Iré a Santiago(邦題:サンティアゴへ行こう) /1964年/ドキュメンタリー/ 35ミリ/モノクロ/15分
監督・脚本:サラ・ゴメス (SARITA)
撮影:マリオ・ガルシア・ホヤ (MAYITO)
編集:ロベルト・ブラボ
録音:ラウル・ガルシア
※ カナダのクイーンズ大学がICAIC所蔵の35ミリプリントをデジタル修復
内容
サンティアゴ・デ・クーバの暮らしや歴史、文化、カーニバルを含め観光ポイントまで、様々なジャンルのキューバ音楽に乗せて、友人に宛てたビデオレターのような気さくな語り口で紹介していく。
手法的には、フリーシネマやダイレクト・ムービー。
★英語字幕入り
Marysolより
1.オープニングからエンディングまで、音楽に合わせてテーマ(フォーカス)も変わるので、音楽に即して構成を書き出してみました。
① ソン「ソン・デ・ラ・ロマ/Son de la loma」
‐タイトルの元になったロルカの詩「サンティアゴへ行こう」の一節とオープニング・クレジット
‐サンティアゴの街中:露店、食べ物、人々の特長(大声で笑い話す。大げさな身振り)
② 「キューバの子守歌/Drume negrita」
‐民家(居心地が良さそうで開放的な雰囲気)
③ ダンソン(?) ※間違っていたら教えてください。
‐広場の芸人
④ トゥンバ・フランセサ
‐フランスの太鼓・リズムを伴う葬列
ハイチ革命によってサンティアゴに避難して来たフランス系の植民者とその奴隷たちに由来する習慣、音楽、末裔には〈ハイチの〉ではなく、当時の宗主国〈フランスの〉という形容詞が付く。
⑤ ダンソン ”Cuando canta el cornetín"
‐コロンブスによる征服や海賊の歴史
‐アフリカ人奴隷の到来(→アフリカ系文化)、密輸、独立運動(アントニオ・マセオ)
⑥ アフリカ系宗教のコーラス
‐インターバル:スカーフを被った水着姿の女性の噂
⑦ 鼓笛隊
‐革命運動の地
⑧ カーニバルや街にあふれる様々な音
‐サンティアゴの男女、観光スポット、カーニバル
⑨ モザンビーケ(当時の最新のリズム)
① について
ソンの代名詞のような歌「ソン・デ・ラ・ロマ」。「ソンの歌い手たちはサンティアゴから来た」という意味のタイトルだが、「サンティアゴのソン」という意味にもとれる。
この歌をバックに、スクリーンに現れるのは、スペインを代表する詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカの 詩 “Iré a Santiago(僕はサンティアゴに行こう- キューバの黒人のソン-)”の一節。
「満月が出たらサンティアゴ・デ・クーバに行こう。黒い水の車に乗ってサンティアゴに行こう」
そこへ黒人の若い女性が現れ、スクリーンを横切り、階段を上がっていく―
階段には白いペンキでクレジットが読める―
ICAIC PRESENTA(ICAIC上映)
A RAMÓN SUAREZ (ラモン・スアレスに)
ラモン・スアレスは、『低開発の記憶』までアレア監督作品の撮影を担っていた人物。
サラ・ゴメスとは『クンビーテ』(アレア監督/1964年)で一緒に仕事をしている。
(サラは助監督として参加)
では、本作の撮影を担当したのは誰かというと、マリオ・ガルシア・ホヤだが、クレジットにはMAYITO(マジート)と愛称のみの表記。
ちなみに、脚本・監督のサラ・ゴメスもSARITA(サリータ)と愛称のみの表記。
この茶目っ気たっぷりの(⑥のインターバルの挿入も含め)クレジット表記!
決して上から目線ではなく、むしろ観客を悪戯に巻き込むような近しさが、私にとってキューバ映画の魅力です。
④ キューバ通にとっても興味深いのは④(ハイチ文化の影響)
※ただ、トゥンバ・フランセサの取材はネストールとオルランド・ヒメネスが(ルネスのテレビ番組のために?)1961年に行っている。
ネストール・アルメンドロス(5):「浜辺の人々」「フランスの太鼓」 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
⑧ 本作が観光アピールにもなっているという指摘に関連して
サラ・ゴメス監督の意図は分かりませんが、観光アピールを意図して制作された短編ドキュ・ドラマがこちら:初のカラー作品 『カーニバル』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)