラピーに通っている。メイリンは、秘書室からの電話に呼び出されてそそくさと帰っていった。机の上にははっさ君が乗っている。山田があげたら、妙に気に入って早速机に飾っていた。外国人のセンスはよく理解できない。近藤は相変わらず、仕事を手伝わないでパソコンに向かっている。
如何に長時間サービス残業したかが評価される社内で、時間ぴったりに変えれるのは分室の数少ないメリットだが、みんなの仕事が山田に集中して、山田だけはなかなか帰れない。まだまだ、チェックすべきダンボールは山積みになっている。
「よう」
ダンボールの向こう側から、稲川がひょっこり顔を出した。
「稲川さん。どうしたんですか?」
経営企画室の人間がこのフロアのさらに隅っこの分室までやってくるのは異例だ。
「暇だろ?」
「暇じゃないですよ。」
「暇じゃん。なあ」
稲川はパソコンに夢中の近藤に声をかける。
「ええ、まあ」
「お、お前凄いの見てるな。今度、俺にもそのサイト教えてくれよ」
「あ、まあ、いいっすよ」
稲川は近藤と話し出す。一年間同じ部署にいても、山田はいまいち近藤との接し方を分かってないが、一瞬にして会話を成立させる稲川の力はさすがだと思った。なんだかエロサイトの話で盛り上がって、熱く握手まで交わしている。
「じゃあ、よろしく近藤っち」
「はい。兄さん」
そういって、ようやく山田のほうに振り向く。いつの間にか山田より近藤と仲良くなってる。
「おい。飲みに行くぞ」
「今からですか?」
「うん。行くぞ」
「まだ、仕事あるし。」
「ばかだなお前。そんな仕事やってもやらなくても同じだろ?」
「何いってるんですか。そんなこと無いですよ。」
「そんなもん、適当にこなしときゃいいんだよ。だからお前はいつまでたってもダメなんだって。ほら行くぞ。今日お前の力が必要だから」
「何で?」
「今日は、ちょっと2試合こなすから」
「2試合?」
「そう。受付のマリとユリちゃん」
「え、マリちゃんとのみに行くんですか?あとユリちゃんって誰?新キャラ?」
「ユリちゃん、今日の午前中に会っただろ。田舎の議員」
「あ、あの子ですか」
「そう。今日はユリちゃんと相談という名目でゆっくり飲みにくつもりだったんだけどさ。マリがどうしても今日あいたいって言っててさ。そこで、君の出番だよ」
「僕?また送迎ですか?」
「いや。毎回それはかわいそうだから、マリと一緒に飲んであげて。その後は君の腕次第だから。夜のマリはすごいから。で、俺はユリちゃんと君のアパートで打ち合わせするから。」
「なんですか打ち合わせって。しかも僕のアパートでって?」
「ほらとりあえず行くぞ。マリがもう一時間くらい待ってるから。」
稲川は独身だが、自分のマンションには同棲している彼女がいる。ちなみに彼女は会長一族の娘。家柄は良いけど、残念ながら顔も会長一族の血を濃く受け継いでいる。稲川はいつも彼女が何かに似てるなと思ってるんだけど、この前見ていたドキュメンタリー番組に出てきた河童のミイラにそっくりなことに最近気がついた。河童のミイラを愛せるかどうか葛藤があったけど、悩んだ末何とかなるという結論に達して、大いに彼女を利用することにしている。とはいえ、家の中では完璧に彼女が強く、浮気がばれると命の危険さえあるので、浮気する場合は山田のアパートが使われることになっている。その見返りに、人事に掛け合って、山田には都内の2LDKのアパートを格安で貸すように細工をしていた。
丸ビルの最上階のレストランでマリちゃんは待っているらしい。山田はそこに稲川の代わりとして派遣されることになった。稲川はその間に、山田のアパートでユリと打ち合わせ。山田はあまり気乗りがしないが、高級コース料理が食べられることと、マリちゃんと話が出来ることはちょっと嬉しかった。どうせ、稲川が自分のアパートを使ってるときは、外のコンビニで時間を潰さなきゃいけない。
最上階のレストランについて、入り口で稲川の名前を言う。マリが待っている個室に通された。遠くに東京タワーが、目の前にはライトアップされた皇居が見える。こういう店を知っているところが、稲川の凄いところだと思う。マリは山田の顔を見て、一瞬リアクションに困ったみたいだ。偶然あった知り合いに、気まずいところを見られたような、そんな顔だった。が、すぐに取り繕って笑顔を見せる。
「山田さん、こんばんは。」会社の外でマリちゃんとお話できることに感動しながら、マリちゃんを傷つけるメッセンジャーとして、職務を果たすことにした。
「ごめんなさい。稲川さんはちょっと急用が出来てしまったみたいで・・・」
「そう」あまりショックはなさそうだ。きっと稲川に待たされるのになれてるんだろう。思いのほか平気そうな声で続けた。
「じゃあ、稲川さんが来るまでちょっと食事をしてましょうか?」すばらしい提案。ただ、稲川はいつまでたってもやってこないはず。真実を伝えることにした。
「あの、多分、稲川さんは今日は来れないと思うよ。だから、今日は僕と一緒に・・・」
「んだと?」
「え?」
なんか、マリちゃんの口からマリちゃんとは似つかわしくない言葉が発せられた気がした。若干目が怖い。
「どういうことですか?」また、いつもの上品な笑顔に戻って、少し首をかしげながら聞いてくる。いつものマリちゃんに戻ったみたいだ。ちょっと安心。
