マリオ・ガルシア・ホヤ(アレア作品の撮影監督)の証言 | MARYSOL のキューバ映画修行

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今日ご紹介するのは、『キューバと悪魔の闘い』(1971年)から『苺とチョコレート』(1993年)までトマス・グティエレス・アレア監督作品の撮影監督を務めたマリオ・ガルシア・ホヤ氏の証言(1990年にマイアミ移住)。

      

氏のインタビュー記事(2014年と2016年)を基に要約しました。

 

尚、拙ブログのテーマはキューバ映画、また個人的興味の対象がアレア監督なので、画家志望だったガルシア・ホヤ氏が写真に興味をもったいきさつ等は割愛、映画撮影に関する細部も省略しています。個人的にアレア監督とアルフレド・ゲバラ長官の関係が興味深く、アレア作品理解の参考になるので下線で示しました。

 

①  アレア監督との出会い(革命前と後)

ティトン(アレアの愛称)と知り合ったのは1957年か58年ごろ。当時ティトンは映画館で本編と併せて上映される短編喜劇を作っており、私はその会社に自分の作品(写真)を見せに行っ際にエレベーターで出会った。

 

その後革命が成就し(1959年)、ICAIC(映画産業庁)が創設され、ティトンは『レボルシオン 革命の物語』(1960年)を撮った後、『12の椅子』(1962年公開)に取り掛かり、私をスチール写真に指名。これを機に私とティトンとラモン・スアレス(当時のアレアの撮影監督)の関係が深まった。我々には共通点が多かったからだ。

 

ティトンから映画の世界に来るよう熱心に誘われたが、私は「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」の仕事が気に入っていたし、評価も得ていた。

59年から61年にかけては、一日の睡眠時間が(とれたとして)4時間。それほどジャーナリズムにとって写真が必要不可欠な時代だった。毎日のように重要なことが起き、すべての現場にいたかった。すべてを撮影するという職業的かつ倫理的使命を感じていたんだ。

そのうえ「ルネス」には絶えず私を知的に刺激してくれる人たちがいた。ビルヒリオ・ピニェーラ、G.C.インファンテ、カルベール・カセイ、ナタリオ・ガラン、ハイメ・サルスキ、オスカール・ウルタード、リネ・レアル、エベルト・パディージャだ。もっと若い層では、ヤラ・モンテス、マティアス・モンテス・ウイドブロ、オルランド・ヒメネス・レアルがいた。

 

②  写真家から映画カメラマンへの転機

1962年、「フランスからアーマン・ガティ監督がキューバで映画を撮りに来る」と聞き、その撮影監督がなんと、あのジャン・コクトーの『美女と野獣』を撮ったアンリ・アルカンだと知った私は、ぜひ現場に身を置きたいと思った。知人の紹介でガティ監督に作品を見せると、仏玖合作『El otro Cristobal』の看板用の写真家に選ばれた。実はアルカンは、サウル・イェリンを通して「ガルシア・ホヤは撮影監督になる人物だ」と言われていたそうで、本作で何をどう撮ろうとしているのか、どうすれば良いか、すべてを教えてくれた。まさに神の恵みだった。

 

そのころティトンは『クンビーテ』の撮影中だった。アルカンから受けた刺激を活かそうと、ラモン・スアレス(撮影監督)の助手になった。ラモンは機会あるごとに私に撮影させてくれたので、仕事を覚えていった。まもなくICAICのカメラマンに空きができ、試験を受け採用された。サラ・ゴメスと2本、エクトル・ベイティアと1本ドキュメンタリーを撮った。他にも色々な監督と短編ドキュメンタリーを撮る一方、写真も続けていた。

 

1963年にはキューバの現実は変わっていた。革命政府の招集力は依然として高かったが、59年や60年の素直で極めて楽観的なトーンは落ちていた。そして、ヒロン浜侵攻事件や絶え間ない軍事動員にも関わらず、62~63年ごろになると市民生活は元のように戻っていた。

私は実験的写真の道に分け入り、仲間の画家たちと抽象的表現主義展をハバナのギャラリーで開催したりした。

1967年にはカナダのモントリオールで開催された万国博覧会のキューバ館で写真展を行った。

 

その頃ティトンは『ある官僚の死』を撮り終えて、エドムンド・デスノエスと『低開発の記憶』に取り掛かっていた。ラモン・スアレスは「キューバを去ってヨーロッパに行く」とすでにティトンに告げていた。ラモンを失うことはティトンにとって大打撃だっただろう。というのも、『ある官僚の死』でアルフレド・ゲバラとの緊張関係がさらに増していたからだ。映画の数シーンに〈自分たちへの批判〉を嗅ぎ取った官僚たちは、ICAICの指導部を呼んで苦情を述べ、焚きつけた。ティトンは今まで以上に自分と近しいチームに囲まれることで、来るべき困難を克服する必要があったはずだ。

 

実際、ティトンにとって、アルフレドとのすれ違いは解決しがたい問題だった。結局のところ、我々は常に怖れていたのだ。もし政府がICAICのトップをすげ替える決定を下したら、もし“古臭い”文化人を送り込んできたら、最悪な場合もし引退した軍人が我々の映画の指揮を執るとなったら…。そう考えると、論争がICAICを超えて波及することを怖れ、ティトンは何もできなかった。長官のけしからぬ運営 ―賞賛したり、罰したり、気まぐれな配下へ資金を投入したり―を告発できなかった。

 

