里ちかくなりにけり | 須佐木寛の小説箱

須佐木寛の小説箱

素人が書く小説集です。時代小説が好きなのですが・・・・

中々に猶(なお)里ちかくなりにけり 余りに山のおくをたづねて

 

この道歌は柳生石舟斎の「当流習目録」に収録されているものです。里を旅立ち山に入りどんどん奥に進んでいったら、なんと里に戻ってしまった、という歌ですが、その意味は、兵法は、刀の握り方も振り方もなにも知らない無心にはじまり、ああしようこうしようと心悩ませて厳しい稽古を重ねた果てに、ようやく会得した技を無心でつかえる極意の境地にいたる、ということでしょう。

この流れは古の兵法だけでなく、いまの世のさまざまな人間活動にも適用できそうです。が、清水寺の貫主を務めた大西良慶師は「平凡から非凡になるのは、努力さえすればある程度の所まで行ける、それから再び平凡に戻るのが、むずかしい」という言葉で、極意の無心に戻るのは容易ではないよと、その難しさ指摘しています。

人間、努力して成功し、高い地位に登りつめると、周りがそうするのかもしれませんが、その高みの栄光から離れられない人が多いようです。たとえば経済界では、会社の社長になると、つぎは会長になり、さらに名誉会長になり、最後は相談役になる。地位の高い人が歩く山道は奥に進むばかりでふもとに降りる道標がないのかもしれません。しかし、ふもとに戻る道が、難しいのでしょうが、探せないわけではないようです。一流企業の社長を務めたあと、早々に身を引き点字タイプで文学作品を打つボランティアに余生をささげた人がいましたから。まあ、経済的に余裕があるからそうできるんだよと言えばそれまでですが・・・・・。

大西良慶師は、努力すればある程度の非凡になれる、と言ってますが、別にそうすることを勧めているわけではないでしょう。そんな努力をするとあとがたいへんだよ。達人にはなれるだろうが、心の平安にいたる(慢心を克服する)極意は容易にはつかめないからと言っているように思います。

人はそんなに器用じゃないですから、無理をせずにふもとの里で心おだやかに平凡につつましく暮らせたら、それが一番ということですね。