須佐木寛の小説箱

須佐木寛の小説箱

素人が書く小説集です。時代小説が好きなのですが・・・・

Amebaでブログを始めよう!

明日ありと思ふ心に怠りて 今日いたづらに送る世の中

 

この道歌は一刀流兵法至極百首(溝口派)にある歌で、作者は和田与兵衛重郷。明日があるさと油断して今日の稽古をないがしがちなのが剣術。明日になればまた明日があるさと思う。そんなことではいつまでたっても剣の道に達しないぞ、という戒めでしょう。

武士には本来「明日」という考えはなかったのではないでしょうか。一朝事あれば、即、主君に身命をささげる。したがって、日々、非常を常として過ごす、つまり常に戦(いくさ=非常)の準備が整っているのが武士の習い。しかし、この歌が詠われたときには関が原の合戦から100年少々たっていますから武士も極楽トンボが多かったんでしょうね。

しかし、明日ありと思う心は、怠けの言いわけに使うのはいただけませんが、かならずしも悪い心がまえとは言えないでしょう。前向きな心がまえであれば大いによろしいのではないでしょうか。

昨年亡くなった新川二郎さんの歌「東京の灯よいつまでも」(作詞 藤間哲郎 作曲 佐伯としを 昭和39年)の中に「すぐに忘れる 昨日もあろう あすを夢みる 昨日もあろう」という言葉があります。東京オリンピックでおおぜい出てくるに違いない思うような結果を残せなかった選手を思いやる言葉でしょうが、明日ありと思う心はスポーツにかぎらず人生のあらゆる局面で挫折をのりこえる力になってくれるのではないでしょうか。

60年以上昔の話になりますが、小子はウエイト・トレーニングで椎間板を傷め、激しい痛みに悩まされたことがあります。当時、椎間板ヘルニアの手術は難しいとされていて、絶望的だったのですが、スポーツ医のアドバイスにしたがって生活し、8カ月ほどで突然痛みから解放されました。そのあいだ、幸いなことにあきらめるという気はおきませんでした。「これからどうなるって。心配するな、なんとかなる」(一休さんの言葉のようです)。そんな気持ちに支えられて、明日は治る、明日は治ると一日一日過ごしたように思います。

いま、悩み苦しみを抱えている方、明日ありと思う前向きの心を捨てなければ、安請け合いをするわけじゃありませんが、なんとかります、きっと。

 

「いま読む武道歌」で採用した十篇の歌は

「武道歌撰集上巻 今村嘉雄 第一書房 1989年発行」

より拝借しました。ここにお礼申し上げます。

中々に猶(なお)里ちかくなりにけり 余りに山のおくをたづねて

 

この道歌は柳生石舟斎の「当流習目録」に収録されているものです。里を旅立ち山に入りどんどん奥に進んでいったら、なんと里に戻ってしまった、という歌ですが、その意味は、兵法は、刀の握り方も振り方もなにも知らない無心にはじまり、ああしようこうしようと心悩ませて厳しい稽古を重ねた果てに、ようやく会得した技を無心でつかえる極意の境地にいたる、ということでしょう。

この流れは古の兵法だけでなく、いまの世のさまざまな人間活動にも適用できそうです。が、清水寺の貫主を務めた大西良慶師は「平凡から非凡になるのは、努力さえすればある程度の所まで行ける、それから再び平凡に戻るのが、むずかしい」という言葉で、極意の無心に戻るのは容易ではないよと、その難しさ指摘しています。

人間、努力して成功し、高い地位に登りつめると、周りがそうするのかもしれませんが、その高みの栄光から離れられない人が多いようです。たとえば経済界では、会社の社長になると、つぎは会長になり、さらに名誉会長になり、最後は相談役になる。地位の高い人が歩く山道は奥に進むばかりでふもとに降りる道標がないのかもしれません。しかし、ふもとに戻る道が、難しいのでしょうが、探せないわけではないようです。一流企業の社長を務めたあと、早々に身を引き点字タイプで文学作品を打つボランティアに余生をささげた人がいましたから。まあ、経済的に余裕があるからそうできるんだよと言えばそれまでですが・・・・・。

大西良慶師は、努力すればある程度の非凡になれる、と言ってますが、別にそうすることを勧めているわけではないでしょう。そんな努力をするとあとがたいへんだよ。達人にはなれるだろうが、心の平安にいたる(慢心を克服する)極意は容易にはつかめないからと言っているように思います。