こうした状況はティトンに無力感を生んだが、幸いにも彼の作品に〈機知に富むメタファー〉をもたらした。

もしラモンが撮影を担当できなかった場合は、代わりを務めてくれないかと尋ねられた。だが、私はモントリオール万博のキューバ館の仕事を請け負っていた。それで、ラモンは計画を延期し、ティトンを一人にしないという決断をした。

 

私が万博から戻ると、ティトンはホセ・トリアナやビセンテ・レブエルタ、ミゲル・バルネーと『キューバと悪魔の闘い』のシナリオの最後の詰めをしているところだった。すでにラモンはキューバを去っていたので、私はすぐに撮影を任された。初めての長編映画に私は身がすくむ思いだった。しかも時代背景は17世紀で、親愛なる文化的“モンスター”達が押し付ける観念的な密度の濃い作品だった。最も危ぶまれたは、アルフレド・ゲバラに対する包囲網が最終局面を迎えかねないことだった。

 

ストーリーはこうだ。ある教区の神父が、海賊の襲撃を避けるために教区を海から遠い土地に移そうと企む。村の議員たちは反対するが、神父は〈悪魔が乗り移った女の語り〉を引き合いに、説得を試みる。それでも議員たちの賛同を得られなかった神父は、「異教徒によって汚された魂を救うため私に従え」と村人たちを説得する。一団は移住するも逆境に見舞われ、飢餓と渇きに喘いでの帰還後、悪魔に取りつかれたかのように神父は自分の教会に火を放ち、村人も村に火をつける。

 

撮影は1969年から70年、まさに〈革命大攻勢〉と〈一千万トンのサトウキビ収穫〉の最中に行われた。

私とティトンの間には素晴らしいコミュニケーションがあったので、撮影は順調だった。

役人が文句をつけて撮影を中断させかねない問題は事前に想定してあった。

 

撮影はモノクロで行うことにティトンも賛成した。ネガはアグファゲバルトにした。簡素さとエレガンスを求める一方で、家具や衣装は(調達が難しいので)目立たないようにした。グラデーションを工夫することで、この話に必要なドラマ性を獲得できた。手持ちカメラも多用した。私は自分が一観客となったつもりで撮影する。私自身が観客の目になるのだ。

 

ティトンは本作を同時録音で撮りたがったが、私たちの技術では難問が山積していた。ところが、ヌーヴェル・ヴァーグのカメラマン、ウィリー・クラント(キューバ訪問中だった)が、アリフレックスのタコメーターを送ってくれたことで解決できた。

 

いずれにせよ、アルフレド・ゲバラはティトンに4回もシナリオを見せるよう要求した。

 

↓写真は『最後の晩餐』撮影時と思われる。右がアレア監督

 

④ キューバを去った理由

ティトンやサラ・ゴメスは、ICAICの指導部と常に問題を抱えていた。才能があっても冷遇されていた。

一方、私はティトンやサラを近しく感じていた。

革命が始まったとき、我々は偉大な国を建設するという期待を抱いていた。最初の数年間は強い連帯感があった。だがその後、権力を握った者たちは、権力を大事にし始めた。もし革命への不満を述べたら、居場所はなくなった。問題を避けるためには、革命ではなく、ボスに忠実でなければならなかった。

しかも、多くの人が一種の私有地を持ち始めた。ICAICはアルフレド・ゲバラの領地で上意下達だった。我々は国外に対してはキューバの主権を求めたが、国内においては上部の承認なしには何ひとつ動かなかった。アルフレド・ゲバラはICAICに干渉しないよう要求する一方、ICAIC内に自治はなかった。彼の承諾なしには何もできなかった。そのことがティトンやほかの構成員に多くの問題をもたらした。

ティトンは、ICAICの民主化のために健闘し、80年代に入ってフリオ・ガルシア・エスピノサ(監督)がトップになると、創作グループが編成され、新人監督のプロモーションが始まった。それまではアルフレドの個人的信頼を得なければならなかった。

 

その一方でICAICは過剰なほど特権的立場を享受していた。

私は多くの撮影を担当したが、海外の映画祭には一度も行かせてもらえなかった。私の撮った作品なのに、アルフレドのお気に入りが送られ、私に代わって映画について話した。アルフレドのハーレム。私はそれが嫌だった。彼はICAICの中に、お気に入り連中のための図書館と部屋をもっていた。6階には外部の人向けに映画を見せる部屋があったが、見られるのはアルフレドの取り巻きのみ。撮影監督の私には職業上必要なのに、それらの映画を見ることはできなかった。

 

ティトンの健康状態が悪化したとき、「私はキューバを去らねばならない。もしここに残ったら、アルフレドにつぶされてしまう。間違っても留まってはダメだ。何もせず朽ち果てるなんて性に合わない」と自分に言い聞かせた。ほかにも身近な人々が亡くなるなど、状況に変化があった。「キューバにおける仕事はやり遂げた」そう考えて、90年に国を出た。そのときティトンが病気だったことは非常に辛かった。だから『苺とチョコレート』を彼と撮るためにキューバに戻ったのだ。出戻りの私を皆は受け入れざるを得なかった。

 

私が国を出たのは、キューバの悪口を言うためではない。悪く言わせようとする人たちもいるが、私はその手には乗らない。

私と革命との繋がりは情緒的、時代的なもの、バティスタ政権下で目撃した一連の出来事に因る。

はっきり言って、私は自分がキューバでしたことを後悔してはいない。だが、今のキューバは、もし変わらなければ、出口はない。私はキューバが侵略されたり、爆弾を落とされたり、殺されるのは見たくない。祖国の状況が最上の方法で解決されて欲しいと思っている。