須佐木寛の小説箱 -2ページ目

須佐木寛の小説箱

素人が書く小説集です。時代小説が好きなのですが・・・・

折得ても心ゆるすな山桜 さそふ嵐に散りもこそすれ

 

これは神陰流・上泉信綱の道歌です。勝ったと思って油断するな、相手が反撃に出るかもしれぬぞ、勝って兜の緒を締めよ、というわけです。あるいは、上手になったからといって稽古を怠るな。怠ればすぐに技が落ちるぞ。

運動能力を見せて、この通り健康ですと自慢する人がいます。どんなに健康な人でも老いには勝てませんし、いつ病気にならないとも限りません。それに、健康自慢は病気に苦しんでいる人にたいする思いやりにかけます。

ある高齢のタレントさんがサプリメントのテレビCMで健康自慢していました。よせばいいのになぁと思っていたら、病いで倒れました。そうなんです。年老いての健康自慢はしない方がいいのです。年寄りだけではありません。なべて健康に油断は禁物です。

金持ち自慢も感心しません。豪邸や高額な持ち物を見せびらかす(きく方もきく方ですが)人がよくテレビに出てきます。盗人(ぬすっと)にはありがたい情報でしょう。油断すれば被害にかからないとも限りません。時節が変われば落ちぶれる人もなかにはいるでしょう。事業が発展して社屋を立派に建て替えた途端に景況が変わって倒産したという例は産業界にいくらもあります。今日の繁栄が明日に続くとは限らないのです。

他人より優れたところがあっても、それを表に出さず、その幸いを感謝しつつじっとかみしめ、余裕があればそっと他人におすそ分けし生きていくのが良いと考えます。

妻と話しているとき、自分ではそう思ってはいないと思うのですが、ときどき、「それって自慢?」といわれることがあります。自分でも気がつかない隠れ自慢があります。気をつけなきゃ。

極楽へゆかんと思ふ心にぞ 地ごくへおつるはじめなりけり

 

これも柳生十兵衛三厳の道歌です。十兵衛の代表作「月之抄」にあります。剣術家は、勝ちを極楽、負けを地獄とよく表現します。ですからこの歌は勝とうとばかり思えば、そのことに気がいって隙ができ負けてしまうぞとの戒めです。

むかし、剣術家はなべて、勝つことばかり考えて姑息な稽古をする弟子を諫めています。勝って負けてを繰り返すことでよい技が身についてゆく。負けることも良い稽古。そうやってこつこつ技を積み重ねてゆくことで道に達することができるというわけです。

偉そうな言いかたを許していただければ、人生も同じことがいえるでしょう。今日人生90年、いや100年、良いこと(極楽)ばかりじゃない。だれだって一度や二度の失敗(地獄)はある。それがあるから浮ついた気持ちがあらたまってちょっとやそっとじゃぐらつかない堅牢な生き方が身についてゆく。失敗して苦しむ。若いうちはそれでいいんですよ。晩年のしくじりは挽回しずらいでしょうけど。

とはいえ、人間みな楽して勝ち組になりたい。そこで、むかしもいまも楽に金もうけしようと思って、宝くじ、パチンコ、ギャンブルに走る人がいます。一度でも大勝ちしていい思いをするともう足が抜けない。いい思いよもう一度ということで、倍賭けをつづけて気がついたら身代をすっかりすったなどという話はざらにあります。わかっちゃいるけどやめられないのが人間なんですね。勝つと思うな思えば負けよ(美空ひばりの歌「柔」)。勝つことに専心するのは用心用心。

桜木をくだきてみれば色もなし 花をば春のそらやしるらん

 

柳生十兵衛三厳の代表作「武蔵野」にある道歌です。桜の木を割ってみても花の姿は木のどこにもないが、春になればちゃんと花が咲く、と詠っています。

有って無きもの、無くて有るもの。それっていったい何?っていうことになりますが、十兵衛が「花」と詠っているのは柳生新陰流の技と沢庵の教えである不動智が一つになった剣禅一如の極意の「剣技」かもしれません。これだといって見せることも手渡しすることもできないが、たしかにある、と。また、弟子に対し、いまは達していない(色もなし)が、稽古を極めれば達することができる(春のそらやしるらん)、ということかもしれません。あるいは、十兵衛は沢庵から禅の影響を強く受けていますので、桜の木は花を咲かそうとは思っていない。春になると花が咲く。ただ、それだけのこと。なんら計らいのない無心の境地を剣の極意として詠ったものかもしれません。

先日テレビで見たのですが、山奥に一人で住まう87歳の小柄な老女が柄の長い重い薪割斧をふるって燃料用に太い丸木をスパッ、スパッといとも軽々と割っていました。腰のやや曲がった老女のどこにそんな力があるんでしょう。また、その老女は栗を求めてクマの出る山奥に道のない急坂をスタスタ登ってゆく。「クマは怖いが栗が食べたい」と素直に語る。自分のしようと思うことを、余計なことを考えずに無心に行っている。老女の一途で力強い行動に感銘をうけました。