「いや、だから、稲川さんは今日はちょっと来れないかもしれないかなって思うんだけど」
ドン!という音がして、机が揺れた。どうやら、誰かが足で机を蹴り上げたようだ。机の下を確認しようと下を向いた山田のネクタイがつかまれて、顔を引き上げられる。目の前にマリちゃんの顔が迫ってくる。体がテーブルに当たって、テーブルの上のグラスや食器が床に落ちる。首が苦しい。
「おい、こら、どういうことだ?カス」
「はい?」
「どういうことだって聞いてんだよ」
「いや、だからあの。マリちゃん?」
「気安く名前呼んでんじゃねーぞ。ゴミ虫」
あの受付で優しく清楚に微笑むマリちゃんからは想像もつかないしゃべり方だ。山田はこれは夢なんじゃないかって思ったけど、ネクタイを締め上げられている、この苦しさは本物みたいだ。
「おい、テメー電話持ってんだろ。電話しろよ。」
「電話って?」
「何度も言わせんな。あいつに電話しろよ」頭をたたかれた。何だこれは。山田はこんなに怒ってる人を見るのは久しぶりだった。
「自分でしたらいいじゃないですか」いつの間にか敬語になってる。
「あたしがしても出ねーんだよ。それぐらい頭使えよ」
「すいません」
「いいから早くしろよ!」
山田は身の危険を感じながら、携帯を開いて稲川にダイアルした。体が震えてうまくボタンが押せない。5度目のコールで稲川につながる。
「おう、山田ちゃん。どうした?」携帯の向こうからのんきそうな稲川の声が聞こえる。
「どうしたじゃないですよ。何かマリちゃん怒ってるんですけど」
「だろ。こえーだろマリ。」
「なんなんですかこれは。すごいにらまれてるんですけど。」
「気をつけろ。あいつ元ヤンだから。ちなみにレディース時代のあだ名はブラッディーマリーだから。マリだけに。」
「そんなこと聞いてないっすよ。すごいネクタイ締め上げられて、すごい見られてるんですけど。身の危険を感じるんですけど。」
「ここからが、お前の腕の見せ所だから。がんばれ。」
「がんばれじゃないっすよ」
「ちょよこせよ」マリちゃんが携帯をひったくる。
「テメー、どこにいんだよ!」
携帯に向かってきたいない言葉をののしりまくるマリちゃんを、山田は呆然と見つめていた。昼間の清楚さはかけらもない。電話が一方的に切られたようで、さらに怒ったマリちゃんが投げつけた携帯が山田の顔面を直撃する。なんなんだ今日は。やっぱり稲川さんにかかわるとろくなことが起こらない。意識が遠くなりかけたときに顔面に水を思いっきり掛けられて、現実に引き戻された。
「おちてんじゃねーぞ。どこだよ。稲川どこにいるんだよ!」
「さあ、わかりせん」また殴られる。
「どこだよ!お前の家か?」
「はい」そういえば、マリちゃんと浮気してるときにも家を提供した覚えがある。
「行くぞ」
「行くってどこに?」
「お前の家に決まってんだろ!」
「今から?」
「あたりめーだ。」
「僕も?」
「お前の家なんだから当たり前だろ。とりあえず財布出せ。」
おびえながら財布を差し出す山田。マリちゃんは店員を呼んで、店を出ることをつげる。
「すみませーん。この人、酔っ払っちゃったみたいでー、ちょっと暴れちゃって、これで足りますか?」
昼間の笑顔で、財布から抜き取った一万円札3枚を店員に渡して、店を出る。山田の1か月分の食費に相当する額だ。
ビルを出て、肩をいからせて先を進んでいくマリちゃんの後を、山田はとことこついていく。
「あのー、今日はもう帰ったほうがいいんじゃないですか?」
「口答えしないでついてこい」
「どこまで行くんですか?」
「いいから」
何かを探しながら、国道一号線にたどりつき、道なりに歩き続けるマリちゃん。ふと何かを発見して立ち止まる。マリちゃんの目の前には、駐車中の大型バイクが。
「これもってろ」ルイ・ヴィトンのバックを山田に押し付けて、バイクのハンドルを持ってガタガタ動かしながら、配線をいじくっている。
「あのー。何をなさってるんですか?」
「今忙しいから話しかけるな」
「はい」
しばらくして、エンジンのかかる音がする。
「よし。行くぞ。」
「行くって?これで?」
「他にどうするんだよ?テメーの財布じゃタクシーも乗れねーだろうが」
それは、あなたが勝手に支払いをしたからじゃ、と思ったが、言うのはやめといた。
「あのー。勝手に持って行ったらまずいですよね。持ち主の人、困っちゃいますよね」
「頭使えよ。お前が後で返しに来るんだろ?」
「僕がですか?」
「細かいこと気にしてないで乗れよ。」マリちゃんはバイクにまたがって、あごで後部座席を指す。恐る恐るマリちゃんの後ろに座る山田。
「渋谷だな?」
「はい?」
「お前んち渋谷だな?」
「はい」
「道案内しろよ。あと、変なところ触ったら殺すから。」
そういい終わらないうちに、バイクはものすごい加速で発進する。
数分後、首都高を2人乗りのバイクがすさまじいスピードで走りぬける。ステップがこすれるくらいの角度でハングオンしながらカーブを駆け抜けていく。運転席の女は昔を思い出して、「ひゃっはー!」と叫んでいる。後部座席の男は「落ちちゃう、落ちちゃう」とつぶやきながら女にしがみついている。