子育てを振り返ってみた 2. | ブログ.

ブログ.

事実は小説よりも奇なり.
Truth is stranger than fiction.

息子りんの絵と猫と, 愛する人生と.
Rin’s arts,cats,and loved life.























このリハビリ
なぜわたしが
夢中になったのか





それは
衝撃的な
リハビリとの出会いが
大きかったが






当時
日本の病院などでは
何もわからない
状態だったが








世界一の
脳障害児の情報を持つ
研究所の書物などでは
息子のことが
どんどん明らかになり








自分がまだ
息子にしてあげることが
あることや







脳障害児の
無き声に
諦めず耳を傾け








彼らの可能性を
純粋に信じる
研究所の在り方が
泣くほど
嬉しかったからだった








これは長女8歳、次女6歳、息子3歳半で、息子が障害を負った1年半後。リハビリを始め、視力は少しずつ回復し、初診の渡米に向けて、更に必死に生きていた頃で、『〝必死〟って必ず死ぬやん…』とギクッとしたことがあった








また
二人の娘たちのことも
仲間に入れ
同志として
尊重してくれたことや






息子を
健常に産みながら
障害を負わせてしまった
と自分を責め








親としての自信を
すっかり失っていた
わたしのような親たちを








親こそ最良の医師いう表現で
親の愛や観察力に
敬意を払ってくれることが
泣くほど嬉しく
勇気づけられたからで







子どもたちが
より幸せになるために
子どもと親と研究所が
命懸けで純粋に
協力し合って生きる







その世界は
地上天国のように
美しかった









坂道を利用した、短距離(100m)のランニングプログラム。母に坂の下にいてもらい、赤いコーンを立て、そこをゴールにノンストップで走る練習で、全ての向上に繋がる呼吸の強化にも効果があった。そして、長距離(2km/日)のプログラムは、この森林公園や自宅近くの田んぼ道を走っており、長距離は、娘たちや近所の子どもたちもよく一緒に走ってくれた









だから
息子が障害を負った
一年後の
三歳になった頃







アメリカで
初診を受ける為に必須の
アメリカの研究所から
スタッフが来日して
年一回開かれる







脳障害や
リハビリを学ぶ
親だけの為の
五日間の日本での講義には








後から思うと 
その前から兆候があったが
息子の障害で酷い鬱になり
そこにわたしが
自分が子どもを抱えて生きるために
必死に突き進んでいくこともあり
アル中や自殺未遂や暴れるなどを
繰り返す元夫を
強引に連れて行った 








そして
わたしも一時期
家族に無理やり連れて行かれた
精神科で
鬱と診断されたこともあったが 









わたしは
鬱になっている場合ではなかったので
「鬱なんかじゃないわーーーっ!!」
泣き叫び 
鬱を蹴散らかして
突き進んでいて 








今なら
周りとのバランスや
宇宙の流れを見ながら
慎重に丁寧に上手に
進んでいるだろうが





 


当時は
先のような
パワフルすぎで
誰の話も聞かない
わたしだったし 










そこにさらに
息子が障害を負った
ショックや悲しみで
反動がついていたので









わたしは
さらに
猪突猛進に
進んでいった










赤ちゃんの頃からの正しい動きを脳にインプットするため、最高一日に2.0kmの高這いと、800mの腹這いをしていて、全盲だった息子の視力は、リハビリをする前から、少しづつ光を認識し見えるようになっていたが、この高這い、腹這いは、視覚の収束にも効果があり、息子の運動能力も視力も日に日に向上し、息子の目はキラキラと輝くようになり、それはこの上ない喜びだったが、2人とも膝からはよく血が出ていた  笑