人間の本当の力って、手足の隆々たる筋肉が生むのではなく、目にすることはできないが人間が本来もっている生きる力、生命力の鍛錬から生まれるのではないでしょうかね、テレビの老女のように。自動車や電化製品など文明の利器に頼りっぱなしで楽に楽に日々過ごしていては自分がもつ生命力を鍛錬できず歳とともにどんどん体が弱っていって、しまいには手のひら一杯のサプリメントを毎日口に入れるようになる。そういう暮らし、考えなおした方がいいですよね。自戒百篇。

心こそ心まよはす心なれ 心に心こゝろゆるすな

 

これは沢庵禅師が柳生宗矩に乞われて書いた「不動智」という禅宗から見た剣の教えの書にある歌(作者については一説に北条時頼)で、巻末で宗矩をいさめる締めくくりにつかっています。

さて、「不動智」ですが、真剣勝負の時代の剣術では技より心が上でした。どんなに道場でよい技ができても、いざ真剣勝負となったとき、心が臆しては勝てませんし逸っても勝てません。そこで沢庵はいかなる状況下にあっても応じられる心、すなわち「不動智」という教えを柳生に残したのです。

たとえば、複数の敵に対したとき、一人の敵に心が留まってしまえば隙が出てほかの敵に討たれてしまう。ああしようこうしようと思うとそこに心が動いて行って留まり、ほかに心が向かなくなるからです。そういう動きをしない心、かといって動かないのではなく、どこか一か所に行きっぱなしにならずに万遍なく動いて全身に行きわたる心、いいかえれば、なんら計らいのない心、すなわち無心ですね、この心で技をくり出すのが不動智の教えで、これを書きものにして宗矩に伝えた。

沢庵は不動智について書きおわったあと、末尾で将軍のまじかにつかえる忠臣のありかたを論じ、宗矩が能舞に興じ上手をおごり諸大名に勧めたり、また、親交のある大名ばかりを将軍家光に強くとりなすのをいさめ、その締めくくりにこの歌をつかっています。おごり高ぶったり、自分をちやほやする者をひいきするのは心の迷い、病であると。心迷わされて油断するな、お前の心は妙なところに行ったきりで隙があるよと諭しているんですね。

私は若いころパニック症の気があって電車に乗るのが怖いことがありました。かかりつけの医師に相談したところ、この病気じゃ死なないといわれて治った経験があります。医師の言葉でそこに行っていた心がふっとはなれて、どこか知りませんが、元にもどったんですね。それからはパニックになりかけても、これでは死なないと自分に言い聞かすと気持ちが落ち着いてパニックにならないようになりました。ふしぎですね、心って。

余談ですが、このまえ、一軒だけ寄って飲もうと横浜の野毛にいきました。ところが梯子がはじまってとまらず、終電に乗り遅れてタクシーで帰宅。財布に金がなくなっていたのでカード払い。使用明細が届いて妻にばれて絞られました。

心は不思議、心は弱い、心は迷う、妻は怖い。

むかしの武術家は弟子にその流派の極意なり、稽古にのぞむ姿勢なりを伝えるために、和歌=武道歌を詠んで残しています。そうした歌の中にはちょっと見方をかえれば現代に生きる私たちが大いに共感できるものが多くあります。

 

兵法は年寄りし身も捨てられず 老いをゆるさぬ敵にこそあれ

 

この歌は柳生家譜代の家臣である庄田喜左衛門が詠んだものです。

兵法(剣術。以下同じ)は生涯かけて修行する(道を極める)もので、歳をとったからもうやめるなぞといえないという内容で、弟子への兵法稽古にたいする戒めの言葉でしょう。生涯修行の兵法を「老いをゆるさぬ敵」と断じているところが妙味です。

現代人にとって老いをゆるさぬ敵とはどんなものがあるでしょうか。ゴルフ狂のなかにはエイジシューターになると意気込んで老いても続ける人が多いでしょうが、彼にとっては、さしずめゴルフが老いをゆるさぬ敵かもしれません。なんにせよ道楽は老いをゆるさぬ敵になるうる可能性があります。また腕に技のある職人、技術者さんたちにはその技能が老いをゆるさぬ敵でしょうし、学者、企業家、芸術家、また芸能人にもそれぞれ老いをゆるさぬ敵がいることでしょう。この敵はときに私たちを苦しめますが、内容のある暮らしを生涯つづけるための良き相棒でもあります。

さて自分はと考えると・・・・・老いをゆるさぬ敵は孫たちですかな。