親愛なる先生へ

 

今日は、昨日のお手紙のつづきを書こうかと思っていたのですが、
どうやら話がややこしくなってきたようだし、
今更、何十年も昔のことを蒸し返すってのも、なんだかなー、って感じなので、
話を少し元に戻すことにして、
シンプルに「向上心」について、みてみることにしますね。

 

で、以下の、ネットで見つけた文章。
これって、まさにこの「向上心」のことをうたっている気がするのですが……。

 

教育自体が、自己否定になってしまっている。

常に、「こうでなければいけない」「こうなりなさい」と教え込んでくる。

つまりは、

「いまのあなたではダメだ」=自己否定を植え付ける

「こうなりなさい」「これが正しいのです」=成功のイメージを植え付け、コントロールする

反抗できる、不良のほうがまだ救いがある。

従順なこどもは、すんなりこれを受け入れ、そのまま生きていく。

親と学校や社会にこれだけ「罪悪感」と「自己否定感」「偽りの目標」を植え付けられたら…(中略)…、自分を生きることはそれらとの戦いになる。

常に与えられるメッセージは?

「いまのあなたではダメだ。変わりなさい」

「成功しなければいけない。競争で上にいかなければならない」

そこに愛情はあるのかい?

「あなたは、悪くはない」「あなたは、あなたで素晴らしい」とは誰も言ってくれない。

みんな誰かの批判ばかり。

これをまともな世の中と言えるのでしょうか?シンドくないですか?

…(中略)…

問題は、こういう親や教育者が、自分はまともだと思い込んでいること。

まともに見れば、こういう親や教育はかなり狂っている。ところが狂っている奴らが権力を持ち、数を持っているので、まともだと思い込める。

自分をまともだと思っているから、変わりようがない。


愛情不足で育った大人の性格の特徴や行動は?幼少期の親子関係の影響

 

この、「そこに愛情はあるのかい? 」という部分、ちょっとグサっとくるんです。
というのは、じつをいうと『愛情はあるんだ、無いと感じてしまうとしたらそれは自分が至らないせいだ。』と、これまでずっと自分に必死で言い聞かせていた気がするものだから……。

 

それでは、今日はこのへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙の後半部分、つまり、「相手のニーズ(欲求)を満たす」ことと「向上心がある」こととの関係のあたり。

ちょっと話が飛躍してしまってましたね(苦笑)
もう少し、説明が必要かな。

 

えっと、逆に考えてみると、わかりやすくなるかもしれません。
昨日のお手紙には「相手のニーズ(欲求)を満たす」と書きましたが、その逆って「自分のニーズ(欲求)を満たす」ということですよね。
コレ、ズバリ、わたしの幼少時に、妹たちがもっぱらやってたことなんです。

 

例えばですよ。
小さい頃のわたしが、家でおもちゃか何かで遊んでいたとします。
すると、たいてい妹たちに横取りされるんです。
普通に考えたら、そこでわたしは「返して」というようなことを言っちゃいますよね。で、けんかになる。
すると、いっつも親からこう言われるんですよ。「お姉さんなんだから、我慢して、おもちゃを使わせてあげなさい。」

でも、先にそれを使っていたのはこっちなのに。今まさに遊びが面白いところだったってのに! などと異議申し立てをしたってどうにもならず、その言いつけに従わないかぎり、どうしたってこちらが怒られる……。

 

こうしたことが日常的に何度となく繰り返され、結果として導き出されるのは、このようなこと。
・ 自分のニーズ(欲求)を満たすのは相手に迷惑をかける
・ 自分のニーズ(欲求)を満たすのは幼稚な行為、すなわち精神的に向上していない
・ 裏を返せば、自分のニーズ(欲求)を封印してでも精神的に向上すれば、周りに迷惑をかけないし、怒られない

 

要するに、自分のニーズ(欲求)を満たそうとするのは、ズバリ悪!
昨日のお手紙の伝でいくと、自尊心を抱くことは悪! ってなっちゃいかねない、ってわけ。

 

……ちょっと長くなってきたので、つづきはまた日を改めて。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

このところ、「向上心に欠けるのでは」というようなことについて、云々していますが、そもそも“向上心”って何なんだろう? と思えてきて、調べてみました。

 

すると、このように書いてあるブログがありました。

 

向上心って言葉は私にとっては非常にネガティブに感じられる言葉だ。「向上心」というものはなくなった方が良いと思っている。向上心という概念が消えたらどうなるだろう?まず犯罪は減りますよね。向上心が人間の心から消えるってことは、高みを目指そうとしなくなるということ。別の言い方をすると、現状に満足するってことだ。つまり、貧乏な人はその貧乏な状態に満足できるということになり、盗みを働いたりすることはなくなる。逆に向上心が存在するってことは現状に満足しない(できない)ということを意味するのだが、それは私たちにとってとんでもない不幸な状態をもたらしているのです。

 

「向上心のないやつはばかだ」は人を、社会をマイナスに導く思想 - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog

 

なんか、わざわざこの引用文でこのように述べている、っていうことは、普段「向上心」というものが、いかに人々からあたかも「良いもの・望ましいもの」であるかのように思われているか、ってことですよね。

もしかして、それって、一種の「マインドコントロール」みたいなものだったりするのかしら?