そしてその
一番ハードな時の
一日のスケジュールが
これで









【 一日のスケジュール 】

03:00  母起床。知性のプログラム教材作り
07:00  元夫出勤。
08:00  長女登校、次女登園。息子起床朝食
08:30  高這い腹這い。雲梯。延髄反射
09:30  パターニング。ボランティアさん2名
11:00  高這い腹這い。雲梯。延髄反射
12:00  昼食
13:00 息子お昼寝
 ↓(14:00  自転車で次女のお迎え。長女帰宅)
15:00  パターニング。ボランティアさん2名
 ↓(次女が友達宅か公文に行く時合間に送迎)
16:30  高這い腹這い。雲梯。延髄反射
18:00  夕食
19:00  高這い腹這い。雲梯。延髄反射
20:00  入浴
20:30  長女の宿題音読。長女次女公文
21:00  絵本読み聞かせ。たまにドライブ
           (この辺りで元夫帰宅)
21:30  就寝(息子呼吸プログラム器具装着)

(子ども達就寝後、時々全国のリハビリ仲間と電話やFAXで情報交換、研究所への提出物作成、日本かアメリカのスタッフとのメールのやり取りあり。就寝中も息子が装置している呼吸プログラム器具のチェック)



《上記詳細》
※1  高這い…計2000m/日、腹這い…計800m/日

※2  雲梯…30回/日 一段飛ばし、バック、ツイスト

※3  延髄反射…160回転/日

※4  パターニング…5分×10回/日

※5  栄養のプログラム
     (水分調整、アレルギー食材、添加物、塩、砂糖除去。栄養指導、カロリー計算に基づくメニュー。数種類のサプリメント摂取)




《上記追加分》
※1  反射マスク…計70回/日

※2  知識のプログラム…一日中
      (読み・算数・外国語(英語、イタリア語、フランス語、中国語)・百科事典知識、手作り本等)
     



《上記以外のプログラム》
※1  重力フリー…宙吊りで回転

※2  酸素量強化…酸素吸入 20回/日

※3  体操…前転、後転、横転、クワットロール

※4  ランニング(短距離)…100m数本/日

※5  ランニング(長距離)…2.0km/日

※6  薬剤除去…抗てんかん薬除去

※7  FC…文字盤を使ったアウトプットプログラム

※8  法律…社会性やルールを学ぶプログラム




《上記以外に好きでやっていたこと》
※1  リハビリを理解してもらうためにボランティアさんに配るお便り、風便りの作成

※2  息子が全盲になってから、耳からの刺激としてわたしはいつも沢山の音楽を聞かせ、息子はそれが大好きだったので、わたしはいつも童謡などを歌いながらリハビリをし、童謡、クラシック、英語の曲、百人一首など 笑、200曲以上の曲を歌ったりかけたりしていた







初めて作った風便りは、A3サイズの見開き両面で、ボランティアさんに『力作過ぎ!』と笑われ 笑、リハビリ終了後も、いつか息子の大きな成長や変化を、当時お世話になったボランティアさんへの恩返しの為に発行したいと、何年も何年も思い続けていて、その10年後、息子に絵の才能が現れ、絵画教室の絵画展に出展することが決まった時に、やっとその願いが叶い、ボランティアさんと抱き合って泣いた()











これを
長女や次女の
学校や幼稚園行事の参観も
1回も休まず
全て参加しながら 









鬱だけでなく
モラハラも自殺未遂や暴れるキレるなど
わたしがこんなんだから 笑
元夫とのそれも酷く 笑
そんな彼と暮らしながら







友人や近所の方や身内や
社協や生協で募った
50名近いボランティアさんの
スケジュール管理をしながら








一日8時間以上
365日休み無く土日も休み無く
約三年半続けた












雲梯(ブレキエーション)。抱っこをしてバーを握るだけから始め、それを少しずつ少しずつ、回数、時間を増やしていき、最終的には、手長猿のようにスイングしながら、3mの雲梯を一人で、一段飛ばし、バック、ツイストができるまでになり、体力視力知力言語能力などが向上していき、手は豆だらけで、それをいつも抱えてサポートをしていたわたしのお腹も、気づけば、6パックに割れていた 笑(写真撮っておけばよかった 笑)