人はそんなに器用じゃないですから、無理をせずにふもとの里で心おだやかに平凡につつましく暮らせたら、それが一番ということですね。

よしあしと思ふ心をかり捨よ かれはてぬれば実(まこと)しらなん

 

この歌は長沼国郷の伊呂波(いろは)理歌の「よ」の歌です。国郷は江戸中期に活躍した剣士で、その剣流は松本備前守を祖とし、国郷の父・山田光徳から直心影流を名乗りました。この流派からは江戸後期から明治にかけて萩原連之助、男谷精一郎、島田虎之助、榊原鍵吉、山田次朗吉など今日よくその名を耳にする著名な剣士が出ています。

歌はこういうことでしょう。自分は上手下手がわかる、良し悪しがわかるという慢心の葦(よし、あし)の原を刈りとってしまえ。慢心の葦の原が枯れてなくなれば、見通しが良くなり本当の剣の道がみえてくるぞ。

剣からはなれてこの歌を読めば、慢心は捨ててしまいなさい。謙虚、素直になればものごと本当のところがよく見える、ということになりますかね。裸の王様になりなさんな、ということでしょう。どこかの国の独裁者に送りたくなる歌ですね。

仏陀がこういう言葉を残しているそうです。「<おれがいるのだ>という慢心を制することは実に最上の楽しみである」

慢心は人生に苦をもたらす欲なんですね。

慢心という欲から離れ、身のほどを知ることはなにごとにつけ見通しを良くし、日々の生活に大きな喜びをもたらしてくれるのかもしれません。

 

よい年をお迎えください。令和五年が皆さまにとって健康で幸多い年となりますことを祈念します。

須佐木 寛 拝

兵法に余流をそしる其人は ごくい(極意)いたらぬゆゑとこそしれ

 

これは柳生石舟斎の道歌です。ほかの流派を悪くいうのは極意にたっしていないからだ、愚か者め、というわけです。

むかし、修行の足りない生半可の武芸者は自流が一番だと思い、自流と違う流派の剣術を見ると、ここが違うあそこが違う、だめだなあの流派は、という思いになることが多かったんでしょう。しかし、自流を極めれば(極意に達すれば)見方が変わり、他流のよって立つ剣理が理解できるので、なるほどそういう技かと自流との違いを認めることができるようになる。

最近は、ネット上で自分と関係のない他人のしくじりや失言などを誹謗する人たちが多いようです。そういう人たちは自分の判断の正しさに自信があり、また正義感が強いために他人の言動(余流)をそしるんでしょうね。他人のしくじりをそしる人たちもこの先いろいろ経験し、見聞をかさねてゆけば自分とは違う考え方、生き方、しくじりへの理解が広がるのではないかと思うのですが。

テレビを見ていて、ときどきテレビ相手に「そりゃ違う、こうだよ、あうだよ」と自分の考えをつい口にすることがあるんですが、たいがい妻に「うるさいわよ」ととがめられます。まだまだ人生の「ごくい(極意)いたらぬゆえ」ですね。

敵をただ打つと思ふな身を守れ おのづから漏る賤(しづ)が屋の月

 

千葉周作の北辰一刀流の中目録免許にのっている道歌です。敵を打ち負かすことことばかり考えて逸(はや)らず、まずは打たれないように自分の身を守れ。そのうちに相手の心が動いて見えるようになる。勝負はそれからだ、ということでしょうか。あるいは、打とう打とうとばかり思っていると相手に心を読まれるぞ、かもしれません。いずれにしても心を読め、読まれるな、ということになります。

敵を知れ、という言葉があります。むやみに攻めても敵の手の内が読めなければ負けるぞという警告でしょう。大相撲で、立合いで相手力士が横に変わって、攻めていった力士が一瞬で前のめりに土俵に手をついて負けるのを見かけます。力士は仕切り中に相手の心を読むんでしょうが、自分の作戦にばかり頭を使っていると相手の心が読めないんでしょうね。それだけではないかもしれませんが。

相手の心を読むということは、勝負の世界だけでなく、あらゆる人間関係の上で欠かせないでしょう。人生のしくじりの大半は人の心が読めないことに起因しているかもしれません。

熟年離婚もそのしくじりの一つかな。自分では家族のために働いてきたつもりなのに、じつは家族にとっては生活費を稼いできただけのことで、家族の思い、本当に求めているものが読めなかった。そこでそういう結果になるのかもしれません。

私自身は・・・・・たぶん・・・・・だいじょうぶ。