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事実は小説よりも奇なり.
Truth is stranger than fiction.

息子りんの絵と猫と, 愛する人生と.
Rin’s arts,cats,and loved life.

  













障害を負ったとき










本当に在るのだなと
わかり



  






世の中から
取り残された
と思った










だから
また必死に
世の中に追いつくため
這い上がろうとした








でもまた
奈落の底に
落ちるような出来事が








それが
何度も何度も








あるとき
ふと









わたしにとって
奈落の底は
必要なのかもしれない
と思った














  





奈落の底









それは
人生をかけて
築いてきた
砂の城が








一瞬で
波にさらわれた
世界









それは
わたしの人生が
わたしの存在が









に感じる









世界

















でも
そこに立ち







ここは
なんと祝福された
世界なのか
とわかった


















わたしは

人と話をしていると

たまに










頭が真っ白になり

何の話をしていたか

一切分からなくなる











それを

息子が通っていた

まつやま絵画教室の

松山広視先生











「それは、今を生きている証拠なんですよ」

と言い











そしてふと

それは

この奈落の底の










砂の城が

一瞬で

波にさらわれた










あの感覚と

同じだと思った











そしてそれは

この脳科学者でありながら

ある日自身が脳卒中になり

内からそれを体験し










同時に 

内に地上天国を見つけ

覚醒のしくみも悟った












ジル・ボルト・テイラー博士の

奇跡の脳

洞察でいうと












過去や未来

常識や思い込みや

善悪、正誤などで

自分や他人や世界を

枠や型で決め










目に見えるものに

重点を置く









左脳が築いた城が

一瞬で無くなった 

ということだった


瞑想の目的もこれで











だから

左脳重視で

生きているひと

にとっては










それは全てで

絶望だった










でも

理由の無い

言葉を超えた

安心や調和や平和や

喜びや愛など


自己流の瞑想が危険だと言われている理由は

色々あるだろうが、体験からわたしは、

頭に浮かぶ、全ての欲求などを排除してしまうから

ではないかと思っている

それは命を落としたり、精神が病む可能性もあると


だから善悪、過去未来、正誤など

左脳の思考、欲求(エゴ/自我)は排除して


安心、調和、平和、喜び、愛など皆の幸せに繋がる

右脳の欲求(直感/真我)は排除しないことが

大切なのだとわたしは思う










目に見えない

美しい感覚を

大切にし









右脳で 

今この瞬間

生きているひとにとっては

それは一部で










右脳にいると

自分に無いものは

自分に必要無いものなので

嘆く必要は無く












人生に起こる

全てのことは最善












左脳の

思い込みや善悪や枠は

ありのままの自分が住む

地上天国の

障害となるので









その

波で一掃された世界は

祝福ということだった


では左脳は無視かというと、そうではなく

無意識や破壊的にでなく、

意識的に、建設的に、何かを考えたり


左脳は、分析や判断だけでなく、行動を司る脳でもあるので

右脳の直感を、左脳で行動し

わたしは両脳の統合と協力が大切だと思っていて


それは左脳(男性脳)、右脳(女性脳)なので

パートナーシップの問題に繋がると思っている(


















だからわたしは
息子が障害を負った当初は
左脳重視で生きていて









その後
様々な
体験学び流れから
右脳重視へと移行していった
ということだった










だから
当時のわたしは











わたし自身
自由が好きな
人間だったので








絶対道を外さない
常識的なルートを
子どもに押しつけていたわけでは
全くなかったが








でも
健常で生んだからこその
何となくの枠が
無意識に
あったように思う










だから
息子が障害を負い
全盲になり
一切コミュニケーションが
取れなくなったとき








その枠に
一切収まらないような
息子の人生に
不安になり
絶望したのだと思う










それは
今思うと
枠があったことも









枠から外れたから
絶望したことも
子どもに
物凄く失礼だと思う










でもそれが
当時のわたしで








多くのひとが
これに当てはまると
思う











だから
息子が
障害を負った当時








すぐに
リハビリを考えた
わけではなかったのに








障害を負ったと
ほぼ同時に









わたしは
世界一ハードだと言われる
脳障害のリハビリ









それは
息子の世界を
純粋に知りたい

という思いも








どこから手を付けたらいいか
分からないくらいに
混沌とした
息子の世界に









少しでも秩序が現れ
生きやすくなったら
という思いもあったが










そこには
奈落の底から這い上がり
元の枠の中に
どれだけ戻すかが












息子の幸せに繋がる
という
思いや思い込みもあった









それはその後も
学校で先生方に教わったり
公文に通ったり
宿題を毎日したりして
字を書く練習をしたことなどもで









それは今息子が
重度の知的障害者の療育手帳
もらいながらも









目が見えて
会話もできて
発作や睡眠障害の問題もなくなり
大きな問題も無く
生きていることや

それは私だけの努力ではなく
今息子と暮らしている元夫の努力や
息子本人の努力もあり









その後
爆発的な絵の才能が現れたり
作為の無い
本当に美しい
サインを書くことにも繋がり










起こったことは
それが何であれ
思い込みであれ
全て最善でしかなく








全てが本当に
ちょうど良いことしか
起こらなかった
と思う











でも
息子を枠の中に
入れることに
限界を感じたある日
ふとわたしは










「ああ、彼を枠の中に入れるのでなく
わたしが、枠を広げていくのか…













「ああ、あの奈落の底の
一瞬で思考がぶっ飛んだ世界は

子どもには、人間には、わたしにも、
枠を広げるどころか
一切〝枠が要らない〟ということだ…











とハッとした