 

で、ちょっと切り口がかわりますが、つぎの文。

 

「自尊心」とは、自分自身の価値を大切にし、自身を敬う気持ちのことを指しますが、それが欠けていると、相手のニーズ(欲求)を満たすための道具としてふるまってしまうことが多くなるのですね。

 

メンタルセラピストりりあの心のブログ:「自尊心」について☆

 

この、「相手のニーズ(欲求)を満たすための道具としてふるまってしまう」ということ。

自分の主観に過ぎないかもですが、「向上心」って言葉のウラに、巧妙にはりついているものって、この「相手のニーズ(欲求)を満たすための道具としてふるまうべし」ってことのような気がするんです。

で、それに従うとなると、結果として「自尊心」を損なう、ってことにつながっていくんでしょうね。

 

では、今日はこのへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙の最後の方で、「『向上心に欠けるのでは』というような指摘には、どう対処したらいいものやら……」と書きましたが、そのことについて、ちょっと考えてみました。

 

結論としては、「そんなの、スルーしてしまえばいい」です。

なぜなら、そんな風に指摘してくる人には、こちらがあれこれ考え抜いたあげくに、一見“向上心に欠ける”かのような方針を選んだのだ、ということなど、わからないのだろうから。

 

とはいえ、その“スルーしてしまう”というのが、じつに困難なんですよねー。

だって、これまでの生い立ち上、正直理不尽に思える指摘であっても、目上の立場の人からのものだと、ムリヤリ従わせられた、みたいなことが、多かったのだもの。

(それでもって、そういうのって、じつに恩着せがましかったりもする。「お前のために、わざわざこういう指導をしてやっているのだ」みたいなニュアンスを伴っていたりして。)

 

もっとも、幼少時は、いかんせん何も知らなかったのだから、どうしようもなかったんですよね。

とはいえ、今となっては、自分なりに考える材料も多種多様にそろっているのだから、無知だった昔のままのようでいる必要など、どこにあるの? ってわけですが。

 

それでは、また。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙では、なんだか自分の抱えている問題が、ちょっと自分だけじゃ手に負えないのかも……みたいな感じに、弱気になっちゃってましたね。

 

あのあと、ちょっと別件なのですが、

「被責妄想(実際に人から責められていないにもかかわらず、人から自分の存在あるいは自分の行為を責められているように誤解すること)」や、

「被蔑妄想(人が自分のことを実際には蔑視していないのに蔑視しているかのように思ってしまうこと)」

について調べていたところ、つぎに引用したような文をみつけ、参考になりそうだと思いました。

※ なお、この「被責妄想」も「被蔑妄想」も、どうやら、自分の状態にとてもあてはまっているんじゃないか、と思えてならないです(汗)

 

それをいいとか悪いとか価値判断はしません。是非善悪の判定はしないのです。
その特徴を自分なりによく観察します。生活する上でどんなふうに問題が生じているのか。
それは生きていく上に決定的な障害なのか、あるいは学校に行ったり会社に行ったりする上で、苦しいけれども最低限のことがなんとかできるレベルなのかどうか。
あまり自分で手に負えない場合は、医師やカウンセラーに相談しないといけないかもしれません。

私のようになんとか社会生活を続けていける状態でしたら、そういう自分を正しく認識することがまずもってとても重要だと思います。割り切るといってもいいでしょう。あきらめるといってもいいでしょう。適当な言葉は見つかりませんが、要するにそういう事です。

裏を返せば被責妄想、被蔑妄想の自分を変えようとしないことです。それと共存して、そういう自分をいたわり励まし続けていくという覚悟を固めることです。
その覚悟を決めたら葛藤がなくなります。苦悩することがなくなります。
なぜならそういう自分をいじめる自分がいなくなったからです。
覚悟を決めた人は、被責妄想、被蔑妄想を持っている自分ができることしかしません。
その自分を起点にして足を踏み出すことができるようになります。
自己否定する自分は駆逐したのですから、こんなに安楽な生き方はありません。

 

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この中の、「自分を変えようとせず、そういう自分をいたわり励まし続けていくという覚悟」というのが、ポイントなのかもしれないなー、などと、考えた次第。

 

もっとも、こういうのって、「向上心に欠けるのでは」というような指摘には、どう対処したらいいものやら……という懸念が無きにしもあらずなんですが(苦笑)

 

それでは、今日はこのへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより