史跡から学ぶ天皇家(第1回)~飛鳥時代~
今までに、「教科書でもう一度習う日本史」と「奈良大和路あるき」の2種類に参加した事のある奈良語り部の会の山崎先生の歴史シリーズが新たに始まったので、早速申し込みました。今回は、年号が変わる年にちなんで、天皇家の事をお勉強します。一回目の初めの見学地は、日本史シリーズの1回目と同じ甘樫丘(あまかしのおか)へ。前回の時は5月だったので、坂道を歩くと汗をかいたのですが、この日は、真冬に戻ったかのような凄く寒い日・・・歩いていると、寒さを忘れました(苦笑)天皇家のご先祖は天照大御神。先日お参りした伊勢神宮のご祭神にもなっていますが、「天皇」という称号は何時出来たのでしょうか・・・天武天皇の時代に「天皇号」があったのは資料で分かっているそうですが、使われ始めた時期は、推古天皇まで遡るという説もあって、ハッキリとは分かっていないそうです。取りあえず、天武天皇、推古天皇ゆかりの飛鳥時代からお勉強することになしました。甘樫丘(あまかしのおか)参加者は、バス満席の48名。山崎先生のツアーは、毎回大人気なんです。 クリック! 拡大画像 飛鳥京の絵図です。飛鳥京があった所飛鳥寺が見えますね(*^-^*)この後行きます♪こんな立派な屑籠が2個もありましたよ。反対側を見ると、藤原京跡があり、有名な大和三山が並んでいます。畝傍山(うねびやま)その奥のふたコブの山は二上山耳成山(みみなしやま)香具山(かぐやま)大和三山の写真を撮っていた時講師の先生が都塚古墳の内部の説明をされていました。聞き逃しました(^_^;)残念!飛鳥川甘樫丘の麓にそって流れています。飛鳥寺蘇我馬子が発願し、推古天皇が創建された日本初の本格的寺院です。ご本尊 飛鳥大仏日本最古の仏像なのですが、撮影OKでした(^^)v「多分、もう少ししたら撮影NGになるでしょう」ど、講師の先生。創建当時の飛鳥寺 復元図とても広大でした。ここを、聖徳太子も歩いていたのでしょうね。中庭金堂元あった金堂は、1196年の雷火で塔と共に焼失。幸いにも、飛鳥大仏は無事だったそうです。金堂礎石現在の建物よりも、はるかに大きいです。塔の跡八重の紅梅が綺麗~~~☆彡都が平城京へ移るとともに、飛鳥寺も現在の奈良市に移転し、元興寺(がんごうじ)となりました。元興寺については、ならまち散策で、山崎先生に案内して頂きましたが。蘇我入鹿首塚と伝えられている五輪塔大化の改新の時、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺された時の権力者・蘇我入鹿の首がここまで飛んできたそうです。向こうに、最初に行った甘樫丘が見えます。五輪塔の後ろの田んぼでは、大化の改新を起こした中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿の暗殺計画をしていたのだとか。前の時は、最初に出会った場所だって聞いたのですが・・・白のジンチョウゲを後に次の目的地へ・・・国営飛鳥歴史公園館今回は、中尾山古墳に行くために駐車場を借りただけで建物の中には入りません。最初、ただの大きな石だと思ったのですが、よく見ると・・・高松塚古墳の壁画が刻まれています。[emoji:e-30]中尾山古墳聖武天皇の父君の文武天皇陵と言われていますが、宮内庁は違う処を指定しているので、定かではないそうです。尾根の上に造られているので、位の高い天皇のような人のお墓になります。石室内部柵が八角形にめぐらされていますが、墳丘も 三段築成の八角形墳です。このホームベースのような形の石は八角形の内角・135°を表しています。木の葉が落ちた今の時期だけこちらから高松塚古墳が見えます。駐車場への帰り道、向こう側の高松塚古墳へ続く道をパチリ!キトラ古墳へ・・・キトラ古墳現在の墳丘は、発掘調査の成果をもとに、上段・下段とも築造時の大きさに復元しています。キトラ古墳の地形復元模型尾根の上ではなく、少し下にあるので、皇子のような身分の人のお墓になるそうです。キトラ古墳壁画体験館 四神の館へ原寸大石室模型石室模型の入り口にあった壁画 朱雀実際は東西南北の四壁の中央に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれています。誰が埋葬されているかについては、天武天皇の皇子という説や百済の最後の王の子などの説があるそうです。1983年、最初に発見された極彩色の壁画玄武高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風壁画古墳として注目を集めました。四神の館 天井の天体図石室の天井には三重の円同心(内規・赤道・外規)と黄道、その内側には北斗七星などの星座が描かれ、傾斜部には西に月像、東に日像を配した本格的な天文図があります。これは、現存するものでは東アジア最古の天文図になるそうです。渡来人の家の模型この時代は、渡来人がもたらした文化に大いに助けられたそうです。 クリック! 拡大画像 [emoji:e-30]植山古墳(うえやまこふん)へ植山古墳公園向こうに畝傍山(うねびやま)が見えます♪2種類の柱列がありますが、これは・・・古墳の内部と外部を隔てる塀のようなものがあったと考えられています。現在は2辺しか見つかっていませんが内角から考えて、八角形であったと思われます。二つの石室があり推古天皇と子の竹田皇子の墓との説があります。植山古墳は、現在整備中で、ブルーシートで覆われていました。残念ながら古墳は見られなかったので、参考になるかもと思って、傍に立っていた案内板を写してきました。こんな感じで発見されたのでしょうね。帰りがけに空を見ると、うっすらと虹が出ていました。この日は、真冬に逆戻りしたかのようなものすごく寒い日でしたが、天気予報の雨というのが外れて傘をささなくてよかったのがせめてもの救いでした。次回は奈良時代。どんなお話が聞けるのか楽しみにしています(^^♪昼食は、柿の葉寿司ヤマトで柿の葉寿司付き大和弁当寒かったので、暖かいお素麺がおいしかったです。その他は・・・(^-^;