そして
息子が障害を負った直後
なぜか義母に
「この子が治る為なら
と言ってから二年後には





 
 

言葉通り本当に
アメリカの研究所での初診となり
その時の条件が
両親が揃っている
ことだったので








またわたしは
半ば強引に
元夫をアメリカに
連れて行った










アメリカペンシルヴェニア州の研究所本部で、人間能力開発研究所所長の今は亡きグレン・ドーマン博士と。息子はたまたまこの滞在中に4歳の誕生日を迎え、現地のボランティアさんやスタッフに祝って貰い忘れられない誕生日となった()










そして
わたしは
息子だけでなく
わたしの右腕となり
いつも助けてくれていた
戦友の娘たちも







アメリカに
連れて行ってあげることを
本当に楽しみに励みに
リハビリをしていたのだが






当時は
テロ直後で
SARSが流行っていて
50年振りの寒波がきていた
物々しい雰囲気のアメリカに







英語が話せず
多動の脳障害児を連れての
わたしたち夫婦に
さらに娘たちを連れては
危険で大変だと
母と元夫に反対されて








ここまで来て
渡米自体に反対されたら
全てが水の泡だと








わたしには珍しく
泣く泣く
娘たちを
アメリカに連れていくことを
断念した







だからわたしは
娘たちに
自分の弱さを
何度も泣いて謝り






娘たちには
留守中の夜毎晩
絵本やおもちゃや手紙という
家中に隠した宝物の
宝探しをするように



  

宝の在処を書いた地図を
実母に託し
渡米した









東京ディズニーランド。だから私たちは、半年ごとの日本での再診は必ず娘たちを連れて行き、その稀有で美しい世界を体験させ、東京近郊の様々な場所に家族で遊びに行った。









そして
2歳で障害を負い
3歳でリハビリを始め
4歳で初診で渡米し
本格的にスタートした
リハビリプログラムは







わたしは
自分のこの
凄まじい集中力や 





ここにかける
時間と体力とお金などの
膨大すぎるエネルギーや
娘たちもいることから







最初から
あまり長くは出来ない
と思っていたので









半年ごとに
再診を受けながら
息子が5歳半になるまで
続け




 


その頃には息子は









◎多動が無くなり

◎てんかんの発作が無くなり
抗てんかん薬も除去し

◎障害を負った当時
全盲だった視力も
目でゴマ粒や飛ぶ飛行機や
文字などを認識し
人と目が合うなど
かなり回復し

◎オウム返しだった言葉が
自発的に出始め

◎自閉傾向が減り

◎トイレにすっぽり入ったり 
水溜まりの水を飲むなど
水への異常な執着や
異常行動などが無くなり

◎人や物に興味が湧き
コミュニケーションが
取りやすくなり

◎何より
抗てんかん薬の服用や
視力などの問題が大きかったのか
いつも朦朧としていた
息子の目が
キラキラと輝くようになり

◎混沌としていた
彼の中に
明らかな秩序が
現れ始めていた









だから、ディズニーランドには特別な思いがあり、この11年後の息子の16歳の誕生日は、息子と2人でここで祝った()










そして
ある日ふと
息子の言葉が
スムーズなのは










お風呂や寝る前など
家族皆がリラックスしている時で
そのとき娘たちも
のびのびとしていることに
気づいた










だから
親が子どもに
何をしてあげるかも
大切だが









親がリラックスしているか
親がどう在るか

が障害健常関係なく
全ての子どもの成長や幸せには
大切なのではないか
とハッとし










そろそろ息子には
社会生活が必要だと
思っていたわたしは










リハビリに
ピリオドを打ち
新たな世界へと
向かった












事実は小説よりも奇なり過ぎる、わたしの人生 笑


















子育てを振り返ってみた 1.