親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙、あらためて振り返ってみたら、「我慢」という言葉に対して、なんだかずいぶんと否定的な意見をぶつけちゃってましたね~。

 

だけど、「我慢」って、そんなに悪いことばかりでもないんじゃないかしら。

そもそも、「我慢」という言葉自体には、良いも悪いもなく、本来、中立なはず。

 

言葉に限ったことではないですよね。

 

すべての物事は中立である: 横浜クリチャン日記

 

それじゃ、どうして自分は、あんなに「我慢」ということに対して、拒否反応を示してしまうんだろう?
きっと、過去に、「我慢」ということに関する、よっぽどイヤなエピソードがあった、ってことなんだろうな。

 

なんども取り上げてきている、「心からの納得」という用語に関しても、同様かも。おそらく、「心からの納得」を欲していたにもかかわらず、得られないでいた、という苦い記憶の反動として、今になってもこだわりがぬけないでいる、ということなのかもしれないな……。

 

それでは、今日はこのへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙に、ちょっと背伸びして(?)「ネガティブ・ケイパビリティ」なんていうムズカシい言葉を使っちゃったんだけど、もしかして、正確な意味で使えてなかったんじゃないか、って、ちょっと不安になってきちゃったりして……。

 

というのは、ググってみたところ、「ネガティブ・ケイパビリティ」のことを「我慢」と紹介してる記述があったりするからなんです。

もし、その通りであるならば、「ネガティブ・ケイパビリティ」を推すのは、ちょっとごめんこうむりたい。

 

だって、「我慢」なんて、1月18日のお手紙での「呪いの言葉」に通じるものじゃないですか?

事情とか背景とか、いろいろあるであろう事柄を、一切聞き入れずに切り捨てて、有無を言わさず「我慢しろ」のひとことだけで終わらせちゃう、ってわけでしょ?

 

もちろん、そういうかたちでない「我慢」だって、あるのかもしれない。

ただ、わたしとしては、今でもなお、12月18日にこのブログにて書いた、「心からの納得」を大切にしたく思っているんですよ。

で、わたしの主観的には、「我慢」という言葉は、どうにも「心からの納得」にそぐわないな~、って感じてしまう、ってわけ。

 

もっとも、「心から納得」したうえで「不確実なものや未解決のものを受容」する、っていうのも、よく考えたらヘンなのかなぁ?

う~ん、ムズカシい……。

 

ともあれ、今日のところは、このへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙に書いた、「呪い」や「祝福」について。

 

いったいどうして、「祝福」ではなく「呪い」という態度が発生してしまうんだろう? と、ちょっと考えてみました。

 

ひとつ思いついたのは、近頃の人々は「待てない」ようになってしまっているから? ということ。
急いで答えを出さないと置き去りにされてしまう! ……と、やたら焦らされているから?

 

ちょうど、今日から大学入試センター試験が始まったところだけど、こうした入試みたいに、限られた時間の中で問題を解けるか否か、というようなことで、もっぱら人となりを判断される風潮の、弊害だったりするのでは? などと思えてきます。
(先生は、ご職業から考えるに、大学入試なんて、きっとソツなくこなされてきたんでしょうけど、「なにかにつけて動作が遅い」と1月14日のお手紙に書いたりしていた自分としては、今あらためて振り返ってみると、なんともイヤな思い出だなー……。)

 

そこでちょっとひらめいたのが、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉。(聞き慣れない外来語なので、もしかして全然見当違いかも、だけど)

 

ネガティブ・ケイパビリティ(英語: Negative capability)は詩人ジョン・キーツが 不確実なものや未解決のものを受容する能力を記述した言葉。
…(中略)…
人に偉業を成し遂げしむるもの、シェイクスピアが桁外れに有していたもの――それがネガティブ・ケイパビリティ、短気に事実や理由を求めることなく、不確かさや、不可解なことや、疑惑ある状態の中に人が留まることが出来る時に見出されるものである。

 

ネガティブ・ケイパビリティ - Wikipedia

 

あくまで自分の主観だけど、これって、昨日のお手紙の「祝福」に通じるところがありそうなんですよね。「語り尽すことができない」とか「世界が汲み尽くし得ないほど広く深いという自覚を持つ」とか。
だから、言葉にこそ最初に「ネガティブ」って付いているけれど、じつは逆にポジティブなことのような気がします。

 

それでは、今日はこのへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙にて、「リスペクト」について触れたのですが、言い方を変えると、もしかすると、このような表現になるのかもしれないですね。

 

「呪いの言葉」は、人を記号化したり、カテゴライズしたり、一面だけを切り取ってその人の全体を表してしまう言葉です。「反革命」とか「非国民」とか。本来は多様で複雑な人間の存在を、単純化し、記号化してしまう。

 

・・・

 

「祝福の言葉」は逆に、目の前の人間や物事について、それを「語り尽すことができない」という謙抑的な態度を示すことだと思います。世界の深み、厚みに対する慄(おのの)きや感謝を忘れないのが「祝福の言葉」です。対象を語り得ないという、おのれの言葉の貧しさを認識すること、世界が汲み尽くし得ないほど広く深いという自覚を持つことが祝福ということの本義だと思います。


祝福? 呪詛? | A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

つまり、わたしが着目しているのは、「リスペクト」≒「祝福」、ってことなんだろうな。
一方で、幼少時からわたしが知らず知らずのうちに傷ついていたことがらのエッセンスは、じつは「呪い」だった、ってことなのかも?

 

では、今日はこのへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙の中で、「茫然自失」と書いたのだけれど、当然ながら、ずっとそんな状態ではいられやしないわけで。
どうしようか、と、調べていたら、このようなページに行き当たりました。


“自分の価値” を認められる人になる。「自己肯定感」を高めるために大切な2つの考え方 | コラム

 

ここの後半部に書いてある、「リスペクト」ということが、ヒントになりそうです。
このコラムでは、主に「他人を」となっているけれど。
わたしとしては、昨日のお手紙にて述べた、膨大な「わかりにくい・かくされた・見えないところに潜んでいるもの」に対して適用してみたらどうだろう? と思いついたのです。

 

例をあげるならば……。
何か出来ないこと・やるのが困難なことがあったとして、ついつい、『こんな状態じゃダメじゃないか! 』という考えが頭をよぎってしまう、とします。
でも、その「出来ない・やるのが困難」になるに至った事情とか経緯とかいうようなもののうち、判明している部分はごくごくわずかで、想像を超える物凄い量がかくされているのだとしたら……? と考えるようにするわけ。

そしたら、ほんの少しかもしれないけど、気持ちがラクになるような予感がするんですよ。

 

余談ですが、先生のお名前を英語に訳してみると、この「リスペクト」という単語が含まれるんですよね? (こんなこと書いたら、バレちゃうかな……? )

 

ではでは。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより